LOGIN灰原朔也(はいばら さくや)が起業に失敗したとき、私・立花郁実(たちばな いくみ)は自分から別れを切り出した。 彼の母親に、「朔也の前から消えてくれたら、あの子を家に戻して、跡を継がせるわ」と言われたからだ。 私は朔也の前から姿を消した。その後、自分が妊娠していることに気づいた。誰にも頼らず、一人で子どもを産んだ。 5年後、朔也は灰原グループの社長として名を馳せていた。 そんなある日、彼は突然私の前に現れた。そして、私と息子・灰原海人(はいばら かいと)をそのまま灰原家へ連れ帰り、その日のうちに私と結婚した。 けれど新婚初夜、朔也は私のあごを乱暴につかみ、嫌悪に満ちた目で私を見つめる。 「金がなくなった途端に俺を捨てたくせに、今度はどこの馬の骨ともわからないガキまで連れてきたのか。俺を騙して、金をせびるつもりか?」 DNA鑑定を3回繰り返し、ようやく海人が自分の息子だと認めた。 それでも朔也は、私が海人を産んだのは、彼が再起する日を待つためだったと思い込んでいた。 グラスを揺らしながら、冷たい笑みを浮かべる。 「今日から、俺の金に手を出すな。1円たりとも使わせない」 そう言って、私に雑巾を投げつける。 「金が欲しいなら、働け」 それからの私は、灰原家の家事をすべて一人で引き受けた。その代わりに与えられるのは、月10万円の生活費だけだった。 一方、朔也の周りには次から次へと新しい女が現れ、彼はその女たちに惜しげもなく大金を使っていた。 それなのに、私だけは海人の薬を買うのすら、朔也に許可を取らなければならなかった。 海人が急に倒れた夜、病院から手術費の支払いを催促された。 朔也に何度も電話をかけたが、最後まで出ることはなかった。 その夜、朔也は今をときめく若手女優・結城明紗(ゆうき めいさ)とレッドカーペットを歩き、彼女のために2億円ほどのダイヤモンドのブレスレットを競り落としていた。 午前3時、海人は息を引き取った。 夜が明け、ようやく朔也が病院に駆けつけた。 私は結婚指輪を外し、離婚協議書と一緒に、朔也の前へ静かに置く。 朔也は誰もいなくなったベッドを一瞥しただけで、面倒くさそうに眉をひそめた。 「郁実、もういい加減にしろ。また金を騙し取って逃げるつもりか? 金目当てのお前が、灰原家の財産や地位を手放せるわけがないだろ」 朔也をまっすぐ見つめ、ふっと笑った。 「すぐに分かるわ。 私は海人と一緒に、あんたが二度と手の届かない場所へ行くの」
View More1年後、灰原グループは匿名で、子どもの心臓病を支援する救済基金を創設した。緊急治療が必要な子どもなら、治療費の支払いを後回しにして、先に手術を受けられる仕組みだ。基金の担当者が朔也に尋ねる。「基金の名前は、どういたしましょうか」朔也はデスクの上に置かれた申請書に目を落とす。長い沈黙のあと、ペンを走らせる。【海守】まだ救える命を守り抜く。そして、彼を待ち続け、最後にはもう待つことをやめた海人を、決して忘れないためだ。朔也は、灰原グループの社長を辞任した。個人資産の大半を売却した。あの海辺の別荘も差し押さえられ、競売にかけられた。別荘は最終的に4億円を超える金額で売れた。それだけあれば、何人もの子どもの手術費を賄える。だが、最も救いたかった、たった一人の命を救うことはできなかった。明紗は傷害事件の責任を問われ、芸能界から完全に追放された。その後も何度か朔也に連絡を取ろうとしたが、朔也は一度も応じなかった。かつて朔也と関係を持っていた女性たちも、次々と高価な贈り物を返してきた。どれだけ金を取り戻しても、灰原家はずっと空っぽのままだ。使用人たちが去ったあと、そこに残っていたのは、1枚の使い古した雑巾だけだ。それは結婚初夜、朔也が郁実に投げつけたものだ。