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第2話「十二歳の記憶とオッドアイの救済」

Author: ひなた翠
last update publish date: 2026-09-27 19:37:23

 冷え切った同棲マンションの寝室。

 一人残された広いベッドの上で、杏莉は震える手の甲で頬を濡らす滴を拭っていた。

 どれだけ拭っても、身体の奥底で暴れ狂う恐怖の残滓が涙となって溢れ出してくる。男性の滾る熱に触れられた瞬間、意志とは無関係に凍りついた身体の強張り。

 暗闇の中で瞳を閉じると、いつも決まって同じ光景が脳裏にフラッシュバックする。

 ずっと奥底に蓋をしてきたはずの、十二歳の朧げな記憶。

 豪華なシャンデリアの眩い光。むせ返るような甘ったるい香水の匂い。大人の男の粘ついた視線。

 そして――。

 豪奢なホテルの大宴会場は、熱気とざわめきに満ちていた。

 父の事業が最盛期を迎えていた頃。取引先が開いた大規模なパーティーの場に、十二歳の杏莉は父と一緒に参加していた。

 すれ違う大人たちが漂わせる、アルコールと濃厚な香水の混じり合った匂いが鼻をつく。大人の足に埋もれそうになりながらも、杏莉は父の会社のために、挨拶に訪れる人々へずっと愛想の良い笑顔を向け続けていた。

「君、可愛いね」

 ふいに、上から降ってきた声。

「ありがとうございます」

 見上げると、父の取引先の社長だという中年の男が立っていた。顔の輪郭も表情も、なぜか靄がかかったように朧げにしか思い出せない。ただ、その目が纏っていた粘液のような気味の悪い光だけが、肌に粟を立たせた。

 たぶん二言、三言の会話を交わしたと思うがあまりよく覚えていない。

 記憶にあるのは有無を言わさぬ強い力で手首を掴まれ、杏莉は華やかな会場から薄暗い別室へと連れ出されていた。

 扉が閉まり、喧騒が遠のく。部屋には使われていない家具が置かれ、微かに埃っぽい絨毯の匂いがした。

 父から笑顔を絶やさないようにと言われていたが、杏莉の表情からは笑顔で消えていた。

 男の荒い吐息が頭上から降ってきて手首を握る指の力が強まり、骨が軋むような痛みが走った。逃げようと足を踏ん張るが、大人の男と十二歳の少女とでは圧倒的な体格差がある。

 男の太い指が杏莉の肩や背中を撫で回し、気味の悪い湿った吐息が顔に吹きかかった。

(変だ。逃げなきゃ――)

 防衛本能が警鐘を鳴らす。明確な身の危険を感じた杏莉は、全身の力を振り絞って男の胸を力いっぱい押し返し、激しく抵抗した。

 その弾みで、杏莉の身体が脇の小さなテーブルにぶつかった。上に置かれていたワイングラスが床に転げ落ち、鋭い音を立てて粉々に砕け散る。

 グラスが割れた音に、男の目の色が変わった。

「大人しくしろ!」

 男が怒鳴り声を上げ、力任せに杏莉を壁際へと押し付ける。背中が硬い壁にぶつかり、逃げ場が完全に絶たれた。さらに強い力で押さえつけられ、乱暴に服を引き裂かれそうになる。

(――怖い)

「やめて……」

 喉から絞り出した声は、ひどく震えていた。もうだめだ。

 絶望で目を固く閉じた、その瞬間だった。

「そこで、何をしている」

 凛とした低い声が、薄暗い部屋の空気を鋭く切り裂いた。

 閉じていた目を開けると、杏莉と男の間に、長身の青年が立ちはだかっていた。彼が間に入ってくれたことで、男の手が杏莉から離れる。

「大丈夫?」

 青年が、静かに振り向いた。その顔を見た瞬間、杏莉は息を呑んだ。

 冷ややかさを帯びた端正な垂れ目。だが、何よりも目を引いたのは、左右で色が異なるその瞳だった。

 右目は、底知れぬ深さを持つ黒曜石のような漆黒。左目は、暗がりの中でも鋭い光を放つ琥珀色。

 異なる二つの色彩が、吸い込まれそうなほどの圧倒的な美しさを放っていた。さらに、彼から発せられる声には、怯えきった心をすくい上げるような深い優しさと、不思議な安心感が宿っていた。

 突然邪魔に入られた男が、顔を紅潮させて激昂する。

 喚き散らす男の怒声が室内に反響した直後、男は先ほど杏莉が抵抗した際に割れたワイングラスの破片を床から掴み上げた。

 激怒した男が、その鋭利なガラスの破片を握りしめ、狂気じみた勢いでこちらへ振り下ろしてくる。

(殺されちゃう――!)

