僕は、重苦しい空気が漂う診察室を後にした。
誠也くんの遺した手紙の、あの消え入りそうな文字と、寂しげな笑顔の似顔絵が、まだ瞼の裏に焼き付いている。 右手の薄暗い廊下を進むと、やがて、まるで冥府への入り口のように、重々しい鉄製の扉が、ぽっかりと黒い口を開けていた。 そこから吹き上げてくる空気は、明らかにこれまでとは質が違う。 まるで、濃密な死の気配そのものが、淀んだ風となって肌を撫でるような感覚。 自然と、僕の足はそこでぴたりと止まった。 (……ここは、噂に聞いていた、地下倉庫への入口、か) “院長が、何かおぞましいものを地下倉庫に隠していた”。 そんな、この病院にまつわる数ある黒い噂の一つが、不意に頭をよぎる。 懐中電灯の震える光を差し込んでみても、その奥は底なしの闇に包まれていて、何も映し出すことはできない。 それでも、まるで氷のように冷たく、そして湿った空気が、確かに僕の肌を粟立たせるように撫でていった。 (……ここは、後だ。先に、他の場所を探してからにしよう……) ゴクリ、と乾いた喉を鳴らし、僕は一度だけその暗闇に未練を残すように振り返り、そして|踵《かかと》を返した。 ギシギシと不気味に軋む古い階段を慎重に上がり、僕は二階へと向かった。 ───────────────────── 二階の廊下は、一階よりもさらに色褪せた、そして濃密な気配が漂っていた。 古い病院特有の、埃と錆びた金属、そして微量の薬品が混ざり合ったような、鼻の奥をツンと刺激する独特のにおい。 廊下の両脇には、小さな個室の患者部屋、そして突き当たりには比較的大きな共同部屋。 その奥には、重々しい扉で閉ざされた手術室と、隣接するレントゲン室が、並んでいる。 どの部屋も、現代ではもう見ることのない、時代に取り残されたかのような、|陰鬱《いんうつ》で古びた造りだった。 僕は、一番手前にあった、扉が少しだけ開いている小さな患者部屋のドアを、そっと押してみる。 きぃぃ……ぃぃ。 鈍く軋む蝶番の音が、この静まり返った二階の空間に、やけに大きく響き渡った。 部屋の中には、マットレスが剥き出しになった、ボロボロのパイプベッドが一台だけが、ぽつんと置かれている。 壁紙は広範囲にわたって剥がれかけていて、その下のコンクリートが覗いている箇所もある。 部屋の隅には、埃を分厚くかぶった、大きな姿見の古い鏡が、まるで誰かに忘れ去られたように、壁に立てかけられていた。 僕は、懐中電灯の光を、ゆっくりとその鏡へと向ける。 反射した強い光に、一瞬だけ、思わず目を細めた、その時── 「……っ!!」 鏡の、汚れた表面に浮かび上がった“それ”を見て、僕は息が止まるかと思った。 赤黒い、小さな子供のものと思われる、無数の血の手形。 それが、まるで今まさに滲み出してきたかのように、じわじわと、鏡の表面に鮮明に浮かび上がってきたんだ。 ひゅっ、とどこからか、冷たい風が首筋を吹き抜ける。 視界が、舞い上がった埃で一瞬霞んだ、その刹那。 『……おにいちゃん……だれ…………?』 その、幼く、そしてどこまでもか細い声が、 まるで耳元で直接囁かれたかのように、はっきりと僕の鼓膜に届いた。 全身の血が、一瞬で凍りついた。 僕は、恐怖を振り払うように、反射的に背後を振り返る。 そこに、いた──。 さっき、教室の動画で見た、あの小さな男の子の霊。 診察室で見つけたカルテに書かれていた名前──山口誠也くん。 『どうして……ここにいるの?』 光のない、どこまでも真っ黒な瞳が、じっと僕の顔を見つめている。 不思議そうに小さく首をかしげながら、あの動画で見たのと同じ、ぼろぼろになった白い病衣をまとって、 彼は、音もなく、そこに“立って”いた。 