Share

第8話

Author: 水の妖精
結婚式の翌朝、勳がアトリエの前で私を待ち伏せしていた。

彼は血走った目で、いきなり私の腕をつかんだ。「奈津美!俺をみんなの前で笑いものにしないと気が済まないのか?!」

私はその手を振りほどき、勳の頬を思いっきりひっぱたいた。

「笑いものに?」

彼の頬にみるみる浮かび上がる指の跡を見て、私は言った。「勳、あなたが電話で別れを切り出したあの時から、あなたのメンツなんてとっくに潰れてるわよ!」

勳は頬を押さえたまま、呆然とその場に立ち尽くした。何が起きたか理解できないみたいに、充血した目を見開いていた。

「今さらつらいとでも言うの?」

私が冷ややかに笑いながらにじり寄ると、彼はたじろいで後ずさった。「じゃあ、父が病院で寝たきりだったときは?私がネット中で叩かれていたときは?あなたはどこにいたの?新しい彼女といちゃついてたくせに!」

勳は唇を震わせ、しばらくしてやっと声を絞り出した。「奈津美、俺はおじさんのことを……知らなかったんだ……」

「知ってたでしょ!」

私は彼の言葉を遮った。「あなたに電話したじゃない!父が救急治療室に運ばれたあの日の夜に!あの時は心細くて、ただ慰めてほしかっただけなのに。なのにあなたは?『もう別れたんだから、二度と連絡してくるな』って言ったじゃない!」

勳はハンマーで殴られたかのように、ぐらっとよろめいた。背中が後ろの壁にぶつかって、古いペンキがぱらぱらと剥がれ落ちる。

「ごめん……」

ひどくかすれた声で、彼は不意に尋ねた。「両親が遺してくれた……あの鍵は……」

私は上着のポケットからそれを取り出し、手のひらに乗せた。鍵は朝日を浴びて銅色に光り、付いていた赤い紐は色あせて白っぽくなっている。

勳の目が、一瞬きらりと光った。その光には後悔と懐かしさ、そして笑えるくらいちっぽけな希望がごちゃ混ぜになっていた。

彼が伸ばした手は、小刻みに震えていた。

でも、私はそれに触らせなかった。

指から、すっと力を抜く。

鍵は私の手のひらから滑り落ち、小さな弧を描いて地面に転がった。そして、汚水がたまったコンクリートの隙間に落ちた。

「もう、いらないから」と、私は冷たく言い放った。

勳はその場で凍り付いた。伸ばされた手は行き場をなくして宙をさまよい、指が何かをつかむように虚しく丸められる。もう消えてしまったものを、つかもうと
Continue to read this book for free
Scan code to download App
Locked Chapter

Latest chapter

  • 花に抱かれる彼、記憶に沈む私   第10話

    アトリエが会社として新しく始まったその日は、とても良いお天気だった。新しいオフィスは壁一面が大きな窓になっていた。最後の書類にサインし終わってふと横を見ると、窓の外ではプラタナスの若葉が風にやさしく揺れていた。報告書を持ってきた胡桃が、少し興奮した声で言った。「社長、今月のお問い合わせ、なんと先月の5倍です。あの結婚式の一件で私たちに注目してくださったお客さんがすごく多いんですよ」私はデータに目を落とした。「数より質が大切よ。お客さんを選ぶ基準は、これまで通りでお願いね」「はい、わかりました」午後、引越し屋のトラックがアパートの下に着いた。荷物は多くない。段ボール数箱分の服、数箱分の本、それに私がどうしても持って行きたかった数鉢のポトス。父を支えて車に乗せると、彼は私が3年間住んだ古いアパートを振り返った。「お父さん、行こう」私は言った。「新しい家は暖かいから、膝にもいいわよ」車が走り出すと、窓の外の景色は灰色の建物から緑の田んぼへ、そしてまた高層ビルへと変わっていった。父は窓に寄りかかって眠ってしまい、その手には私の子供の頃の写真が握られていた。新しい家は都心の住宅街にあって、一階で小さな庭もついていた。父と庭でクチナシの苗を植えていると、スマホが鳴った。トレンドニュースのプッシュ通知で、見出しが非常に目立っている。#かつてのスターベンチャー企業、ついに破産申請へ。私はその記事を開かず、そのまま苗に土をかけ続けた。夜、荷物を片付けていると、父の古いコートのポケットから木の箱が出てきた。開けてみると、田舎の家の鍵と一枚の写真。それは父がリハビリを終え、初めて支えなしで立てた瞬間のもので、私が腕を支え、二人で笑っていた。私は鍵と写真を並べて箱に戻し、蓋を閉めてから、納戸の一番上の棚にしまった。その隣には、季節外れの服や使わなくなった画材が置いてある。あの大変だった日々を忘れたいわけじゃない。ただ、その記憶も大切な宝物として、そっとしまっておきたかった。勳の噂を耳にしたのは、それから1ヶ月後のことだった。胡桃からのメッセージによれば、勳の会社が潰れてから、毎日バーで飲んだくれているそうだ。先週の深夜、千鳥足で昔の町へ向かう勳を見た人がいたらしい。あの場所はもう新しい商業施設を開発していて、あのボロアパートな

