ログインノブルス子爵家の長女マーガレットは、幼い頃から頭の回転が早く、それでいて勉強を怠らない努力家。 婚約者も決まっており、相手はなんと遥か格上の侯爵家で、王都で噂されるほどの美貌の持ち主らしい。田舎貴族のノブルス子爵家にとって、奇跡に等しい縁談であった。 そして二人は結婚し、いつまでも幸せに暮らしましたとさ……と、なればよかったのだが。 新婚旅行の当日、マーガレットは何者かに殺されてしまった。 しかし、その数日後、マーガレットは生き返ることになる。 全財産を使い、蘇りの秘薬を購入した人物が現れたのだ。 信頼できる仲間と共に復讐を誓い、マーガレットは王国のさらなる闇に踏み込んでいく。
もっと見るむかしむかし。
膝を痛め、自力では立ち上がれない。
そのときだった。
中から降り立ったのは、高潔な王子だった。
温かな手が触れた、その瞬間。
老婆の姿は眩い光に包まれ、白い髪は艶やかな黒髪へと変わっていく。
老婆の正体は、悪い魔女に呪いをかけられた公爵家の令嬢。
令嬢はすぐに王子に恋をした。
それは、『老婆姫』という物語だった。
本を開くたび、彼女は主人公の令嬢に自分を重ねていた。
その容姿ゆえに、老婆令嬢と蔑まれる。
だが、その日常はある日を境に一変する。
婚約者が決まったのだ。
相手は、その美貌と薄紫の髪から“藤の貴公子”と呼ばれ、社交界の中心に立つ男。
あまりにも釣り合わない相手だった。
ついに王子様が迎えに来てくれたのだ、と。
――あのときまでは。
愛に裏切られ、彼女が殺されてしまう、その瞬間までは。
結婚式を終え、いよいよ新婚旅行へ向かう日がやって来た。
山間に抱かれた小さな観光地。
新婚旅行と聞けば、誰もが幸福に満ちた旅路を思い浮かべるだろう。
胸の奥には、冷えた石のようなものが沈んでいる。
愛情の欠片もないまま、夫婦として旅をする。
その理由は、結婚式の披露宴――ダンスパーティの最中にまでさかのぼる。
豪奢なシャンデリアが光を砕き、きらびやかな輝きが会場全体を包み込んでいた。
腰を抱かれ、彼の導きに合わせて一歩ずつステップを踏む。
婚約の儀式では、夫が妻に口づけを捧げる。
勇気を振り絞り、マーガレットは問うた。
「あなたは口づけを避けた。私を愛する気などなかったのですね」
返ってきたのは、あまりにも軽い言葉だった。
――なんだ、そんなことを気にしていたのか。僕らは夫婦になったんだ。これから何度でもすることになるじゃないか。
こんなに近くに立っているのに。
その瞬間、悟ってしまったのだ。
そこまで思い返せば、ため息が漏れるのも無理はなかった。
屋敷は驚くほど静かだった。
「……気が重い」
小さく漏れた声は、広い室内に吸い込まれるように消えていった。
屋敷の使用人たちは、皆休暇を与えられていた。
だが、いまの彼女にとって、その風習に有り難みなど微塵もなかった。
さらに追い打ちをかけるように、義母には急ぎの重要な仕事が入り、一人では対処できないため義父も同行することになったという。
朝早く、馬車へ乗り込む二人を見送った。
それで、屋敷にはキルエンと二人きりが残された。
まるで廃屋に迷い込んだようだった。
「さて……準備を始めましょうか」
マーガレットは鏡の前に立ち、旅支度を整えていく。
黒いプリーツスカート。
首元には黒いスカーフをふんわりと巻き、口元を隠した。
それは、普段の彼女とはまるで違う装いだった。
藤の貴公子が結婚したことで、噂は平民にまで広がり、王都は大騒ぎになっている。
その言葉を受けて、メイドのサーシャが慌てて揃えてくれた服である。
鏡に映る自分は、見慣れたマーガレットではない。
そして――彼女が覚えているのは、そこまでだった。
このあたりの記憶は、どれもひどく曖昧だ。
マーガレットは、その新婚旅行の日に殺された。
これは、失われた記憶をたどる物語。
――それから五年後。 バロンブルグ王国は、かつてないほどの活気に満ちていた。 王都の大通りには新しい店が並び、地方と王都を繋ぐ街道はよく整えられ、人と物の流れは以前とは比べものにならないほど滑らかになっている。各地の騎士団詰所には改良された通信装置が置かれ、緊急時の連携も早くなった。職人たちは新たな仕事に恵まれ、商人たちは国の未来を語り、平民も貴族も、この国はこれからもっと豊かになるのだと信じていた。 その繁栄の中心に立つのは、アスリー・レイ・ギルフォード国王だった。 即位から二年。 あの方は、口にした通りの王になった。 民を見下ろすのではなく、近くで見ようとする王。必要とあれば泥のつく仕事も引き受けるくせに、その手でちゃんと明日を示してくれる王。 バロンブルグ王国はいま、愛によって治められている――そう言えば大袈裟かもしれない。けれど、少なくともマーガレットには、それ以外にうまく表す言葉が見つからなかった。 その国政を支える柱の一つとして、いまやファーブリック公爵家の名も広く知られている。 事件の後、ダグルドは第二王子派を支え抜いた功績と、その後の王政改革への尽力を認められ、公爵へと陞爵した。