中西茉莉の周りには休み時間ごとに多くの女子生徒が集まっていた。転校してきたばかりで物珍しいというのもあるだろうが、やはり何と言ってもその整った容姿だ。クラスの中でもカーストの高いグループのいくつかが休みの時間ことにやってきて、彼女を自分たちのグループに引き込もうと必死なのだ。
そして男子生徒の幾人かも遠巻きながら彼女のことを気にしている。我先に彼女と親交を深めたいとは思いながらも取り巻く女子生徒も多くてなかなかに近づきがたくなっているようだ。
そんな彼女は俺の隣の席。取り巻きのカーストの高い女子たちと会話をしながら隣にいる俺にも話を振ってくるのだ。
「休みの日は何してる?」「どんな音楽聞くの?」「好きな食べ物は?」そして「ねえ、好きな女の子のタイプは?」
もちろん俺は取り巻きのカースト上位の女子たちと仲がいいわけではない。だが、中西茉莉はまるで俺がその輪の中に入っているかのように話しかけてくる。
「ねえ、もしかして茉莉ちゃんって。折田君のことがタイプなの?」
クラスのカースト上位者でもある、斎藤美和がそう言った。クラスの男子の数人が俺の方に攻撃的な視線を向ける。
「タイプ、と聞かれるとそういうわけじゃないよ。でも――」
「でも?」
「蒼君はちょっと特別かな」
教室の空気は凍り付く。そして斎藤さんは言った。
「折田君はさ、すごくいいやつだよー。ね、いっそのこと付き合っちゃえば?」
なんて無責任な話だ。斎藤さんは俺のことなんてほとんど知りもしないだろう。だけど、彼女が俺との仲を応援したいというのはわからなくもない。
中西茉莉がその気になれば、きっとおそらくほとんどの男子生徒を手中に収めることだってできるだろう。それは、その他女子にとってはつまらない状況だ。だが、俺のような眼中にない相手に好意を向けたうえで、自分たちのグループに引き込めばグループの格も上がり、その上無害という都合のいい存在になる。
いや、正直に言えばそんなことはどうでもいいのだ。もしここで中西茉莉が「そうだね、付き合っちゃおうか」なんて言い出した時、俺はどういうふうに反応すればいいのだろうかという思考の渦に飲まれてしまっていた。
だがそれも、つまらない杞憂だった。
「はは、さすがに付き合うのは無理かな」
そんな中西茉莉の言葉に「だよねー」と斎藤さんは言った。それで凍り付いた教室の空気は緩和した。
そして俺はそんな彼女の言葉にいちいち落ち込むほど身の程知らずではない。
昼休み。俺は大体教室の隅で買ってきた菓子パンをかじっている。なるべくでかくて安いやつをチョイスする。高校生の体格を思えばそれなりにカロリーは必要だが量を増やして小遣いが減るのもまた困る。そんな俺の昼食を見て中西茉莉は言った。
「蒼君、結構質素なもの食べてるのね。栄養、偏っちゃうよ」
「栄養価よりもカロリーだよ」
「あ、よかったらわたし、お弁当作ってきてあげようか?」
「いや、それはマズイだろ」
「失礼ね。まずいわけないじゃない。わたしこう見えて、結構料理上手なのよ」
「いや……」
「嫌なのう?」
「いや、あー、いやいやそういう意味じゃなく、嫌じゃないんだけどマズイだろ。いや、マズくはなくてうまいんだろうけどさ」
「ねー、茉莉ちゃん。お昼一緒しよーよ」
斎藤美和がやってくる。クラスでも最もカーストの高い位置にいる彼女は、いつ約束や同意を得たわけでもないにもかかわらず、中西茉莉を自分のグループの一員だと決めているようだ。無論、中西がそのグループにふさわしくないというわけではないだろう。強いていうなれば役不足だと思えるくらいだ。中西茉莉のためにはもっと上のグループがあってしかるべきだろうが、そんなものを期待すれば彼女は校内で孤立してしまうだろうけれど。
「あ、蒼も一緒にどう?」
中西は突然俺の腕を掴んでいた。俺はぎょっとした。どうして、俺が中西たちと一緒に行かなくてはならないというのだ。
「え、なんで?」