  • 花に抱かれる彼、記憶に沈む私   第9話

    結婚式の動画が、深夜2時に突然、拡散され始めた。最初に広まったのは、30秒の短い動画だった。私がシャンパンを注ぐと招待状の上にこぼれ、日和のこわばった笑顔と、勳の真っ青な顔が映っていた。タイトルはただ一言、【スッキリした】だ。夜が明けるころには、百万回以上も拡散されていた。【うわ、マジか。これって、ちょっと前にバズった『事業が軌道に乗ったら、まず貧乏な恋人を捨てる』の投稿者の彼氏じゃない?】【てことは、お嬢様が略奪愛したってこと?しかも、自分の男の元カノを結婚式に招待するとかありえない!】【あのシャンパンを注ぐシーン、マジで100回は見れる!本当にカッコよすぎ!】日和のSNSアカウントが特定された。一番新しい投稿は結婚式の前夜のもので、豪華なドレスや高価な指輪、完璧な式場の写真が何枚もアップされていた。そして、こう添えられていた。【明日、私の青春を照らしてくれた、一番素敵な人と結婚する】コメント欄はもう炎上していた。【一番素敵な人?一番ダメな人だろ?】【あなたの旦那さんの元カノ、彼が売れない頃にボロアパートで5年も一緒に暮らして支えてあげてたんだってね】【へえ、お嬢様も人のものを横取りするのがお好きなんですね。さぞ気持ちいいんでしょうね、やり方を教えてほしいですよ】お昼の12時、最初の提携ブランドが声明を発表した。本日をもって伊藤日和さんとの全てのプロモーション契約を終了する、と。続いて、二社目、三社目と発表が相次いだ。日和はすべての投稿を削除し、コメント欄を閉鎖した。でも、スクリーンショットはとっくにネット中に広まっていた。彼女が必死で守ってきた「セレブ」というイメージも、高木家のメンツもズタズタになった。そのせいで、実家のビジネスにまで影響が出始めた。午後2時、高木グループの公式サイトがお知らせを掲載した。【伊藤日和さんは、一身上の都合により、当面の間、休職いたします】【当面の間】という言葉には、なんだか含みがあるように感じた。日和から電話があったとき、私は父のためにスープを煮込んでいた。彼女の声は、耳をつんざくようだった。「前田!これで満足?!私はもう何もないのよ!ブランドとの契約は打ち切り!会社は休職させられて!ネット中で叩かれてる!」私は火を弱めながら言った。「昔、あな

