LOGIN美琴の静かな言葉に、僕は覚悟を決めて彼女の後に続く。
トンネルの中は、巨大な生き物の湿った息を吸い込むかのように、ひどく重苦しかった。 足元の、剥がれたアスファルトや小石を踏む僕たちの靴音だけが、カツン、カツンと不自然に大きく響き渡る。それ以外の音は、まるで分厚い壁に吸い込まれてしまうかのように、何も聞こえてこない。 コンクリートの冷たい壁には、黒緑色の苔が皮膚のようにびっしりと生い茂り、天井の亀裂からは、時折、ぽたり、ぽたりと錆色の水滴が滴り落ちる音が、この異常な静寂を鋭く切り裂いた。 ゴクリ、と喉が渇く。 空気が、粘り気を持っているかのように、じっとりと肌にまとわりついてきた。 ここは、廃病院とは、まったく違う種類の恐怖と孤独を感じる場所だ。 あの廃病院には、確かに「誰かがそこにいる」ことを感じさせる、ある種の生活の残り香や魂の温度のようなものがあった。けれど、このトンネルは違う。どこまでも冷たく、どこまでも暗く、そして、どこまでも底なしの後悔だけが支配しているかのようだった。 不意に、数歩先を歩いていた美琴がぴたりと歩みを止める。 風もないはずなのに、彼女の結い上げたポニーテールが、ふわりとひとりでに揺れた。 「……来ますよ、先輩」 その、囁くような、けれど確信に満ちた言葉が発せられた瞬間──。 今まで以上に濃く、そして冷たい霧が、トンネルの奥からまるで生き物のように、音もなく、じわじわとこちらへと這い寄ってきた。 僕が持つ懐中電灯の光が、その濃密な霧に乱反射してぼんやりと拡散し、視界が、まるで悪夢の中のように、じわじわと白く滲んでいく。 霧の細かな粒子が光の中でキラキラと舞い、この世界そのものが曖昧にぼやけていくみたいだった。 ──そして、その白く煙る霧の先に、それは、いた。 最初は、ただの黒い影のように、ゆらりと揺れていた何か。 だが、それは、僕たちが息をのんで見つめる中で、少しずつ──明確な人の「輪郭」を得ていく。 月明かりも届かぬ暗闇の中で、不自然なほどに青白い肌。肩よりも少しだけ長く、乱れた黒髪が、その表情を隠している。 羽織っているらしいクリーム色のトレンチコートは、事故の瞬間を物語るかのように、おびただしい量の赤黒い血と泥で見るも無残に汚れていた。その下に着ているであろう黒のタートルネックと細身のスキニージーンズが、周囲の深い暗闇へと沈み込んでいく。 左手の薬指には、古びた銀色の指輪が鈍い光を放っていた。そして、その指の爪には、所々剥がれ落ちた、血のような赤いマニキュア。 彼女は、何かから必死に顔を庇うかのように、震える両手でその顔を覆っていた。その、痛々しいほど細い手には、いくつもの青黒い痣が浮かんでいる。 『……ごめ…ん…なさい……本当に……ごめんなさい……私が、悪いの……』 『…………ごめんなさい……ごめんなさい……っ……』 低く、そして掠れた若い女性の声が、霧と共に、反響しやすいトンネルの中に悲しく響き渡る。 その、あまりにも痛切な響きに、僕の背筋がぞくりと凍りついた。 けれど、隣にいる美琴は、少しも恐れることなく、その霊へと静かに一歩踏み出した。 「美琴……!?」 思わず僕は、彼女の名前を呼び、その腕を掴もうとする。 しかし彼女は、僕の方をゆっくりと振り返り、驚くほど穏やかな微笑みを浮かべた。 「大丈夫ですよ、先輩。彼女は、決して私たちに危害を加えようとするような、“悪いもの”ではありませんから」 ──その言葉には、絶対的な確信が込められていた。美琴の声には、一片の迷いもなかった。 まるですでに、このトンネルに囚われた彼女のことを深く知っているかのような、そんな不思議な響きがあった。 僕が、ただ息を呑んでその場に立ち尽くしている間にも、美琴はゆっくりと、その霊へと──まるで傷ついた小鳥に手を差し伸べるかのように──優しく歩み寄っていく。 「貴女のことを、もう少しだけ、私に教えてはいただけませんか……?」 