病的に痩せ細った小さな身体。 その、まるで枯れ枝のように細い手足は、彼が僅かに揺れるたびに、 ギシリ、ギシリと、骨がきしむような、乾いた音を立てているように見えた。 「…と、友達を……探しに、来たんだ……ここへ……」 喉の奥が、カラカラに張り付くようで、自分の声が震えているのが分かる。 それでも、僕は、彼の真っ黒な瞳から目を逸らさずに、必死で言葉を続けた。 「彼らも、そして僕も……この場所に、許可なく踏み入ってしまって、本当に……ごめん…」 霊という存在は、今でも心の底から苦手だし、怖い。 でも……謝らなきゃいけない。そう、強く思った。 ここは、この子にとって、安らげるはずの“家”だったのかもしれないのだから。 …………。 …………。 少年──誠也くんは、ただ黙ったまま、僕の顔をじっと見つめていた。 その瞳の奥に、どんな感情が渦巻いているのか、僕には到底読み取ることができない。 やがて、ぽつりと、呟くように── 「……ここはね、誠也の場所だったのに……」 その言葉と、ほぼ同時だった。 少年の、血の気のない小さな口元から、たらり、と一筋の赤い液体が、すうっと静かに垂れた。 「っ……!?」 次の瞬間。 僕の身体が、まるで巨大な何かに真正面から叩きつけられたかのように、 強い衝撃と共に、いとも簡単に宙へと浮き上がった。 そして、そのまま──なすすべもなく── ドゴンッッ!!!! 背中が、硬いコンクリートの壁に、凄まじい勢いで叩きつけられる。 手から滑り落ちた懐中電灯が、カラン、と虚しい音を立てて床を転がり、その光が頼りなげに揺れた。 「うっ……ぐぅ……っっ!!」 肺から全ての空気が絞り出されたような、鈍い呻き声が漏れる。 視界が、チカチカと赤く点滅した。 床に倒れ込んだ僕は、霞む目で顔を上げると、 誠也くんが、ふわりと宙に浮いたまま、僕のことを見下ろしていた。 その表情には、先程までの幼い戸惑いは消え、明確な怒りの色が滲んでいる。 しばらくの間、彼は僕を無言で見つめ続けた後、 やがて、ふっと興味を失ったかのようにゆっくりと背を向け、 音もなく、開いたままの扉から部屋を出ていった。 残された薄暗い病室には、 まるで氷のように冷たく、そしてどこまでも重たい沈黙だけが、ただただ残る。 「い……ってて……。」 壁に打ち付けられた背中をさすりながら、僕はなんとか痛みに耐えて、震える身体を起こす。 その時だった。 カツ、カツ……カツン……と、古い階段を誰かがゆっくりと上がってくる、硬質な足音。 (なんだ…? この足音……誰か、他にも人が来るのか……?) その足音は、ゆっくりと、でも、ためらうことなく確実に、僕のいるこの部屋へと近づいてくる。 僕は、床に転がっていた懐中電灯を慌てて拾い上げ、その光を扉へと向け、|咄嗟《とっさ》に構えた。 ──そして。 次の瞬間、その扉から差し込まれた別の強い光が、僕の顔を真正面から照らし出した。 あまりの眩しさに、僕は思わず目を細める。 「先輩……!? こんなところで、一体何を……!?」 凛とした、けれどどこか心配そうな、聞き覚えのある少女の声が、薄暗い部屋に響いた。 (……この声……まさか……!) 逆光の中からゆっくりと現れたその顔に、僕は息を呑む。 そこに立っていたのは── 夕暮れの桜の下で出会った、あの不思議な雰囲気の女の子…… 月瀬美琴、その人だった。■|櫻井《さくらい》|悠斗《ゆうと》ごく普通の高校生だったが、ある事件をきっかけに“より深く霊を見る力”――霊眼に目覚める。目の色は、開眼時に淡い碧(あお)に光るのが特徴。まるで深い海のようなその瞳は、霊の感情や記憶の断片を“視る”力を持つ。