そう言った俺は間違っていないはずだ。
「あたしはいーよ。茉莉がそういうんなら」
斎藤美和もまた、そのことに異を唱えない。茉莉を味方に引き込むなら俺が邪魔することくらい我慢できるということなのだろう。あるいは皆が斎藤を無視して中西に注目することを避けるにはちょうど都合がいいのかもしれなかった。
それは、たぶん魅力的な誘いなのだろう。中西が別格であることは抜きにしても、斎藤はクラスでもトップカーストに位置する。彼女たちの輪の中に入るということは、俺自身が認められているという形はなるだろう。
だが、俺はそんな身の程知らずでもなく、とてもじゃないがそんな真似ができるはずもない。
「いや、俺はいいよ」
かぶりを振る俺に対し、中西は「そうか……」と、少し残念そうにつぶやき、斎藤が中西を連れて行く。
どうにか難を逃れ、いつものように窓の外を眺めながらうまくもないでかいだけのパンにかじりつく。中西茉莉の考えていることは俺にはどうにもつかめない。
「そうだ、蒼。この週末、予定あるか?」
家に帰ると、父が夕食の準備をしながら聞いてきた。
「日曜日はバイトだけど、土曜なら空いてる」
「じゃあ、その日。食事に出かけよう」
外食の提案なんてひさしぶりのことだった。子供のころはよく二人で出かけていたが、高校に入り、俺がバイトをするようになってからはほとんど一緒の外食はおろか、一緒に外出することもなくなった。それなのに急な誘いなものだからどこか照れくさい気持ちもあった。
「ねえ、それって浮気なんじゃないの?」「ちがうよ。これはひとつの生理現象みたいなものだから」 美和の言葉を必死で否定する。 学校の昼休み。渡り廊下の影で美和と同じ弁当を並べて食事をする。茉莉が学校に行かなくなってからは美和と二人で昼食をとるようになった。以前は俺と茉莉が同じ弁当であることを見抜き、二人の関係を疑った美和が、今では俺と同じ弁当を並べて食べているというのだから数奇なものだ。 無論二人は恋人でもなければ、将来的にそうなる可能性もない。美和は俺の妻の親友だし、今となっては俺の家族であると言っても過言ではない。 弁当を食べながら、昨晩見つけた面白い動画を保存しておいたものを美和に見せている時に、つい間違えて別に保存しておいたえっちな動画を開いてしまったのだ。 それを美和は、浮気だと言ってくる。「だって蒼は茉莉じゃない女の裸を見て、エッチなことをしているってことなんでしょ?」「いや、男にとってそれは生理現象みたいなものだから、定期的に抜いておかなきゃいけないんだよ。茉莉とセックスするわけにもいかないだろ?」「それはわかってるわよ。でもさ、それなら茉莉の裸を写真にとって、それで処理すればいいでしょ。なんでほかの女でしちゃうかな」「いや、だってそれは罪悪感にさいなまれるだろ。その、茉莉をそういうことには使いたくないんだよ」「そういうことって?」「つまり、性の処理っていうか……恋愛感情の伴わない性欲のはけ口に好きな人を使いたくはないんだよ」「その考え方は理解できないなあ。アタシだったら、恋人がエッチな妄想するなら、自分をオカズにしてほしいと思うんだけどな」「茉莉も、そうなのかな?」「さあ、それはどうだろ?直接本人に聞いてみれば?」「聞けるわけないだろそんなこと」「まーそーだよねー」 美和はつぶやきながらウインナーにかじりつく。黙って咀嚼しながら、思いついたように言う。「じゃあ、アタシをオカズにする?」 思わずむせ返り、慌ててお茶を流し込む。「それこそ罪悪感がヒドイだろ。できるわけがない」「なんでよ。その理屈じゃ、アタシのことが好きみたいになるでしょ?」 正直なことを言えば、美和をオカズにしたことは今まで何度だってある。美和ははっきり言って可愛いし、だからと言って恋愛感情を向けている相手ではないから気兼ねなくオカズにできる
