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第21話 詩織の記憶

Author: 渡瀬藍兵
last update Last Updated: 2025-05-22 18:33:10

僕の手から、懐中電灯が滑り落ち、カツン、カラン、と虚しい音を立てて、

小石を跳ねながら暗闇の中へと転がっていく。

「っ……美琴っ!!」

背中と後頭部を壁に強く打ち付け、一瞬、呼吸が止まる。

それでも、僕がまず無意識に探したのは──美琴の姿だった。

「美琴!! 大丈夫!?」

叫びながら、僕はすぐに霞む視界の中で身体を起こす。

美琴は、僕の少し離れた場所で、地面に膝をついていた。

でも、彼女はすぐに、ゆっくりと、しかし確かな足取りで立ち上がる。

深い霧の中で、彼女のあの強い意志を宿した茶色の瞳が、

まっすぐに、目の前で荒れ狂う霊の気配を見据えている。

「私は、大丈夫です、先輩。少し、驚いただけですから」

そう言って無理に微笑んでみせた美琴の顔は、なぜか、どこかひどく寂しそうに見えた。

『ごめ…んなさい……私が、悪かったの…… お母…さん……ごめんなさい……』

霊が、今度は途切れ途切れに、まるで懺悔するように、またそう呟いた。

その声と共に、彼女の、人の形をしていたはずの|輪郭《りんかく》が、急速に薄れ、周囲の霧に溶け込んでいく。

まるで、最初から何もいなかったかのように──。

「お母さん……? 今、お母さんって……」

僕が呆然とそう呟くと、美琴が、何かを|堪える《こらえる》ように、そっと俯いた。

「……あの人は、数年前に、このトンネルの中で、交通事故で亡くなったんです。」

「……でも、さ。さっきの声、ずっと謝ってたよね? それに、今の言葉も……」

「ええ。彼女はきっと……心の底から後悔しているんです。

本当は、決して“悪い霊”なんかじゃ、ないんだと思います」

美琴の声が、どうしようもなく切なげに、そして悲しく響く。

でも──それだけでは、この状況は終わらない。

僕の胸の中には、さっきの、あの空間を揺るがすほどの“絶叫”と“拒絶”が、

まだ生々しくこびりついていた。

「でも……現に、事故の要因になるって、噂では……。それって、つまり……

やっぱり、他の人にとっては、危ない霊っていうことじゃ……ないの?」

「はい。彼女は……おそらく、自分が事故を起こしてしまった時と、同じような状況──

例えば、雨の日の夜道で、車のヘッドライトを見た時などに、

強烈なフラッシュバックを起こして、半ば無意識に姿を現してしまうようなんです」

「……だから、パニックになった他のドライバーが、事故を……」

美琴が、小さく、そして重く頷く。

彼女はただ、ここで、自分の犯した過ちと、失った母への想いに、ずっと苦しんでいるだけ。

それなのに、ネットの世界では、面白おかしく“悪霊”と呼ばれて、恐怖の対象にされている。

「……先輩」

不意に、美琴が、僕の顔をじっと見つめてきた。

「もしよろしければ……彼女の過去を、もっと深く、一緒に見てみませんか?」

その、どこまでも透き通った彼女の瞳が、薄暗いトンネルの中で、静かに、そして力強く揺れた。

「……うん。視よう、美琴」

美琴が、その言葉に、そっと頷き返し、僕へと右手を差し伸べる。

そして、彼女は、トンネル内にまだ微かに残っている、あの女性の霊の気配へと、

左手を、まるで何かを掬《すく》い上げるかのように、そっとかざした。

すると、彼女のその小さな掌の中で、

周囲の霊気が、まるで生きているかのように、ゆらりと集まり始め、

やがて、あの時、誠也くんを包んだのと同じ、温かく、そして清浄な紅い光が、

まるで心臓のように、トクン、トクンと、優しく脈打ち始めた。

「先輩、私の手を、しっかりと握っていてくださいね」

そう言われるまま、僕は美琴の差し出してくれた、少しだけ冷たい手を、強く握り返す。

次の瞬間──僕の意識は、まるで深い水底へと引き込まれるように、

急速に、そして抗いようもなく、遠のいていったのだった。

──────────────────────

【滲む記憶:詩織】

「なんでっ……! なんで、お母さんは、私たちの結婚を認めてくれないのっ!!」

怒りと、深い悲しみとがぐちゃぐちゃに入り混じった、若い女性の絶叫が、僕の頭の中に直接響いてくる。

それは、まるで今、まさに目の前でその光景が繰り広げられているかのように、

あまりにも鮮明で、生々しく聞こえた。

目の前には、あのクリーム色のトレンチコートを着た彼女が立っていた。

その震える左手には、あの古びたシルバーの指輪が、夕陽の最後の光を反射して、鈍く光っている。

「男なんて、どいつもこいつも皆同じなんだよっ!!

