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第10話

Auteur: 水の妖精
アトリエが会社として新しく始まったその日は、とても良いお天気だった。

新しいオフィスは壁一面が大きな窓になっていた。最後の書類にサインし終わってふと横を見ると、窓の外ではプラタナスの若葉が風にやさしく揺れていた。

報告書を持ってきた胡桃が、少し興奮した声で言った。「社長、今月のお問い合わせ、なんと先月の5倍です。あの結婚式の一件で私たちに注目してくださったお客さんがすごく多いんですよ」

私はデータに目を落とした。「数より質が大切よ。お客さんを選ぶ基準は、これまで通りでお願いね」

「はい、わかりました」

午後、引越し屋のトラックがアパートの下に着いた。荷物は多くない。段ボール数箱分の服、数箱分の本、それに私がどうしても持って行きたかった数鉢のポトス。父を支えて車に乗せると、彼は私が3年間住んだ古いアパートを振り返った。

「お父さん、行こう」私は言った。「新しい家は暖かいから、膝にもいいわよ」

車が走り出すと、窓の外の景色は灰色の建物から緑の田んぼへ、そしてまた高層ビルへと変わっていった。父は窓に寄りかかって眠ってしまい、その手には私の子供の頃の写真が握られていた。

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  • 花に抱かれる彼、記憶に沈む私   第10話

    アトリエが会社として新しく始まったその日は、とても良いお天気だった。新しいオフィスは壁一面が大きな窓になっていた。最後の書類にサインし終わってふと横を見ると、窓の外ではプラタナスの若葉が風にやさしく揺れていた。報告書を持ってきた胡桃が、少し興奮した声で言った。「社長、今月のお問い合わせ、なんと先月の5倍です。あの結婚式の一件で私たちに注目してくださったお客さんがすごく多いんですよ」私はデータに目を落とした。「数より質が大切よ。お客さんを選ぶ基準は、これまで通りでお願いね」「はい、わかりました」午後、引越し屋のトラックがアパートの下に着いた。荷物は多くない。段ボール数箱分の服、数箱分の本、それに私がどうしても持って行きたかった数鉢のポトス。父を支えて車に乗せると、彼は私が3年間住んだ古いアパートを振り返った。「お父さん、行こう」私は言った。「新しい家は暖かいから、膝にもいいわよ」車が走り出すと、窓の外の景色は灰色の建物から緑の田んぼへ、そしてまた高層ビルへと変わっていった。父は窓に寄りかかって眠ってしまい、その手には私の子供の頃の写真が握られていた。新しい家は都心の住宅街にあって、一階で小さな庭もついていた。父と庭でクチナシの苗を植えていると、スマホが鳴った。トレンドニュースのプッシュ通知で、見出しが非常に目立っている。#かつてのスターベンチャー企業、ついに破産申請へ。私はその記事を開かず、そのまま苗に土をかけ続けた。夜、荷物を片付けていると、父の古いコートのポケットから木の箱が出てきた。開けてみると、田舎の家の鍵と一枚の写真。それは父がリハビリを終え、初めて支えなしで立てた瞬間のもので、私が腕を支え、二人で笑っていた。私は鍵と写真を並べて箱に戻し、蓋を閉めてから、納戸の一番上の棚にしまった。その隣には、季節外れの服や使わなくなった画材が置いてある。あの大変だった日々を忘れたいわけじゃない。ただ、その記憶も大切な宝物として、そっとしまっておきたかった。勳の噂を耳にしたのは、それから1ヶ月後のことだった。胡桃からのメッセージによれば、勳の会社が潰れてから、毎日バーで飲んだくれているそうだ。先週の深夜、千鳥足で昔の町へ向かう勳を見た人がいたらしい。あの場所はもう新しい商業施設を開発していて、あのボロアパートな

