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六十六話:縮まる距離の午後

مؤلف: 渡瀬藍兵
last update تاريخ النشر: 2025-06-10 19:00:00

「部屋はこちらになるよ」

 女将に案内されて通されたのは、二人で泊まるには十分すぎるほど広い和室だった。畳は青く、窓際には低い卓が置かれている。床の間には季節の花がさりげなく活けられていて、旅館らしい落ち着いた空気が部屋全体に満ちていたが、そんなものをゆっくり眺める余裕は、今の悠斗にも美琴にもなかった。

 ひとまず、とでも言うように部屋へ上がり、二人は少し距離を空けて床に腰を下ろす。けれど、その動作ひとつ取っても妙によそよそしい。背筋は必要以上に伸び、置いた手の位置すら落ち着かない。互いに視線を合わせそうになっては逸らし、逸らした先でも意識だけが相手のほうへ引っ張られていく。

「部屋のものは全部、自由に使ってもらって構わないからね。そこのタンスの中には、浴衣が入ってるから」

「あ、ありがとうございます」

 悠斗と美琴の声が、ほとんど同時に重なった。気まずさの中で揃ってしまったことが、余計に居心地の悪さを増してしまう。

 女将はそんな二人の様子を気にしたふうもなく、にこにことしたまま続けた。

「また、十九時にお食事を部屋まで運びに来るから、くつろいでおくれ」

 そう言い残して、襖が静かに閉まる。

 途端に、部屋の中から人の気配がひとつ減った。残された静けさが、やけに広い。窓の外からは遠くに湯の流れるような音がかすかに聞こえているのに、この部屋の中だけ時間の進み方がおかしくなったみたいだった。

「………」

「………」

 言葉が出ない。

 喉の奥が少し張って、息の深さがうまく定まらなかった。どうしてこうなった。いや、経緯は分かっている。予約の手違いだ。誰が悪いという話でもない。頭ではそう理解しているのに、現実として同じ部屋に二人きりで取り残されてしまうと、理解と気持ちはまるで別だった。

 落ち着こうとしても、視線の置き場がない。正面を向けば美琴がいる。窓を見るのも不自然で、卓を見るのも、畳の目を追うのも、いかにも意識していますと言っているみたいで気が休まらない。

 たぶん、美琴も同じだった。頬はまだうっすら赤いままで、膝の上に置かれた指先がどこか行き場を失っている。普段の落ち着いた彼女からはあまり見ない、はっきりとしたぎこちなさだった。

 先にこの沈黙に耐えきれなくなったのは、悠斗だった。

「そ、その……なんか……ごめん。まさかこんな事になるなんて」

 口をついて出たのは、やはり謝罪。

 自分が悪いわけではない。そんなことは、悠斗だって分かっている。それでも、こんな状況に美琴を巻き込んでしまったような気がして、何も言わないままでいることができなかった。そういうところが、たぶん自分の性分なのだろうと思っていた。

「せ、先輩が悪い訳ではないじゃないですか。その……私も少し心の準備をしてなくて、戸惑っていますけど……」

 美琴もまた、どこか覚束ない声でそう返した。言葉自体は穏やかなのに、最後がかすかに揺れている。悠斗はそれを聞きながら、ようやく少しだけ息を吐いた。

「……まさかこんな事になるなんてね」

 そう口にしてみても、状況が落ち着くわけではなかった。

 同じ部屋で、一晩を過ごす。

 言葉にしてしまえばそれだけのことなのに、その事実だけが妙に輪郭を持って迫ってくる。年頃の男女が二人きりで泊まるというのは、やっぱり平静でいられる話ではない。頭のどこかでは、考えなくていいことまで勝手に浮かびそうになって、そのたびに悠斗は意識を別のほうへ押しやろうとしていた。

「そうですね……。でも……」

 美琴が小さく言い淀む。

 その先が気になって、悠斗はそっと視線を向けた。けれど美琴は目を合わせないまま、膝の上に置いた手元へ視線を落としていた。白い指先が、わずかに迷うように揃え直される。

「私は……嫌じゃ……ありませんよ……」

 消え入りそうな声だった。

 それでも、その一言だけは妙にはっきり届いた。

「っ――」

 喉の奥がひどく熱くなる。息を吸ったはずなのに、うまく入ってこない。視線を逸らすべきなのか、そのまま見ていていいのか、それすら一瞬わからなくなった。

 美琴は俯きがちのまま頬を赤くしていて、横顔にはどこか儚い影が差していた。整った睫毛の線も、薄く色づいた唇も、こうして静かな部屋の中で向かい合っていると余計に目についてしまう。もともと目を引く人だとは思っていたが、改めて意識してしまうと駄目だった。たぶん、学校の中にいたって、自然と視線を集める側の人間なのだろう。そんな相手に、あんなふうに言われてしまって、平気でいられるほど悠斗は出来た人間ではなかった。

 胸の内で、何かが一気に膨らむ。

 落ち着け、と言い聞かせても遅かった。指先の置き場に困るような、どうにもならない熱だけが残る。

「そ、そういう言い方されると……その……余計に困るんだけど」

 ようやく出てきた声は、自分でも分かるくらい情けなく掠れていた。

「っ……! す、す、すみません……」

 美琴は肩を小さく揺らし、ますます身を縮こまらせた。せっかく言葉を交わしたのに、空気はさっきより余計にぎこちなくなってしまう。悠斗も、自分で言っておきながら何をどう繕えばいいのか分からず、視線を畳の上に落とした。