  • 花に抱かれる彼、記憶に沈む私   第8話

    結婚式の翌朝、勳がアトリエの前で私を待ち伏せしていた。彼は血走った目で、いきなり私の腕をつかんだ。「奈津美!俺をみんなの前で笑いものにしないと気が済まないのか?!」私はその手を振りほどき、勳の頬を思いっきりひっぱたいた。「笑いものに?」彼の頬にみるみる浮かび上がる指の跡を見て、私は言った。「勳、あなたが電話で別れを切り出したあの時から、あなたのメンツなんてとっくに潰れてるわよ!」勳は頬を押さえたまま、呆然とその場に立ち尽くした。何が起きたか理解できないみたいに、充血した目を見開いていた。「今さらつらいとでも言うの?」私が冷ややかに笑いながらにじり寄ると、彼はたじろいで後ずさった。「じゃあ、父が病院で寝たきりだったときは?私がネット中で叩かれていたときは?あなたはどこにいたの?新しい彼女といちゃついてたくせに!」勳は唇を震わせ、しばらくしてやっと声を絞り出した。「奈津美、俺はおじさんのことを……知らなかったんだ……」「知ってたでしょ!」私は彼の言葉を遮った。「あなたに電話したじゃない!父が救急治療室に運ばれたあの日の夜に!あの時は心細くて、ただ慰めてほしかっただけなのに。なのにあなたは?『もう別れたんだから、二度と連絡してくるな』って言ったじゃない!」勳はハンマーで殴られたかのように、ぐらっとよろめいた。背中が後ろの壁にぶつかって、古いペンキがぱらぱらと剥がれ落ちる。「ごめん……」ひどくかすれた声で、彼は不意に尋ねた。「両親が遺してくれた……あの鍵は……」私は上着のポケットからそれを取り出し、手のひらに乗せた。鍵は朝日を浴びて銅色に光り、付いていた赤い紐は色あせて白っぽくなっている。勳の目が、一瞬きらりと光った。その光には後悔と懐かしさ、そして笑えるくらいちっぽけな希望がごちゃ混ぜになっていた。彼が伸ばした手は、小刻みに震えていた。でも、私はそれに触らせなかった。指から、すっと力を抜く。鍵は私の手のひらから滑り落ち、小さな弧を描いて地面に転がった。そして、汚水がたまったコンクリートの隙間に落ちた。「もう、いらないから」と、私は冷たく言い放った。勳はその場で凍り付いた。伸ばされた手は行き場をなくして宙をさまよい、指が何かをつかむように虚しく丸められる。もう消えてしまったものを、つかもうと

  • 花に抱かれる彼、記憶に沈む私   第7話

    日和の結婚式の招待状が多くの人に配られたその日、私のアトリエのメールにも、一通の正式な招待状が届いた。【高木日和様 結婚式へのブランド協賛ご招待(インフルエンサー様向け)特別協賛インフルエンサーとしてご出席いただきたく、出演料のほか、会場にはPRブースもご用意させていただきます】差出人は、高木グループの広報部だった。添付の契約書には、出演料400万円、会場での最低2時間滞在、3日以内に結婚式関連の投稿を1つすることが条件として書かれていた。胡桃がためらいがちに言った。「前田さん、これ、あからさまな嫌がらせですよ……」「受けるわ」私はすぐにサインをした。「ただし書きを一行足して。『コンテンツ制作の裁量はすべてこちらにあり、クライアントは一切干渉しないこと』って」結婚式当日の午前、私は特別協賛インフルエンサーとしてホテルに足を踏み入れた。会場の入口には私の立て看板があり、そこには【特別協賛インフルエンサー】と書かれている。使われているのは、3年前の古い写真。まだ髪が長くて、勳にもらった安物のシャツを着ていた頃の私だ。ウェディングドレス姿の日和がブースの横に立ち、記者に笑いかけていた。「前田さんは夫の昔からの友人で、今は業界ですごいインフルエンサーなんです。今日は私たちにとってウィンウィンのコラボですね」私はブースの前に進み出て、パンフレットを手に取った。「気に入った?」日和がぐっと近づいてきて、きつい香水の匂いがした。「わざわざあなたが一番痩せて見える写真を選んであげたのよ。あ、そうだ、出演料は相場の2割引にしておいたから。だって……昔からの知り合いだもんね」私はパンフレットを置いた。「契約書の13条。代金はイベント開始前に全額支払うことになってる。まだ振り込まれてないみたいだけど」彼女の顔から笑みが消えた。「何をそんなに急いでるの。私が踏み倒すとでも思ってる?」「ええ」私はうなずく。「だって、あなたが昔踏み倒したのは、お金だけじゃなかったもの」日和の顔がこわばり、すぐに声を張り上げた。「マスコミのみなさん、たくさん撮ってくださいね!前田さんは今日、お金をもらってお仕事で来てるんですから、しっかり働いてもらわないと!」11時。新郎新婦が各テーブルを回る時間になった。日和は勳の腕を組んで、まっ