  • 花に抱かれる彼、記憶に沈む私   第9話

    結婚式の動画が、深夜2時に突然、拡散され始めた。最初に広まったのは、30秒の短い動画だった。私がシャンパンを注ぐと招待状の上にこぼれ、日和のこわばった笑顔と、勳の真っ青な顔が映っていた。タイトルはただ一言、【スッキリした】だ。夜が明けるころには、百万回以上も拡散されていた。【うわ、マジか。これって、ちょっと前にバズった『事業が軌道に乗ったら、まず貧乏な恋人を捨てる』の投稿者の彼氏じゃない?】【てことは、お嬢様が略奪愛したってこと?しかも、自分の男の元カノを結婚式に招待するとかありえない!】【あのシャンパンを注ぐシーン、マジで100回は見れる!本当にカッコよすぎ!】日和のSNSアカウントが特定された。一番新しい投稿は結婚式の前夜のもので、豪華なドレスや高価な指輪、完璧な式場の写真が何枚もアップされていた。そして、こう添えられていた。【明日、私の青春を照らしてくれた、一番素敵な人と結婚する】コメント欄はもう炎上していた。【一番素敵な人?一番ダメな人だろ?】【あなたの旦那さんの元カノ、彼が売れない頃にボロアパートで5年も一緒に暮らして支えてあげてたんだってね】【へえ、お嬢様も人のものを横取りするのがお好きなんですね。さぞ気持ちいいんでしょうね、やり方を教えてほしいですよ】お昼の12時、最初の提携ブランドが声明を発表した。本日をもって伊藤日和さんとの全てのプロモーション契約を終了する、と。続いて、二社目、三社目と発表が相次いだ。日和はすべての投稿を削除し、コメント欄を閉鎖した。でも、スクリーンショットはとっくにネット中に広まっていた。彼女が必死で守ってきた「セレブ」というイメージも、高木家のメンツもズタズタになった。そのせいで、実家のビジネスにまで影響が出始めた。午後2時、高木グループの公式サイトがお知らせを掲載した。【伊藤日和さんは、一身上の都合により、当面の間、休職いたします】【当面の間】という言葉には、なんだか含みがあるように感じた。日和から電話があったとき、私は父のためにスープを煮込んでいた。彼女の声は、耳をつんざくようだった。「前田!これで満足?!私はもう何もないのよ!ブランドとの契約は打ち切り!会社は休職させられて!ネット中で叩かれてる!」私は火を弱めながら言った。「昔、あな

  • 花に抱かれる彼、記憶に沈む私   第8話

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  • 花に抱かれる彼、記憶に沈む私   第6話

    日和がアトリエに入ってきたとき、私は床にかがんで、届いたばかりの資料を片付けていた。ノックもなしに。「お忙しいところ、ごめんね」わざとらしく明るい、聞き覚えのある声だった。顔を上げると、そこに日和が立っていた。今日はクリーム色のスーツ姿で、手には電車の広告で見たことがある限定品のバッグ。新しくパーマをかけたのか、完璧なカールだ。勳がここへ来て気まずそうに帰ってから、まだ数日しか経っていない。どうやら、彼から何か聞いたみたいだ。「何の用?」私は立ち上がる。指から紙くずがひらりと舞い落ちた。日和は答えず、アトリエの中をじろりと見回した。たいして広くもない部屋だから、一目で見渡せる。壁紙はところどころ剥がれ、隅には画材が山積みになっている。机の上には、描きかけの原稿と、食べかけの出前が置きっぱなしだ。彼女の口元が、ほんの少しだけ動いた。笑っているのか、ただ引きつっているのか、よく分からない。日和はまっすぐ机に近づくと、机の真ん中に、金文字の入った招待状を置いた。私が読めるように、わざとゆっくりした動きだ。「来週の土曜日よ」と彼女は言った。「私と勳さん、結婚するの」「彼に頼まれたの?」と私は尋ねた。日和は、ふっと鼻で笑った。「それって、重要なの?」彼女は髪をかきあげながら言った。「ウェディングドレスはオーダーメイドで、3ヶ月待ったの。指輪は勳さんがわざわざH市まで買いに行ってくれたの。式場は華月ホテルで、ワンフロア貸し切りよ」私は黙っていた。日和は一歩、私に近づいた。「あなたに会ってから、勳さんは少し様子がおかしくてね。夜にお酒を飲んで、あなたに申し訳ない、なんて馬鹿なこと言ってたわ」彼女は首を振る。「男の人って結婚前は不安になるものなのよ。余計なことを考えちゃうの。私にはわかるわ」「それで、今日は?」「けじめをつけにきたの」日和は私の目をまっすぐ見た。「前田さん、もう3年経ったわ、いい加減前に進んだら?招待状は渡した。もう、私たちの前に現れないで。二度と、彼に連絡しないで」彼女は続けた。「お互い大人なんだから、みっともない真似はやめよう」私は招待状を手に取る。写真の中の勳は、晴れやかな笑顔をしていた。数日前に彼がここに立っていた姿をふと思い出す。しばらくして、日和が口を開いた。

