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誰も聞かなかった「痛い」、私だけの自由

誰も聞かなかった「痛い」、私だけの自由

Por:  風音Completo
Idioma: Japanese
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婚約者の高間孝太郎(たかま こうたろう)が、私の養妹、米光瑞歩(よねみつ みずほ)と新居に用意したベッドで体を重ねる姿を目撃したあの日―― うつ病の症状がひどくなった私、米光留佳(よねみつ るか)は睡眠薬を30錠、一度に飲んだ。 一命を取り留めた私に、両親は静かに切り出した。瑞歩が不治の病に侵され、余命3か月と宣告されたのだと。 「許すかどうかは、お前が決めろ」 孝太郎も目を潤ませて私の前に跪いた。 「君が許してくれても、くれなくても、1か月後には必ず結婚式を挙げる」 後悔に満ちたその表情に、私はついほだされてしまった。 けれど、それも医師である兄、米光蒼介(よねみつ そうすけ)のスマホで、あるやり取りを目にするまでの話だ。 音声メッセージの中で、瑞歩が甘ったるい声を上げて笑っていた。 「やっぱりお兄ちゃんはすごいよ。偽の診断書1枚で、あのイカれた女を思い通りに操れるんだから」 震える手でスマホを握りしめ、私は家族が集まるリビングへ向かった。 兄は無言で煙草に火をつけ、押し黙っていた。 両親はうんざりした顔で私をなじった。 「お前の心が弱すぎるのが悪いんだろう。お前がまた自殺を図るんじゃないかと心配したから、こんな手の込んだ嘘をつく羽目になったんだ」 孝太郎に至っては、恨めしそうに私を睨み、瑞歩を背後に庇いながら、こう言い放ったのだ。 「少しくらい大目に見てやれないのか。家族を滅茶苦茶にする気か」 誰よりも愛した男と、血のつながった家族が、悪びれもせずに放つ言葉を聞きながら、口の中に広がる血の味を感じ、私は静かに笑った。 彼らは瑞歩を守るため、手の込んだ嘘まで吐いて「不治の病」をでっち上げた。 けれど彼らは知らない。私の重度の鬱病が、本物であるということを。 うつ病の身体症状によって、複数の臓器が機能不全に陥っていることも、紛れもない事実だということを。 もう、この家はいらない。 どうせ私は、この冬を越せないのだから。

