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縁語り其の九:錆びついた記録と幼子の願い

Author: 渡瀬藍兵
last update Last Updated: 2025-05-17 19:00:00

季節が一つ逆戻りしたかのような、肌を刺す冷気が、この廃墟全体を支配していた。

春の終わりの暖かさなど、この場所にだけは届いていないようだ。

懐中電灯の頼りない光が、静まり返った空間をゆっくりと撫でるように照らし出す。

朽ち果てて脚の折れた椅子いす。無造作に転がったままの錆びた車椅子くるまいす。そして床に散乱し、元の色も分からぬほど黄ばんでしまったシーツの数々。

壁には、破れて変色した掲示物けいじぶつが、打ちつけられたまま虚しく残っている。

空気は鉛のように重く、淀み、ぴくりとも動かない。

永い時間だけがここに置き去りにされたような、異質な空間だった。

濃密な埃と、壁や床から滲み出すようなカビの匂い、そして微かに残る古い消毒液の刺激臭が混ざり合い、呼吸をするたびに、喉の奥にねっとりと張り付いてくる。

そして何より、この空間のどこかに潜む、得体の知れない“何か”の気配が、冷たい蜘蛛の糸のように背中にまとわりついて離れない。

僕は、床に埃まみれで落ちていた、この病院の古い構内図を拾い上げた。

「これは……構内図だ…。誰かが落としたのか…?」

掠れたインクで書かれた文字を追う。

病室びょうしつエリア」「第一倉庫だいいちそうこ」「第二倉庫だいにそうこ」「一般診察室いっばんしんさつしつ」「院長室いんちょう」……。

翔太が、この廃墟のどこにいるのか、皆目見当もつかなかった。

でも、もうここまで来てしまった。引き返すことはできない。

逃げ出したい恐怖と、友人を見捨てられない気持ちが、体の中でせめぎ合う。

その時──。

奥の、闇に沈んだ廊下から、きぃぃ……と、古い木の床を踏むような、不気味な軋む音がかすかに響いてきた。

息が、止まる。

自分の心臓の音だけが、やけに大きく、速く、耳の奥でドクドクと鳴り響いていた。

恐怖で足が竦むはずなのに、僕の身体は、何かに引かれるように、勝手にその音のする方へと動いていた。

「第一診察室」──。

一部が剥がれ落ち、茶色く変色した古いプレートの文字が、懐中電灯の光の中にぼんやりと浮かび上がる。

錆び付いたドアノブに手をかけ、ゆっくりとドアを開けた瞬間、室内の空気が明らかに変わった。

ぴたり、と風の流れが止まる。

光に照らし出されたのは、埃を被った古い診察台しんさつだいと、用途の分からない、錆びついた医療器具いりょうきぐの数々。

そして、この部屋だけが時間を止められたかのように、乾ききった空間に残された、おびただしい数の紙束。

それらは、診察机しんさつつくえの上に、そして床の一部にも、分厚く、静かに積まれていた。まるで誰かに読まれるのを、ずっと待ち続けていたかのように。

一体、なぜこの病院は、こんなにも突然に閉院へいいんしてしまったのだろう。

まるで、何か恐ろしいものに追われるように、慌ててここから逃げ出した……そんな切羽詰せっぱつまった気配だけが、この部屋のよどんだ空気に深く染みついている。

そういえば、この病院の院長が、何か秘密の実験を繰り返していた、という噂。

その「何か」を、この病院の地下深くに隠した……。

以前、翔太から聞いたそんな話を、不意に思い出す。

背筋に、冷たいものがすっと走った。

体の奥が、嫌な感じでざわざわと軋み始める。

何かに導かれるように、無意識に、目の前の診察机の一番大きな引き出しへと手を伸ばしていた。

ギギギ……と軋む古い金具。そして、ゴトン、という鈍い音。

引き出しの中に乱雑らんざつに放り込まれていたのは、どれも茶色く変色し、端が脆く崩れた、古いカルテの束だった。

その中で、僕の手が止まった、一枚のカルテ。

そこに書かれていたのは──

『患者名:山口 やまぐち誠也せいや享年きょうねん七歳』

(っ……!教室で見た動画の子だ……!)

