로그인悠斗は美琴を伴い、地下倉庫へと足を踏み入れた。
空気が、重い。湿り気を帯びた冷たさが肌にまとわりつき、呼吸のたびに肺の奥まで染みこんでくる。光の届かない空間に澱んだ気配が充満し、まるで空気そのものが腐敗しているかのようだった。 そして——部屋の中央に、四つの人影。 いずれも床に倒れ伏したまま、微動だにしていない。 「……っ!!! 翔太! 奏汰!」 悠斗は駆け寄り、必死に二人の肩を揺さぶった。何度も、何度も。だが返ってくるのは、ぐったりと力の抜けた身体の重さだけ。目を覚ます気配は、微塵もなかった。 「……やはり、霊障の影響を受けていますね」 美琴は静かに翔太の傍らへ歩み寄ると、膝をつき、右手の人差し指と中指をそっとその額に添えた。 「何を?」 「私の気を、先輩のお友達の内へと流します」 「……気?」 「はい。人には誰しも霊力というものが存在しています。生きている限り、誰もが持っているもの——もっとも、それに気づかないまま一生を終える方がほとんどですが」 「……そうなんだ」 悠斗は小さく頷いた。 「つまり、美琴の霊気を翔太の中に流して、悪い影響を追い出すってこと?」 「はい、その通りです」 美琴が静かに瞳を閉じる。 数秒の沈黙。そして——美琴の指先から、鮮やかな紅色の光が立ち昇った。柔らかく、しかし確かな熱を帯びたその霊気が、翔太の全身をゆっくりと包み込んでいく。 数分が経っただろうか。 「……うぅ……」 翔太が苦しげに呻いた。 「っ! 翔太!」 悠斗が身を乗り出す。 「……あれ? 悠斗?」 「……っ……本当、こんな所に来て何してるんだよ……!」 「何って……あれ?」 しかし、翔太の様子がおかしい。目はうつろで、焦点が定まっていなかった。 「……俺、何してたんだっけ」 「え?」 「……うっ、思い出せない……何も思い出せないんだ……」 「何も……!? 翔太、自分が何年生かとかわかる!?」 「それはさすがに……」 ならば、記憶の欠落もそこまで深刻ではないのかもしれない——そんな甘い希望が、悠斗の胸をよぎった。 だが。 「高一……だけど」 空気が、凍った。 「そ、そんな……! 美琴、これは一体どういうことなんだ……!?」 「先輩、これは霊障の一種です」 美琴の声は淡々としていた。けれどその瞳の奥には、深い悲しみが静かに沈んでいる。 「……いくら誠也君と言えど、怒れる霊に対して何の対抗手段も持たない人間が、その怒りや憎しみを買ってしまえば、このような結果を招くことがあるんです」 一拍の間を置いて、美琴は続けた。 「それは……とても悲しいことではありますが、結局のところ自分自身の行いが招いた災い——そう割り切るより他にありません」 「そんな……」 胸の奥が、軋むように痛んだ。 親友が一年分もの記憶を失った。その現実が、言葉として理解できても感情が追いつかない。喉の奥がきつく締まり、うまく息が吸えなかった。 けれど——美琴の言葉の意味も、悠斗にはわかっていた。 (翔太は……もしもこの廃病院になんて足を踏み入れさえしなければ……) こんな取り返しのつかない事態には、決してならなかっただろう。 そして、強い怨念を抱いた霊が棲みつく場所へ無防備に踏み込んだという事実を思えば——記憶喪失だけで済んだのは、むしろ不幸中の幸いだったのかもしれない。 そう思わなければ、やりきれなかった。 「さっきから、霊だのなんだのって……一体なにがどうなってんだ……?」 「……翔太、本当に……覚えてないの?」 「ああ……。って、ここはどこだ? 真っ暗でよく見えないけど、なんかアルコールの匂いするし、不気味だな……」 (……説明、しなくちゃ……) 悠斗は翔太に、一から順を追って説明した。奏汰が肝試しの配信企画を持ちかけたこと。四人でこの廃病院に足を踏み入れたこと。そして気がついたときには、全員が意識を失って倒れていたこと——それらを、できる限り正確に、言葉を選びながら伝えていく。 「……つまり、俺は奏汰の配信企画に協力して、怪奇現象に遭遇して、この桜織旧病院に閉じ込められたと……」 「うん」 「…………まじかよ。