彼は郁実を働かせ続け、毎月わずか10万円の生活費しか渡さなかった。今、その10万円はダイニングテーブルの上に置かれているが、もう取りに来る者はいない。それでも毎月、朔也は秘書に生活費を用意させている。12か月が過ぎても、1円も使われることはなかった。秘書は、なぜこんなことを続けるのかと尋ねた。朔也はただ、こう答えた。「郁実は、毎月待っていた。だから今度は、俺が待つ番だ」だが、朔也はよく分かっている。郁実は、もう二度と帰ってこない。海人も薬を買っていいかと聞きに来ることはない。郁実と海人の命日に、朔也は一人で墓地へ向かう。白いキキョウの花束と、新しい額縁を持っている。額縁の中には、海から引き揚げられた、あの家族の絵が入っている。紙はしわくちゃになり、もうもとには戻らない。太陽の部分はにじんで、大きな染みになっている。海は、淡い水色がわずかに残っているだけだ。3人をつないでいた手も、無残に途切
明紗は、活動休止することになった。スポンサー契約は次々と打ち切られ、すでに決まっていた主演映画も降板させられた。傷害の疑いで事情聴取を受け、さらには巨額の違約金を負うことになった。かつて明紗をちやほやしていた人たちは、潮が引くように姿を消した。明紗は手持ちのジュエリーをいくつか売り払ったが、財産の大半は差し押さえられていることを知る。追い詰められた明紗は、再び朔也のもとへ押しかける。朔也の車が灰原グループ本社の地下駐車場に入ったところで、明紗はサングラスを外し、駆け寄る。「朔也、私を見捨てないで!」ボディガードが明紗を引き離そうとする。そのとき、朔也は車の窓を下ろす。わずか十数日の間に、朔也はひどくやつれていた。目の下にはクマができ、かつての自信に満ちた面影はもうどこにもない。明紗は車にしがみつく。「動画をネットに流したのは私じゃないの!あのときは、ただ頭に血が上って……あいつが先にスタジオへ乗り込んできたのよ。しかも、朔也の妻っていう立場を利用して、私を見下したわ!」朔也は明紗を冷ややかに見つめる。「郁実がお前に何をした?」明紗は一瞬言葉に詰まる。あの日、郁実は「灰原家の奥様」という座を争おうとなんてしなかった。朔也と明紗の関係を問い詰めることもしなかった。それどころか、明紗を一言も責めていなかった。郁実はただ1000万円がほしかっただけだ。「あいつが朔也の妻であること自体が、私への嫌がらせなのよ!」明紗は泣きながら、朔也の手をつかむ。「私たち、長く付き合ってきたじゃない。どんなことがあっても、私を守るって言ったじゃない!あの海辺の別荘もジュエリーも、あんたが勝手にくれたものなのに、どうして今さら返さなきゃいけないの!」朔也の脳裏に、冷たい地面にひざまずく郁実の姿がよぎる。血が出るほど殴られても、郁実は一度も自分が「灰原家の奥様」だと口にしなかった。それなのに明紗は、自分のものではない金を握りしめ、まるで自分が被害者であるかのように、郁実を責め立てている。「……200万」朔也が突然、口を開く。「え?」「お前が郁実に渡した金だ。郁実と海人には、それだけの価値しかないと言ったな」明紗の顔色が変わる。「あれは、ただ怒りに任せて言
墓地は、海を見渡せる山の斜面にある。参列者は少ない。朔也はずっと最後尾を歩いている。誰も彼を追い払おうとはしないが、誰一人として近づくことを許さない。郁実と海人は、同じ墓に入ることになった。墓石には、二人の名前が刻まれている。【立花郁実】【愛息・立花海人】夫の名はない。父親の名もない。朔也は【立花海人】の文字をじっと見つめ、目が潤む。かつて3度も親子鑑定を受けさせ、海人は灰原家の血を引いていることを、周囲に認めさせようとした。それなのに、海人は死んだあと、「灰原」という苗字を捨てた。