 恐怖で全身の血液が凍りつき、喉が引きつって悲鳴すら上がらない。

 だが、刃が杏莉に届くより早く、青年が力強く杏莉を守るように抱き寄せた。

 硬い胸板に顔が押し付けられ、ふわりと清潔な石鹸と微かな煙草の香りが鼻をかすめる。力強くて温かい腕が、小さな杏莉の背中を完全に包み込み、すべての危険から庇い隠した。

 青年の身体が僅かに硬直した。

 恐る恐る顔を上げると、彼の右腕の袖が大きく裂け、肘から手首にかけて十五センチほどの深い傷が刻まれていた。

 ぱっくりと開いた傷口から、鮮血が止め処なく溢れ出し、白いシャツを赤く染め上げていく。鉄の匂いが立ち込め、杏莉の視界が恐怖と申し訳なさで歪んだ。

「……っ、ごめんなさい、私のせいで」

 震える唇から謝罪がこぼれ落ちる。自分のために、見ず知らずの彼がこんなにも酷い怪我を負ってしまった。

「大丈夫だよ」

 血まみれの腕を押さえながらも、青年は痛みを堪えるように僅かに眉をひそめただけで、杏莉を安心させるように優しく微笑んだ。

「儂は何も知らん! お前のせいだからな」

 中年の男は声を震わせて、杏莉たちを睨みつけると早々に部屋を飛び出していく。

 彼は血のついていない左手で、自らの胸元から黒縁の伊達眼鏡を取り出し、杏莉の目元へそっとかけさせた。

「怖い思いをしたね。もう大丈夫だから。もう二度とこういうことがないように。君なりに気をつけていこうか。君はとても美人だ。大人になればもっと美しい女性になる。ばかな大人に振り回されないよう――擬態すればいい。簡単だよ、ほら。眼鏡をかけるだけでいいんだ」