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Capítulo 1

第1話

兄が灰皿で煙草を揉み消し、低い声で問う。

「……もう気が済んだか?」

私は黙って兄を見つめた。

幼い頃、注射が怖くて泣きじゃくるたび、兄は私を抱きしめて慰めてくれた。「留佳、怖くないぞ。お兄ちゃんがいるからな」って、いつも言ってくれた。

それなのに、私が本当に病に倒れてからは、一度たりとも「苦しくないか」と気遣ってはくれなかった。

私は小さく頷いた。

「わかった。もう暴れたりしない」

そのひと言に、彼らはかえって戸惑ったように顔を見合わせた。

母が警戒するような目で私を見る。

「留佳、どういうつもり?」

「別に。もう騒がないって言っただけよ」

孝太郎が目を潤ませる。

「留佳、二度と早まった真似はしないでくれ」

その顔を見ていると、ふいに酷い疲労感が押し寄せた。

「うん、しない」

誰も信じてくれないだろうけれど。

身分証を取りに部屋へ戻り、引き出しを開けたところで、孝太郎が後を追ってきた。

彼は私の手首を強くつかんだ。

「何をする気だ」

私は振りほどこうとした。

「離して」

ドアの外から母の声がした。

「孝太郎、しっかり見ていて。また何かやらかすに決まってるんだから」

その言葉に、私はその場で凍りついた。

次の瞬間、兄が物置からひと巻きのロープを取り出した。真っ白で、不気味なほど太いロープ。

「お兄ちゃん、私を縛るつもり?」

兄は私の視線を避けた。

「今のお前は精神的に不安定すぎる。少し落ち着け。一晩頭を冷やせ」

瑞歩のために、兄は私を縛り上げて閉じ込めようとしている。

「こんなことして、許されると思ってるの!?」

身を翻して逃げようとした私を、孝太郎が力ずくで椅子へ押さえつける。

どうしても抜け出せなかった。

私の体はとうに限界を迎えていた。あの時、薬を大量に飲んで救急搬送されて以来、少しの間立っているだけで手足が震えるのだ。

兄は俯いたまま、無駄のない手つきで私の両手を縛り上げていく。

ロープが手首に食い込んだ瞬間、痛みに思わず息を呑んだ。

兄は一瞬だけ動きを止め、「動くな。怪我をするのはお前だぞ」と冷たく言い放った。

その横顔を見つめながら、なんて偽善的なのだろうと思った。

部屋の中は隅々までひっくり返されていた。

母は目を腫らしながら言う。

「留佳、お母さんを恨まないで。みんな、あなたに何かあったらと思うと怖いのよ」

私は尋ねた。

「私に何かあるのが怖いの?それとも、大事な瑞歩を、私が傷つけるのが怖いだけ?」

母の顔から血の気が引いた。

ドアの外で、父が低く重たい声を出す。

「いい加減にしろ」

ドアが閉まり、鍵がかかる音に続いて、ドアチェーンを掛ける音がした。

その後、私はベッドに移され、横たわっているうちに、縛られた手首が少しずつ痺れていった。

ドアの外からは瑞歩の泣き声が聞こえ、家族みんなが口々に彼女を慰めている声も聞こえた。

夜が更けた頃、ドアの鍵が開く音がした。

瑞歩が部屋に入ってくる。部屋の明かりはつけず、枕元のスタンドライトだけを点けた。

暖かな橙色の光に照らされた顔に、もう涙の跡はない。

ベッドの傍らに立ち、縛られた私の手を一瞥すると、彼女はゆっくりと口角を歪めて笑った。

「お姉ちゃん、そんな姿になって、惨めだね」

私は冷ややかな視線を返した。

瑞歩は腰を下ろし、声をひそめて言った。

「本当はね、この家の誰も、お姉ちゃんのことなんて愛してない。もうみんな、うんざりしてるの。

孝太郎さんがお姉ちゃんのそばにいるのだって、愛してるからじゃない。昔、命を助けてもらった恩があるから、簡単に切り捨てられないだけ」

私は指先をぎゅっと握りしめた。

瑞歩はさらに顔を近づけてくる。

「私といると楽しいって、彼、言ってたよ」

胸の奥を重い泥で塞がれたように、息苦しくなる。

瑞歩は私を見据えたまま、さらに軽やかに笑った。

「お姉ちゃん、どうしてまだ死なないの?

