「寒い……」
季節が一つ逆戻りしたかのような、肌を刺す冷気が、この廃墟全体を支配していた。 春の終わりの暖かさなど、この場所にだけは届いていないようだ。 懐中電灯の頼りない光が、静まり返った空間をゆっくりと撫でるように照らし出す。 朽ち果てて脚の折れた椅子。無造作に転がったままの錆びた車椅子。そして床に散乱し、元の色も分からぬほど黄ばんでしまったシーツの数々。 壁には、破れて変色した掲示物が、打ちつけられたまま虚しく残っている。 空気は鉛のように重く、淀み、ぴくりとも動かない。 永い時間だけがここに置き去りにされたような、異質な空間だった。 濃密な埃と、壁や床から滲み出すようなカビの匂い、そして微かに残る古い消毒液の刺激臭が混ざり合い、呼吸をするたびに、喉の奥にねっとりと張り付いてくる。 そして何より、この空間のどこかに潜む、得体の知れない“何か”の気配が、冷たい蜘蛛の糸のように背中にまとわりついて離れない。 僕は、床に埃まみれで落ちていた、この病院の古い構内図を拾い上げた。 「これは……構内図か」 掠れたインクで書かれた文字を追う。 「病室エリア」「第一倉庫」「第二倉庫」「一般診察室」「院長室」……。 翔太が、この廃墟のどこにいるのか、皆目見当もつかなかった。 でも、もうここまで来てしまった。引き返すことはできない。 逃げ出したい恐怖と、友人を見捨てられない気持ちが、体の中でせめぎ合う。 その時──。 奥の、闇に沈んだ廊下から、きぃぃ……と、古い木の床を踏むような、不気味な軋む音が微かに響いてきた。 息が、止まる。 自分の心臓の音だけが、やけに大きく、速く、耳の奥でドクドクと鳴り響いていた。 恐怖で足が竦むはずなのに、僕の身体は、何かに引かれるように、勝手にその音のする方へと動いていた。 「第一診察室」──。 一部が剥がれ落ち、茶色く変色した古いプレートの文字が、懐中電灯の光の中にぼんやりと浮かび上がる。 錆び付いたドアノブに手をかけ、ゆっくりとドアを開けた瞬間、室内の空気が明らかに変わった。 ぴたり、と風の流れが止まる。 光に照らし出されたのは、埃を被った古い診察台と、用途の分からない、錆びついた医療器具の数々。 そして、この部屋だけが時間を止められたかのように、乾ききった空間に残された、おびただしい数の紙束。 それらは、診察机の上に、そして床の一部にも、分厚く、静かに積まれていた。まるで誰かに読まれるのを、ずっと待ち続けていたかのように。 一体、なぜこの病院は、こんなにも突然に閉院してしまったのだろう。 まるで、何か恐ろしいものに追われるように、慌ててここから逃げ出した……そんな切羽詰まった気配だけが、この部屋の淀んだ空気に深く染みついている。 そういえば、この病院の院長が、何か秘密の実験を繰り返していた、という噂。 その「何か」を、この病院の地下深くに隠した……。 以前、翔太から聞いたそんな話を、不意に思い出す。 背筋に、冷たいものがすっと走った。 体の奥が、嫌な感じでざわざわと軋み始める。 何かに導かれるように、無意識に、目の前の診察机の一番大きな引き出しへと手を伸ばしていた。 ギギギ……と軋む古い金具。そして、ゴトン、という鈍い音。 引き出しの中に乱雑に放り込まれていたのは、どれも茶色く変色し、端が脆く崩れた、古いカルテの束だった。 その中で、僕の手が止まった、一枚のカルテ。 そこに書かれていたのは── 『患者名:山口 誠也(やまぐち せいや) 享年七歳』 (っ……!教室で見た動画の子だ……!) 懐中電灯の光をその一点に集中させながら、僕は、掠れたインクで書かれた文字を、息を詰めて追った。 > 『診断名:肺結核(急性期)』 > 『主訴:数週間に及ぶ長引く咳、断続的な高熱、及び全身の強い倦怠感』 > 『入院日:昭和四十七年四月二日』 > 『経過:入院後も持続的な激しい咳と呼吸困難あり。各種抗生剤による治療を行うも反応乏しく、病状は悪化の一途を辿り、徐々に衰弱』 > 『死亡確認:昭和四十八年三月十二日 午後三時十四分』 > 『備考:危篤状態の折、家族の……を知り……その後、容体急変。