どこまでも静かで、そして慈愛に満ちた優しい声が、この冷たく閉ざされたトンネルの空気に、そっと溶けていく。 すると──。 顔を覆っていた霊の、その震える両手が、ゆっくりと、本当にゆっくりと下ろされた。 そこにあったのは、全ての光を失い、ただただ深く濁りきった、真っ黒な瞳だった。 ぽたり。 その、虚ろな瞳から、一筋の、まるで血で出来ているかのような赤い涙が、音もなく地面に落ちる。 彼女が纏うトレンチコートの胸元に、また一つ、赤黒い染みがじわりと広がった。 「……大丈夫ですよ。何も、怖がることはありませんから」 美琴の声は、それでもなお、どこまでも静かで、温かかった。 「私は、貴女を祓いに、ここへ来たんじゃありません。私は、貴女を助けたくて、その苦しみから解放したくて、ここに来たんです」 ──その、美琴の言葉が、まるで魔法のように作用した、その瞬間。 霊の、影のようだった身体が、びくんと大きく震えた。 『……こ…ない……で…………コナイ……デ…………ッ!!』 「……大丈夫。私はもう、ほんの少しだけですけれど、一度貴女の記憶の断片を見ていますから」 美琴が、その霊の魂に直接語りかけるように、そっと告げる。 「だから、知ってるんです。貴女はただ、どうしようもないほどの後悔と悲しみの中で、ずっと、ずっと、ここで一人で苦しんでいるだけ……だということを」 ──次の瞬間、絶叫が、トンネル全体を揺るがすように轟いた。 『くる……なァァァァァァァァァァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!』 凄まじい金切り声に僕は耳を押さえる。 その直後、突風とも言えるほどの霊的なエネルギーが吹き荒れ、僕と美琴の身体は、まるで木の葉のように、いとも簡単に後方へと吹き飛ばされた。 その、全てを薙ぎ払うような冷たい風の中に、いくつもの、誰かの声のようなものが、確かに混じって聞こえた気がした。 『なんで分かってくれないの!?もう知らない…!!』 『…待ちなさい!!』 まるで──遠くで、誰かと誰かが、激しく言い争っているみたいだった。ズン、と。 鼓膜ではなく、心の芯を直接殴られたような衝撃。 その名が静かな和室に響いた瞬間、僕の身体は硬直し、全身の血が逆流するかのように思考が停止した。 母さんの家に遺されたあの古びた家系図。その一番上、全ての始まりとして刻まれていた、ただ一つの名前。 (美琴の推測通りだ……。僕は本当に……) 藤次郎さんは、呆然とする僕をよそに、まるで自分たちに課せられた歴史を噛みしめるように続けた。 「あまりに長すぎる歴史故にな。俺たち『墓守』の家系にも、その櫻井沙耶様という、偉大な最初の先祖の名前だけが、引き継がれてある。その間のことは、もう誰にも分からんがね」 伝説とか、おとぎ話とか、そういう次元じゃない。千年という、人間が到底把握しきれない時間の重みが、そのたった一つの名前と共に、僕の肩にのしかかってきた。 「私は、櫻井 沙耶様……その方が、沙月様である可能性が非常に高いと、私はそう考えています」 美琴が凛とした声で言う。名前を変えてまで、彼女は生き延びなければならなかったのか。千年の歴史は、一体何を隠しているのか。 そして、僕が沙耶……いや、沙月さんの子孫であるならば、琴音様と僕には、僅かだが血の繋がりがあることになる。僕に呪いがない理由は、それが関係しているのだろうか? 重たい沈黙を、文字通り切り裂くように── 「藤次郎さん!!」 神社の引き戸が、焦りを伴う音を立てて勢いよく開け放たれた。息を切らし、顔を青ざめさせた神社の関係者らしき男が、部屋に転がり込んでくる。 「何事だ、騒がしい」 「さ、桜翁に異変が!! 花が……! 花がおかしいんです!」 その言葉に、場の空気が凍りついた。 「……!? よりにもよってこのタイミングで、か……!」 藤次郎さんは忌々しげに呟き、素早く外へと駆け出す。僕と美琴もすぐに顔を見合わせ、彼の後を追った。 *** そして、たどり着いた桜翁の前。 「……っ!?」 息を呑んだのは、僕か、美琴か。 そこに広がっていたのは、僕たちの知る桜翁の姿ではなかった。 あの淡く優しいはずの桜の花びらが、まるで乾いた血糊のように、禍々しい赤黒色に変色していた。 「こ、これは……」 美琴は言葉を失い、両手で