  • 花に抱かれる彼、記憶に沈む私   第5話

    ドアが開くと、勳の笑顔がぴたりと固まった。持っていた契約書が、ぱさりと床に落ちた。段ボールの梱包をしていた私は、ふと顔を上げて、彼の真っ青な顔に気づいた。3年ぶりの勳は、高そうなスーツを着ていた。袖口の腕時計が冷たく光っている。電話で、「もうボロアパートの匂いはうんざりだ」と言ったあの人と、目の前の彼がゆっくりと重なった。「奈津美?」勳の声は、ひどくこわばっていた。「ええ、そうよ」私も少し驚いた。アシスタントの野口胡桃(のぐち くるみ)が進めてくれていた仕事が、まさか彼との話だったなんて。勳が数歩こちらへ近づく。そして、私の顔をじっと見つめてきた。「なんで、お前がここに……」彼は信じられないというように、目の前の現実を確かめていた。私は手を洗いながら、尋ねた。「私じゃ、この仕事はなしにする?」勳は震える手で、かがんで契約書を拾った。三度目でやっと拾うと、作業台の上に置いて言った。「条件を言ってくれ」私は契約書の最終ページだけちらりと見て、すぐに閉じて彼の方へ押し返した。「ごめん。急にこの契約、気が乗らなくなっちゃった」「どうして?最低でも4000万円は保証するし、宣伝効果だって……」「私が嫌だから」私は勳の言葉をさえぎった。「理由なんて、それで十分でしょ?」空気が、ぴんと張りつめた。彼はごくりと喉を鳴らして、私を睨みつけた。「これは、仕事の話だ」「そうね」私はうなずく。「だから、あなたとはしないの。何か問題でも?」勳はまるで、殴られたかのような顔をした。でも、なんとか平静を装っている。「どうしてそんなに意地を張るんだ。俺を恨んでるんだろう?」私は、思わずふっと笑ってしまった。「伊藤社長。ずいぶんと思い上がりなのね。毎日お客さんと会って、電話を受けて、帳簿をつけて。忙しくて、誰かを恨んでいる暇なんてないの」勳は、何も言えずに口を開けていた。その視線は私の顔から、壁に飾られたたくさんの作品へ移っていく。そして最後に、作業台の上の、無造作に置かれた鍵に吸い寄せられた。勳は、はっと息をのんだ。「まだ、持ってたのか……」「片付けをしたら出てきたの」私はその鍵をひょいと掴むと、ゴミ箱に放り込んだ。「ちょうど捨てようと思ってたところ」カシャン、と乾いた音が響く。勳は一瞬固まってから

  • 花に抱かれる彼、記憶に沈む私   第3話

    日和の言葉を聞いたとたん、勳の私を見る目つきが変わった。まるで、知らない人を見るみたいな目だった。「奈津美、お前を信じた俺が馬鹿だったと、そう思わせるなよ」そう言うと、彼は振り返りもせずに歩き去った。「勳!」悔しさに体が震える。部屋中の人たちが、冷たい目で私を見ていた。日和が、口の端で笑っていた。あの日から、私はどこへ行っても腫れ物扱いされるようになった。仕事のグループでは、【社長の彼女、お金のために会社と揉めるなんて、浅はかだよね】なんて書かれていた。取引先からかかってきた電話も、なんだか態度が変わった。「今後の業務は、副社長と直接やり取りさせてもらいますので……

  • 花に抱かれる彼、記憶に沈む私   第2話

    打ち上げパーティーで、日和はグラスを片手に、ごく自然に勳の隣に立った。二人は業界の動向とか、資金調達のこととかを話してたけど、私にはちっともわからない言葉ばかりだった。彼女は話しながら、さりげなく勳の腕に指でそっと触れていた。一度、二度。三度目に、勳は少し身を引いて、その手を避けた。その時、日和はふと顔を上げて、勳の肩越しに、隅にいた私を見た。そして、ほんのわずかに、微笑んだ。ライトの光を浴びて、彼女の指にあるダイヤの指輪が、きらりと強く輝いた。その光が、私の目に突き刺さるようだった。あんなにきれいなダイヤモンドは持ったことがない。でも、少しもうらやましくなかっ

  • 花に抱かれる彼、記憶に沈む私   第1話

    ネットの掲示板で、ある匿名の質問が流れてきた。【事業が軌道に乗ったら、まず貧乏な恋人を捨てる。それって、本当に正しいの?】たくさんの「いいね」がついたコメントには、こう書いてあった。【当たり前じゃん!自分が一番大事に決まってるでしょ?体しか能がない安っぽい女を捨てて、金持ちのお嬢様を捕まえれば、一気に上流階級の仲間入り。それで人生の勝ち組になれるんだから】でも、コメント欄では【クズ男】って叩かれてもいた。【はいはい、どうも。私がその、事業が成功した男に選ばれた『お嬢様』だよ】コメントを投稿した人は詳細に説明した。【あの男は私にアプローチしてきた時、ぜんぶ正直に話

  • 花に抱かれる彼、記憶に沈む私   第4話

    私は狂ったように会社に駆け込んで、スマホの画面を日和の目の前に叩きつけた。「あなたがやったんでしょ!」勳はすぐに彼女の前に立ちはだかった。「奈津美!証拠もないのに、でたらめを言うな!」「この会社で、彼女の他に私のパスワードを知っている人なんていないじゃない!」「パスワードをちゃんと管理してなかった、お前自身のせいだろ!」彼はそう言い放った。「何か問題が起きるとすぐ人のせいにするのか?日和さんはここ数日、ずっとお前の炎上対応に追われてたんだぞ。それなのに彼女を疑うのか?」私は笑った。でも、涙がこぼれてきた。「勳、私が5年もかけて育てたアカウントを、自分で壊す理由なんてないでし

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