しかも、俺は高一じゃなくて高二だって?」 「……うん」 「信じられねぇ……」 翔太の声が、暗闇の中に沈んでいく。だが——しばらくの沈黙の後、翔太は低く、けれどはっきりと口を開いた。 「でも……悠斗がそんなつまらない嘘を言うのは有り得ねぇ。……本当のことなんだな」 半信半疑ながらも、信じてくれた。その言葉に悠斗の胸がわずかに軋む。 「先輩、他のお友達の方々も……同じように処置が必要ですね」 美琴の声に、悠斗は少し申し訳なさそうに眉を下げた。 「うん、ごめんね。手間をかけさせちゃって。お願いできるかな」 美琴が静かに頷き、残された三人のもとへ順に移動していく。翔太に施したのと同じ手順——額にそっと指先を添え、紅色の霊気を丁寧に流し込み、一人ひとりに纏わりついた霊障を、慎重に取り払っていった。 。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸 「俺たちこんな薄暗い場所で何を……!?」 最初に声を上げたのは奏汰だった。辺りを見回し、困惑が顔中に滲んでいる。 「うっ……ここは……? なんか頭がぼーっとする……」 続いて陸斗。額を押さえ、まだ完全には覚醒しきっていない様子だった。 「…………あれ? 俺、何してたんだっけ……」 最後に蓮。その表情にも、やはり深い困惑の色が浮かんでいる。 「無事に全員、目を覚ましてくださいましたね」 美琴が小さく息をついた。 だが——三人とも、翔太と同じだった。高二になってからの一年分の記憶が、丸ごと抜け落ちている。深い傷跡だけを残して。 「信じられねぇよ……」 「そ、そうだ! これって悠斗が疲れてて頭がおかしくなってんじゃねぇか!?」 「俺もそう思うぜ……。記憶が一年分まるごと抜け落ちるなんて、正気の沙汰じゃねぇよ」 翔太とは違い、三人は現実を受け入れられないまま、口々に否定の言葉を投げつけてくる。 「……コホン」 美琴の咳払いが、静かに空気を断ち切った。 「皆さんには、今回のことをきちんと反省していただきたいのです」 それまでの柔らかな口調が消え、凛とした声が地下倉庫に響く。 「先輩は、あなた方のことを心配して、わざわざ危険だとされているこの廃病院にまで足を運んで、探しに来てくださったのですから。——そのことに対して、謝罪の言葉もないのですか?」 「み、美琴……そこまで怒るほどのことでは……」 「いいえ、そうはいきません。これは先輩のためでもありますが、彼らが同じ過ちを二度と繰り返さないようにするための、大切な教訓でもあるんです」 美琴の視線が、冷たく奏汰たちを射抜いている。 「うっ……な、なんかすごく可愛い子って雰囲気なのに……こ、怖ぇっ!」 奏汰が思わず漏らしたその瞬間——後ろから陸斗と蓮が奏汰の後頭部を押さえ、強引にその頭を下げさせた。 「ごめん! 悠斗!」 二人が声を揃える。 「ちょ、お前ら離せよ……!」 必死にもがく奏汰を見て、悠斗は小さく息を吐いた。 (奏汰って、あんま変わってないんだな……) その一方で。 「悠斗……。悪かった」 深々と頭を下げたのは、翔太だった。 翔太は悠斗に霊が見えることを、知っている。だからこそ——そんな悠斗をこの場所へ向かわせてしまったことへの自責が、その表情に色濃く滲んでいた。 「……いいんだよ。でも、これからは本当に気をつけてほしい。今回はたまたま彼女が一緒にいてくれたおかげで、君たちを見つけ出すことができたけれど……僕一人だったら、正直とても無理だったと思う」 「分かった。絶対に約束する」 翔太の声には、もう迷いがなかった。 「霊の存在を信じるか信じないかは、皆さんそれぞれの自由です」 美琴が真剣な眼差しで、奏汰たち三人を見据えた。 「ですが、現実として——あなた方は確かに一年分もの大切な記憶を失っています。この程度の被害で済んだというのは、本当に不幸中の幸いでした。ただし、このように軽い結果で済むことは極めて稀ですので……そのことだけは、どうかしっかり心に刻んでおいてください」 「は、はいいっ!! 