皆さん、物語を読んでいただきありがとうございます! ここでは、物語をさらに深く楽しんでいただくために、いくつかの裏設定を少しだけ解説したいと思います。 Q1. 迦夜(かや)って、結局何だったの? 第七章で悠斗たちを苦しめた《迦夜》。彼女たちは、琴音の呪いによって生まれた「歴史への怨嗟の集合体」です。 しかし、琴音が戦いの最中に言ったこのセリフ、気になりませんでしたか? > 『ぐぅ……! 吸収し損ねた迦夜の残骸か……! はみ出し者の分際で、妾に逆らうとは……っ!!』 実は、琴音はこの千年もの間、自らが振りまいた呪いが生み出す怨念を、その身に吸収し続けていました。 迦夜の力も怨みも。 つまり、悠斗たちが戦った迦夜は、その巨大な器から**ほんの少しだけ溢れ出してしまった「残骸」**にすぎません。 Q2. なぜ沙月(さつき)の血筋だけが、他の巫女より長生きできたの? 美琴の血筋をはじめ、多くの巫女たちが二十代という若さで命を落とす中、なぜ沙月の子孫だけは比較的長く生きられたのか。 その答えは、**沙月が呪いの元凶である琴音の「実の妹」**だったからです。 力の源流に最も近い血を持つ沙月は、琴音の力を扱える器でした。 (もちろん、全く呪われていない訳ではありません) 例えるなら、他の巫女たちの呪いの進行速度を「2倍速」とすると、沙月の子孫は「等速」で進む、というイメージです。 それ故に、他の巫女よりは長く、三十代~四十代まで生きることができました。 悠斗に一切呪いがないのは、沙月の子孫への強い想いから繋がった、祈りという名の奇跡なのです。 Q3. 忘れられた創設者・沙月の歴史 桜織市の創設者である沙月の歴史は、あまりにも長すぎるため、そのほとんどが人々の記憶から忘れ去られています。 温泉郷にかすかに「清き巫女の伝説」が残るのみで、その全貌を知るのは、桜織神社の墓守である藤次郎の一族だけです。 なぜ歴史が忘れられたのか? それは、沙月自身がそう望んだからです。 彼女は、自分の子孫たちが過酷な宿命に縛られず、自由に生きてほしいと願い、藤次郎の祖先に「真実を語り継ぐ必要はない」と伝えていました。 ちなみに、沙月には**《葵(あおい)》**という娘がいました。 白蛇様の分身体を封印する覚悟を決めた沙月は、その少し前に、娘を父方の家系へと
あれから――さらに、百年もの歳月が流れようとしていた。 悠久の風がこの白蛇山の山頂を吹き抜ける中、妾は静かに見守り続けていた。悠斗に遺した妾の血を媒体に、彼と美琴、そしてその子孫たちが紡ぐ、すべての記憶と感情を。 それが、妾が自らに課した最後の贖罪であったから。 二人は、実に満ち足りた生涯を送った。 まるで失われた時間を取り戻すかのように、笑い、愛し合い、時には些細なことで喧嘩をしながらも、固く手を携えて歩んだ。やがて、その腕に新しい命を抱き、慈しみ、育て、そして次の世代へと縁を繋いでいった。 霊砂や百合香たち、古の巫女たちもまた、穏やかに天寿を全うし、安らかな眠りについた。 その最後の魂が天へと昇ったのを見届けたとき……妾の役目も、ようやく終わったのだ。 あぁ……なんと壮大で、愛おしい記録であったことか。 妾の呪いが彼らを、そして多くの者を苦しめてしまった事実に変わりはない。 だが、妾の血を引き継いだ彼らの子孫たちが、この先も数多の物語を紡いでいく。かつてあれほど憎らしいとさえ思ったその事実が、今ではむしろ……誇らしく、喜ばしいとさえ感じるのだ。 そんなことを想いながら空を仰いでいた、その時だった。 『……姉上……』 ふと、天から懐かしい声が聞こえたような気がした。 いや、気のせいではない。