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第2話

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楓は家に戻ると、そのままリビングのソファに沈み込んだ。スマホの画面には、さっきかけた番号がまだ残っている。

怒りと悲しみが少し引いたぶん、現実がじわじわ押し寄せてきた。離婚するなら、まずは自立しなきゃいけない。

――でも、父の治療費。

今、毎月の医療費は全部大輔が出している。月に600万円。とてもひとりで背負える額じゃない。

楓は指先を震わせながら連絡先をスクロールした。そして、ある名前で手が止まる。

安藤教授。大学院時代の指導教官だった人。

迷う時間はなかった。楓は通話ボタンを押した。

「もしもし……安藤(あんどう)教授ですか?私です。木村楓(きむら かえで)です」

落ち着いた声を出したつもりなのに、語尾がわずかに震えた。

「楓?……本当に楓なのか?」受話口の向こうの声が、驚きで跳ねた。「結婚してから三年だろ。元気にしてたのか?」

楓は唇を強く噛んだ。鉄の味が広がる。

「教授……私、研究に戻りたいんです。急なのは分かってます。でも、仕事が必要で……」

「もちろんだ!」返事は即答だった。「君は、私が見てきた中でも指折りの学生だった。分子生物学の修士論文も、本当に見事だったよ。ちょうど今、シニア研究員を探している企業がある。待遇も悪くないどころか、かなりいい」

「……ありがとうございます」楓は小さく息をついた。胸の奥の固まりが、少しだけほどける。

「礼なんていらない。才能があるのに、結婚を理由に研究を離れたのは実にもったいないことだった。ところで、いつから働けるんだ?」

「できるだけ早く、お願いします」

通話を切ると、楓の胸にかすかな灯がともった。

――大丈夫。私は、やり直せる。

大輔と別れて、自分の人生を取り戻す。

楓は寝室に入って荷造りを始めた。服を畳み、スーツケースに詰める。頭を空っぽにしないと、手が止まりそうだった。

クローゼットの奥には、新婚旅行のパリで買ったおそろいのパジャマ。ドレッサーの上には、外国で一緒に選んだ小さな天使の置物。机には、夕暮れのビーチで笑い合ってキスしている写真。

どれも、幸せな時間の証明だった――なのに今は、一つ一つが胸をえぐる刃でしかない。

どうして気づかなかったんだろう。どうして、あの違和感を見ないふりしたんだろう。

引き出しを開けて私物を取り出そうとしたとき、指輪が光を反射して目に刺さった。まるで、嘲笑うみたいに。

その奥に、婚姻届受理証明書があった。

震える手で持ち上げる。

その証明書を見て、心が痛んだ。あの頃は、心から幸せだった。

三年前の八月二十三日。婚姻届を一番に出したくて、朝六時に起きて役所に並んだ。

あのときの大輔は、子どもみたいにはしゃいでいて、車の中でも落ち着きなく喋り続けていた。

「楓、俺たち本当に結婚するんだな」助手席で跳ねるように言って。「十八の頃に戻ったみたいだ。藤原(ふじわら)教授の化学の授業で、初めて君を見たときみたいにさ」

書類を受け取った瞬間、大輔の手ははっきり分かるほど震えていた。壊れ物でも扱うみたいに大事そうに抱え、目に涙まで浮かべて。

「楓……俺たち、これでやっと夫婦だな」声を詰まらせて囁いた。「一生、君を愛し、守る。君が俺の全部だ」

楓は疑いもしなかった。運命の人だと、本気で信じていた。

――永遠だと。

でも今は。

思い出すと、涙がこぼれそうになる。その直前、聞き慣れたエンジン音がした。

心臓が跳ねる。ガレージのシャッターが開く音、階段を上がる足音、そして、「楓、ただいまー!」

大輔の明るい声が、階下から響いた。

胸がぎゅっと締めつけられる。楓は慌てて婚姻届受理証明書を引き出しに押し込み、目元を乱暴にこすった。

ドアは開けっぱなしだ。スーツケースを見られるわけにはいかない。

足音が近づき、大輔が寝室のドアを開ける。楓の姿を見た瞬間、背後から抱きしめてきた。

かつては、いちばん安心できた腕。だが今では、吐き気がせり上がるだけ。

――匂いが違う。甘いバニラのボディソープ。どこかでシャワーを浴びてきた匂い。

「俺がいなくて、寂しかった?」耳元の声が、妙に満ち足りている。

楓は身体を硬くし、突き飛ばしたい衝動を必死に押し殺した。「……どこに行ってたの?」

「ごめん、仕事が忙しくてさ」大輔は平然と嘘をついた。「昨日は会社で寝ちゃって、記念日も完全に忘れてた」

そう言いながら、ジャケットのポケットから高級そうなジュエリーケースを出す。「でも、これで許してくれないか」

蓋を開けると、そこには見事なダイヤのネックレスがしまってあった。光が虹色に散って、部屋が一瞬だけ眩しくなる。

「綺麗だろ?」大輔は誇らしげに目を細めた。「つけてやる。こっち向いて」

楓は言われるまま振り向いた。糸のついた人形みたいに。

首元に触れる指。冷たい金属。重たいダイヤ。息が詰まる。

「完璧だ」一歩引いて満足そうに眺める。「明日はお祖父様の誕生日パーティーだろ。桜井家の人が全員集まる。これなら、君が一番目立つ」

「……行かなきゃだめ?」声が、自分でも驚くほど空っぽだった。

「当たり前だろ。君は俺の妻なんだから」

大輔が優しい顔で近づき、キスしようとする。楓は反射的に身を引いた。

「……先にシャワー浴びたら?」顔を背けて言う。

「そうだな」大輔は気にした様子もなく、着替えを持ってバスルームへ向かった。

そしてすぐにシャワーの音がした。湯気がドアの下から漏れてくる。

そのとき、楓のスマホが震えた。通知。

画面を見た瞬間、血の気が引く。

連絡のメッセージ。添付された写真には、今、楓の首にかかっているのと同じネックレスをつけた女。

白い肌には、キスマークと爪痕。写真は首元と胸元だけが切り取られている。

続く文章を読んだ瞬間、楓の世界が音を立てて崩れた。

【このネックレス、似合う?あなたのために選んだらしいけどね。昨日、抱かれたときにつけてたんだよ。大輔が『すごく綺麗だ』って言ってくれたの】

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