家族への面会は叶わず』 > 今では、早期に発見すれば十分に治せるはずの病気。 だけど、これが五十年前の医療水準であったなら……たった七歳の子供の命を奪うには、それはあまりにも残酷で、十分すぎる病だった。 たった七つの小さな身体で、その想像を絶する苦しみに、一体どれだけ彼は耐え続けたのだろう。 そして、備考欄に書かれた「家族の……を知り……」という、途切れた言葉の意味は……? その時だった。 カサッ。 僕が手にしていたカルテの束から、何か小さな紙片が滑り落ちる、乾いた音。 拾い上げてみると、それは、一枚の、丁寧に折りたたまれた古い便箋だった。 「…………?」 広げてみると、そこには、まだおぼつかない、けれど一生懸命に書かれたであろう、子供らしい丸い文字が並んでいた。 > かぞくの みんなへ > せいやは ぜんぜん だいじょうぶだから あんしんしてください > でも はやく みんなとあいたいな…… > びょうきがなおったら また みんなで うみへいきたいです > 掠れて、所々滲んだインク。 その手紙の隅には、おそらく彼が自分で描いたのであろう、家族の似顔絵が、拙い線で添えられていた。 皆、微かに笑っているように見える。 でも、その笑顔は……なぜだろう、どこかとても寂しげで、儚く見えた。 胸の奥が、静かに、でも確かな痛みできしんだ。 それは寒気とは違う。僕の感情のもっとずっと奥深くに沈んでいた、見えないけれど確かにそこにある「何か」を、強く揺さぶる感覚だった。 遺された、幼い子の、精一杯の言葉。 彼が、確かにここに生きていたという、消えない証。 遠くにいる家族を、ただひたすらに想い、残された、“最後の手紙”。 その古びた便箋が、僕の手の中で、ほんのりと温かく、そして微かに揺れたような気がした。 風など、この密閉された診察室に吹いているはずもないのに──。 五十年の時を超えた、少年の切なる想い。 胸の奥が、静かな痛みできしむ。 その、瞬間だった。 静寂を、切り裂くように。 ピロン、と乾いた電子音が鳴った。 「うっ!?」 思わず、体が跳ねる。 心臓が、喉のすぐ下までせり上がってくる感覚。 (今の音は……どこからだ?) 音のした方へ、懐中電灯の光を向ける。診察机の、その下。 暗がりを照らすと──そこに、見覚えのあるスマートフォンが落ちていた。 「これ……! 翔太のじゃないか……!」 やっぱり、あいつはここまで来ていたんだ。 拾い上げたスマートフォンの画面には、蜘蛛の巣のようにヒビが走り、バッテリー残量を示すアイコンが、赤く、弱々しく点滅している。 まるで、タイムリミットを告げる砂時計のようだ。 この光が消える時、何かが、終わる。 そんな、嫌な予感がした。僕が咄嗟に展開した桜色の結界に守られながら、美琴が静かに、だが力強い声で詠唱を紡ぎ始めた。 「燦星の輝きを我が手に集めよ……我が祈りにて穢れを砕く珠を放て!!」 詠唱を終えた瞬間、彼女の華奢な身体から、眩いほどの紫色の霊気が迸った。それは、迦夜が纏う禍々しい瘴気と、どこか似ているようでいて、全く違う、澄んだ輝きを放っている。 「星燦ノ礫…っ!!」 美琴の指先から、鋭い紫色の光弾が、閃光となって弾け飛ぶ。 それは、風を切り裂いて、真っ直ぐに迦夜へと飛んでいった。それを見た迦夜は、さっきまでの般若のような怒りの形相から一転、なぜか、楽しそうににやりと口角を吊り上げた。 (本当に、何を考えてるか分からないけど…僕にも、出来る事がひとつある……!) 迦夜が、紫色の光弾をひらりとかわそうと、横に飛んだ。 その動きを、僕は見逃さない。 「幽護ノ帳!!」 迦夜が回避しようとする、その先回りをするように、僕は壁のように結界を展開する。 僕の役目は、攻撃じゃない。援護だ! 『……!!!』 行く手を阻まれた迦夜が、驚いたように、一瞬だけ動きを止める。 その、ほんの一瞬の硬直が、命運を分けた。 初めて試した、攻撃的な結界の使い方。 だけど、上手くいった。確かな手応えが、僕の指先に伝わってきた。 