普段は落ち着いているが、困っている人を放っておけない性格。口調は穏やかで、どこか頼りなさもあるが――その内側には「誰かの悲しみを無視できない」という、静かな強さを秘めている。物語を通じて、霊と向き合いながら“自分にできること”を見つけていく。彼の成長は、読者の心にもそっと灯をともすはず。⸻■|月瀬《つきせ》|美琴《みこと》長い茶髪をポニーテールに束ねた、礼儀正しく凛とした少女。どこか人と距離を置くような雰囲気をまとうが、実は誰よりも優しい心の持ち主。生まれつき“霊の感情を感じ取る力”を持ち、さらに霊眼術によって霊の姿・声・記憶の一部を視ることができる。彼女の霊眼は、発動時に深紅に輝く瞳となり、感情の流れや過去の記憶に触れることが可能。ただし、その代償として肉体にも精神にも大きな負担がかかる。一見クールで冷静だが、相手の痛みに寄り添おうとするその姿勢は、悠斗にも大きな影響を与えている。笑顔の裏には、誰にも言えない“秘密”と“使命”を抱えており――その想いが、物語の運命を大きく動かしていく。⸻「謎を秘めた少女」と「心で寄り添う少年」。2人の関係が少しずつ近づいていく過程も、ぜひ楽しんでほしいポイントです!
僕は、重苦しい空気が漂う診察室を後にした。 誠也くんの遺した手紙の、あの消え入りそうな文字と、寂しげな笑顔の似顔絵が、まだ瞼の裏に焼き付いている。 右手の薄暗い廊下を進むと、やがて、まるで冥府への入り口のように、重々しい鉄製の扉が、ぽっかりと黒い口を開けていた。 そこから吹き上げてくる空気は、明らかにこれまでとは質が違う。 まるで、濃密な死の気配そのものが、淀んだ風となって肌を撫でるような感覚。 自然と、僕の足はそこでぴたりと止まった。 (……ここは、噂に聞いていた、地下倉庫への入口、か) “院長が、何かおぞましいものを地下倉庫に隠していた”。 そんな、この病院にまつわる数ある黒い噂の一つが、不意に頭をよぎる。 懐中電灯の震える光を差し込んでみても、その奥は底なしの闇に包まれていて、何も映し出すことはできない。 それでも、まるで氷のように冷たく、そして湿った空気が、確かに僕の肌を粟立たせるように撫でていった。 (……ここは、後だ。先に、他の場所を探してからにしよう……) ゴクリ、と乾いた喉を鳴らし、僕は一度だけその暗闇に未練を残すように振り返り、そして|踵《かかと》を返した。 ギシギシと不気味に軋む古い階段を慎重に上がり、僕は二階へと向かった。 ───────────────────── 二階の廊下は、一階よりもさらに色褪せた、そして濃密な気配が漂っていた。 古い病院特有の、埃と錆びた金属、そして微量の薬品が混ざり合ったような、鼻の奥をツンと刺激する独特のにおい。 廊下の両脇には、小さな個室の患者部屋、そして突き当たりには比較的大きな共同部屋。 その奥には、重々しい扉で閉ざされた手術室と、隣接するレントゲン室が、並んでいる。
「……寒い……」 まるで季節が一つ逆戻りしたかのような、肌を刺す冷気が、この廃墟全体を支配していた。 春の終わりの暖かさなど、この場所にだけは届いていないかのようだ。 懐中電灯の放つ頼りない白い光が、静まり返った空間をゆっくりと撫でるように照らし出す。 そこには、朽ち果てて脚の折れた椅子、無造作に転がったままの錆びた車椅子、 そして、床に散乱し、元の色も分からぬほど黄ばんでしまったシーツの数々……。 壁には、破れて変色した掲示物が、まるで亡霊のように打ちつけられたまま、虚しく残っている。 空気は、まるで鉛のように重く、淀み、ぴくりとも動かない。 