分かりました!!」 有無を言わさぬ美琴の存在感に圧され、三人は声を揃えて頭を下げた。 こうして——長い夜の一連の事件は、ようやく幕を下ろした。### 作品をより良くするための挑戦 この作品は、**物語の良さを最大限に引き出すため**に、大きく二つの改訂を行います。 一つ目は、視点の変更です。 当初は一人称で書いていましたが、**三人称一元視点(悠斗の内面に寄り添う視点)** に変更しました。これは、読者の皆さまにより深く物語の世界に没入していただくための選択でした。 一人称では表現しきれなかった、**静かな空気感**、**日常に滲み出る異常**、そして**じわりと背筋を這い上がる怖さ**。それらを、より豊かに、より美しく描くことができたと感じています。 二つ目は、内容のテコ入れです。 物語の核心は変えず、展開やシーンの構成を見直します。より自然な流れで、より緊張感のある展開で、悠斗と琴音の物語が読者の心に届くように。 ### でも、変わらないもの どれだけ手を加えても、**絶対に失いたくなかったもの**があります。 それは、**この物語が持つ温かさと切なさ**。 春の桜、夕陽の茜色、風に揺れる髪。そんな美しい日常の中に、静かに、でも確かに存在する「この世ならざるもの」との繋がり。 **悠斗の優しさ**と**美琴の儚さ**。二人の間に流れる、言葉にならない想い。 それらは、最初に書いた時から、ずっと変わらず、この物語の心臓として脈打っています。 ### 最後に この物語が、皆さまの心に、少しでも残るものであれば幸いです。 怖さの中にある優しさ。日常の中にある奇跡。そして、縁が結ぶ不思議な物語。 ここまで読んでくださって、本当にありがとうございました。
皆さん、物語を読んでいただきありがとうございます! ここでは、物語をさらに深く楽しんでいただくために、いくつかの裏設定を少しだけ解説したいと思います。 Q1. 迦夜(かや)って、結局何だったの? 第七章で悠斗たちを苦しめた《迦夜》。彼女たちは、琴音の呪いによって生まれた「歴史への怨嗟の集合体」です。 しかし、琴音が戦いの最中に言ったこのセリフ、気になりませんでしたか? > 『ぐぅ……! 吸収し損ねた迦夜の残骸か……! はみ出し者の分際で、妾に逆らうとは……っ!!』 実は、琴音はこの千年もの間、自らが振りまいた呪いが生み出す怨念を、その身に吸収し続けていました。 迦夜の力も怨みも。 つまり、悠斗たちが戦った迦夜は、その巨大な器から**ほんの少しだけ溢れ出してしまった「残骸」**にすぎません。 Q2. なぜ沙月(さつき)の血筋だけが、他の巫女より長生きできたの? 美琴の血筋をはじめ、多くの巫女たちが二十代という若さで命を落とす中、なぜ沙月の子孫だけは比較的長く生きられたのか。 その答えは、**沙月が呪いの元凶である琴音の「実の妹」**だったからです。 力の源流に最も近い血を持つ沙月は、琴音の力を扱える器でした。 (もちろん、全く呪われていない訳ではありません) 例えるなら、他の巫女たちの呪いの進行速度を「2倍速」とすると、沙月の子孫は「等速」で進む、というイメージです。 それ故に、他の巫女よりは長く、三十代~四十代まで生きることができました。 悠斗に一切呪いがないのは、沙月の子孫への強い想いから繋がった、祈りという名の奇跡なのです。 Q3. 忘れられた創設者・沙月の歴史 桜織市の創設者である沙月の歴史は、あまりにも長すぎるため、そのほとんどが人々の記憶から忘れ去られています。 温泉郷にかすかに「清き巫女の伝説」が残るのみで、その全貌を知るのは、桜織神社の墓守である藤次郎の一族だけです。 なぜ歴史が忘れられたのか? それは、沙月自身がそう望んだからです。 彼女は、自分の子孫たちが過酷な宿命に縛られず、自由に生きてほしいと願い、藤次郎の祖先に「真実を語り継ぐ必要はない」と伝えていました。 ちなみに、沙月には**《葵(あおい)》**という娘がいました。 白蛇様の分身体を封印する覚悟を決めた沙月は、その少し前に、娘を父方の家系へと
