LOGIN息子・藤堂直也(とうどう なおや)の5歳の誕生日、夫・藤堂翔吾(とうどう しょうご)の秘書である橘珠希(たちばな たまき)も家にやって来た。 私・藤堂清佳(とうどう きよか)が料理をテーブルへ運んでいった時、珠希は直也を抱き上げて一緒に写真を撮っていた。 「ご飯できたよ」と声をかけようとしたそのとき、直也が突然珠希の腕から飛び降り、私を指す。 「珠希姉ちゃんはネギ嫌いなのに、ママ、なんでそんなにたっぷりネギ乗せてるの?」 その声を聞いて、翔吾も後ろからやって来た。私が持っている皿を見るなり、眉をひそめる。 「別のを作ってくれないか?珠希はネギが苦手なんだ」 私は返す言葉もなく、その場に立ち尽くした。 今日の食事を用意するために、4時間もキッチンに立っていた。 翔吾の好きな角煮を煮込み、直也の好物のエビフライも作って、珠希の好物である魚の煮付けまで用意した。 全部で10品。その中で、私が自分のために用意したのはネギをたっぷり乗せた冷奴一皿だけ。 それなのに直也は、私がネギを好きなことすら覚えていなくて、翔吾もただ作り直せと言うだけ。 「ママ、肉じゃがも作ってよ。珠希姉ちゃん、好きだからさ」 私が黙っていると、翔吾が私の背中を押し、キッチンへ戻るよう促した。 「早く作ってくれよ。今日は直也の誕生日なんだから、雰囲気を悪くするな」 ダイニングテーブルでは、直也が左手で珠希と手をつなぎ、右手では翔吾の手を握っていた。 楽しそうに笑う3人は、まるで本当の家族のように見える。 私はしばらくその光景を眺めたあと、黙ってエプロンを外した。 この家に私の居場所がないのなら、もう身を引こう。
View Moreただ、いつまでも降り続いていた雨が、ようやく上がったような気がして、ほんの少しだけ肩の力が抜けた。まだ離婚の手続きがすべて終わっていない頃、直也から電話がかかってきた。出た途端、泣き声が聞こえる。「ママ、僕、病院にいるの……」スマホを握る手に力が入った。「どうしたの?」代わって電話に出た翔吾によると、この数日、直也は気持ちが不安定で、ろくに食事も取ろうとしなかったらしく、和子が機嫌を直そうとアイスクリームと冷たいコーラを買い与えたところ、一気に食べすぎてしまい、夜中に腹痛と嘔吐を起こして病院へ運ばれたという。私はそっと目を閉じた。それでも結局、病院へ向かった。病室のベッドに青白い顔で横になっている直也。私の姿を見た途端、彼の目から涙があふれた。「ママ……」そばに座っていた和子は、私を見るなり鼻を鳴らした。「よく来られたわね。子どもがこんなに具合悪くしてるのに、自分はホテル暮らしなんて。本当に薄情な母親」私は和子を相手にせず、ベッドのそばへ行って点滴を確認し、医師に容体を尋ねる。幸い大したことはないものの、もともと胃腸が弱いため、しばらくは食べるものに十分気をつけるようにと言われた。そんなことは、これまで私が何度言ってきたかわからない。けれどそのたびに、みんな私を心配しすぎだと言っていた。直也がおそるおそる私の指を握った。「ママ、ごめんなさい」涙が次々と頬を伝う。「ママなんか嫌だって言ってごめんなさい。ママなんかいらないって言ったのも……ごめんなさい。もう冷たいもの食べないし、珠希姉ちゃんとも遊ばなくていいから……ママ、お家に帰ってきて。お願い……」胸の奥が、細い針で刺されたように痛んだ。私は直也の布団を静かに掛け直す。「直也、今はゆっくり休んで」直也はじっと私を見つめていた。きっと、その先の言葉を待っているのだろう。ママは許してあげるよ。一緒に家へ帰ろう。けれど、私はどちらも言わなかった。ただ額に手を当てる。「ちゃんと先生の言うこと聞いてね」直也はますます激しく泣いた。病室の入り口には翔吾が立っていて、つらそうな目で私を見ていた。そのとき、きっと翔吾にもわかったのだと思う。失ったものの中には、泣いて謝っても元に戻らないものもあるとい
最後の言葉を口にした瞬間、自分でも一瞬戸惑った。その日の面接を終えて外へ出ると、雨が降っていた。ビルのエントランスで車を待っていると、スマホが震える。翔吾からだった。【今夜、時間あるかな?少し話がしたい】しばらく画面を見つめたあと、私は待ち合わせ場所だけを返信した。30分後、私たちはカフェで向かい合っていた。数日前に比べて、翔吾は少しやつれて見えた。顎にはうっすら無精ひげが生え、いつもきちんとしていたスーツにも珍しくしわが寄っている。長い沈黙の末、翔吾がようやく口を開いた。「清佳、離婚、考え直してくれないか?」私はカップの中のコーヒーを軽くかき混ぜる。「理由は?」翔吾は言葉に詰まったように喉を鳴らした。「君がいないと、家が回らないんだ」私は顔を上げた。翔吾はようやく話の糸口をつかんだと思ったのか、少し早口になる。「直也はこの何日かずっと泣いてて、夜もなかなか寝ないし、母さんも、家の中がめちゃくちゃだって言ってる。食事を作る人もいなければ、洗濯物も片づかない。今になって、今まで清佳がいろんなことをやってくれてたんだって気づいた」私は小さく笑った。「翔吾、それは家が私を必要としているだけで、あなたたちが私を必要としているわけじゃない」翔吾が黙る。「あなたたちが必要なのは、料理をして、家を片づけて、子どもの世話をして、何をされても受け入れてくれる人。