永い時間だけが、ここに置き去りにされてしまったかのような、異質な部屋。 濃密な埃と、壁や床から滲み出すような黴(かび)の匂い、 そして、微かに、けれど確かに残る古い消毒液の刺激臭が混ざり合い、 呼吸をするたびに、喉の奥にねっとりと不快に張り付いてくる。 そして何より、この空間のどこかに、得体の知れない“何か”が潜んでいるような濃密な気配が、 まるで冷たい蜘蛛の糸のように、僕の背中にまとわりついて、決して離れようとしなかった。 僕は、床に埃まみれで落ちていた、この病院の古い構内図を拾い上げる。 掠れたインクで書かれた文字を追う。 「病室エリア」「第一倉庫」「第二倉庫」「一般診察室」「院長室」……。 翔太が、この廃墟のどこにいるのか、皆目見当もつかない。 でも、もうここまで来てしまった以上、引き返すことはできない。 (……本当は、今すぐにでも逃げ出したいほど、怖い。でも……翔太を、見捨てるわけには……) その時── 奥の、闇に沈んだ廊下から、きぃぃ……と
桜織旧病院… それは、町の喧騒から切り離された外れに、まるでぽつんと取り残されたかのように佇む、まさに時間に忘れ去られた場所。 かつては多くの人々の命を救い、希望の灯火であったはずのその|白亜《はくあ》の建物は、 いまや不気味な噂と共に、無数の霊が|彷徨《さまよ》い、巣食うと|囁《ささや》かれる廃墟と成り果てていた。 興味本位で、あるいは自らの勇気を試すかのように、そこに無謀にも足を踏み入れた者たちは、 時折、まるで神隠しにでも遭ったかのように、|忽然《こつぜ》と姿を消す。 そして昨日もまた── 動画配信サイトで注目を集めようとした、あの無謀な配信者たちが、 その場所から、そのまま誰一人として戻ってくることはなかった。 ……翔太も、その中の一人として、まだ帰ってきていない。 「……やっぱり……行かなくちゃ、いけないよな……僕が」 重い溜息と共に、僕は誰もいない放課後の教室を飛び出し、 固く閉ざされた校門の冷たい鉄柵に手をかけた。 金属の、ひやりとした無機質な冷たさが、じわりと緊張した指先に不快に染みてくる。 “僕には関係ないことだ” そう何度も自分に言い聞かせ、無理やり思い込もうとしたのに。 けれど──この町で、あの廃病院に潜むかもしれない“何か”の正体に気づけるのは、 おそらく、この特殊な力を持つ僕だけだった。 そして、友人が危険な場所にいるかもしれないと知っていながら、 僕が何もしないでいることなんて、到底できそうになかった。 翔太を、もっと強く、止めるべきだったんだ。 あの時、もっと真剣に、あそこへ行くことの危険性を伝えるべきだった。 そんな後悔の念が、チリチリとした痛みとなって、胸の奥で黒く|燻《くすぶ》るように|疼《うず》き続けている。 大きく、深く息を吐き出す。 乾いた春の空気が肺の奥をざらりと擦って、わずかに咳き込みそうになる。 それでも、僕は覚悟を決め、夕暮れの道を一人、あの場所へと歩き出すしかなかった。 *** 病院へ向かう途中、僕は帰り道にある、古びた小さな商店の|軋《きし》む床をそっと踏んだ。 |年季《ねんき》の入った木材が、ギィ、と悲鳴のような音を立てるのが、夕暮れの静けさを鋭く切り裂いた。 「おう、いらっしゃい! 坊主、どう
