美琴の「先輩!!」という叫びが、錆びついた空気に響き渡った、その瞬間――
――シュッ! 死神の鎌のように振り下ろされたナイフが、僕の首筋を冷たくかすめた。 「っ……!!」 鋭い痛みが走り、皮膚が裂ける感覚が広がった。まるで熱した刃が肌を滑るような感覚に、思わずよろめく。 「ぐっ……!」 首に手を当てると、じわりと温かい液体が指に絡みついた。赤黒い血が、僕の皮膚をゆっくりと這い下る。 視界が一瞬揺れ、呼吸が詰まるような窒息感が襲ってきた。 『おいおい、まだ始まったばかりだぜ?』 黒崎がニヤリと笑った。その顔は、僕の苦痛を楽しむかのように歪んでいる。ナイフを軽く振って、刃に付いた血を払う仕草が、あまりにも不気味で、僕の胃の腑を締め付けた。 ――ヒュン! 次の瞬間、また刃が飛んできた。まるで獲物を追い詰める猛禽のようだ。 「っ!!」 咄嗟に身を捻る。肩をかすめ、服が裂ける音が響いた。浅い切り傷が熱く疼き、腕が鉛のように重くなる。霊的な攻撃が、ここまで肉体を蝕むとは想像していなかった。 「うっ……!」 「先輩、下がってください!!」 美琴の切迫した声が響く。彼女が僕と黒崎の間に、瞬時に真紅の「幽護ノ扉」を展開した。その結界は、黒崎のナイフを完璧に阻んでくれる。 『ちっ!!鬱陶しいガキだな!!美琴と共に病室を出た僕は、 冷たい廊下の空気に触れながら、放課後に美琴が言っていたことを思い出した。 「そういえば美琴……放課後、故郷へ行って調べてきたって言ってなかった?」 「あっ……」 美琴が小さく声を漏らす。 その仕草は、まるで大切な宿題を忘れていた子供のようだった。 そういえば、僕が病院へ行くことに気を取られ、 わりと強引に彼女の手を引っ張って商店街へ行ってしまったせいで、 その話はそのままになってしまっていた。 「私まで少し忘れてしまっていました……悠斗君のこと、言えませんね。」 美琴が恥ずかしそうに顔を赤く染めつつも、くすっと微笑む。 その笑顔には、僕と同じように日常の忙しさに流されてしまったことへの、 どこか親近感が滲んでいた。 「はは、今日はいろいろあったからね。」 本当に、いろいろなことがあった。 母さんと美琴に接点があったこと。 美琴に母さんの面影を感じていた理由―― それが単なる偶然じゃなくて、 美琴自身が母さんの影響を受けていたからだった、という驚くべき事実。 最初はただの思い込みだと思っていた。 けれど、今は……僕たちが出会ったのは、 ただの偶然なんかじゃなくて、必然だったんじゃないか。 そんな気がしてならない。
静まり返った病室。 窓の外では、夕陽がゆっくりと沈み、薄紅の光がカーテンを柔らかく染め上げていた。 病室全体が、その淡い光に包まれる。 母の穏やかな寝息が、機械の規則的な駆動音と重なり、かすかに響いていた。 その音が、この部屋の、そして母の生命の営みを静かに告げているようだった。 僕と美琴は、ようやく高ぶっていた心を落ち着かせた。 彼女が泣き崩れてから、しばらく時間が経ったが、まだ微かに瞳の端が赤いままだ。 その残る赤色が、彼女の深い悲しみと、感情の激しさを物語っていた。 それでも、美琴は深呼吸を一つし、真剣な表情で僕を見つめた。 その瞳の奥には、僕の母を心配する気持ちと、巫女としての使命感が入り混じっているように見えた。 「では、悠斗君……遥さんの状態を確認します。」 その一言に、僕は自然と息を詰めた。 母の病の真実が、今、明かされるかもしれない。 美琴が母の枕元へと歩み寄る。 彼女の足音は静かで、その一歩一歩に、緊張感が滲んでいた。 そして、ゆっくりと母の額に手をかざした―― その瞬間だった。 バチッ!!! まるで見えない何かに弾かれたかのように、美琴の体がわずかに跳ねる。 その衝撃は、僕の目にもはっきりと映った。 「っ……!!!」 美琴は顔をしかめ、額には早くも汗が滲じみはじめる。 まるで、耐え難い痛みに襲われたかのような表情だ。 「ど、どうしたの!?」 異様な光景に、僕は思わず彼女に駆け寄った。 美琴の身に何が起こったのか、理解できないまま、ただ焦りが募る。
