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背徳の檻に濡れて〜雨の夜、婚約者の兄とは知らずに犯した過ち〜
背徳の檻に濡れて〜雨の夜、婚約者の兄とは知らずに犯した過ち〜
Author: ひなた翠

第1話「冷たいベッドと拒絶の震え」

Author: ひなた翠
last update publish date: 2026-09-27 19:36:53

 窓ガラスを打ち据える雨音が、静まり返った室内でやけに大きく響いていた。

 六月。梅雨特有の重く湿った空気が、同棲マンションの寝室に淀んでいる。高校を卒業してすぐに始まった慶吾との生活は、すでに二年余りが経過していた。その間、二人はまだ一度も身体を重ねられていない。

 薄暗い部屋の中で、杏莉はひんやりとしたシーツを強く握りしめた。

 扉が開く鈍い音とともに、廊下の明かりが細長く床に伸びる。慶吾が寝室へ足を踏み入れてきた。微かに漂うアルコールの匂いと、彼の纏う鋭くスパイシーな香水の香りが鼻をついた。

「おい、芋女」

 無造作に放たれた冷たい声の直後、強い力で肩を掴まれ、杏莉はベッドへ押し倒された。

 背中に柔らかなマットレスの感触が広がる。見上げると、端正な顔立ちに傲慢さを滲ませた慶吾が、杏莉を見下ろしていた。

 乱暴な手つきで衣服のボタンが外されていく。布擦れの音が耳元で響き、室内の空気が剥き出しになった肌を冷たく撫でた。

(応えなければ――)

 杏莉は固く目を閉じ、奥歯を噛み締めた。

 これは父の会社を救うための、大切な政略婚約だ。烏丸家からの出資と援助がなければ、真鍋精機はとうの昔に倒産していた。父を安心させるためにも、婚約者である慶吾との関係を深め、妻としての務めを果たさなければならない。彼から向けられる冷淡な態度も、家政婦のような扱いも、すべては応えられない自分が悪いのだ。慶吾を責めるつもりはない。婚約者として、身体を開くのは当然の義務なのだから。

 彼の指先が鎖骨をなぞり、下着ごと布が剥ぎ取られていく。

 自分から受け入れようと、杏莉は深呼吸を繰り返し、身体の力を抜こうと試みた。頭では痛いほど理解している。「怖い」という感情はとっくに眠っているはずだ。彼に身を委ねて、ただ流されればいいだけだと、自分に言い聞かせる。

 だが、慶吾の大きく重い身体が覆い被さり、彼の滾る熱が直接肌に押し当てられた瞬間――。

 杏莉の身体は、自らの意思を完全に裏切った。

 全身の筋肉が意思に反して石のように硬直する。皮膚に粟が立ち、冷たい悪寒が波のように広がっていく。血の気が引き、指先から急速に体温が奪われていくのが分かった。

 呼吸が浅くなり、肺が空気を拒絶する。喉の奥が痙攣したように塞がり、掠れた息が漏れた。

(だめ、どうして)

 受け入れたいのに。応えなければならないのに。

 歯の根が合わず、小さく鳴る音が鼓膜を打つ。身体の芯から湧き上がるような激しい震えが止まらない。関節が軋み、筋肉が強張る。恐怖など感じていないはずなのに、心は空っぽのままなのに、身体だけが明確な拒絶反応を示して暴走している。

 視界が急速に歪み、熱い滴が頬を伝い落ちた。

 溢れ出した涙は、どれだけ瞬きをしても次から次へと止め処なく流れ続ける。シーツに濃い染みを作り、冷たい雨の夜の空気に触れて冷えていく。

 止まってほしい。こんなところで泣いて、また彼を失望させたくない。

 杏莉の痛切な願いとは裏腹に、身体の震えは激しさを増すばかりだった。彼に触れられているという事実だけで、皮膚が焼け焦げるような錯覚に陥り、防衛本能が警鐘を鳴らし続ける。

 ふっと、杏莉を覆っていた重みと熱が消えた。

 涙で滲む視界の先、慶吾がベッドの端に立ち上がり、見下ろすような視線を向けていた。あからさまに興醒めした冷ややかな瞳。そこには、杏莉への侮蔑と苛立ちが色濃く浮かんでいる。

「最悪だな、お前。まじで使えねえし」

 冷酷な声が、胸の奥を鋭く抉った。

 吐き捨てるように言い放つと、慶吾は乱れた衣服を苛立たしげに整え、振り返ることもなく寝室を出ていく。乱暴に扉が閉められた。

 暗い寝室に取り残され、杏莉は小さく身を縮こまらせた。彼の言葉が刃となって何度も心を切り裂く。胸が締めつけられ、息をするのすら苦しい。応えられない自分が情けなくて、惨めで仕方なかった。

 静まり返った部屋に、ドア越しに慶吾の声が響いてきた。

「今から会いにいっていい? 婚約者の女が拒絶しやがって」

 誰かに電話をかけている声。甘えるような、それでいて苛立ちを隠しきれない響き。電話の相手が誰なのか、杏莉には分からない。ただ、自分ではない誰かに慰めを求めていることだけは確実だった。裏切られているという悲しみよりも、彼をそこまで追い詰めてしまった自分への失望が重くのしかかる。

 やがて、玄関へ向かう重い足音が聞こえ、重厚な金属の扉が開いて閉まる音が響いた。

 家を出ていく足音。

 慶吾は去ってしまった。この激しい雨の中、別の誰かの元へ。

 完全な静寂が降りた暗い寝室。聞こえるのは、窓を打つ無機質な雨音だけ。

 広くて冷たいベッドの上で、杏莉はゆっくりと身を起こした。冷え切った両腕で自らの肩を抱きしめる。

 どれだけ自分を責めても、勝手に流れ続ける涙は止まってくれない。杏莉は震える手の甲で、何度も何度も頬を濡らす滴を拭った。皮膚が擦れて痛むが、身体の奥で暴れる得体の知れない震えに比べれば些細なことだった。

(どうして、いつもこうなってしまうの)

 男性に触れられ、熱を向けられるたびに、身体が悲鳴を上げて萎縮する。理由も分からず、ただ恐怖だけが細胞に刻み込まれているかのように。

 暗闇の中で、ふいに脳裏をよぎる光景があった。

 ずっと奥底に蓋をしてきたはずの、十二歳の鮮烈な記憶。

 豪華なシャンデリアの眩い光。むせ返るような甘ったるい香水の匂い。大人の男の粘ついた視線。そして――。

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