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縁語り其の十:廃病院に住まう者

Author: 渡瀬藍兵
last update Last Updated: 2025-05-17 19:00:00

 僕は、翔太のスマホをポケットへとしまい、重苦しい空気が漂う診察室を後にした。

 誠也という名の男の子が遺した手紙。あの消え入りそうな文字と、寂しげな笑顔の似顔絵が、まだ瞼の裏に焼き付いている。

 右手の廊下は、闇が深かった。

 進むほどに、空気が変わる。

 やがて、底のない暗闇が、ぽっかりと口を開けていた。

 そこから吹き上げてくる空気は、これまでとは明らかに質が違った。まるで生きたものの体温を全て吸い取っていくような、淀んだ風が肌を撫でる。

 足が、自然と止まった。

 (……噂に聞いていた、地下への入口だ)

 “院長が、何かを地下に隠していた”。

 この病院にまつわる黒い噂が、不意に頭をよぎる。

 懐中電灯の震える光を差し込んでも、その奥は光を吸い込むような闇に包まれ、何も映し出せない。

 「一体……何を隠したって言うんだ……?」

 氷のように冷たく湿った空気が、僕の肌を粟立たせる。

 (……今は、まだだ。先に、他の場所を探そう)

 ゴクリ、と乾いた喉を鳴らし、僕は一度だけその暗闇を振り返り、かかとを返した。

 ***

 ギシギシと不気味に軋む古い階段を慎重に上がり、二階へと向かう。

 二階の廊下は、一階よりもさらに色褪せた、濃密な気配が漂っていた。

 古い病院特有の、埃と錆びた金属、そして微量の薬品が混じった、鼻の奥をツンと刺激する独特の匂い。

 廊下の両脇には小さな患者部屋が並び、突き当たりには比較的大きな共同部屋。その奥に、重い扉で閉ざされた手術室とレントゲン室。

 どの部屋も、時代に取り残されたような、陰鬱いんうつで古びた造りだった。

 僕は、一番手前にあった、扉が少しだけ開いている小さな患者部屋のドアを、そっと押してみる。

 きぃぃ……ぃぃ。

 鈍く軋む蝶番ちょうつがいの音が、この静まり返った二階の空間に、やけに大きく響き渡った。

 部屋の中には、マットレスが剥き出しになった、ボロボロのパイプベッドが一台だけぽつんと置かれている。壁紙は広範囲にわたって剥がれかけ、その下のコンクリートが覗いていた。