僕と美琴は、静かに病室の扉を開けた。 薄暗い部屋に漂う消毒液の匂いがツンと鼻をつき、 静かに響く機械の駆動音が耳の奥にまとわりつく。 窓から差し込む冬の夕陽が、薄手のカーテンを淡い橙色に染め上げ、 ベッドに横たわる母の穏やかな寝顔を優しく照らしていた。 傍らに置かれた真新しいカーネーションが、ほのかな甘い香りを漂わせ、 病室の無機質な静寂にわずかな彩りを添えている。 「母さん、来たよ。僕が定期的に話す女の子、美琴を連れてきたんだ。」 母の安らかな寝顔を見つめながら、僕はそっと語りかける。 その言葉は、まるで静かな祈りのようだった。 そして、隣に立つ美琴に視線を移した―― だが、その瞬間、僕は息を呑んだ。 ──美琴は、部屋の入口に立ち尽くしたままだった。 彼女の瞳から、大粒の涙がぽろぽろと、まるで堰を切ったかのように溢れ落ち、 頬を伝って床に小さな染みを作る。 夕陽にきらめく涙の軌跡が、まるで壊れた糸のように揺れ、 彼女の華奢な肩が細かく震えていた。 膝が崩れそうになり、両手で顔を覆うようにして、 嗚咽が、抑えきれずに喉の奥から漏れる。 その小さな嗚咽が、静かな病室に響き、僕の心を強く締め付けた。 「み、美琴!?」 突然のことに、僕は混乱する。 こんな風に美琴が、肩を震わせ、膝をつくほどに泣き崩れている姿など―― 今まで一度も見たことがなかった。 彼女の白い指が顔を隠し、こらえきれず漏れる嗚咽が、 病室の静寂を切り裂くようだった。 「ど、どうしたの?」 僕はそっと近づき、彼女の震える背中に手を置く。 冷たい冬の空気とは裏腹に、彼女の体温が僕の掌に伝わってきた。 僕の手に触れると、わずかにその震えが収まった気がした。 でも、涙は止まらず、彼女の呼吸はまだ乱れている。 僕はただ立ち尽くし、彼女の小さな背中を見つめるしかなかった。 言葉を探すが、見つからない。 カーテンが風に揺れ、夕陽が彼女の涙に反射して、 まるで光の粒が舞うように、病室の中にきらめいた。 そのきらめきは、彼女の悲しみの深さを際立たせるようだった。 それから、体感では永遠のように長い―― しかし実際には10分ほどが過ぎ―― ようやく美琴の呼吸が落ち着き、涙で
学校が終わり、放課後のざわめきが満ちる教室を出た瞬間――。 「悠斗君!」 背後から、美琴の明るく弾んだ声が響いた。 その声は、冬の澄んだ空気の中でも、どこか温かく、僕の心を弾ませるようだった。 振り返ると、ポニーテールを揺らしながら彼女が駆け寄ってくる。 冬の冷たい風が彼女の髪をさらりと撫でるけれど、 その姿はどこか活き活きとして、まるで春を先取りしているかのようだった。 「おお? どうしたの? そんなに慌てて」 僕は少し驚きつつも、その勢いに思わず笑みがこぼれた。 彼女の明るさに、僕自身も自然と笑顔になる。 「実は今日、午後から学校に来たんですけど…… 私、故郷に戻って色々調べてきたんです!」 美琴は目を輝かせながら、まくしたてるように言った。 その瞳には、期待と、知的好奇心が溢れんばかりに満ちている。 彼女の探究心は、僕にはないものだった。 「そういえば……風鳴トンネルの時に言ってたね」 あの時、美琴は僕の霊眼のルーツを探るために、故郷へ戻ると言っていた。 たしかに、そんな約束を交わしていたはずなのに――。 ここ最近は、廃工場での出来事がひと段落したとはいえ、 その余韻が冷めきらないまま、日々が過ぎていった。 激しい戦いの記憶は、未だ僕の心に深く刻まれている。 僕自身、学校では傷の言い訳に追われ、 先生やクラスメイトには適当な理由を並べてごまかしていた。 「ちょっと転んで……」「実家の手伝いをしてて……」 そんな言葉を繰り返すたびに、内心ではため息をついていた。 それでも完全に隠しきれたわけではなくて、 時には先生の鋭い視線を感じ、職員室に呼び出されそうになったことさえある。 (……まぁ、バレなかったから良かったけど) そんなふうに日常を繕うことばかりに気を取られていて、 美琴の“調査”のことなど、すっかり忘れてしまっていたんだ。 僕自身の無意識の甘えや、現実の忙しさに流されていたことを、 今、彼女の言葉で思い知らされる。 「悠斗君! 自分の力の源ですよ!? 気にならないんですか!?」 美琴が少しだけ頬を膨らませ、むくれたように言う。 その表情が妙に可愛くて、つい視線が逸れた。 彼女の無邪気な表情が、僕の心を和ませる。