僕が展開した結界に阻まれ、動きを止めた迦夜。 その一瞬の隙を、美琴の紫色の光弾は見逃さなかった。 閃光が、寸分の狂いもなく、迦夜の身体の中心を貫く。 「やった!?」 僕は、思わず叫んでいた。 『オオオオォ……』 光に貫かれた迦夜が、低い呻き声を上げる。 だが、その表情からは、何故か、あの不気味な笑みは消えていなかった。 そして、次の瞬間。 その体は、まるで燃え尽きた紙人形のように、サラサラと黒い灰になって崩れ落ちていった。 「これは……!」 なのに、隣にいる美琴の声は、歓喜とは程遠い、訝しむような色を帯びていた。 「えっ?」 倒したのに? なんでそんな顔を? 僕が彼女の反応に戸惑っていると、美琴は、迦夜が崩れ落ちた場所へと、ゆっくりと歩いていく。 「やっぱり……!」 彼女は、そこに残った黒い灰を少量だけ指先でつまむと、確信したように呟いた。 「ど、どうしたの?」
どうにか写真の場所にたどり着いた僕たちは、ぜいぜいと肩で息をしていた。全力で走ってきたせいで、心臓が今にも破裂しそうだ。 「はぁ……はぁ……」 「はぁ……っ」 息を整えながら、僕たちは同時に霊眼術を発動させる。だが、やはり僕の目には、街の雑踏と、車のヘッドライトが流れていくだけで、何も見えない。 「うん…さっきまでここにいたみたい」 美琴が、悔しそうに呟いた。 「美琴、どうして僕には迦夜の痕跡が見えないんだろう…?」 僕がずっと疑問に思っていたことを口にすると、彼女は、少しだけ悲しそうな目で僕を見た。 「それはきっと、悠斗くんが呪われてないからだと思う」 「この身に宿ってる呪いが、迦夜の痕跡に反応してるみたいだから」 淡々と、まるで他人事のように告げられるその事実に、僕の胸は、ぎゅっと締め付けられるように痛んだ。彼女のその力が、彼女自身を蝕む呪いの副産物でしかないという現実。 「……そうなんだ」 僕がそう相槌を打った、まさにその瞬間だった。 「っ……!悠斗くん!!」 美琴が、悲鳴に近い声で叫んだ。 次の瞬間、彼女は僕の体に、全体重を預けるように強く抱きついてきた。 ドンッ、という衝撃と共に、僕の身体が突き飛ばされる。それと同時に、僕がさっきまで立っていた場所で、空気が破裂するような、肉が引き裂かれるような、悍ましい音が響き渡った。 「な、何が起きたの……!?」 何が起きたのか、まったく理解が追いつかない。僕は、尻もちをついたまま、呆然としていた。 僕を突き飛ばした美琴は、膝を折って地面に座り込む体勢になりながらも、その瞳は、鋭く前方を睨みつけている。 「迦夜……!」 美琴が睨みつける、その視線の先。 そこには、ふわり、と。 音もなく、まるで、そこにいるのが当たり前かのように、迦夜が宙に浮いていた。 目の前に、あの恐怖そのものがいる。 その事実だけで、僕の思考は、再びあの悪夢に引きずり込まれていた。 空間が引き裂かれる、耳障りな音。意識のない母さんの、虚ろな顔。終わらない路地裏を、ただひたすらに追いかけられた、あの絶望的な時間。 過去の恐怖が、次々と脳裏にフラッシュバックし、僕の身体を、見えない鎖でがんじがらめに縛り付けていく。 「迦夜……!!ようやく見つ
あれから、三日ほどが経った。 僕と美琴は、学校が終わると毎日、迦夜の痕跡を辿っていた。だが、手掛かりはいつも途中でふつりと消えてしまう。相変わらず痕跡はあるものの迦夜は見つからず、結界への入口も、まだ見つかってはいない。 「うーん…なかなか見つからないね…」 夕暮れの公園のベンチで、隣に座る美琴が、ため息混じりに呟いた。 「ここまで探して見つからないとなると…。」 僕が言いよどんだ、その瞬間だった。 脳内に、まるで微かな電流が走ったかのような、鋭い閃きがあった。 「あっ!!!」 思わず、素っ頓狂な声を上げてしまう。 「ど、どうしたの!?」 僕の突然の奇声に、美琴がびくりと肩を揺らした。 「もしかしたら、オカルト系の掲示板やまとめサイトが役に立つかもしれない……!」 我ながら、なんて突飛なアイデアだろうか。だが、もう藁にもすがりたい気分だった。 