魂に直接響く、凛として、それでいて慈しみに満ちた声。 『む……?』 『姉上……』 見上げると、雲間から柔らかな光が差し、天からひとつの人影が、静かに舞い降りてくる。 妾の記憶にある、ただ一人の姿。 『……沙月……!』 『迎えにまいりました』 地に降り立った妹は、以前と何ひとつ変わらぬ、穏やかな微笑みを浮かべていた。 かつては、その清廉さが息苦しくもあった。だが……それがいまは、どうしようもなく心地よい。 『ふふ……そなたの蒔いた種が、見事な花を咲かせ……こうして、妾を解放するに至った。感謝するぞ、沙月』 そう告げると、彼女は一瞬だけ驚いたように目を見開き、そして、そっと妾の手を取った。 差し出されたその手は、記憶にあるどの温もりよりも柔らかく、そして、暖かかった。千年の時を超え、ようやく妹の手に触れることができたのだ。 さぁ、天へと上がろう。 悠久の時を、今度こそ二人で。 そして、この地に生きる、まだ見ぬ愛しき子孫たちよ。
あれから――十六年が経った。 月日は慌ただしく流れ、私の日常も大きく姿を変えた。 私は今、この桜織市で『結び屋』という名の霊媒処を営んでいる。 古の巫女である霊砂さんたちとの交流は続き、私の方から「一緒に霊媒師をやらないか」と声を掛けたところ、彼女たちも快く受け入れてくれた。今では、皆が『結び屋』の正式な仲間だ。 皆の助けもあってか、いつしか「よく当たる」などと評判になり、かつてのような無名の存在ではなくなった。 けれど、やっていることは昔と何も変わらない。 ただ静かに、迷える霊たちの傍に寄り添い、その”想い”と向き合い――癒すだけ。 かつて、彼女がそうしてくれたように。 *** バスの車窓から、ふと紅い影を纏った霊を見つける。すぐに停止ボタンを押し、運賃を払ってバスを降りた。 いた。あの霊だ。 「こんにちは。何か、お困り事でも?」 私は、路地裏に佇むその霊に、臆することなく声をかける。 『あんた……私が見えるのね……』 「ええ。何か抱えている想いがあるはずです。私でよければお聞きしますよ」 『……なんで……なんで私が死ななきゃいけなかったの!? あいつが……あいつが悪いのに……!』 胸の内に渦巻く、未練と怒り。それはまだ”すれ違い”の最中なのだろう。 「よければ……あなたの話を、聞かせてくれませんか。私にも、力になれることがあるかもしれません」 これまで、幾度となく見てきた。怒りに呑まれ、世界を恨んだ霊たちも――きちんと”言葉”を交わせば、癒えるのだと。 *** 『……ってわけがあってねぇ……』 先ほどまで荒れ狂っていた霊は、今ではすっかり落ち着き、赤く禍々しかった気配も、まるで嘘のように消えていた。 「なるほど……それは、とてもお辛かったですね」 そう伝えると、彼女の身体が透き通り始める。成仏の兆候だ。 「あとは私が、あなたの想いを引き継ぎましょう」 『……ほんとに? いや……なんだか、あんたは信用できる気がするよ……』 彼女は、誤解の果てに彷徨っていた。だが、その誤解はいま解けた。約束通り、後日、彼女の言葉を伝えるために”その人”へ連絡を取るつもりだ。それが、私の仕事。私が選んだ、生き方。 『……あぁ……なんだか……心地がいいや……』 彼女の姿がさらに透け、やがて光の粒子となり、静かに――天へと昇っていっ
僕は車の中で、輝信さんと……琴乃さんの話をしていた。 彼女は、魂を賭して美琴を、そして僕を守ってくれたのだ。 美琴の言葉を借りれば──魂が攻撃されて死んでしまった場合、その魂は浄土へ昇れず、消滅してしまう。それを知っていながら、琴乃さんは迷わず僕たちを守ってくれた。その事実を思えば、あの山頂での自分の行動は……あまりにも愚かだったと、今更ながら胸が痛む。 この命は、琴乃さんと美琴、ふたりの魂に支えられて今、ここにあるのだ。 琴乃さんの想い人であり、彼女を同じように深く愛していた──輝信さん。彼がどんな反応をするか、正直、不安だった。 