僕たちは、天へと静かに昇っていく佐々木さんに手を合わせた。 冬の街に舞い落ちる雪だけが、その別れの瞬間を静かに見守っている。 「…行きましょうか」 美琴が静かに微笑みながらそう言った。 彼女の声は穏やかで、どこか優しさに満ちていた。 その眼差しには、使命を終えた者だけが持つ、 清らかな光が宿っているように見えた。 「そうだね、行こうか」 僕も小さく頷き返す。 冷たい冬の空気が、僕たちの吐く息を白く染め上げる。 ――これが、今の僕たちの日常だ。 昔の僕は、霊と関わるなんて想像すらしていなかった。 得体の知れない存在に怯え、ただ目を背けるだけの日々。 僕の世界は、他人の目には見えない恐怖で満ちていた。 けれど――美琴と出会って、すべてが変わった。 霊たちと向き合い、対話し、時には救うこと。 それが今では、当たり前のように僕の人生に溶け込んでいる。 僕の隣には、いつも美琴がいてくれる。 廃病院で出会った誠也くん。 風鳴トンネルの詩織さん。 温泉郷の陽菜さん。 彼らとの出会いが、僕の中にあった霊への恐怖を、少しずつ溶かしてくれた。 それは、凍り付いた心を温めるような、じんわりとした変化だった。 ――いや、違う。 彼らのおかげで、恐怖のその先に広がる“何か”を、見つけられたんだ。 霊はただ恐ろしいだけの存在じゃない。 彼らにも心がある。 喜びも、悲しみも、そして、この世に留まる切ない未練もある。 それを知ったとき、 僕の心は、霊という存在に対する見方そのものが変わった。 だからこそ―― 僕はこれからも、美琴と共に、 彼らの抱える「何か」に、真正面から向き合っていこうと決めている。 *** 翌日。 「まだ時間に余裕がありますね。いつもの場所に行きましょう」 美琴がそう言って向かった先は――桜翁だった。 この古い桜の木の下に立つことが、いつしか僕たちの日課になっていた。 太い幹に深く刻まれた時間の跡、風にそよぐ枝先。 どこか懐かしく、心が落ち着く場所だ。 冬の冷たい空気の中、桜の木は静かに佇んでいた。 「桜翁……」 美琴がそっと幹に手を添える。 その仕草には、かすかな期待が込められているように見えた。 もし
僕の言葉に、霊の表情がさらに険しくなる。 纏っていた赤い影が、怒りを増幅させるかのように一瞬揺らめいた。 その姿は、まるで心の内にある嵐を映し出しているようだった。 「俺はなんで……死ななきゃいけなかったんだ……!」 霊が荒々しく叫ぶ。 その声には、やり場のない悔しさと、深い悲しみが滲んでいた。 まるで、何かに囚われたまま、答えを探し続けているかのようだ。 「失礼ですが、あなたの死因は?」 僕はできるだけ感情を込めず、しかし明確に問いかける。 冷静な対応が、相手の警戒を解くこともあると、これまでの経験が教えてくれた。 霊は苦しげに首を振った。 「わからねぇ……気づいたら、こうなってたんだ……」 ──不明な死因。 おそらく病死か事故死だろう。 突然の死に、彼はただ戸惑い、どうすればいいのかも分からず、この世を彷徨っていたに違いない。 彼の体に纏わりつく「赤」は、怨念ではなく、自身の境遇へのやりきれない怒りや悲しみの色だったようだ。 僕が彼に注意を向け、理解を示そうとすると、纏っていた赤い影がゆっくりと黄色へと変わり始めた。 それは、彼の心の変化を、色彩で示しているようだった。 (敵意ではなく、寂しさや不安からか…)