俺がベッドに入ったのは深夜をずいぶんすぎてからだ。 俺と茉莉は同じ部屋の同じベッドで寝ている。 ずっと寝ていたという茉莉も、体調がすぐれずにいたために眠っていたのだから、俺がベッドに入る時に一緒に布団に入った。隣りに眠っている茉莉の体温が、吐息が、時折少しだけ触れる肌が、俺の心を落ち着けてくれない。 妊娠初期にセックスができないというわけではないらしい。だが、もちろんそれなりに負担もかかることは事実だ。当然茉莉だって妊娠の経験なんて初めてだろうし、不安もあるだろう。だから、どちらから言うわけでもなく、互いにセックスはしないという取り決めが交わされていると言っていい状況だ。 ネットを調べてみる限りでは、女性の体は妊娠中にはセックスをしたいと思う気持ちは少なくなる。あるいはまったくと言っていいほどなくなるらしい。 だが、男である俺として、それは関係のないことだ。 いや、そもそも、茉莉のおなかの中にいる子供は俺の子供ではない。 マウスの実験では、オスのマウスは子育てをしているメスのマウスを見つけると、子供のマウスを殺してしまうという。それはどうやら、子育て中のメスのマウスは、目の前にオスのマウスがいても発情しないからだという。 人間のオスにも、この感情が全く働いていないわけではないと思う。義理の父が、子を虐待するという事件は極めて多く、そのことを考えれば自分だってその可能性がないわけではないとは言い切れない。だが、そんなはずではないとは思いたいが、いったい俺は何を考えているのだろうと頭の中を振り払う。 いや、振り払わなかったほうがよかったのかもしれない。 振り払ったことで、今度はさっき見た美和の裸を思い出し、頭から離れない。 そうだ。たぶん自分は溜まっているんだと思う。 こんなつまらないことで頭の中が猥雑な思考に占領されてしまうというのだから男と言う生き物は実にくだらない。 所詮俺の脳みそはちんこでできているようなものなのだ。 いくらきれいごとを並べても、自然と頭の中はそれに支配され、理性を失い、支配されてしまう。 ――なんだったらアタシがヌいてあげようか? 美和の言葉が頭の中を駆け巡る。 情けない。 いつの間にか俺の下半身が充血している。 気が気でいられない。 茉莉の寝息を聞きながら、そっとベッドを立ちあがる。 いったんトイレに行って、ヌくものを抜ヌなければな
「ごめん、今日つわりひどくて……」 いつもはみなの朝食を作り、弁当までを持たせる茉莉が体調不良を理由にベッドから起きてこなかった。「いいよ、気にしなくて。アタシに任せてよ」 美和の言葉に「たすかる」とだけ言い残し、もう一度毛布をかぶった茉莉を部屋に残し、朝食と弁当の準備をする美和の手伝いをすると申し出た。 元々は家で料理をしていたのだし、アルバイトで飲食店で働いたことだってある。足手まといになるとまではいかないだろう。 美和に対しては感謝の気持ちと申し訳なさから手伝うと言ったのだが、「そう言うセリフはさ、普段茉莉が家事をしている時に言うもんだよ。健康なアタシになんて気を遣わなくていいんだからさ、気を遣うなら、つわりと戦いながらも家事をこなしてくれているいつもの茉莉に気を遣いなよ」 確かに美和の言うとおりだった。茉莉は妹として家にいた時からずっと家事をしていて、そのスキルだって自分よりも高い。アルバイトをしている自分に対してしていないけれど、お小遣いをもらうからという理由で茉莉が家事全般をこなしていたことを受け入れていたのだが、今となってはその理由は全く関係ない。にもかかわらず、かつての生活の慣れで、つわりを押し殺してまで家事をこなしてくれていたというのに、感謝をするどころか手伝うとも言わなかった自分に情けなさを感じた。 とはいえ、今手伝うと言い出した美和の手伝いをしないという選択肢はない。茉莉の手伝い(いや、手伝いというのもおこがましいのかもしれない。自分の食べる朝食に、自分の食べる弁当の準備だ)をしながら、朝の準備をすませる。