僕が押し黙ってスマートフォンを返すと、友人はにやにやと意地の悪い笑みを浮かべながら言った。 「な? ヤバいだろ? アイツら、マジでアホだよな」 「……うん、本当にやばいってレベルじゃないね。」 僕は、努めて冷静に、適当な相槌を返したけれど、内心では完全に呆れ果てていた。 ──馬鹿な真似だ。勝手に他人のテリトリーに土足で踏み込んで、そこの住人を怒らせただけじゃないか。 僕には、普通の人には視えないはずの霊が視える。 だから、彼らがどういう感情を抱くのか、少しだけ分かるつもりだ。 霊にとって、長年住み着いている場所は、人間にとっての“家”と同じだ。 その大切な家に、ある日突然、見ず知らずの人間が、興味本位で、面白半分でズカズカと入り込んでくる。 ……それを「ようこそ!」と笑顔で歓迎する住人なんて、いるはずがない。 僕は、霊という存在が、正直言って苦手だ。怖い。 でも、そのくらいの最低限の“感覚”は、嫌というほど分かってる。 心霊スポットだなんて言って面白半分にそういう場所へ行って、 もし何かあっても、それは正直、自業自得だと思う。 *** 昼休み。 僕は一人、屋上のフェンス際で、買ってきたパンをかじりながら、ぼんやりと眼下に広がる校庭の桜を眺めていた。 小高い丘の上では、今日も桜翁が、春の風に気持ちよさそうにその枝をそよがせている。 ……でも、さっき教室で見た、あの忌まわしい動画の光景が、ずっと頭の片隅から離れなかった。 そしてもう一つ、どうしても気がかりなこと。 あの動画を配信していた数人が、昨日からまだ学校に帰ってきていないらしい、という噂。 「僕には関係ないことだ」と、そう割り切ってしまえば、それまでかもしれない。 でも、胸の奥が、嫌な感じでずっとざわついていた。 パンを一口かじって、僕は目を閉じた。 春の陽射しは暖かいのに、心は少しも安まらない。 その瞬間。 ──『霊はね、怖くないのよ。ただ、道に迷っているだけなの』── 遠い記憶の中から、優しい母さんの声が、ふいに蘇る。 母さんが倒れてから、ずっと、ずっと意識の奥底に封じ込めて、聞かないようにしてきた言葉。 でも、僕は、どうしてもそうは思えない。 ……霊は、怖い。間違いなく、恐ろしい存在だ。
いつものように学校に着くと、教室の空気が、いつもよりほんの少しだけ、ざわついているのを感じた。 大きな窓から燦々と差し込む春の光が、何列にも並んだ机の天板に落ち、 空気中に漂う微細な埃が、その光の帯の中で、ふわふわと無数に舞っている。 黒板には、今朝行われた一限目の授業の跡が、チョークの粉となってうっすらと残っていた。 「おい、悠斗、ちょっと聞いてくれよー!」 隣の席のクラスメイトが、何か面白いものを見つけた子供のように、やけに楽しげな声で僕の肩を叩いてくる。 「何?朝からうるさいな……」 僕が少しだけ眉を顰めると、別の方向から、もう一人の友人がスマートフォンを僕の方に突き出してきた。 「これこれ! 昨日さ、うちのクラスのバカな奴らが、またやらかしたんだってよ!」 「マジでヤバいから、もう一回見よーぜ!」 けたたましい笑い声と共に、誰かが興奮して机をバンバンと叩く音が、教室のあちこちに無神経に響いた。 ……まさか。 胸の奥で、嫌な予感が急速に膨れ上がっていく。 促されるままに手に取ったスマートフォンには、まさに今、再生中の動画が映し出されていた。 その画面隅には、禍々しいフォントでタイトルが表示されている。 ───────────────────── ガクン、と画面が大きく揺れ、手持ちカメラ特有の、薄暗くノイズの多い映像が始まる。 そこに映し出されたのは──桜織旧病院(さくらおりきゅうびょういん)。 夕陽なのか朝日なのか、斜めから差し込む赤い光に照らされた、無残に崩れたコンクリートの壁。 割れた窓ガラスの奥は、まるで冥界への入り口のように、ぽっかりと黒く大きな口を開けている。 「よっしゃ、みんな! 準備はいいかー!? 今からこの廃病院に、俺たちが突撃だぜ!」 配信主と思われる、やけに弾んだ、甲高い声が響いた。 無理に作った明るい実況のノリに見えるけれど、 その声の端々には、隠しきれない微かな緊張が滲んでいた。 「うわっ、暗っ! 思ってたより全然暗ぇじゃん! ちょっとマジでビビるわ、これ」 仲間の一人が、おどけたように笑いながら、別の仲間の背中を乱暴に押す。 埃っぽくカビ臭い廃墟の廊下を進む複数の足音が、コツ、コツ、と不気味に鈍く反響していた。 不意に、手術室だったと思われる部屋が、大きく映し出される。 画面に