納骨の直前、知夏は海水でボロボロになった家族の絵を、墓の中に納めようとする。朔也が足早に近づく。「待ってくれ」その場にいた全員が彼を振り返る。朔也は修復したもう1枚の絵を取り出す。「こっちを入れてくれ」修復士の手によって、色あせていた太陽と海は元の姿を取り戻している。3人の小さな人影の輪郭も、はっきりと描き直されている。だが、父親の顔だけは、相変わらず真っ白なままだ。知夏は受け取ろうとしない。「ボロボロだけど、これは海人がのこしたものよ。どれだけきれいに直したって、それはもう海人の絵じゃないわ」納骨室の扉が閉じられていく。朔也はその場に立ち尽くし、郁実と海人が永遠の眠りにつくのをただ見つめている。納骨が終わったあとも、朔也はその場を離れようとしない。そこへ病院の会計から電話がかかってくる。朔也はすでに、海人の治療費をすべて支払い、さらに多額の金まで振り込んでいた。しかし、担当者は余分に振り込まれた金を返してきた。「未払い分は、立花さんがすでに全額支払っています。これ以上のお金を受け取るわけにはいきません」「病院への寄付にしてくれ」「それは可能ですが……」電話の向こうの担当者は少し言いよどみ、静かに告げる。「ですが、いくら寄付されても、海人くんがあの夜受けるはずだった治療とは、もう何の関係もありません」電話が切れる。朔也は墓石を見つめる。人生で初めて、金など何の意味もないのだと思い知らされた。7年前、朔也は貧しさゆえに郁実を失った。その後、使い切れないほどの金を手に入れたが、その金で郁実を傷つけ、支配し、薬を買うたびに頭を下げさせた。今
郁実と海人の葬儀の日、灰原家には誰一人として知らせなかった。それでも朔也は、何とかして斎場の場所を突き止めていた。黒いスーツを身にまとい、手には新しく額縁に入れ直した海人の描いた家族の絵を抱えている。入り口まで来たところで、知夏が彼の前に立ち塞がる。「あんたは入れないわ」「俺は郁実の夫だ」「郁実はもう、離婚協議書にサインした」「俺はサインしていない」知夏は冷たい目で朔也を見据える。「サインしたかどうかなんて関係ない。郁実はもう、あんたを必要としていない」朔也の視線が知夏を越え、室内へと向かう。そこには、灰原家からの供花は一つもない。「灰原家の奥様」や「坊ちゃん」といった呼び方も、どこにも記されていない。郁実の遺影の横には、ただ彼女自身の名前だけが書かれている。そして息子の名前は、【立花海人】と記されている。母親の姓を名乗っている。朔也の顔から、一瞬で血の気が引く。「海人の苗字は、灰原だぞ」「この子は立花よ」知夏は、委任状を取り出す。「郁実から任されたわ。もし彼女と海人に何かあったら、あんたには葬儀に関わらせないって。子どもの名前も、お墓も、すべて私が決めるってね」「あいつに、俺から父親としての立場まで奪う権利はない!」「父親?」知夏は目を赤くして、ふっと笑った。「海人が初めて手術を受けたとき、あんたはどこにいたの?誕生日は?薬がなくて苦しんでいたときは?病院で息を引き取ったとき、あんたは一体、どこにいたの!」容赦なく叩きつけられる言葉に、朔也はもう何も言い返せなくなる。彼はこれまで、一度も父親として、海人に寄り添ったことなどなかった。 それなのに今さら、血の繋がりだけを頼りに、父親気取りをしている。斎場の中から、すすり泣く声が聞こえてくる。まもなく葬儀が始まる。朔也は手を伸ばし、ドアを押し開けようとする。知夏の後ろにいた大学時代の同級生たちが、一斉に彼の前に立ちはだかる。そこへ弁護士も歩み寄ってくる。「灰原さん。どうか、依頼人の遺志を尊重してください。これ以上無理に入ろうとするなら、警察を呼ぶしかありません」「俺は、最後に二人を見送りたいだけだ」朔也の声には、初めて懇願するような響きが混じった。「中には入