死んでくれたら、みんな楽になれるのに」

私はしばらく彼女を見つめたあと、ふいに口を開いた。

「……夢でも見てなさい」

瑞歩の顔から笑みが消える。

「あなたに譲る気なんて、ないから」

彼女は眉をひそめた。私は構わず、ゆっくりと言葉を続けた。

「私が婚約を解消しない限り、あなたはいつまで経っても、ただの浮気相手でしかないのよ」

次の瞬間、頬に平手が飛んできた。

私はその勢いでベッドから落ち、腰をベッドの角に強く打ちつける。

痛みのあまり、私は床にうずくまった。

瑞歩は勝ち誇った顔で、床にうずくまる私を見下ろしている。

「これが、身の程知らずの報いよ!」

言い放った直後、彼女は突然、泣き声を上げ始めた。

「お姉ちゃん!どうして私を叩くの!」

そして、薄れゆく意識の中で、私が最後に見たのは――血相を変えて駆け込んできた孝太郎が真っ先に瑞歩へ駆け寄り、その名を呼ぶ光景だった。

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harukakanata
harukakanata
なんだか終わりもスッキリしないし、不完全燃焼みたいな終わりだった…… もっと婚約者にもヒロインの墓に来れない位に堕ちて欲しかったような……
2026-10-26 17:51:47
2
0
松坂 美枝
松坂 美枝
主人公が死なないと何もわからない虐待家族の大後悔話 痩せ細って吐血して痛いって言ってる人を見て見ぬふりするどころか偽造カルテに閉鎖病棟にぶち込める神経の奴らが後悔(笑) 元婚約者も大概クレイジーでマトモなやつがあんま居なかったな
2026-10-26 09:56:48
6
0
Tomo Tomo
Tomo Tomo
ベッドに縛りつけられてるヒロインがクズ女を叩ける、と思ってる時点でオツムに異常がある人間ばかり。信じる/信じないの問題ではないよね。だから後悔も嘘くさくて、終わりがすっきりしない。
2026-10-26 13:16:08
5
0
haya
haya
生きてる時にここまで集団で尊厳を傷つける残酷な事をしておきながら、亡くなった後に後悔して、好きな料理やら墓参りした所で、どの口が言ってんだ。って気分悪い。
2026-10-26 22:34:41
0
0
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第1話
兄が灰皿で煙草を揉み消し、低い声で問う。「……もう気が済んだか?」私は黙って兄を見つめた。幼い頃、注射が怖くて泣きじゃくるたび、兄は私を抱きしめて慰めてくれた。「留佳、怖くないぞ。お兄ちゃんがいるからな」って、いつも言ってくれた。それなのに、私が本当に病に倒れてからは、一度たりとも「苦しくないか」と気遣ってはくれなかった。私は小さく頷いた。「わかった。もう暴れたりしない」そのひと言に、彼らはかえって戸惑ったように顔を見合わせた。母が警戒するような目で私を見る。「留佳、どういうつもり?」「別に。もう騒がないって言っただけよ」孝太郎が目を潤ませる。「留佳、二度と早まった真似はしないでくれ」その顔を見ていると、ふいに酷い疲労感が押し寄せた。「うん、しない」誰も信じてくれないだろうけれど。身分証を取りに部屋へ戻り、引き出しを開けたところで、孝太郎が後を追ってきた。彼は私の手首を強くつかんだ。「何をする気だ」私は振りほどこうとした。「離して」ドアの外から母の声がした。「孝太郎、しっかり見ていて。また何かやらかすに決まってるんだから」その言葉に、私はその場で凍りついた。次の瞬間、兄が物置からひと巻きのロープを取り出した。真っ白で、不気味なほど太いロープ。「お兄ちゃん、私を縛るつもり?」兄は私の視線を避けた。「今のお前は精神的に不安定すぎる。少し落ち着け。一晩頭を冷やせ」瑞歩のために、兄は私を縛り上げて閉じ込めようとしている。「こんなことして、許されると思ってるの!?」身を翻して逃げようとした私を、孝太郎が力ずくで椅子へ押さえつける。どうしても抜け出せなかった。私の体はとうに限界を迎えていた。あの時、薬を大量に飲んで救急搬送されて以来、少しの間立っているだけで手足が震えるのだ。兄は俯いたまま、無駄のない手つきで私の両手を縛り上げていく。ロープが手首に食い込んだ瞬間、痛みに思わず息を呑んだ。兄は一瞬だけ動きを止め、「動くな。怪我をするのはお前だぞ」と冷たく言い放った。その横顔を見つめながら、なんて偽善的なのだろうと思った。部屋の中は隅々までひっくり返されていた。母は目を腫らしながら言う。「留佳、お母さんを恨まないで。みんな、あな
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第2話
目を覚ますと、消毒液の匂いがした。頬は腫れ上がり、腰は折れたように痛む。目を開けた瞬間、瑞歩がベッドのそばに駆け寄ってきた。「お姉ちゃん、やっと目を覚ましたのね」泣き腫らした目は真っ赤で、頬には薄い赤い痕が残っている。「私、本当に説得したかっただけなのに。どうして私を叩いたの?そのうえ自分で転んで、みんなを怖がらせて」私は彼女を見つめたまま、しばらく言葉を失っていた。病室には家族全員が揃っていた。ベッドの足元には両親、窓際には兄が寄りかかり、孝太郎は椅子に腰かけている。目の下には隈ができ、私を見る目には疲れが滲んでいた。先に口を開いたのは母だった。「留佳、瑞歩は心配であなたの様子を見に行っただけなのよ。腹が立ったからって、手を上げていいわけがないでしょう」私の喉が、ひりつくほど渇いていた。「あの子の言うことなら、なんでも信じるのね」父が眉をひそめる。「じゃあ聞くが、瑞歩がお前を傷つける理由があるとでもいうのか」私は兄に視線を向けた。「防犯カメラの映像を確認して。廊下にカメラがあるはずよ」瑞歩の指先がぴくりと強張った。孝太郎が立ち上がる。「もう確認するよう頼んである」30分後、防犯カメラの映像が届いた。はっきりと映っていた。