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第五話

Autor: 堀河弥子
last update Fecha de publicación: 2026-08-05 17:29:35

 結衣の奴、一体何を考えているんだ? そんなことをして俺の気を引こうとしているのか?

 いつものように家事を行う結衣の背中を、司は眉根を寄せて忌々しげに見る。

 彼女が自分の元を去ったところで、痛くも痒くもない。そう思っているのに、胸の奥底で燻る正体不明の感情と焦燥感に、司は激しく頭を悩ませていた。

 元々彼女の天才日本画修復師という肩書きを神谷家のために使えると判断して、妻に迎えた。

 物分かりも良く、従順で、自分に一切面倒をかけない『都合のいい妻』。

 ビジネスとしても役に立ち、自分の思い通りに動いてくれる結衣は神谷家の駒にすぎない。

 ――だが、最近の結衣は、見ていてどうしようもなく……苛立たせてくる。

 彼女の向けてきていた本当の笑顔を見たのは、いつが最後だっただろうか……。

 書斎のデスクに座ってもなお、司の心は酷く乱れていた。

 ふいに脳裏へ過ったのは、結衣と初めて出会った時のこと。

 あの頃の結衣は、日本画の前に堂々と立ち、自信に溢れた光を灯す瞳をしていた。

 誰もがそんな彼女の姿に目を奪われ、視線を釘付けにされるほど、彼女は輝いていた。

「……結衣」

 司はデスクの傍らに飾られたフランネルフラワーをじっと見つめる。

 白い花びらを持ち、可憐で儚げな花。今までの結衣の姿と重なる花だが、この花は厳しい環境でもじっと耐え綺麗な花を咲かせる。

 完璧な笑顔の仮面を崩さない彼女は、これから花を咲かせる前のように感じる。

 このまま結衣が、自分の手の届かないところへ消えてしまうのでは無いか――そんな正体不明の不安が、激しい不快感と共に司を何度も襲う。

 しかし、どうであろうと結衣は俺の所有物であることには変わらない。俺の元から去ることは有り得ないことだ。

 司はスマホを取り出し、秘書にこう伝える。

「妻の動向を調べろ。それから、――至急調べてほしいことがある」

 淡々と伝え、通話を切った司は、苦々しげに彼女の名を呟いた。

 ――最近の司は、なぜか毎日のように家に帰ってくるようになった。

 微かに不安を覚える一方で、結衣は酷く疲弊していた。いつもなら、愛しい奏太の写真を眺めるだけで疲れが取れていたのに、今は違っていた。ここから無事に奏太を連れて出て行くために、奏太に関する写真などをすべて非表示にして隠したからだ。

 無事に離婚さえ出来れば……。

 ベッドの中で、結衣は身を守るように身体を丸める。目を閉じれば、奏太の愛らしい笑顔が浮かんでくる。

 気付けば、愛おしさに胸を詰まらせ、小さく声を漏らしていた。

「もう少し……、もう少しだけ待ってて……、そしたら私は――」

「――何を待つんだ?」

 暗闇の中に響いた低い、聞き慣れた男の声に、結衣は短い悲鳴を上げ飛び起きる。しかし、すぐさまシーツの上へと押し倒された。抗えないほど強い両手が、彼女の腕を頭上に縫い付ける。

「司……さん……?」

 震えた声で、無意識に言い慣れた名前で呼んでいた。薄暗い視界の先に、氷のように冷たく、鋭い切れ長な瞳と視線が交わる。――やはり司だ。

 激しく脈打っていた心臓が、彼の顔を見た瞬間に、皮肉にも落ち着きを取り戻した。……けれども、なぜ司が自分の部屋に来て、こんなことをしているのか訳が分からなかった。

 結婚してから7年。嵐が吹き荒れるあの夜を除いて――抵抗できない彼女に消えない苦痛を与え、同時に彼女の生きるための光となった『奏太』を授けてくれたあの夜を除いて――司が結衣と同じベッドに横たわったことなど、これまで一度も無かった。

 なんで今更……? 長年彼に焦がれ、深く愛し、狂おしいほど求めていた端正な顔を見つめながら、結衣の意識が一瞬、目眩のようにぐらついた。

 だが、その直後司の微かな笑い声が耳に届く。

 チェロの弦を震わせたような、低く響く笑い声。

 ……私を侮辱しているのね。

 長年冷遇してきた妻に、こうして適当に扱えば、前のような反応が返ってくるとでも思っているのだろう。

 結衣の心臓は一瞬で氷のように冷え切り、必死に腕を振り払おうと抗う。しかし、その抵抗は司の圧倒的な体格差で容易くねじ伏せられてしまう。

「神谷さん、私はもう休みます。手を離してください!」

 暗闇の中の司は、その拒絶に言葉で応じることは無かった。ただ、彼女の身体をがっしりと腕の中に閉じ込める。

 結衣の身体に、司の硬く、熱い胸板が押しつけられる。司の体温が生々しく伝わり、彼女は混乱する。

 一体何なの? 私を何だと思っているの!?

 頭がパニックで真っ白に染まり、結衣はなりふり構わず。かつて愛していた人の名を叫ぶ。

「司さん……っ!」

 彼の呼吸が、一瞬だけ止まる。

 次の瞬間、彼の唇が結衣の耳元に寄せられ、低く、掠れた声が彼女の鼓膜を揺らした。

「ようやく、俺の名を呼んだな」

 この人……笑っている……?

 これまでに一度も聞いたことのない司の親密な声色に、彼女は抵抗を忘れてしまう。

「今夜は、このまま寝かせてくれ。……疲れた」

 それだけ告げると、司は結衣を強く抱き寄せた。

 やがて、静かに規則正しい寝息を立て始める。彼は本当に眠ってしまったのだ。結衣はそっと身動きを試みるが、眠っているはずの司の腕は、びくともしなかった。

 普通の夫婦だったなら、これほど幸せなことで、安らぐ夜だっただろう。

 だが、今の結衣に眠りなど訪れるはずも無かった。胸を締め付ける痛みと渋さに、可笑しくて笑い出しそうな、同時に吐き気で胃が捻れるような感覚に襲われる。

 なぜ、今更こんなことをするのだろうか。香織の身代わりにでもしているのだろうか? それとも単なる気まぐれなのか……。

 結衣はハッと気付く。

 自分の頬が、涙で激しく濡れていることに。

 この裏切り者の胸の中を、未だにこれほど温かいと感じてしまう。

 なぜ自分は離婚を決めたあの日に、この愚かな恋心ごと綺麗に捨て去ってしまわなかったのだろう――。

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