 低い囁きが、耳朶を震わせる。

 レンズ越しの視界。青年の漆黒と琥珀色の瞳が、杏莉を真っ直ぐに捉えていた。

『素の自分を知っているのは好きな人、たった一人でいいんだよ』

 鼻梁に乗せられた、少し大きくて重たい眼鏡の感触。

 暗い寝室のベッドの上で、杏莉は無意識のうちに自分の目元へと指を這わせていた。

 今は外しているはずの眼鏡の重みが、あの夜の青年の温もりとともに、はっきりと肌に残っている。

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     朝の冷たい空気が澱む洗面所で、杏莉は静かに鏡に向かっていた。 蛇口をひねり、手のひらに掬った冷水で顔を洗う。肌を刺すような水の冷たさが、昨夜の惨めな記憶と身体に残る生々しい恐怖を少しだけ麻痺させてくれる気がした。タオルで水気を拭き取り、再び鏡に映る自分を見つめる。 そこにあるのは、血の気の引いた青白い肌と、ひどく怯えたような瞳。自分を綺麗だと思ったことなど一度もない。 けれど、八年前のあの日――暗い別室で恐怖に凍りついていた十二歳の自分に、伊達眼鏡をかけてくれたあの青年の言葉を、今も忘れられずにいる。(素の自分を知っているのは好きな人、たった一人でいい) あの夜に中年男が向けてきた、粘りつくような気味の悪い視線と濁った熱。それが消えないトラウマとなり、杏莉は人から注目を受けることを極端に嫌うようになった。 両手を伸ばし、背中に垂れる長い黒髪を無造作にまとめ上げる。ゴムで一つにきつく結びあげると、頭皮が引っ張られる微かな痛みが走った。 傍らに置かれた眼鏡へ指を伸ばす。度数の合わない、分厚い牛乳瓶のような丸眼鏡。 指先に触れる冷たいフレームを掴み、鼻梁へと乗せる。ずしりとした重みが肌を押しつけ、視界が不自然に歪んで鏡の中の自分の輪郭が曖昧にぼやけた。 中学、高校と進むにつれて急激に視力が落ちても、コンタクトレンズを使うことは頑なに拒んできた。この分厚いガラスの盾の向こう側にさえいれば、誰も自分に興味を持たない。人の視線を避けて影のように生きられることに深い安堵を覚える一方で、分厚いレンズ越しに見る世界はどこか遠く、胸の奥に小さな寂しさが疼くのも事実だった。 寝室へ戻り、クローゼットを開く。 並んでいるのは、どれもくすんだ色合いの質素な服ばかり。その中から一着を選び、袖を通す。オーバーサイズの服が華奢な身体をすっぽりと包み込み、女性らしい身体のラインを完全に消し去っていく。 布擦れの音が静かな室内に響く。本来の自分を隠し、気配を殺すための「擬態」。これが、殻に閉じこもるように生きてきた杏莉の毎朝の支度だった。 身体のラインが美しく出るような服や流行の服を着てみたいと思う気持ちはある。でも手に取ると思い出してしまう。あの中年男から注がれた視線を――。だから、自分には不釣り合いな服として、ずっと避けてきている。 服の皺を伸ばしながら、ふと胸の内に

  • 背徳の檻に濡れて〜雨の夜、婚約者の兄とは知らずに犯した過ち〜   第2話「十二歳の記憶とオッドアイの救済」

     冷え切った同棲マンションの寝室。 一人残された広いベッドの上で、杏莉は震える手の甲で頬を濡らす滴を拭っていた。 どれだけ拭っても、身体の奥底で暴れ狂う恐怖の残滓が涙となって溢れ出してくる。男性の滾る熱に触れられた瞬間、意志とは無関係に凍りついた身体の強張り。 暗闇の中で瞳を閉じると、いつも決まって同じ光景が脳裏にフラッシュバックする。 ずっと奥底に蓋をしてきたはずの、十二歳の朧げな記憶。 豪華なシャンデリアの眩い光。むせ返るような甘ったるい香水の匂い。大人の男の粘ついた視線。 そして――。 豪奢なホテルの大宴会場は、熱気とざわめきに満ちていた。 父の事業が最盛期を迎えていた頃。取引先が開いた大規模なパーティーの場に、十二歳の杏莉は父と一緒に参加していた。 すれ違う大人たちが漂わせる、アルコールと濃厚な香水の混じり合った匂いが鼻をつく。大人の足に埋もれそうになりながらも、杏莉は父の会社のために、挨拶に訪れる人々へずっと愛想の良い笑顔を向け続けていた。「君、可愛いね」 ふいに、上から降ってきた声。「ありがとうございます」 見上げると、父の取引先の社長だという中年の男が立っていた。顔の輪郭も表情も、なぜか靄がかかったように朧げにしか思い出せない。ただ、その目が纏っていた粘液のような気味の悪い光だけが、肌に粟を立たせた。 たぶん二言、三言の会話を交わしたと思うがあまりよく覚えていない。 記憶にあるのは有無を言わさぬ強い力で手首を掴まれ、杏莉は華やかな会場から薄暗い別室へと連れ出されていた。 扉が閉まり、喧騒が遠のく。部屋には使われていない家具が置かれ、微かに埃っぽい絨毯の匂いがした。 父から笑顔を絶やさないようにと言われていたが、杏莉の表情からは笑顔で消えていた。 男の荒い吐息が頭上から降ってきて手首を握る指の力が強まり、骨が軋むような痛みが走った。逃げようと足を踏ん張るが、大人の男と十二歳の少女とでは圧倒的な体格差がある。 男の太い指が杏莉の肩や背中を撫で回し、気味の悪い湿った吐息が顔に吹きかかった。(変だ。逃げなきゃ――) 防衛本能が警鐘を鳴らす。明確な身の危険を感じた杏莉は、全身の力を振り絞って男の胸を力いっぱい押し返し、激しく抵抗した。 その弾みで、杏莉の身体が脇の小さなテーブルにぶつかった。上に置かれていたワイングラス

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