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5.社交界の魔女

last update publish date: 2026-04-04 18:10:35

なにがパパだ、父上は実に調子がいい。キルエンは内心で毒づいた。

頑張ります――マーガレットはそう言っただけで、自らの能力を何ひとつ示していない。

それなのに、父はあの女に大きな期待を寄せているらしい。どこをどう見れば、そこまで買えるのか理解に苦しむ。

周囲に持ち上げられ、嬉し泣きまでしている。

あの涙を見ても、キルエンには同情など湧かなかった。

むしろ、自分の演技にまるで気づかず、幸福そうに頬を濡らしている姿は滑稽にすら見える。

頭の中がお花畑なのではないか、とさえ思った。

社交界にほとんど姿を見せない娘であるため、“老婆令嬢”という噂だけは以前から耳にしていた。

実際に間近で見れば、顔立ちそのものは整っていると言えなくもない。

だが、それだけだった。

伏し目がちな癖に、真っ白な髪。

そこへ化粧を一切施していない顔が重なれば、遠目にはまるで老女のように映る。

(あの母親から、よくもこんな化け物が生まれたものだ)

そう冷たく切り捨てながら、キルエンはグラスに映る自分の姿を一瞥する。

どうやら、はなはだ迷惑なことに婚約は正式に決まったらしい。

この美しい“藤の貴公子”と、あの醜い老婆令嬢が、これから同じ屋根の下で暮らすことになる。

場を盛り上げるために父へ話を合わせてやったが、内心では吐き気がしていた。

どんな噂を立てられるか分からない。

社交界という場所は、美しく整えられた笑顔の裏で、人を切り刻む言葉が飛び交う世界だ。

その中で、老婆令嬢を婚約者にしたなどという話がどう広まるか――考えるだけで気分が悪くなる。

自分の価値が下がってしまう。

これからしばらくは、その火消しに追われることになるだろう。

そう思うだけで、面倒で仕方がなかった。

茶会の最中に準備が進められていたらしく、マーガレットの部屋はすでに整えられているらしい。

夕食も終わった。ならば自室へ戻り、この結婚によって山積みとなった問題の整理でもしよう――キルエンはそう考えていた。

だが、その前に母から呼び出しを受けてしまう。

廊下の先、母モルガンの私室の前で立ち止まり、扉を二度ノックした。

「キルエンです」

「入っていいわよ」

室内へ入ると、モルガンは机に向かったまま、眼鏡越しに書類へ視線を落としていた。

おそらくは夫人会絡みの案件だろう、とキルエンは当たりをつける。

利益と呼ぶには小さすぎる金をめぐり、面倒な女たちを束ね続ける。そんな厄介ごとに手を取られるのは、さぞ骨が折れるに違いない。

「はぁ……あの人は、どうしてあんなのをキルエンの婚約者にしたのかしら」

キルエンの顔を見るなり、モルガンは右手をひらひらと振って吐き捨てた。

「社交の場では使えそうにないわ。あれは駄目ね」

その瞬間、社交界で“夜会の薔薇”と呼ばれた美貌の面影は、別の貌へと変わる。

ランドアーク侯爵家の次女として生まれ、癖の強い夫人たちをまとめ上げ、夫人会という組織を築き上げた女。

優雅な微笑みの裏に牙を隠す、社交界の魔女――それがモルガンの本性だった。

キルエンは、母の判断は正しいと思った。

老婆令嬢と陰で忌み嫌われるマーガレットが、夫人会で発言権を持つ未来など想像もつかない。

「あなたは、いいのかしら? キルエン?」

モルガンが顔を上げる。

大きく見開かれた両目。

吊り上がる口元。

その笑みには、血の繋がった息子であるキルエンですら寒気を覚えるものがあった。

いや、むしろ親子だからこそ、その恐ろしさがよく分かるのかもしれない。

――答えを間違えるな。

本能が、そう警鐘を鳴らしていた。

「父上から強く念を押されていたんです。僕は反対でしたが、断れませんでした。ですが……マリス嬢との関係は維持しておけばいい。マーガレットが使えなければ捨てれば済む話でしょう? どうせ時間の問題です。妙な噂も、僕のほうでなんとか――」

「あなた、馬鹿なの?」

言葉は最後まで続かなかった。

モルガンの目がすうっと細められ、その美しい顔に怒りが滲む。

ひゅ、と喉が鳴った。

キルエンの背筋が、自然と伸びる。

「どうしてわたくしが、このわたくしが、夫人会なんて面倒なものを組織していると思うの?」

低く、冷えた声だった。

「裏で動くことは任せなさい。あなたは、あなたのすべきことをして」

その言葉に逆らう余地はなかった。

モルガンが指先で軽く手招きをする。

呼ばれるまま、キルエンは前へ進んだ。

母の隣で膝をつき、頭を垂れる。

それは従順な息子の姿であり、同時に、支配される者の姿でもあった。

「可愛い子」

モルガンの声が、不気味なほど甘くなる。

「あなたは、私のお人形さんでいいの。その目立つ綺麗な顔で、ずっとみんなの人気者でいてちょうだい。……分かるわよね、私のキルエン?」

「……はい、母上」

やっとのことで、それだけを返す。

モルガンの手が、そっと彼の頭に置かれた。

ゆっくりと髪を撫でるその仕草は、端から見れば慈愛に満ちた母のそれなのかもしれない。

けれどキルエンにとっては違った。

背筋を、冷たい汗が伝っていく。

愛されているはずなのに、少しも安らげない。

優しくされるほど、逃げ場のない檻へ閉じ込められていく気がする。

「もう行っていいわ」

ようやく下された許しに、キルエンは小さく息を吐く。

「……おやすみなさい」

部屋を出て、静かに扉を閉める。

それから自室へ向かう廊下を歩きながら、彼はようやく強張っていた指先をわずかに開いた。

自分は、あの人が怖い。

それは幼い頃から変わらない、どうしようもなく確かな感情だった。

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