そこには、月明かりの下、白髪の穏やかなおじいさんの姿があった。どこか寂しそうに、そして心細そうに、ぽつんと一人でそこに立っている。その輪郭は、まるで春の夜霧のように淡くぼやけていて、現実感が希薄だった。「悠斗、怖がらないで。しっかり見ていてごらんなさい」母さんはそう言うと、僕の隣でそっと膝をつき、そのおじいさんの霊と、静かに視線を合わせた。「……初めまして。夜分に申し訳ありません。何か、お困りのことでもおありですか?」母さんの声は、夜のしじまに溶け込むように静かで、けれど、不思議なほどはっきりと、そして温かく、その霊へと確かに届いていた。おじいさんの霊は、ゆっくりとこちらを振り返り、その瞳に、深い戸惑いと、そしてほんのわずかな驚きの色を浮かべる。「……おお……おお……。あんたには……儂の、この姿が、視えているのかね……?」掠れた、そしてどこか弱々しい声が、神社の冷えた夜気に溶けていくようだった。「ええ、はっきりと視えていますし、あなたの声も聞こえていますよ」母さんのその微笑みは、本当にあたたかくて、慈愛に満ちていた。まるで、何十年も会っていなかった、旧い友人に再会した時に向けるような、そんな優しい眼差しだった。その言葉と眼差しに、おじいさんの強張っていた肩が、ふっと力を失って落ちるのが分かった。「……このまま、儂は……消えてしまうんじゃろうかと思うと……それが、怖くて怖くて、仕方ないんじゃ……」か細く、震える声。その瞳には、拭いきれない不安の色が浮かんでいる。「最近……少しずつ、自分の意識というものが、薄れて薄れて……まるで霞のように、なってきてのぉ……」神社の静まり返った境内に、さぁ……と風が吹き抜ける。桜の木がざわざわと揺れ、はらり、はらりと、夜目にも白い花びらが数枚舞い落ちた。「儂は、一体どうなってしまうんじゃ……? このまま、本当に何もかも消えて、無くなってしまうんか……?」おじいさんの霊は、すがるような目で、じっと母さんを見つめる。母さんは、その不安を受け止めるように、そっと穏やかに首を横に振った。そして、その美しい目を細め、包み込むように、やさしく答える。「大丈夫ですよ。 たとえ記憶が薄れて、今のあなたの形が失われたとしても、あなたの魂そのものが、なくなるわけではありませんから」「魂……儂の、魂
病室の窓から、夕陽の最後の光が、淡く、そして優しく差し込んでいた。 風に揺れる薄手のカーテンが、壁の上で光と影の柔らかい模様を静かに描き、そして溶け合わせていく。 薬と消毒液の、ツンとしながらもどこか清潔な匂いが、この部屋の静謐な空気に、そっと混じり合っている。 その中で、僕はいつも通り、ベッドのそばに置かれた簡素なパイプ椅子に、ゆっくりと腰を下ろした。 「……来たよ、母さん」 誰に聞かせるともなく小さく呟き、僕はベッドから投げ出された母さんの、細く冷たい手をそっと両手で包み込むように握る。 その手は、まだ確かな温もりを僕に伝えてくれる。 けれど、純白の病衣に包まれたその身体は、お見舞いに来るたびに、少しずつ、でも確実に細く、小さくなっているように感じられた。 