  • 花に抱かれる彼、記憶に沈む私   第6話

    日和がアトリエに入ってきたとき、私は床にかがんで、届いたばかりの資料を片付けていた。ノックもなしに。「お忙しいところ、ごめんね」わざとらしく明るい、聞き覚えのある声だった。顔を上げると、そこに日和が立っていた。今日はクリーム色のスーツ姿で、手には電車の広告で見たことがある限定品のバッグ。新しくパーマをかけたのか、完璧なカールだ。勳がここへ来て気まずそうに帰ってから、まだ数日しか経っていない。どうやら、彼から何か聞いたみたいだ。「何の用?」私は立ち上がる。指から紙くずがひらりと舞い落ちた。日和は答えず、アトリエの中をじろりと見回した。たいして広くもない部屋だから、一目で見渡せる。壁紙はところどころ剥がれ、隅には画材が山積みになっている。机の上には、描きかけの原稿と、食べかけの出前が置きっぱなしだ。彼女の口元が、ほんの少しだけ動いた。笑っているのか、ただ引きつっているのか、よく分からない。日和はまっすぐ机に近づくと、机の真ん中に、金文字の入った招待状を置いた。私が読めるように、わざとゆっくりした動きだ。「来週の土曜日よ」と彼女は言った。「私と勳さん、結婚するの」「彼に頼まれたの?」と私は尋ねた。日和は、ふっと鼻で笑った。「それって、重要なの?」彼女は髪をかきあげながら言った。「ウェディングドレスはオーダーメイドで、3ヶ月待ったの。指輪は勳さんがわざわざH市まで買いに行ってくれたの。式場は華月ホテルで、ワンフロア貸し切りよ」私は黙っていた。日和は一歩、私に近づいた。「あなたに会ってから、勳さんは少し様子がおかしくてね。夜にお酒を飲んで、あなたに申し訳ない、なんて馬鹿なこと言ってたわ」彼女は首を振る。「男の人って結婚前は不安になるものなのよ。余計なことを考えちゃうの。私にはわかるわ」「それで、今日は?」「けじめをつけにきたの」日和は私の目をまっすぐ見た。「前田さん、もう3年経ったわ、いい加減前に進んだら?招待状は渡した。もう、私たちの前に現れないで。二度と、彼に連絡しないで」彼女は続けた。「お互い大人なんだから、みっともない真似はやめよう」私は招待状を手に取る。写真の中の勳は、晴れやかな笑顔をしていた。数日前に彼がここに立っていた姿をふと思い出す。しばらくして、日和が口を開いた。

  • 花に抱かれる彼、記憶に沈む私   第5話

    ドアが開くと、勳の笑顔がぴたりと固まった。持っていた契約書が、ぱさりと床に落ちた。段ボールの梱包をしていた私は、ふと顔を上げて、彼の真っ青な顔に気づいた。3年ぶりの勳は、高そうなスーツを着ていた。袖口の腕時計が冷たく光っている。電話で、「もうボロアパートの匂いはうんざりだ」と言ったあの人と、目の前の彼がゆっくりと重なった。「奈津美?」勳の声は、ひどくこわばっていた。「ええ、そうよ」私も少し驚いた。アシスタントの野口胡桃(のぐち くるみ)が進めてくれていた仕事が、まさか彼との話だったなんて。勳が数歩こちらへ近づく。そして、私の顔をじっと見つめてきた。「なんで、お前がここに……」彼は信じられないというように、目の前の現実を確かめていた。私は手を洗いながら、尋ねた。「私じゃ、この仕事はなしにする?」勳は震える手で、かがんで契約書を拾った。三度目でやっと拾うと、作業台の上に置いて言った。「条件を言ってくれ」私は契約書の最終ページだけちらりと見て、すぐに閉じて彼の方へ押し返した。「ごめん。急にこの契約、気が乗らなくなっちゃった」「どうして?最低でも4000万円は保証するし、宣伝効果だって……」「私が嫌だから」私は勳の言葉をさえぎった。「理由なんて、それで十分でしょ?」空気が、ぴんと張りつめた。彼はごくりと喉を鳴らして、私を睨みつけた。「これは、仕事の話だ」「そうね」私はうなずく。「だから、あなたとはしないの。何か問題でも?」勳はまるで、殴られたかのような顔をした。でも、なんとか平静を装っている。「どうしてそんなに意地を張るんだ。俺を恨んでるんだろう?」私は、思わずふっと笑ってしまった。「伊藤社長。ずいぶんと思い上がりなのね。毎日お客さんと会って、電話を受けて、帳簿をつけて。忙しくて、誰かを恨んでいる暇なんてないの」勳は、何も言えずに口を開けていた。その視線は私の顔から、壁に飾られたたくさんの作品へ移っていく。そして最後に、作業台の上の、無造作に置かれた鍵に吸い寄せられた。勳は、はっと息をのんだ。「まだ、持ってたのか……」「片付けをしたら出てきたの」私はその鍵をひょいと掴むと、ゴミ箱に放り込んだ。「ちょうど捨てようと思ってたところ」カシャン、と乾いた音が響く。勳は一瞬固まってから

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status