家を出る直前に起きてきた碧さんに、朝食と弁当を渡し、美和と二人で家を出て、学校へと向かう。「中西はまだ休んでいるのか? 体調、そんなに悪いのか?」 山岸の質問に「うん、ちょっと風邪をこじらせているだけだよ。もうじきよくなると思う」 とだけ返事をする。 本当のことを言うのはまだまだ先伸ばしするべきだろうとは思う。いや、いっそのこと本当のことを言う必要なんてあるのかどうかもわからないけれど、ともかく今はまだ、そんなあやふやな状態ですませている。「アオ、お昼いこーよ」 と美和がやって来る。「なんで、中西が休みだからって、いつもお前が一緒に飯を食うんだよ」 という山岸の疑問はもっともだ。「これは茉莉からの言いつけなの、茉莉が休みの間にアオが誰かと
「碧さん、これからしばらくパパの部屋使わせてもらうから。客室として。いいでしょ?」 そう言いながら義娘の斎藤美和が言った。 訳ありの友人をしばらくこの家に住まわせるそうだ。「住まわせてもらっている身のアタシがとやかく言うことじゃないわ」 その言葉を聞いて美和は友人を孝之の部屋へと通した。 斎藤孝之はアタシの二番目の夫だ。孝之はアタシと同じで離婚歴がある。美和は前妻の娘で、二年前に孝之が亡くなった際にその遺産のすべてを相続した。後妻であるアタシに一円の財産も残さなかったことに不満はない。きっと孝之は妻という存在を信用していないのだ。つまなんて言うものは所詮血のつながっていない赤の他人で死かなと考えているのだろう。 だから遺言書には前妻にも一円たりとも残すことなくすべてを美和に託した。 前妻は一度遺産を分けろと怒鳴り込んできたこともあったが、それは美和が追い返した。「今更どの面下げて帰ってきたんだ」と激しく罵声を浴びせた。 だけど美和は居場所をなくし、路頭に迷うはずだったアタシをこの家にずっと住んでいいと言ってくれた。アタシは家事もろくにできないダメな妻で、美和にすればここに置いておくメリットなんてないはずだ。 それなのに、血のつながった実の母を追い返し、血のつながっていないアタシにここにいることを許したのは、どういう考えなのだろうかと思うことはある。もしかすると実の母に対して、アタシをここに置いておくことがひとつの見せしめなんじゃないかと思うこともある。 まあ、そんなことはどうでもいい。アタシとしてはここにおいてもらえているというだけで美和には感謝しているくらいだ。 美和の連れてきた友人、中西茉莉。どうやら彼女は妊娠しているらしい。一緒にやってきた男がその子の父親なのだろう。 中西茉莉という子はなかなかにいい子のようだ。料理もうまいし美人でもある。 その子をはらませてしまたという男の子、彼らの話を聞いて息が止まりそうになった。 その男の子の名前は『折田蒼』というらしい。 とても偶然だとは思えない。 今から約二十年前、アタシの一度目の結婚は社内恋愛でそのまま結婚し、子供を産んだけれど、どうにも家事や育児と言ったものに向いていない性格らしく、育児ノイローゼにかかってしまい、生まれて間もない子供を置き去りにして離婚した。それからもう十五年間、一度も会っていない。 そ
バイトを終えて家に帰り、茉莉と手紙のことについて話し合った。 芹香さんが俺にあてた手紙の中で、俺と芹香さんの関係について触れていなかったことは意図的だろう。おかげで手紙と通帳をそのまま渡すことができた。そしてこのとは、今の家主となっている美和にも相談しないわけにはいかないだろう。 リビングの隅には美和の義母でもある碧さんがいたが、話はそのまま進めることにした。 同居人となっている碧さんにも話を聞く権利があるし、聞いておいてほしい話でもある。「つまり、お金の心配はないから早々にここを出て行く、ということなの?」「なるべく迷惑をかけるわけにはいかないから、早いうちにそうするべきだとは思っているんだ。