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第九話 古びたカルテ

Auteur: 渡瀬藍兵
last update Dernière mise à jour: 2025-05-17 19:00:00

「……寒い……」

まるで季節が一つ逆戻りしたかのような、肌を刺す冷気が、この廃墟全体を支配していた。

春の終わりの暖かさなど、この場所にだけは届いていないかのようだ。

懐中電灯の放つ頼りない白い光が、静まり返った空間をゆっくりと撫でるように照らし出す。

そこには、朽ち果てて脚の折れた椅子、無造作に転がったままの錆びた車椅子、

そして、床に散乱し、元の色も分からぬほど黄ばんでしまったシーツの数々……。

壁には、破れて変色した掲示物が、まるで亡霊のように打ちつけられたまま、虚しく残っている。

空気は、まるで鉛のように重く、淀み、ぴくりとも動かない。

永い時間だけが、ここに置き去りにされてしまったかのような、異質な部屋。

濃密な埃と、壁や床から滲み出すような黴(かび)の匂い、

そして、微かに、けれど確かに残る古い消毒液の刺激臭が混ざり合い、

呼吸をするたびに、喉の奥にねっとりと不快に張り付いてくる。

そして何より、この空間のどこかに、得体の知れない“何か”が潜んでいるような濃密な気配が、

まるで冷たい蜘蛛の糸のように、僕の背中にまとわりついて、決して離れようとしなかった。

僕は、床に埃まみれで落ちていた、この病院の古い構内図を拾い上げる。

掠れたインクで書かれた文字を追う。

「病室エリア」「第一倉庫」「第二倉庫」「一般診察室」「院長室」……。

翔太が、この廃墟のどこにいるのか、皆目見当もつかない。

でも、もうここまで来てしまった以上、引き返すことはできない。

(……本当は、今すぐにでも逃げ出したいほど、怖い。でも……翔太を、見捨てるわけには……)

その時──

奥の、闇に沈んだ廊下から、きぃぃ……と、まるで誰かが古い木の床を踏み鳴らすような、

不気味な軋む音が微かに響いてきた。

息が、止まる。

自分の心臓の音だけが、やけに大きく、そして速く、耳の奥でドクドクと鳴り響いている。

恐怖で足が竦むはずなのに、僕の身体は、まるで何かに引かれるように、

勝手にその音のする方へと動いていた。

***

「第一診察室」──

その、一部が剥がれ落ち、茶色く変色した古いプレートの文字が、懐中電灯の光の中にぼんやりと浮かび上がる。

錆び付いたドアノブに手をかけ、ゆっくりとドアを開けた瞬間、明らかに室内の空気が変わった。

ぴたり、と風の流れが止まる。

光に照らし出されたのは、埃を被った古い診察台と、用途の分からない、錆びついた医療器具の数々。

そして、まるでこの部屋だけが時間を止められたかのように、乾ききった空間に残された、

おびただしい数の紙束。

それらは、まるで誰かに“いつか読まれることを、ずっとずっと待っていた”かのように、

診察机の上に、そして床の一部にも、分厚く、そして静かに積まれていた。

一体、こんなにも多くの重要な書類を残したまま、なぜこの病院は、

こんなにも突然に閉院してしまったのだろうか。

まるで、誰かに、何か恐ろしいものに追われるように、慌ててここから逃げ出した……

そんな、切羽詰まったような、そして何かから逃避したような気配だけが、

この部屋の淀んだ空気に、深く、深く染みついているように感じられた。

そういえば、この病院の院長が、何か秘密の実験を繰り返していて、

その「何か」を、この病院の地下深くに隠した……。

そんな、まことしやかな黒い噂を、以前、翔太から聞いたことを思い出す。

背筋を、まるで氷の指でなぞられたかのような、冷たいものが這い上がってくる。

体の奥底が、嫌な感じでざわざわと軋み始めた。

僕は、まるで何かに導かれるように、無意識に、目の前の診察机の一番大きな引き出しへと手を伸ばしていた。

ギギギ……と軋む古い金具。そして、ゴトン、という鈍い音。

引き出しの中に乱雑に放り込まれていたのは、どれも茶色く変色し、端が脆く崩れた、古いカルテの束だった。

その中で、僕の手が止まった、一枚のカルテ。

そこに書かれていたのは──

『患者名:山口 誠也(やまぐち せいや) 享年七歳』

(…………教室で見た動画の子だ……!)

懐中電灯の光をその一点に集中させながら、僕は、掠れたインクで書かれた文字を、息を詰めて追った。

──────────────────────

『診断名:肺結核(急性期)』

『主訴:数週間に及ぶ長引く咳、断続的な高熱、及び全身の強い倦怠感』

『入院日:昭和四十七年四月二日』

『経過:入院後も持続的な激しい咳と呼吸困難あり。各種抗生剤による治療を行うも反応乏しく、病状は悪化の一途を辿り、徐々に衰弱』

『死亡確認:昭和四十七年四月十二日 午後三時十四分』

『備考:危篤状態の折、家族の……を知り……その後、容体急変。家族への面会は叶わず』

──────────────────────

今では、早期に発見すれば十分に治せるはずの病気。

だけど、これが五十年前の医療水準であったなら……

まだ幼い、たった七歳の子供の命を奪うには、それはあまりにも残酷で、そして十分すぎる病だった。

たった七つの小さな身体で、その想像を絶する苦しみに、一体どれだけ彼は耐え続けたのだろう。

そして、備考欄に書かれた「家族の……を知り……」という、途切れた言葉の意味は……?

その時だった。

カサッ。

僕が手にしていたカルテの束から、何か小さな紙片が滑り落ちる、乾いた音。

拾い上げてみると、それは、一枚の、丁寧に折りたたまれた古い便箋だった。

広げてみると、そこには、まだおぼつかない、けれど一生懸命に書かれたであろう、子供らしい丸い文字が並んでいた。

─────────────────────

〈かぞくの みんなへ

せいやは ぜんぜん だいじょうぶだから あんしんしてください

でも はやく みんなとは やくそくどおり あいたいな……

びょうきがなおったら また みんなで うみへいきたいです〉

─────────────────────

掠れて、所々滲んだインク。

その手紙の隅には、おそらく彼が自分で描いたのであろう、家族の似顔絵が、拙い線で添えられていた。

皆、微かに笑っているように見える。

でも、その笑顔は……なぜだろう、どこかとても寂しげで、儚く見えた。

胸の奥が、まるで万力で締め付けられたかのように、ぎゅっと痛む。

これは、寒気とは違う。

明確な痛み、というのでもない。

それは……僕の感情の、もっとずっと奥深くに沈んでいた、

普段は決して意識することのない、見えないけれど、確かにそこにある「何か」を、強く揺さぶる感覚だった。

遺された、幼い子の、精一杯の言葉。

彼が、確かにここに生きていたという、消えない証。

遠くにいる誰かを、ただひたすらに想い、残された、“最後の手紙”。

その、古びた便箋が、僕の手の中で、ほんのりと温かく、そして微かに揺れたような気がした。

風など、この密閉された診察室に吹いているはずもないのに──

それは、まるで、この手紙に込められた“届いてほしい”という、少年の切なる想いが、

五十年という永い時を超えて、まだこの場所に、鮮明に残り続けているかのようだった。

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