「なる……ほど……??」 美琴は、不思議そうに小首を傾げている。その様子からして、彼女はそういった掲示板とかは、まったく見ないし、詳しくないのだろう。 それにしても、まさか僕自身が、こんな形で真剣に心霊掲示板を覗くことになるとは、夢にも思わなかった。 僕はスマホを取り出すと、画面のロックを解除し、検索窓に心霊系まとめサイト『Uチャンネル』と打ち込んだ。 「どれどれ……」 悠斗は指をスクロールして記事のタイトルを眺めていく。 指先で画面を滑らせていくと、次々と目に飛び込んでくる記事のタイトル。 「速報!桜織市上空に謎の飛行物体!まさか天狗か!?」 「桜織森林公園で妖精を目撃!?純白のドレスだったとの証言多数!」 「【朗報】温泉郷の迷い人を導く謎の美少女アイドル!その名は陽菜ちゃん!!」 ……なんていう、どこか現実離れした見出しが並んでいる。 天狗や妖精はともかくとして…… 陽菜さんの存在が、いつの間にか「導きのアイドル」として祭り上げられている事実に、僕は驚きと、何とも言えない脱力感を隠せなかった。 その当事者を知ってる身として、気になった僕はコメント欄を覗いた。 『わざと霧の中で迷子になれば、陽菜ちゃんに会えるってマジ!?』 『やめとけ!あそこの神隠しの霧は洒落にならんぞ!死ぬぞ!』 『でも、そのピンチを助けてく
「なら……僕はもう逃げない。」 夜の静寂に、僕の声が、低く、だけどはっきりと響いた。さっきまでの、情けない自分に別れを告げるように。心の中で、確かな覚悟が芽生える。 「迦夜と真っ向から対峙してみせる。美琴の負担を…僕が少しでも担ってみせる…!」 そうだ、もう独りで背負わせない。その想いが、胸の奥から熱い塊となって込み上げてくるのを感じた。 「悠斗くん……」 美琴が、息を呑むように僕の名前を呟く。 「だから美琴…今度こそ、二人で迦夜の事を祓おう。」 まっすぐに彼女の目を見て、僕は言った。 もちろん、今の僕自身に、二人を祓うほどの力なんてない。その無力さが、また胸にちくりと痛む。だけど、もういい。今は力がなくても、必ず、彼女と肩を並べて戦えるくらい、強くなってみせる。その覚悟が、僕の中でさらに強く、固く、根を張った。 僕の言葉を、美琴は静かに受け止めていた。 やがて、その唇に、ふわりと微笑みが浮かぶ。 それは、どこまでも優しい微笑みだった。 「悠斗くん…ありがとう。」 だけど、その瞳は。 どうしようもなく、深く、哀しい色をしていた。 まるで、僕のその決意が、巡り巡って、彼女自身の、逃れられない運命を証明してしまったとでも言うように。 その切なげな表情の意味を、今の僕には、まだ知る由もなかった。 *** 翌日の放課後。 西日が差し込む無人の教室は、どこか気だるいオレンジ色に染まっていた。窓の外からは、運動部の掛け声や、吹奏楽部の楽器の音が、微かに聞こえてくる。 そんな、ありふれた日常の中で、僕たちは、ありえないほど非日常的な話をしていた。迦夜の対策についてだ。 「今日の放課後、私が迦夜の痕跡を辿るね。」 机を挟んで向かいに座る美琴が、静かに切り出した。 「うん。ひとつ聞きたいんだけど…迦夜の痕跡…って、普通の霊の痕跡とは違うの?」 昨日の今日で、僕の質問も、少しだけ具体的になっていた。 「うん。普通の霊は痕跡として、残り香やその気配が残るけど、迦夜に関しては違うの。」 美琴は頷く。 「迦夜の痕跡は、紫色の瘴気っていうのかな?それが、迦夜の歩いた道に残ってるんだ。」 「紫色の…瘴気…?」 その言葉に、僕ははっとした。 (そういえば…昨日、迦夜に遭遇する前に