 部屋の隅に、埃を分厚くかぶった大きな姿見が、誰かに忘れ去られたように壁に立てかけられている。

 何気なく、その鏡の前に立った。

 映し出された自分の顔は、ひどく青ざめて、まるで知らない誰かのようだった。

 「はは……僕はこんな所で……何をしているんだろうな……」

 そんな本心を呟いた。

 そのとき。

 カコン、……カコン……

 背後から、乾いた木の音が響いた。

 この静まり返った廃墟の中で、あまりにも場違いな、規則正しい音。

 さっき、入口で聞こえた音と同じだ。

 けん玉の音。

 心臓が、喉の奥で跳ね上がった。

 鏡に映る自分の顔が、恐怖に歪むのが見える。

 ゆっくりと、油を差していないブリキの人形のように、ぎこちなく振り返った。

 そこに…いた。

 部屋の真ん中に、ぽつんと、あの動画で見た男の子が立っている。

 ぼろぼろの白い病衣。

 そして、全ての光を吸い込むような、真っ黒な瞳。

 診察室で見つけたカルテに書かれていた名前──山口誠也。

 その小さな手で、少年は、ただ黙々とけん玉をしていた。

 カコン、……カコン……

 乾いた音だけが、不気味に部屋に響き渡る。

 僕は、声も出せず、動くこともできず、金縛りにあったようにその光景を見つめるしかなかった。

 まるで…時間が、止まったかのようだった。

 カコン、……カコン……、カッ。

 不意に、音が途切れた。

 少年が、けん玉を失敗したんだ。

 木製の玉が、皿から滑り落ち、乾いた音を立てて静止する。

 その様子に、僕の心臓はさらに加速する。

 しん、と静まり返った部屋。

 音が消えたことで、逆に、恐怖が密度を増していく。

 そして──。

 男の子の霊が、ゆっくりと、首をこちらに向け始めた。

 ぎ、……ぎし、……と、錆びついた蝶番が軋むような嫌な音を立てて、その顔が、けん玉から、僕の方へと動いてくる。

 ついに、真っ黒な瞳が、僕を正面から捉えた。

 その、感情の読めない、底なしの闇のような瞳に見つめられたまま、僕は息をすることさえ忘れていた。

 やがて、少年の唇が、わずかに開く。

 そして、何かを求めるように、あるいは何かを吐き出すように、その口が、音もなく、ゆっくりと、大きく、大きく、開かれていった──。

 『……おにいちゃん……だれ…………?』

 幼く、そしてどこまでもか細い声が、まるで耳元で直接囁かれたかのように、はっきりと僕の鼓膜に届いた。

 全身の血が、一瞬で凍りつく。

 『どうして……ここにきたの?』

 「と、友達を……探しに、来たんだ……ここへ……」

 喉の奥がカラカラに張り付き、自分の声が震えているのが分かる。

 それでも、僕は、彼の真っ黒な瞳から目を逸らさずに、必死で言葉を続けた。

 「彼らも、僕も……この場所に、入ってしまって、本当に……ごめん…」

 霊という存在は、今でも心の底から苦手だし、怖い。

 でも……謝らなければ。そう、強く思った。

 ここは、この子にとって、安らげるはずの“家”だったのかもしれないのだから。

 …………。

 …………。

 少年──誠也君は、ただ黙ったまま、僕の顔をじっと見つめていた。

 その瞳の奥に、どんな感情が渦巻いているのか、僕には到底読み取ることができない。

 でも、決していい心地はしない筈だ。

 やがて、ぽつりと、呟くように──

 『……ここはね、誠也の場所だったの……』

 『……なのに……それなのに……!!!!!!』

 その言葉と、ほぼ同時。

 少年の、血の気のない小さな口元から、たらり、と一筋の赤い液体が、すうっと静かに垂れた。

 「っ……!」

 音はなかった。

 ただ、見えない分厚い壁のような何かが、僕の身体に叩きつけられた。

 息が詰まる。

 僕の体は紙切れのように宙を舞い、なすすべもなく──背中から、硬いコンクリートの壁に凄まじい勢いで叩きつけられてしまった。

 手から滑り落ちた懐中電灯が、カラン、と虚しい音を立てて床を転がり、その光が頼りなげに揺れる。

 「うっ……ぐぅ……っっ!!」

 肺から全ての空気が絞り出されたような、鈍いうめき声がれた。

 視界が、チカチカと赤く点滅する。

 (まずい……怒ってる…………!)

 床に倒れ込んだ僕が、かすむ目で顔を上げると、誠也君が、ふわりと宙に浮いたまま、僕のことを見下ろしていた。

 その表情には、先程と違って明確な怒りの色が滲んでいる。

 しばらくの間、彼は僕を無言で見つめ続けた後、やがて、ゆっくりと背を向け、音もなく、開いたままの扉から部屋を出ていった。

 残された薄暗い病室には、氷のように冷たく、そしてどこまでも重たい沈黙だけが、ただただ残る。

 ひとまずは……助かったようだ。

 「い……ってて……」

 壁に打ち付けられた背中をさすりながら、僕はなんとか痛みに耐えて、震える身体を起こす。

 その時だった。

 カツ、カツ……カツン……。

 古い階段を誰かがゆっくりと上がってくる、硬質な足音。

 (あ、足音…!!? この病院に…他に人が…!?)

 その足音は、ゆっくりと、でも、ためらうことなく確実に、僕のいるこの部屋へと近づいてくる。

 僕は、床に転がっていた懐中電灯を慌てて拾い上げ、その光を扉へと向け、咄嗟とっさに構えた。

 ──そして。

 次の瞬間、その扉から差し込まれた別の強い光が、僕の顔を真正面から照らし出した。

 あまりの眩しさに、僕は思わず目を細める。

 「えっ…!? 先輩……!? こんなところで、一体何を……!?」

 凛とした、でも響きのある声。その聞き覚えのある声に、僕は息を呑んだ。

 逆光の中からゆっくりと現れたその顔。

 そこに立っていたのは──。

 夕暮れの桜の下で出会った、あの不思議な雰囲気の女の子……月瀬美琴、その人だった。

────────────────

 ──まさか、このような場所で再会するとは、あの少女にとっても想定外であっただろう。

 死の匂いが満ちる、忘れられた廃墟の片隅。

 それでも、えにしは二人を手繰たぐり寄せる。

 ああ、ここから、止まっていたはずの物語が、また、本格的に動き出してしまうのだ。

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