あれから――さらに、百年もの歳月が流れようとしていた。 悠久の風がこの白蛇山の山頂を吹き抜ける中、妾は静かに見守り続けていた。悠斗に遺した妾の血を媒体に、彼と美琴、そしてその子孫たちが紡ぐ、すべての記憶と感情を。 それが、妾が自らに課した最後の贖罪であったから。 二人は、実に満ち足りた生涯を送った。 まるで失われた時間を取り戻すかのように、笑い、愛し合い、時には些細なことで喧嘩をしながらも、固く手を携えて歩んだ。やがて、その腕に新しい命を抱き、慈しみ、育て、そして次の世代へと縁を繋いでいった。 霊砂や百合香たち、古の巫女たちもまた、穏やかに天寿を全うし、安らかな眠りについた。 その最後の魂が天へと昇ったのを見届けたとき……妾の役目も、ようやく終わったのだ。 あぁ……なんと壮大で、愛おしい記録であったことか。 妾の呪いが彼らを、そして多くの者を苦しめてしまった事実に変わりはない。 だが、妾の血を引き継いだ彼らの子孫たちが、この先も数多の物語を紡いでいく。かつてあれほど憎らしいとさえ思ったその事実が、今ではむしろ……誇らしく、喜ばしいとさえ感じるのだ。 そんなことを想いながら空を仰いでいた、その時だった。 『……姉上……』 ふと、天から懐かしい声が聞こえたような気がした。 いや、気のせいではない。魂に直接響く、凛として、それでいて慈しみに満ちた声。 『む……?』 『姉上……』 見上げると、雲間から柔らかな光が差し、天からひとつの人影が、静かに舞い降りてくる。 妾の記憶にある、ただ一人の姿。 『……沙月……!』 『迎えにまいりました』 地に降り立った妹は、以前と何ひとつ変わらぬ、穏やかな微笑みを浮かべていた。 かつては、その清廉さが息苦しくもあった。だが……それがいまは、どうしようもなく心地よい。 『ふふ……そなたの蒔いた種が、見事な花を咲かせ……こうして、妾を解放するに至った。感謝するぞ、沙月』 そう告げると、彼女は一瞬だけ驚いたように目を見開き、そして、そっと妾の手を取った。 差し出されたその手は、記憶にあるどの温もりよりも柔らかく、そして、暖かかった。千年の時を超え、ようやく妹の手に触れることができたのだ。 さぁ、天へと上がろう。 悠久の時を、今度こそ二人で。 そして、この地に生きる、まだ見ぬ愛しき子孫たちよ。
あれから――十六年が経った。 月日は慌ただしく流れ、私の日常も大きく姿を変えた。 私は今、この桜織市で『結び屋』という名の霊媒処を営んでいる。 古の巫女である霊砂さんたちとの交流は続き、私の方から「一緒に霊媒師をやらないか」と声を掛けたところ、彼女たちも快く受け入れてくれた。今では、皆が『結び屋』の正式な仲間だ。 皆の助けもあってか、いつしか「よく当たる」などと評判になり、かつてのような無名の存在ではなくなった。 けれど、やっていることは昔と何も変わらない。 ただ静かに、迷える霊たちの傍に寄り添い、その”想い”と向き合い――癒すだけ。 かつて、彼女がそうしてくれたように。 *** バスの車窓から、ふと紅い影を纏った霊を見つける。すぐに停止ボタンを押し、運賃を払ってバスを降りた。 いた。あの霊だ。 「こんにちは。何か、お困り事でも?」 私は、路地裏に佇むその霊に、臆することなく声をかける。 『あんた……私が見えるのね……』 「ええ。何か抱えている想いがあるはずです。私でよければお聞きしますよ」 『……なんで……なんで私が死ななきゃいけなかったの!? あいつが……あいつが悪いのに……!』 胸の内に渦巻く、未練と怒り。それはまだ”すれ違い”の最中なのだろう。 「よければ……あなたの話を、聞かせてくれませんか。私にも、力になれることがあるかもしれません」 これまで、幾度となく見てきた。怒りに呑まれ、世界を恨んだ霊たちも――きちんと”言葉”を交わせば、癒えるのだと。 *** 『……ってわけがあってねぇ……』 先ほどまで荒れ狂っていた霊は、今ではすっかり落ち着き、赤く禍々しかった気配も、まるで嘘のように消えていた。 