懐中電灯の光をその一点に集中させながら、僕は、掠れたインクで書かれた文字を、息を詰めて追った。

> 『診断名:肺結核はいけっかく急性期きゅうせいき)』

> 『主訴:数週間に及ぶ長引く咳、断続的な高熱、及び全身の強い倦怠感けんたいかん

> 『入院日:昭和四十七年四月二日』

> 『経過:入院後も持続的な激しい咳と呼吸困難あり。各種抗生剤による治療を行うも反応とぼしく、病状は悪化の一途を辿り、徐々に衰弱』

> 『死亡確認:昭和四十八年三月十二日 午後三時十四分』

> 『備考:危篤状態きとくじょうたいの折、家族の……を知り……その後、容体急変。家族への面会は叶わず』

>

今では、早期に発見すれば十分に治せるはずの病気。

だけど、これが五十年前の医療水準であったなら……たった七歳の子供の命を奪うには、それはあまりにも残酷で、十分すぎる病だった。

たった七つの小さな身体で、その想像を絶する苦しみに、一体どれだけ彼は耐え続けたのだろう。

そして、備考欄びこうらんに書かれた「家族の……を知り……」という、途切れた言葉の意味は……?

その時だった。

カサッ。

僕が手にしていたカルテの束から、何か小さな紙片が滑り落ちる、乾いた音。

拾い上げてみると、それは、一枚の、丁寧に折りたたまれた古い便箋びんせんだった。

「…………?」

広げてみると、そこには、まだおぼつかない、けれど一生懸命に書かれたであろう、子供らしい丸い文字が並んでいた。

> かぞくの みんなへ

> せいやは ぜんぜん だいじょうぶだから あんしんしてください

> でも はやく みんなとあいたいな……

> びょうきがなおったら また みんなで うみへいきたいです

>

掠れて、所々滲んだインク。

その手紙の隅には、おそらく彼が自分で描いたのであろう、家族の似顔絵が、拙い線で添えられていた。

皆、微かに笑っているように見える。

でも、その笑顔は……なぜだろう、どこかとても寂しげで、儚く見えた。

胸の奥が、静かに、でも確かな痛みできしんだ。

それは寒気とは違う。僕の感情のもっとずっと奥深くに沈んでいた、見えないけれど確かにそこにある「何か」を、強く揺さぶる感覚だった。

遺された、幼い子の、精一杯の言葉。

彼が、確かにここに生きていたという、消えない証。

遠くにいる家族を、ただひたすらに想い、残された、“最後の手紙”。

その古びた便箋が、僕の手の中で、ほんのりと温かく、そして微かに揺れたような気がした。

風など、この密閉された診察室に吹いているはずもないのに──。

五十年の時を超えた、少年の切なる想い。

胸の奥が、静かな痛みできしむ。

その、瞬間だった。

静寂を、切り裂くように。

ピロン、と乾いた電子音が鳴った。

「うっ!?」

思わず、体が跳ねる。

心臓が、喉のすぐ下までせり上がってくる感覚。

(今の音は……どこからだ?)

音のした方へ、懐中電灯の光を向ける。診察机の、その下。

暗がりを照らすと──そこに、見覚えのあるスマートフォンが落ちていた。

「これ……! 翔太のじゃないか……!」

やっぱり、あいつはここまで来ていたんだ。

拾い上げたスマートフォンの画面には、蜘蛛の巣のようにヒビが走り、バッテリー残量を示すアイコンが、赤く、弱々しく点滅している。

まるで、タイムリミットを告げる砂時計のようだ。

この光が消える時、何かが、終わる。

そんな、嫌な予感がした。

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