تسجيل الدخولなにがパパだ、父上は実に調子がいい。キルエンは内心で毒づいた。
頑張ります――マーガレットはそう言っただけで、自らの能力を何ひとつ示していない。
周囲に持ち上げられ、嬉し泣きまでしている。
社交界にほとんど姿を見せない娘であるため、“老婆令嬢”という噂だけは以前から耳にしていた。
だが、それだけだった。
伏し目がちな癖に、真っ白な髪。
(あの母親から、よくもこんな化け物が生まれたものだ)
そう冷たく切り捨てながら、キルエンはグラスに映る自分の姿を一瞥する。
どうやら、はなはだ迷惑なことに婚約は正式に決まったらしい。
場を盛り上げるために父へ話を合わせてやったが、内心では吐き気がしていた。
どんな噂を立てられるか分からない。
自分の価値が下がってしまう。
これからしばらくは、その火消しに追われることになるだろう。
茶会の最中に準備が進められていたらしく、マーガレットの部屋はすでに整えられているらしい。
だが、その前に母から呼び出しを受けてしまう。
廊下の先、母モルガンの私室の前で立ち止まり、扉を二度ノックした。
「キルエンです」
「入っていいわよ」
室内へ入ると、モルガンは机に向かったまま、眼鏡越しに書類へ視線を落としていた。
「はぁ……あの人は、どうしてあんなのをキルエンの婚約者にしたのかしら」
キルエンの顔を見るなり、モルガンは右手をひらひらと振って吐き捨てた。
「社交の場では使えそうにないわ。あれは駄目ね」
その瞬間、社交界で“夜会の薔薇”と呼ばれた美貌の面影は、別の貌へと変わる。
キルエンは、母の判断は正しいと思った。
「あなたは、いいのかしら? キルエン?」
モルガンが顔を上げる。
大きく見開かれた両目。
いや、むしろ親子だからこそ、その恐ろしさがよく分かるのかもしれない。
――答えを間違えるな。
本能が、そう警鐘を鳴らしていた。
「父上から強く念を押されていたんです。僕は反対でしたが、断れませんでした。ですが……マリス嬢との関係は維持しておけばいい。マーガレットが使えなければ捨てれば済む話でしょう? どうせ時間の問題です。妙な噂も、僕のほうでなんとか――」
「あなた、馬鹿なの?」
言葉は最後まで続かなかった。
モルガンの目がすうっと細められ、その美しい顔に怒りが滲む。
「どうしてわたくしが、このわたくしが、夫人会なんて面倒なものを組織していると思うの?」
低く、冷えた声だった。
「裏で動くことは任せなさい。あなたは、あなたのすべきことをして」
その言葉に逆らう余地はなかった。
モルガンが指先で軽く手招きをする。
母の隣で膝をつき、頭を垂れる。
それは従順な息子の姿であり、同時に、支配される者の姿でもあった。
「可愛い子」
モルガンの声が、不気味なほど甘くなる。
「あなたは、私のお人形さんでいいの。その目立つ綺麗な顔で、ずっとみんなの人気者でいてちょうだい。……分かるわよね、私のキルエン?」
「……はい、母上」
やっとのことで、それだけを返す。
モルガンの手が、そっと彼の頭に置かれた。
けれどキルエンにとっては違った。
背筋を、冷たい汗が伝っていく。
愛されているはずなのに、少しも安らげない。
「もう行っていいわ」
ようやく下された許しに、キルエンは小さく息を吐く。
「……おやすみなさい」
部屋を出て、静かに扉を閉める。
自分は、あの人が怖い。
それは幼い頃から変わらない、どうしようもなく確かな感情だった。