別にそれが私じゃなくてもいいの」翔吾はいまいち理解できていないようで、眉を寄せた。「あのネギのせいなのか?」彼があの料理のことを覚えていたのは意外だった。けれど翔吾は、いまだに問題がネギにあると思っている。窓の外に降るしとしととした雨を見つめていると、急におかしくなり、同時にどっと疲れが押し寄せてきた。「そうかもしれないね」私は静かに続けた。「あの日、ふと気づいたの。私はずっと、みんなのことを自分より優先してきたんだって。翔吾の仕事も、胃のことも、機嫌も、いつだって一番に考えてたし、直也の体調も、好きなものも、泣くたびにどうしたらいいかって、そればかり考えてた。それに、橘さんがネギを食べられないことまで覚えてたのに……自分のことだけ忘れてたんだ」翔吾の表情がわずかに変わった。彼は声を落として言う。「俺
その瞬間、翔吾が私の手首をつかんだ。痛いほどの、強い力。「俺は同意しない」「同意しなくてもいいよ」私は静かに翔吾を見返す。「そのときは、裁判でもいいから」翔吾の目がわずかに見開かれた。まさか私が、こんなにも冷静にそんな言葉を口にする日が来るとは思っていなかったのだろう。以前の私は、翔吾が少し眉をひそめただけで自分から折れていた。言い争うのが怖かったし、嫌われるのも、見捨てられるのも怖かったから。けれど、本当にここを出ていくと決めてしまえば、不思議なくらい怖くなくなった。私は手首をつかんでいる翔吾の指を、一つずつ外していく。「翔吾、これ以上あなたの情けない姿は見たくない」彼の指が固まった。その手を振りほどき、スーツケースを引いて玄関へ向かう。「ママ!ママ、行かないで!」泣きながら追いかけてきた直也の声は、もうすっかりかすれていた。「もう珠希姉ちゃんをうちに呼ばないから!ママのこと、もう嫌だなんて言わないから!ママ、ごめんなさい……」ほんの一瞬だけ、私の足が止まる。しかし、次の瞬間には、珠希が急いで直也のそばへ行き、その手を取っていた。「直也くん、泣かないで」彼女はしゃがみ込んで、優しく涙を拭う。「ママはちょっと怒ってるだけだから、何日かしたら帰ってくるよ。それまで私と一緒にいよう、ね?」ところが直也は、珠希を思いきり突き飛ばした。不意を突かれた珠希はよろめき、顔を青ざめさせる。直也は顔を真っ赤にして泣きながら、珠希に向かって叫んだ。「珠希姉ちゃんなんかいらない!」珠希が呆然とする。直也は涙をこぼしながら言った。「珠希姉ちゃん、何言ってるの?僕は珠希姉ちゃんのこと、一緒に遊んでくれたり、おもちゃ買ってくれたりしたから好きだっただけ。ただのお世話してくれる人としか思ってないから!珠希姉ちゃんなんか嫌だ!僕はママがいいの!」リビングが一気に静まり返り、珠希の顔からは一瞬で血の気が引いていった。和子も慌てて直也を叱る。「直也!なんてこと言うの!そんな失礼な言い方しちゃダメでしょ!」けれど直也は聞こうともせず、泣きながら玄関へ駆けてくる。「ママがいい!」翔吾は疲れたように眉間を押さえ、和子と珠希を見た。「母さん、珠希と先に帰ってくれ」「翔吾
翔吾は離婚協議書と離婚届をじっと見つめたまま、そこに書かれている文字の意味が理解できないかのように固まっている。数秒経ってようやく顔を上げると、低い声で私に尋ねてきた。「清佳、自分が何を言っているのか分かっているのか?」直也はまだ珠希の腕に抱きついていて、さっきまでの嬉しそうな笑顔も完全には消えていなかった。まだ幼く、書類に書かれた文字の意味もわからないのだろう。ただ不思議そうに私を見ていた。「ママ、パパに見せてるの何?」私は答えず、翔吾を見た。「離婚協議書は弁護士に作ってもらった。家は結婚してから買った共有財産だから、今の相場でどちらかが買い取ってもいいし、売って分けてもいい。車と預貯金、翔吾の会社の株についても、結婚後に増えた分から私が受け取るものは全部まとめてもらってる」そこで一度言葉を切った。「それから、直也のことだけど……」直也が私を見上げている。その頬には、これまで何度キスしたかわからない。熱を出した夜は一晩中ベッドのそばで抱きしめ、心配で眠ることさえできなかった。あの子が初めて「ママ」と呼んでくれた日のことは忘れられない。胸がいっぱいになって、涙が止まらなかった。けれど今は、その顔から目をそらして続きを口にする。「親権はいらないから、直也はあなたが引き取って」翔吾の表情が一変した。「清佳!」彼が勢いよく立ち上がった拍子に、テーブルのグラスが倒れ、水が一面にこぼれる。その音に驚いた直也も、ようやく何かを察したらしい。珠希の手を離して私のところへ駆け寄ってくると、服の裾をぎゅっとつかんだ。「ママ、僕のこといらないの?」声がみるみる不安そうに揺れる。「どうして僕のこといらないの?」私は視線を落とし、その小さな手を見た。昔はいつも、私を離そうとしなかった小さな手。眠るときだって、私が隣にいなければ嫌だと泣いた。それがいつしか珠希の手を握り、私の目の前で「ママはいらない」と言うようになった。私はそっと、その手から服を抜く。「直也にはパパがいるから。パパがちゃんと面倒を見てくれるよ」直也の目から、たちまち涙がこぼれた。「嫌だ。ママがいい……」そこでようやく我に返った和子が、ソファの肘掛けを強く叩いた。「清佳、あなた何を考えてるの?こんなに