俯く僕の顔を、美琴はまっすぐに見つめていた。 「悠斗くん、あなたはね…間違いなく成長してるよ」 その声は、どこまでも優しかった。だけど、その響きには、揺るぎない確信が込められている。 「だから…自分が成長してない、なんて思わないでね」 「………!」 僕は、思わず顔を上げる。 「本当に…そうなのかな…?」 自分でも、縋るような声が出たのがわかった。 「うん。霊力の扱いに関しては、もう比べ物にならないくらいに上手になってるもん」 彼女は、きっぱりと言い切った。 「………」 その言葉に、僕は何も返せない。 「きっと悠斗くんは、迦夜っていうトラウマに遭遇しちゃって、今は自信が持てないかもしれない。けどね、あなたは間違いなく成長してる」 繰り返される、その真っ直ぐな言葉。 それは、まるで固く閉ざしていた僕の心の扉を、一枚、また一枚と、ゆっくりと開けていくようだった。 「だから、心配しなくても大丈夫なんだよ?」 美琴の言葉が、冷え切っていた胸の奥に、じんわりと染み渡っていく。僕は、無意識に止めていた息を、長く、静かに吐き出した。 *** しばらくの沈黙の後、僕はようやく、ちゃんとした声で言うことができた。 「ありがとう、美琴」 「落ち着いた?」 彼女が、少しだけ安心したように、ふわりと微笑む。 「うん、おかげさまでね」 僕も、ようやく力の抜けた、小さな笑みを返す。 あんなに取り乱して、情けない姿を見せてしまった。その恥ずかしさが、今になって込み上げてくる。 でも、それと同時に、不思議な安堵感があった。 きっとこの子は、僕がどんなに弱くても、みっともなくても、こうして隣で、静かに全部受け止めてくれるんだろうな、と。 その確信が、何よりも僕の心を、温かくしてくれていた。 「それなら良かった。」 彼女は、心の底から安心したように、ふわりと微笑んだ。 その笑顔に、僕も少しだけ救われた気持ちになる。だが、その安堵が、僕の思考の隅に追いやっていた、ある決定的な違和感を呼び覚ましてしまう。 そうだ、あれは。 「あっ……!そういえば…迦夜が、幽護ノ帳を使ったんだ…!」 我に返った僕が、切羽詰まった声でそう告げると、美琴の表情から、すっと笑みが消えた。その顔が、見る間に曇っていく。 「美琴…隠さないで教えて欲しい…迦夜って…何
どれだけの時間、そうしていたのだろう。 迦夜が去った後も、僕はあの鉄の箱の中で、ただ身を丸めていた。冷たい汗が肌に張り付き、体は意思とは無関係に、カタカタと震え続けている。 (でも…いつまでもこうしてはいられない…) 脳裏に、美琴の顔が浮かんだ。 そうだ、伝えなければ。迦夜が現れたこと、そして、あの「黒い帳」のことを。 その使命感が、ようやく凍りついていた僕の身体に、か細い熱を灯していく。 僕は、震える腕で、重いゴミ入れの蓋をゆっくりと押し上げた。 闇に慣れきった目に、路地裏を照らす街灯の光が、やけに眩しく突き刺さる。 鉄の箱から這い出ると、ひんやりとした夜気が、汗で濡れた身体を撫でた。まさに、その時だった。 聞き慣れた、今一番聞きたかった声が、すぐ側から響く。 「悠斗くん!?」 その声の方へ、ゆっくりと顔を向ける。 そこに立っていたのは、息を切らし、心配そうに僕を見つめる美琴だった。 「美…琴…?」 彼女の姿を、その顔を、その声を認識した瞬間。 胸の奥で張り詰めていた氷の糸が、ぷつりと切れるような感覚がした。全身から、急速に力が抜けていく。ああ、よかった。助かったんだ。 そう、心の底から安心したら、もうダメだった。 急に視界がぐにゃりと歪み、足がもつれる。倒れかけた僕の身体は、駆け寄ってきた美琴の華奢な腕に、力強く支えられた。 「どうしたの…!??すごい汗だよ…!?」 僕の顔を覗き込む彼女の声が、ひどく遠くに聞こえていた。 *** 美琴の肩に寄りかかるようにして、僕たちは近くの公園までなんとかたどり着き、湿った夜気を含むベンチに腰を下ろす。 「悠斗くん…どうしたの…?何があったの?」 心配そうに僕の顔を覗き込む美琴に、僕はすぐには答えられない。 瞼の裏に、あの光景が焼き付いているんだ。空間を裂いて現れた異形。血の涙を流す、黄金の瞳。そして、僕の技をいとも容易く、絶望の色に染め上げた、あの黒い帳。 「迦夜が…現れたんだ…。」 絞り出した声は、自分でも驚くほどか細く、震えていた。 「えっ…!?」 美琴が息を呑む気配が、隣で伝わってくる。 「迦夜は、僕を追いかけて来た。なんの目的があったのかは分からない。でも…体感では、すごく長い時間、あの路地裏から出ら