けれど、返ってきた言葉は……想像していたものとは違っていた。 「そうか、琴乃がふたりを守ってくれたのか……なら──ちゃんと、生きないとな。きっと琴乃も、それを望んでる」 その声は、努めて明るく振る舞う中に、微かな震えが混じっていた。ほんの一瞬だけ、その瞳の奥に深い悲しみがよぎる。でも彼は、変わらず優しく微笑んでくれた。 「……はい」 僕は深く頷いた。 *** 車内の空気は、しばらく静寂に包まれた。それでも、輝信さんは黙って僕を自宅まで送り届けてくれた。 「元気でな、悠斗君!」 別れ際、彼は笑顔で手を振った。 「俺はこれから琴乃の亡骸を弔ってくる。……また気が向いたら、あの家に来てくれ!」 その言葉を聞いて、僕は彼に尋ねた。なにか、自分にもできることはないかと。 だけど彼は、そっと首を横に振った。 「これは俺が、一人でやりたいことだから」 彼の瞳は、どこか遠い空を見つめていた。 そして、こうも言った。呪いが消えた今、琴乃さんが住んでいたあの家に住むつもりだと。そこに、彼女のための大きな墓を建てるつもりだと── (……僕も、ちゃんとお墓参りに行かないと) そう心に誓った僕に、彼は大きく手を振って車に乗り込んだ。 「じゃあな、悠斗君! 達者でなぁ!!」 その声が遠ざかっていく。 僕は、ただ静かに頭を下げて、その車を見送った。 *** 輝信さんと別れた僕は、その足で――久しぶりに、母さんのいる病院へと向かった。 バスの振動に揺られながら、窓に映る自分の顔が、やけに強張っていることに気づいた。もう何度も来ているはずの場所なのに、今日は心が落ち着かない。大切な報告があるからか、それとも、これまで
「……よく戻ったな」 長老の家の前に立ったとき、あの慈愛に満ちた声が出迎えてくれた。 琴音様のことを村人たちに伝え終え、僕はひとり、この家を訪れていた。理由はふたつ。ひとつは――琴音様が告げた、美琴の転生の話を伝えるため。この人にとっても、美琴はきっと、大切な存在だったから。 「長老……琴音様から、美琴についてのお話がありました」 「ふむ……聞こう」 僕は、琴音様が語った言葉をそのまま伝えた。十数年後、美琴は再びこの世に生を受け、僕のもとへ還ってくる、と。 「琴音様が……そんなことを……?」 長老は、にわかには信じがたいといった表情で目を細めた。だが、その深く刻まれた皺の奥で、小さな希望の灯火が宿るのが見えた。 僕は静かに頷く。 「はい。あのとき、琴音様は力強くそう言ってくれました。……あの瞳に、迷いはありませんでした」 ゆっくりと、深く頷いた長老の目から、ひとしずく涙がこぼれ落ちた。 「そうかぁ……そうかぁ……」 何度も繰り返されるその声に、どれほどの想いが込められていたのか――僕は、その涙の重みを、ただ静かに見守った。 そして――もうひとつ。 「長老、もうひとつ……お願いがあります」 「ほう? なんじゃ?」 「沙月さんの情報を……すべて、正しく書き直してほしいんです」 しばしの沈黙の後、長老は目を閉じて静かに問い返す。 「それは……構わんが、なぜ今になって?」 「沙月さんのこの村での記録は、偽られたままです。本当のことが、何ひとつ残されていない……。千鶴さんが、彼女の子孫である僕達を守るためにそうしたのは分かります。でも、今はもう――その呪いも、終わったから……」 かつて琴音様が残した呪いは、もう祓われた。今の村には、彼女を知る人もいない。それなら、もう……彼女の人生を”真実”として刻んでもいいはずだ。 「ふむ……。では、文献を作り直そう」 そう言って、長老は真っ直ぐ僕を見つめ、力強く頷いてくれた。その声に、ひとかけらの迷いもなかった。 「ありがとうございます」 知らず知らずのうちに詰めていた息が、そっと吐き出された。 「して……その沙月様について詳しく話してくれるか?」 「もちろんです」 そうして、僕は語りはじめた。あの人が歩んできた、千年の祈りの軌跡を。温泉郷で呪われた霊たちを鎮めたこと。僕に呪いが宿って