さらに、エンヴィが再び立ち上げた工房と機械開発、それを支えるファーブリック家の後ろ盾は、国の経済を大きく押し上げることとなった。 そしてその流れの中で、マーガレットもまた、自分の立場を確かなものにしていた。 表向きの肩書きは公爵家夫人。 けれど実際の彼女は、それだけではない。 人と人、家と家、商会と貴族、王城と地方。表に見えるものと、まだ表に出ていないもの。その間にある流れを見極め、繋ぎ、時には危険の芽を先に摘む。 女だからと軽んじられたことも一度や二度ではないが、それでも今では、困り事を抱えた者が「まずはマーガレット様に」と口にすることも増えていた。 彼女はもう、守られるだけの令嬢ではなかった。 自分で選び、自分で立ち、自分の名で生きる人間になっていた。 そんな日々の中でも、今日ばかりは仕事のことを考える余裕はない。 ファーブリック公爵家の私室。陽だまりの落ちる広い部屋で、マーガレットは深く息を吐きながら、ゆったりとした椅子に腰掛けていた。丸みを帯びた腹にそっと手を当てる。出産を間近に控えた体は重
*]:pointer-events-auto scroll-mt-[calc(var(--header-height)+min(200px,max(70px,20svh)))]" dir="auto" data-turn-id="request-69c4fa12-990c-83a6-b469-31ae05893af3-12" data-testid="conversation-turn-232" data-scroll-anchor="true" data-turn="assistant">
ノブルス家との再会を終えた夜。 平民街の小さな家には、久しぶりに穏やかな静けさが満ちていた。 窓の外では、夜風に揺れた木の葉がささやくような音を立てている。遠くで犬が一度だけ吠え、また静寂に戻った。戦いの最中には気にも留めなかった、ありふれた夜の気配だ。 マーガレットは二階の自室で、姿見の前に座っていた。 今日の涙の跡はもう消えている。けれど、胸の奥にはまだ、家族に抱きしめられたときの温かさが残っていた。死んだと思われていた娘が戻ってきたのだ。喜びも、戸惑いも、悲しみの余韻も、全部が入り混じっていた。 そしてそのどれもが、今の自分を確かに“生きている者”にしてくれている。 鏡の中の自分を見つめていると、控えめなノックの音がした。「マーガレット。起きてる?」 エンヴィの声だ。「ええ」「少しだけ、話してもいい?」 少しだけ、という言い方が妙に彼らしい。 マーガレットは小さく息を吐き、立ち上がって扉を開けた。
第一王子カイセルの失脚が公にされると、王都の空気は一変した。 それまで水面下で繋がっていた夫人会の残党は、潮が引くように静かになった。もっとも、静かになったからといって罪が消えるわけではない。ダグルド侯爵家の一室では、その後処理が着々と進められていた。 大きな机の上には、夫人会に属していた女たちの名と、ヴェルン商会との接点を書き出した紙が並んでいる。モルガン夫人が捕らえられたあとも残っていた緩い繋がりは、思った以上に広かった。 ただ、その性質はさまざまだ。 深く関わり、実際に細工や連絡役を担っていた者。 名だけを貸し、流れに乗っていただけの者。 何かおかしいと感じながら、立場を失うのが怖くて目を逸らしていた者。 全てを同じ重さで裁くべきではない。そう判断したのは、ダグルドだった。「罪の軽重を見誤れば、また同じことが起きる」 青い瞳を細め、彼は紙の束を前にそう言った。「恐れから沈黙した者と、積極的に手を汚した者を同列に並べるのは違う。見せしめだけで終わらせれば、残るのはまた怯えた沈黙だ」 その言葉に、マーガレットは静かに頷いた。
決戦の舞台に選ばれたのは、王城の一角にある小謁見の間だった。 社交界のざわめきに紛れさせるには、もう遅い。 慈善会での細工、夫人会とヴェルン商会、第一王子派近習の繋がり。それらをこれ以上裏で泳がせれば、今度はこちらが足元を掬われる。ならば、相手が「出ざるを得ない場」へ引きずり出すしかない。
翌朝になっても、胸の重さは消えていなかった。 平民街の小さな家に差し込む朝の光は柔らかい。窓辺に置いたカップからは湯気が立ちのぼり、焼きたてのパンの匂いが部屋に広がっている。いつもなら、少しだけ心がほぐれるはずの、穏やかな朝だった。 だが、マーガレットの中にあるものは、昨夜のまま沈んでいた。
慈善会から二日後の朝。 平民街の家の空気は、妙に重たかった。 まだ朝食の支度も半ばだというのに、玄関の扉が乱暴に叩かれたからだ。 ドンドン、と木が軋むほどの強い音。客人を訪ねる叩き方ではない。
慈善会が終わり、最後の客を見送ったころには、夜もだいぶ更けていた。 ダグルド侯爵家の大広間から灯りが消え、使用人たちが片づけに入る。表向きには何事もなく成功した慈善会だ。寄付目録にも不備はなく、参加した夫人たちも侯爵の面目を潰すような真似はできなかった。王都の社交界では、きっと「立派な会であった」と評されるだろう。 だが、その裏では確か