どうせすぐにアンタを裏切って、泣かせて、傷つけるに決まってるんだ!!」

ヒステリックな、年配の女性──彼女の、彼女のお母さんの声が、

まるで鋭い刃物のように、強く、そして冷たく投げ返された。

どうやら、家の中での様子だった。

彼女は、悔しそうに自分の拳を強く握りしめ、唇を、血が滲むほどにきつく噛んでいた。

「彼は……! 私の好きなあの人は、絶対にそんな人じゃないっ!!

お母さんの知ってるような、ろくでなしじゃないの!」

「いいや、同じさね!!

男なんてものは、みんな、みんな同じなんだよ!!

お母さんはね、アンタにだけは、私と同じような辛い思いは絶対にしてほしくないんだよ!!

分かっておくれよ!」

「お母さんこそ、お願いだから、私の話をちゃんと聞いてよっ!!

一度でいいから、彼に会ってさえくれれば……!」

「嫌だね!!男なんて、どいつもこいつも、ろくでもないもんなんだ!!」

「もう……もう知らないっ!!

勝手にすればいいでしょ! あたしはもう、こんな家、絶対に出て行くからっ!!」

彼女の声は、怒りで激しく震えていた。

でも、それは、決して怒りだけじゃない。

その声の奥には、抑えきれないほどの涙の気配が、確かに混じっていた。

深い悲しみと、そして、自分の大切な人を、実の母親にどうしても理解してもらえない、という、どうしようもないもどかしさ。

「詩織《しおり》っ!! お前、本気で言ってるのかい!?」

母親が、悲痛な叫び声を上げる。

けれど、彼女── 詩織さんは、もう決して振り返ろうとはしなかった。

クリーム色のトレンチコートの裾が、決意を秘めた風に、大きく揺れた。

その、彼女が母親に背を向け、──玄関を出ていく。

その直後──

まるで目の前で閃光弾が炸裂したかのように、強烈な白い光が弾け、

僕の意識は、再び現実へと、無理やり引き戻されたのだった。

─────────────────────

「っ……はぁ……っ……はぁっ……!!」

息を激しく呑み込みながら、僕は自分の意思とは関係なく、ゆっくりと目を開く。

喉が、カラカラに乾ききっていた。

全身の肌が、まるで氷水に浸されたかのように冷え切っていて、心臓だけが、警鐘《けいしょう》のように早鐘《はやがね》を打ち続けている。

でも、それ以上に──

頭の中に、詩織さんの、あの悲痛な叫び声が。

彼女の、あのどうしようもないほどの後悔と絶望の記憶が、

まるで呪いのように、鮮明に焼き付いて、決して離れようとしなかった。

「先輩……? 大丈夫、ですか……?」

すぐ隣から、美琴の、心配そうな声が聞こえてきた。

ふと、重い頭を上げて彼女の顔を見ると、

美琴が、その大きな瞳で僕のことをじっと見つめていた。

「先輩!? その眼……っ!」

彼女の、普段の落ち着きからは想像もできないほど驚いた声にハッとして、

僕は、おそるおそる自分の顔に手をやる。

指先に触れる頬は、いつの間にか、止めどなく流れる熱い涙で、ぐっしょりと濡れていた。

そして、視界の端で、何かがおかしいことに気づいた。

トンネルの壁に映る自分の影──その目の部分が。

僕の、本来は黒いはずの瞳が、まるで深海の底のような、どこまでも深く、そして淡い“碧(あお)”の色を帯びて、

ぼんやりと、けれど確かに、内側から光を放っていた。

まるで、この世ならざる何かの色が、トンネルの深い暗闇の中で、静かに、そして妖しく揺れている。

近くに転がっていた懐中電灯の、弱々しい光が、

その不思議な碧の色をわずかに映し出し、

それを見た美琴の顔に、信じられないといった驚きの色が、さらに広がっていくのが分かった。

「これ……一体、なんだ……? 僕の眼が……」

まるで、自分の身体ではないみたいだった。

何かが、おかしい。

僕は、ただ、詩織さんの霊の記憶を視ただけじゃなかった。

まるで、彼女のあの深い後悔を、その行き場のない絶望の感情を──

僕自身の魂が、すべて丸ごと引き受けて、背負ってしまったかのような、そんな重苦しい感覚だった。

胸が、息もできないほど苦しい。

まるで、詩織さんの、あの時のどうしようもない感情のすべてが、

僕の心の中に、濁流のように、一気に流れ込んできてしまったみたいに。

「彼女の……詩織さんの後悔が……僕の中に、直接……流れ込んできた……そんな、感じが、する……」

「先輩……それは……」

美琴の声が、まるで水の中から聞こえてくるかのように、どこか遠くで響いている。

「先輩……あなたは……もしかして……」

彼女が、何かを悟ったように、小さな声でそう呟く。

でも、今の僕には、その言葉の意味を深く考える余裕なんて、どこにもなかった。

僕はただ、トンネルの冷たく湿った空気を感じながら、

浅く、そして不規則に、肩で息を繰り返していた。

碧く滲んで揺らめく視界の、その奥の方で──

さっきよりも少しだけ輪郭のはっきりとした、詩織さんの悲しげな姿が、

ぼんやりと、そして心配そうに、こちらを見つめて揺れているように見えた。

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