それでも、穏やかな呼吸を繰り返す母さんの寝顔は、不思議なほど安らかで、どこか遠い夢を見ているかのようだった。 「そういえばさ、母さん。この間、学校の桜の木の下で、ちょっと不思議な雰囲気の女の子に出会ったんだ」 独り言のように、でも、確かにそこにいる母さんに話しかけるように。 「月瀬美琴っていうんだけど……すごく礼儀正しくて、なんだか、とても綺麗な子でね……」 母さんの閉じられたままの瞼は、ぴくりとも動かない。もちろん、返事はない。 それでも、この誰にも邪魔されない、母さんと二人きりの静かな時間が、今の僕にとっては、かけがえのない大切なものだった。 母さんは、もう十年もの間、ずっと意識のないまま、この殺風景な病院の一室に入院している。 その理由は、表向きには、“原因不明の突発的な意識障害”とされている。 けれど僕には、本当の理由が、分かっていた。 いや、分かりたくなくても、魂に刻み付けられてしまっている。 ──今から、十年前。 まだ幼かった僕が、この生まれ持った厄介な霊感という力に振り回され、怯えてばかりいないようにと、 母さんが、特別な帰り道を教えてくれた、あの日のこと。 その時、僕たち親子は、“何か”に、不意に襲われたんだ。 正確に言えば、僕自身……その時の記憶が、まるで濃い霧に包まれたように曖昧で、 どんなに思い出そうとしても、肝心な部分が、はっきりとは思い出せない。 でも、僕たちを襲ったのが、この世ならざる“
ふわり、と桜の花びらが一枚、僕の頬を優しくかすめていった。 甘く澄んだ春の風が、そっと肌を撫でていく。 その清浄な香りが、ほんのりと胸の奥に残る。 ──なんとなく、また、桜翁に呼ばれたような気がする。 一体、どうしてこんなにも、あの古木に心が引かれるのだろうか? まるで、見えない糸で手繰り寄せられているような、そんな不思議な感覚。 ……気づけば、僕は今日もまた、夕暮れの桜並木を抜け、 この巨大な桜の木の前に一人、立っていた。 *** 放課後の、まだ賑わいの残る教室。 ざわざわとした空気の中に、誰かが慌てて机を引く音や、弾けるような甲高い笑い声が混じり合っている。 黒板には、今日の授業の最後に書かれたであろう数式が消し忘れられ、 それが西日を受けて、チョークの粉と共にぼんやりと白く光っていた。 「なぁ、今日、あいつらマジで行くんだってよ」 「うわ、マジかよ? ……よりによって、あそこにか?」 教室の隅の方で、そんなひそひそとした会話が交わされているのが耳に入る。 僕は横目でそれをちらりと見ながら、特に興味も示さず、静かに自分のバッグのチャックを閉じた。 「よっ、悠斗! お前、今日この後、空いてたりする?」 不意に、隣のクラスの翔太が、いつもの人の好い笑顔で近づいてきた。 その屈託のない声に、僕は顔を上げる。 「ああ、ごめん、翔太。今日は母さんのお見舞いに行く日なんだ」 「あ、そうか……。そっかそっか、それなら仕方ないよな!」 翔太はあっけらかんとそう言った後、少しだけバツが悪そうに視線を逸らし、 口ごもるように言葉を続けた。 「それがさ、ちょっと言いづらいんだけどよ、俺、今夜、桜織旧病院の方に、ちょっとしたバイトで行くことになっててさ」 「……えっ? あの、旧病院に……?」 その名を聞いた瞬間、思わず息を呑んだ。 桜織旧病院──。 戦後間もない頃に建てられた、かつてはこの辺り一帯で最も大きな総合病院だった場所。 だが、もう五十年も前に閉鎖されて以来、今では桜織市内でも有数の、 そして最もたちの悪い心霊スポットとして、その名を知らない者はいないほどの廃墟だ。 鬱蒼とした林の奥深くに打ち捨てられたその白い廃墟は、 興味本位で訪れた人の多くが、「あ