 このままでは駄目だと思った、そのときだった。

 ふと、今日買ったばかりの勾玉のことが頭に浮かぶ。

 今なら、この妙な空気を少しは逸らせるかもしれない。そんな、普段の自分ならたぶん選ばないような安直な考えにすがるようにして、悠斗は脇に置いていたバッグへ手を伸ばした。

「そ、そうだ。美琴」

「は、はい?」

 まだ少し強張ったままの声が返ってくる。

 悠斗はバッグの中を探り、目的の小箱を取り出すと、そのまま彼女のほうへ差し出した。

「これ」

 掌の上に乗っているのは、さっき店で包んでもらった小さなプレゼント箱だった。

「……? これは?」

「僕から美琴へプレゼントだよ。気になってそうだったから」

 そう言うと、美琴は目を丸くしたまま箱と悠斗の顔を見比べた。戸惑いがまだ残っているのか、受け取る手つきもどこかおそるおそるしている。

「……開けてもいいですか?」

「もちろん」

 美琴は箱を胸元でそっと支え、壊れものでも扱うみたいにゆっくりと蓋を開けた。

 中に収まっていたのは、あの桜を模した勾玉だった。やわらかな色合いの石に、花弁の意匠が静かに浮かんでいる。旅先の土産物にしては少し特別で、店先で見たときから確かに美琴の視線を引いていたものだった。

 それを目にした瞬間、美琴の息が止まる。

「こ、これっ! 高かったのに……! い、今すぐお支払いします!」

 一気に顔を上げ、慌てたようにそう言い切る。さっきまでとは別の意味で落ち着かないらしく、手の中の箱を抱える指先にまで力が入っていた。

 悠斗は、その様子に少しだけ肩の力が抜けるのを感じながら、静かに首を横に振った。

「これはね、いつも僕を支えてくれる美琴へのプレゼントなんだ。値段なんて関係ない。君がそれを欲しそうにしてたから、それは日頃の感謝を込めた、僕からの贈り物」

 一度言葉を切る。

 喉の奥にはまだ少し熱が残っていたけれど、さっきまでみたいな慌て方ではなかった。ちゃんと伝えたいことがあるときのほうが、むしろ悠斗は落ち着けるのかもしれないと、そんなことを少しだけ思う。

 箱を包む美琴の指先を見つめたまま、悠斗は続けた。

「だから、受け取ってほしい」

「……っ」

 美琴は小さく息を呑むと、そのまま俯いた。箱を抱える手がわずかに震え、その震えが肩先にまで伝わっていく。

 その様子を見た瞬間、悠斗の頭は真っ白になった。

 なにかまずいことをしたのか。勝手に重いものを渡してしまったのではないか。そんな考えが一気に押し寄せてきて、喉の奥がひやりと冷える。

「も、もしかして嫌だった……?」

 恐る恐るそう尋ねると、美琴はすぐに、強く首を横に振った。

「違います。私…今、とっても嬉しいんです」

 絞り出すように返ってきた声は、震えていた。

 美琴が顔を上げる。そこでようやく、悠斗は彼女の頬を伝うものに気づいた。ひと筋、またひと筋と零れていく涙が、窓から差すやわらかな光を受けて小さく揺れている。

「えっと……その……!」

 何か言わなければと思うのに、言葉がうまく見つからない。慌てるなと自分に言い聞かせても、こういうときに限って口はまるで役に立たなかった。

 けれど、美琴はそんな悠斗を見ながら、泣き笑いのような、やわらかな表情を浮かべていた。箱を胸元に抱き寄せ、その中の勾玉を大事に隠すようにしながら、静かに言う。

「……先輩。本当に、ありがとうございます。私、この勾玉、一生大切にしますね」

 その声音には、ただ嬉しいというだけではない、もっと深い何かが滲んでいた。まるで、自分の中でそっと何かを決めたあとのような、そんな響きだった。

 そんな大袈裟な、と思わなかったわけではない。

 けれど、その言葉を軽く受け流してしまうのは違う気がした。美琴がどんな思いでそれを口にしたのか、今はまだ全部分からなくても、その重みだけはちゃんと伝わってきたからだ。

 悠斗は喉の奥に残っていた熱をひとつ飲み込み、小さく頷いた。

「うん」

 それだけしか言えなかった。けれど、それで十分だったのだと思う。

 さっきまであれほど息苦しかった部屋の空気が、いつの間にか少しやわらいでいた。気まずさはもう、そこにはない。畳の上に落ちる西日の色も、窓の外から聞こえてくるかすかな物音も、先ほどまでとはまるで違って聞こえる。

 美琴はまだ目元を潤ませたまま、それでも大事そうに箱を抱えていた。悠斗はそんな彼女を見て、ようやく肩の力を抜く。

 言葉にできないものが、確かにひとつ、そこに残っていた。けれどそれはもう、息の詰まる沈黙ではなかった。二人のあいだに静かに置かれた、あたたかな余韻だった。

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