だけど、高校生の俺たちの名義でアパートを貸してくれるところはなかなかないだろうから、すぐにはむつかしいと思う」「あのさ、そりゃあふたりが新婚生活をイチャイチャしたくて二人きりになりたいという気持ちはわかるよ」「いや、別にそういうわけでは」「ごめん。それはちょっとした厭味なんだけどね。でも、あたしとしては、できることならもうしばらくは、いや、ずっとでもいいからここで一緒に住んでもらったほうが嬉しいとは思うのね。前にもいったけど、あたしは一応天涯孤独で寂しい立場でもあるんだ」 奥の方で話を聞いていた碧さんが口を挟む。「ちょっとおばさんに口出しさせてもらうよ」 そう言いながらカウンター席を立ちあがり同じダイニングのテーブルにつく。「まあ、そんなに急いでここを出て行く必要はないんじゃないかなってアタシも思うよ。まだ学校に通うならいろいろとやることも多いだろうしさ。それに何よりまつりちゃん、だっけ? 子供育てたことないでしょ? 案外大変なのよそれがさ。助けてくれる人は一人でも多い方がいいわけ。だからさ、少なくとも子供が生まれて、落ち着くまではここにいてもいいんじゃないかな」 たしかにそういわれれば一理あるように思える。そしてその言葉に美和が反応した。「あれ、そういえば碧さんって子供育てたことあるの?」「子供なら生んだことあるよ。でも、子育てはしていないかな。あまりにも過酷すぎてね、アタシは投げ出しちゃったんだよ。まつりちゃんにはそうはなってほしくないからね」「はっはーん。ちょっとわかったかも」「なにが解って言うのよ、美和ちん」「よ―するにあれでしょ。碧さんは子育てがしてみたいんじ
香ばしい匂いに目を覚ました。隣を見ると茉莉はいない。日曜の朝だからと言って少々眠りすぎてしまった。眠い目をこすりながらリビングのほうへ移動すると。美和と茉莉がキッチンのところにいた。茉莉はテンション高めに俺に手を振ってこっちへ来るように呼んでいた。 そこには何やら茶色い大きな物体があった。香ばしい匂いの正体はこれだったのか。「ねえねえ、見てよ蒼。美和んちさあホームベーカリーがあるんだよ」「昔ね、一時期そういうのにはまった時期があったんだけど、それからしばらくずっとしまいこんでいたんだ。また使ってくれることになってこいつも喜んでいるよ」 美和はそう言いながら白くて角ばった保無ベーカリーの天蓋をなでる。「なんか、ペットをなでているみたいだな」 俺がふとつぶやいた。「やめてくれよ。それじゃああたしがずっと長い間ペットをほったらかしにしていた悪い飼い主みたいじゃないか」「いやごめん、そういう意味で言ったんじゃなくて、なんか、かわいいなって」「か、かわ……」 俺としては決して変なつもりで言ったのではないが、美和は思いのほか照れてしまった。そしてそれを見た茉莉が、「あー、蒼君、今の発言は浮気だよー」と冗談めかして言う。こういうの、悪くないなと思ってしまった。 茉莉が焼きあがった食パンを手で割いていく。真っ白でふわふわとした生地が湯気を上げる。食べる前からそれがおいしいということがわかる。 つい先日に人生の修羅場のような窮地を経験したばかりなのに、美和のうちに来た途端に打って変わってほほえましい状況が続く。たぶんこれからの生活は大変なものになるだろうけれど、きっと幸福に違いないと思えた。「なあに、蒼。さっきからにやにやして」「いや、なんかさ。こういうの新婚生活みたいでいいなって」「えへへ」「ちょっと、あたしがいること忘れないでよ。なにいちゃついてんだか」「なあに、美和。妬いちゃってるの? 何なら美和を第二婦人にしてあげてもいいのよ。やったね、蒼。ハーレムだよ」「おい、なに勝手なこと言っているんだ」 朝食から談笑が絶えない朝だった。 しかし、楽しんでばかりはいられない。親の庇護から逃げ出した俺たちには、現実が突き付けられるのだ。 朝食を終えると、アルバイトへと向かう。 おそらくこれからはアルバイトの量を増やし、生活を支えて行かないといけないだろう。高校も、中退するしかないとい