――それから五年後。 バロンブルグ王国は、かつてないほどの活気に満ちていた。 王都の大通りには新しい店が並び、地方と王都を繋ぐ街道はよく整えられ、人と物の流れは以前とは比べものにならないほど滑らかになっている。各地の騎士団詰所には改良された通信装置が置かれ、緊急時の連携も早くなった。職人たちは新たな仕事に恵まれ、商人たちは国の未来を語り、平民も貴族も、この国はこれからもっと豊かになるのだと信じていた。 その繁栄の中心に立つのは、アスリー・レイ・ギルフォード国王だった。 即位から二年。 あの方は、口にした通りの王になった。 民を見下ろすのではなく、近くで見ようとする王。必要とあれば泥のつく仕事も引き受けるくせに、その手でちゃんと明日を示してくれる王。 バロンブルグ王国はいま、愛によって治められている――そう言えば大袈裟かもしれない。けれど、少なくともマーガレットには、それ以外にうまく表す言葉が見つからなかった。 その国政を支える柱の一つとして、いまやファーブリック公爵家の名も広く知られている。 事件の後、ダグルドは第二王子派を支え抜いた功績と、その後の王政改革への尽力を認められ、公爵へと陞爵した。さらに、エンヴィが再び立ち上げた工房と機械開発、それを支えるファーブリック家の後ろ盾は、国の経済を大きく押し上げることとなった。 そしてその流れの中で、マーガレットもまた、自分の立場を確かなものにしていた。 表向きの肩書きは公爵家夫人。 けれど実際の彼女は、それだけではない。 人と人、家と家、商会と貴族、王城と地方。表に見えるものと、まだ表に出ていないもの。その間にある流れを見極め、繋ぎ、時には危険の芽を先に摘む。 女だからと軽んじられたことも一度や二度ではないが、それでも今では、困り事を抱えた者が「まずはマーガレット様に」と口にすることも増えていた。 彼女はもう、守られるだけの令嬢ではなかった。 自分で選び、自分で立ち、自分の名で生きる人間になっていた。 そんな日々の中でも、今日ばかりは仕事のことを考える余裕はない。 ファーブリック公爵家の私室。陽だまりの落ちる広い部屋で、マーガレットは深く息を吐きながら、ゆったりとした椅子に腰掛けていた。丸みを帯びた腹にそっと手を当てる。出産を間近に控えた体は重
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ノブルス家との再会を終えた夜。 平民街の小さな家には、久しぶりに穏やかな静けさが満ちていた。 窓の外では、夜風に揺れた木の葉がささやくような音を立てている。遠くで犬が一度だけ吠え、また静寂に戻った。戦いの最中には気にも留めなかった、ありふれた夜の気配だ。 マーガレットは二階の自室で、姿見の前に座っていた。 今日の涙の跡はもう消えている。けれど、胸の奥にはまだ、家族に抱きしめられたときの温かさが残っていた。死んだと思われていた娘が戻ってきたのだ。喜びも、戸惑いも、悲しみの余韻も、全部が入り混じっていた。 そしてそのどれもが、今の自分を確かに“生きている者”にしてくれている。 鏡の中の自分を見つめていると、控えめなノックの音がした。「マーガレット。起きてる?」 エンヴィの声だ。「ええ」「少しだけ、話してもいい?」 少しだけ、という言い方が妙に彼らしい。 マーガレットは小さく息を吐き、立ち上がって扉を開けた。
第一王子カイセルの失脚が公にされると、王都の空気は一変した。 それまで水面下で繋がっていた夫人会の残党は、潮が引くように静かになった。もっとも、静かになったからといって罪が消えるわけではない。ダグルド侯爵家の一室では、その後処理が着々と進められていた。 大きな机の上には、夫人会に属していた女たちの名と、ヴェルン商会との接点を書き出した紙が並んでいる。モルガン夫人が捕らえられたあとも残っていた緩い繋がりは、思った以上に広かった。 ただ、その性質はさまざまだ。 深く関わり、実際に細工や連絡役を担っていた者。 名だけを貸し、流れに乗っていただけの者。 何かおかしいと感じながら、立場を失うのが怖くて目を逸らしていた者。 全てを同じ重さで裁くべきではない。そう判断したのは、ダグルドだった。「罪の軽重を見誤れば、また同じことが起きる」 青い瞳を細め、彼は紙の束を前にそう言った。「恐れから沈黙した者と、積極的に手を汚した者を同列に並べるのは違う。見せしめだけで終わらせれば、残るのはまた怯えた沈黙だ」 その言葉に、マーガレットは静かに頷いた。