「なるほど……それは、とてもお辛かったですね」 そう伝えると、彼女の身体が透き通り始める。成仏の兆候だ。 「あとは私が、あなたの想いを引き継ぎましょう」 『……ほんとに? いや……なんだか、あんたは信用できる気がするよ……』 彼女は、誤解の果てに彷徨っていた。だが、その誤解はいま解けた。約束通り、後日、彼女の言葉を伝えるために”その人”へ連絡を取るつもりだ。それが、私の仕事。私が選んだ、生き方。 『……あぁ……なんだか……心地がいいや……』 彼女の姿がさらに透け、やがて光の粒子となり、静かに――天へと昇っていっ
僕は車の中で、輝信さんと……琴乃さんの話をしていた。 彼女は、魂を賭して美琴を、そして僕を守ってくれたのだ。 美琴の言葉を借りれば──魂が攻撃されて死んでしまった場合、その魂は浄土へ昇れず、消滅してしまう。それを知っていながら、琴乃さんは迷わず僕たちを守ってくれた。その事実を思えば、あの山頂での自分の行動は……あまりにも愚かだったと、今更ながら胸が痛む。 この命は、琴乃さんと美琴、ふたりの魂に支えられて今、ここにあるのだ。 琴乃さんの想い人であり、彼女を同じように深く愛していた──輝信さん。彼がどんな反応をするか、正直、不安だった。 けれど、返ってきた言葉は……想像していたものとは違っていた。 「そうか、琴乃がふたりを守ってくれたのか……なら──ちゃんと、生きないとな。きっと琴乃も、それを望んでる」 その声は、努めて明るく振る舞う中に、微かな震えが混じっていた。ほんの一瞬だけ、その瞳の奥に深い悲しみがよぎる。でも彼は、変わらず優しく微笑んでくれた。 「……はい」 僕は深く頷いた。 *** 車内の空気は、しばらく静寂に包まれた。それでも、輝信さんは黙って僕を自宅まで送り届けてくれた。 「元気でな、悠斗君!」 別れ際、彼は笑顔で手を振った。 「俺はこれから琴乃の亡骸を弔ってくる。……また気が向いたら、あの家に来てくれ!」 その言葉を聞いて、僕は彼に尋ねた。なにか、自分にもできることはないかと。 だけど彼は、そっと首を横に振った。 「これは俺が、一人でやりたいことだから」 彼の瞳は、どこか遠い空を見つめていた。 そして、こうも言った。呪いが消えた今、琴乃さんが住んでいたあの家に住むつもりだと。そこに、彼女のための大きな墓を建てるつもりだと── (……僕も、ちゃんとお墓参りに行かないと) そう心に誓った僕に、彼は大きく手を振って車に乗り込んだ。 「じゃあな、悠斗君! 達者でなぁ!!」 その声が遠ざかっていく。 僕は、ただ静かに頭を下げて、その車を見送った。 *** 輝信さんと別れた僕は、その足で――久しぶりに、母さんのいる病院へと向かった。 バスの振動に揺られながら、窓に映る自分の顔が、やけに強張っていることに気づいた。もう何度も来ているはずの場所なのに、今日は心が落ち着かない。大切な報告があるからか、それとも、これまで
「……よく戻ったな」 長老の家の前に立ったとき、あの慈愛に満ちた声が出迎えてくれた。 琴音様のことを村人たちに伝え終え、僕はひとり、この家を訪れていた。理由はふたつ。ひとつは――琴音様が告げた、美琴の転生の話を伝えるため。この人にとっても、美琴はきっと、大切な存在だったから。 「長老……琴音様から、美琴についてのお話がありました」 「ふむ……聞こう」 僕は、琴音様が語った言葉をそのまま伝えた。十数年後、美琴は再びこの世に生を受け、僕のもとへ還ってくる、と。 「琴音様が……そんなことを……?」 長老は、にわかには信じがたいといった表情で目を細めた。だが、その深く刻まれた皺の奥で、小さな希望の灯火が宿るのが見えた。 僕は静かに頷く。 「はい。あのとき、琴音様は力強くそう言ってくれました。……あの瞳に、迷いはありませんでした」 ゆっくりと、深く頷いた長老の目から、ひとしずく涙がこぼれ落ちた。 「そうかぁ……そうかぁ……」 何度も繰り返されるその声に、どれほどの想いが込められていたのか――僕は、その涙の重みを、ただ静かに見守った。 そして――もうひとつ。 「長老、もうひとつ……お願いがあります」 「ほう? なんじゃ?」 「沙月さんの情報を……すべて、正しく書き直してほしいんです」 しばしの沈黙の後、長老は目を閉じて静かに問い返す。 「それは……構わんが、なぜ今になって?」 「沙月さんのこの村での記録は、偽られたままです。本当のことが、何ひとつ残されていない……。千鶴さんが、彼女の子孫である僕達を守るためにそうしたのは分かります。でも、今はもう――その呪いも、終わったから……」 かつて琴音様が残した呪いは、もう祓われた。今の村には、彼女を知る人もいない。それなら、もう……彼女の人生を”真実”として刻んでもいいはずだ。 「ふむ……。では、文献を作り直そう」 そう言って、長老は真っ直ぐ僕を見つめ、力強く頷いてくれた。その声に、ひとかけらの迷いもなかった。 「ありがとうございます」 知らず知らずのうちに詰めていた息が、そっと吐き出された。 「して……その沙月様について詳しく話してくれるか?」 「もちろんです」 そうして、僕は語りはじめた。あの人が歩んできた、千年の祈りの軌跡を。温泉郷で呪われた霊たちを鎮めたこと。僕に呪いが宿って
さらに数日後——。 桜織駅のホーム。悠斗は改札の前に立ち、スマートフォンで時刻を確認していた。 (約束の十五分前……。早く来すぎたかな) そう思いながらも、視線は自然と身だしなみへ向かう。 「別に変じゃないよね……」 小さな呟きが唇から零れた。何度目かの確認。襟元、袖口、髪の流れ——鏡がないから、ガラス越しに映る自分の輪郭を頼りに指先で整えるしかない。 今日は私服だった。 制服でしか顔を合わせたことのない美琴と、初めて——私服で会う。 その事実が、じわりと胸の奥で重みを増していく。心臓の鼓動がいつもより一拍だけ早い。襟元に触れる指先の、かすかな震え。気づかないふり
「……先輩も、その場所のことが気になっているんですか?」 美琴が、悠斗の顔を伺うように尋ねた。 「えっ……う、うん?」 自分でも分かっていない。なんとも間の抜けた返事だった。そんな曖昧な答えに対して、美琴がかけた言葉は—— 「また後日、その、風鳴トンネルに足を運ぶのですけど……先輩も来ます?」 一緒に来ないか、という誘い。 「えっ……」 (霊への恐怖心は……まだ消えていない。でも、なんでだろう……すごく気になる……) 霊がどのような結末を辿るのかが気になるのか。それとも、純粋に美琴の力の謎に惹かれているのか。悠斗自身にもわからない。 だが——答えは決まっていた。
あれから、数日が過ぎた。 悠斗の日常は、少しずつ穏やかさを取り戻していった。あの夜の出来事は記憶の片隅へと退き、日々の流れの中に静かに溶けていく。 もっとも——心霊スポットに足を踏み入れた奏汰たちは、学校に戻るなり担任教師たちからこっぴどく絞られていたが。 完全に元通りとは言えない。あの出来事の痕跡は、まだ心のどこかにうっすらと残っている。それでも確かに、悠斗の日常は戻ってきていた。 そんなある日の、穏やかな昼下がり。 悠斗は翔太と並んで、他愛もない話に時間を費やしていた。 「ったく……。もう何度同じこと言われたか分かんねぇよ。耳にタコが出来るどころじゃねぇぜ……」
「……ふぅ」 全身から力が抜けた。悠斗はソファの上に崩れ落ちるように座り込み、そのまま深く背もたれに身を預けた。 「大丈夫ですか? 顔色が良くないように見えますが……」 「うん……ありがとう。今夜の出来事は、本当に衝撃的だった。きっと一生、忘れられないだろうね」 霊を——ずっと避けてきた。見えていても見ないふりをして、関わらないように、意識の外へ追いやるようにして生きてきた。幼い頃のあの日を最後に、霊の成仏などという場面に立ち会うことは二度とないだろうと、そう思っていた。 だからこそ、今夜の体験は悠斗の心を根底から揺さぶっていた。封じ込めていたはずの記憶が呼び起こされ、胸の内に