第一王子カイセルの微笑が、ついに消えた。 小謁見の間に満ちていた空気は、もはや社交の場のものではない。誰もが息を潜め、ただ次の言葉を待っている。 拘束されたグラウス、ヤーサック男爵夫人、ベルトラン。彼らの視線は泳ぎ、主の顔色をうかがっていた。だが、今この場で彼らを救える者は、もはや誰もいない。 アスリーは一歩前へ出たまま、兄を見据えていた。「兄上。まだ続けるか?」 カイセルは返事をしなかった。 代わりに、ゆっくりと周囲を見回す。ダグルド侯爵。クリス。エンヴィ。リシェラ。最後に、マーガレット。 その視線が彼女に止まった瞬間、かすかな憎悪が滲んだ。「……死んだ女が、よくもまあ」 低く零れた言葉に、部屋の温度がさらに下がる。 だが、マーガレットは怯まなかった。「死んだ女だからこそ、見えるものがあります」 静かに返すと、カイセルは鼻で笑った。「見える? お前に?」
その場にいた三人の身柄が押さえられても、小謁見の間の空気は緩まなかった。 ヴェルン商会の番頭グラウスは騎士に腕を取られたまま、脂汗を浮かべている。ヤーサック男爵夫人は顔色をなくし、今にも椅子へ崩れ落ちそうだった。第一王子近習ベルトランだけは、なおも平静を装っていたが、その唇はわずかに引きつっていた。 アスリーは立ったまま、冷えた目で三人を見下ろす。「まだ兄上のお名前は出てこないか」 その問いに、誰も答えない。 だが、マーガレットには分かっていた。ここから先が本番だと。 慈善会の細工を示し、商会と夫人会と近習の線を並べた。だがそれだけでは、第一王子本人へまでは届かない。向こうはきっと、配下が勝手にやったことだと言い逃れるだろう。 だからこそ、ここから先は一段深く刺さなければならない。「殿下」 マーガレットがアスリーを見た。「兄君をお呼びください」 小謁見の間が静まり返る。 ダグルドが、低く息を吐いた。
どうせならとパンまで添えて、少し少なめの夕食とした。 エンヴィが洗い物をしてくれており、拭き終えた食器が重なって乾いた音を鳴らす。 騒ぎ始めた虫の声、カエルまで加わって大合唱だ。 ふと窓の外を見ると、もう夜の帳が下りていた。星々が手拍子するように瞬いている。
これは、こうなる以前――彼女がまだ別の人生を生きていた頃の記憶である。 過去と呼ぶには、それほど遠い出来事ではない。マーガレット・ノブルスとして生きていた頃。 幸福な未来を疑いもなく信じていた、あの短い時間。 婚約が決まり、そして――死に至るまでの、かすかに色褪せつつある記憶の断片。まずは、彼女が十八歳になったばかりの日のことから語ろう。 父が楽しげに、婚約者候補の写真を抱えて現れた、あの日の記憶から――。*******夕食を終えるや否や、椅子から飛び降りるようにして駆け出していったのは、五歳年下の弟ルアンだった。「ごちそうさまでした! ボク、部屋に戻って勉強してく
むかしむかし。 杖をつく一人の老婆が、街角でひとりの青年とぶつかり、地面に倒れてしまった。膝を痛め、自力では立ち上がれない。 だが青年は手を差し伸べるどころか、冷たい言葉だけを浴びせ、そのまま去っていった。そのときだった。 通りに、きらびやかな馬車が静かに止まる。中から降り立ったのは、高潔な王子だった。 王子は、老婆の汚れた身なりに眉一つひそめることなく、その身体を優しく抱き起こす。 そして治療院へ運ぶため、当然のように自らの馬車へと乗せた。温かな手が触れた、その瞬間。 奇跡が起きた。老婆の姿は眩い光に包まれ、白い髪は艶やかな黒髪へと変わっていく。 皺だ