深夜1時過ぎ、瑞歩が私の部屋に入っていく姿が。私は皆を見回した。「深夜に私の部屋へ入って、何をしていたのか聞かないの?」瑞歩は泣きながら首を振る。「私はただ、お姉ちゃんに謝りたかっただけ……っ」母はすぐに瑞歩を抱き寄せた。「瑞歩はもう十分つらい思いをしているのよ」父はこめかみを揉んだ。「留佳、いい加減にしろ」兄は手元のカルテを閉じ、淡々と言った。「お前は昨夜、明らかに精神状態が不安定だった」私は兄を見つめた。その口調に迷いの色は一切ない。医者というのは、患者の顔すら見ずに診断を下せるものなのか。孝太郎がベッドのそばに来て、声を落として言った。「留佳、結婚式は予定通りに挙げる。マンションが欲しいなら、君の名義にしてもいい。これ以上騒がないでくれるなら、なんだって話に応じる」私は尋ねた。「孝太郎、そんなもので私を丸め込もうとしてるの?」彼は一瞬、言葉に詰まった。瑞歩が突然お腹を押さえ、顔を青ざめ
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第3話
私は3日間、病院に入院していた。担当の看護師以外、誰も顔を見せなかった。4日目の朝、看護師が入院費の支払いを催促しに来た。そこで初めて、入院費が未払いのままになっていることを知った。私は尋ねた。「あの人たち、お金を払ってないの?」看護師は少し困った顔をした。「昨日、ご家族が一度病院を出られて、あとで支払いに戻ると……」朝から晩まで待ち続けたけれど、スマートフォンは一度も鳴らなかった。夜になって、瑞歩がSNSを更新した。位置情報には、海辺のホテルの名前が表示されていた。麦わら帽子をかぶり、夕陽を背に立つ彼女の写真だった。孝太郎が彼女の鞄を持ち、母が上着をかけてやり、父はそばで大切そうに彼女を守っている。兄はカメラを構え、彼女のどんな表情も見逃すまいとしているようだった。添えられた一文。【赤ちゃん、はじめての海】その写真を見つめるうち、指先が少しずつ強張っていった。看護師が2度目の支払いを催促しに来た時、私は自分で会計を済ませた。残高は大きく目減りしたが、家に帰るぶんはなんとか残っていた。家には誰もいなかった。確かに空っぽのはずなのに、家じゅうに彼らが帰って来てはまた出て行った痕跡だけが残っていた。自室に戻ってドアを閉め、机のそばまで来たところで、突然、血が喉の奥からせり上がり、思わず咳き込んだ。床に血が飛び散った。机の角に手をついたまま長く咳き込み、何度も目の前が真っ暗になった。ようやく咳が治まり、手を洗おうとした。手を洗っていると、指の間にひと塊の髪の毛が絡みついているのに気づいた。私はしばらく呆然としたあと、そっと頭に触れてみる。またひと房、はらりと抜け落ちた。鏡に映った自分は、別人のように痩せ細っていた。顔は土気色で血の気がなく、唇にも色がない。孝太郎が以前、言っていたことを思い出す。「君、いつもそんな暗い顔じゃ、見ているこっちが疲れる」あの時私は聞いた。「私、そんなに見苦しい?」彼は、そうじゃないと答えた。「ただ、瑞歩がいる時のほうが、部屋の中が明るくなる気がするだけだ」床にかがみ込んで血を拭き取り、抜けた髪をゴミ箱に捨てた。まるで誰か他人のものを片づけているかのように、その動きはひどく緩慢だった。それからパソコンを開き、婚約解消の合
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第4話
孝太郎が飛び降りてから、家はすっかり混乱に包まれた。けれどどれほど混乱していても、私を気にかける者は誰もいなかった。私は救急外来のロビーに立ち尽くし、額には冷や汗が滲んでいた。腹の奥が何度も引きつるように痛み、腰は伸ばせないほどだった。壁際に寄りかかるように立ち、まるで居場所のない人間であるかのように、夜明けまでそこで待ち続けた。手術室のほうから戻ってきた兄が、私をちらりと見た。「これで満足か!お前みたいな性根の腐った女が、こんなに大勢を傷つけておいて、どうしてまだ死なずにいるんだ!」私は何も答えず、ただ小さく頷いた。「信じないなら、それでいい」それから数日、家族は私をいっそう厳しく監視するようになった。どこへ行くにも、誰かの目が付きまとう。孝太郎は特別個室に入院し、脚の怪我は重かった。瑞歩がベッドのそばで泣き続け、逆に彼のほうが彼女を慰めていた。両親は口では「もうこれ以上何かあってはいけない」と言いながら、私を見る目はまるで泥棒でも見るようだった。3日後、父が1通の書類を私の前に差し出した。表題には【家族の安全に関する誓約書】とあった。数行読み進めたところで、指先の動きが止まった。【今後、瑞歩を刺激してはならない。瑞歩を脅してはならない。彼女と胎児を傷つけてはならない。もしこれに反した場合、家族との縁を切り、必要に応じて、本人の意思にかかわらず専門医の診察や入院治療を受けさせる】読み終えて、私は静かに尋ねた。「つまり今、一番警戒すべき人間は、私だということ?」母がそばに立ち、目を赤くしていた。「私たちだってどうしようもないのよ。瑞歩はお腹に子がいるし、孝太郎もあんなことになって、この家はこれ以上のトラブルはごめんだわ」私は母を見つめた。「それで、私は?誰か一度でも、私に聞いてくれた?」母は私の視線を避けた。「……今の状態じゃ、誰も安心できないでしょう」父が重い声で言った。「署名しろ。それで皆が楽になる。しないなら、この家にお前の居場所はもうない」私は手元の書類を見下ろした。署名してもしなくても、同じことだった。もともと、この家に残るつもりなどなかったのだから。私はペンを取り、最後のページに署名した。母は明らかに安堵した様子
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第5話
私の訃報が届いたあの日、米光家は重苦しい静寂に包まれた。母は病院の廊下で泣き続け、ついには気を失った。目を覚まして最初に口にしたのは、もう一度、蘇生処置をしてもらえないかという医師への懇願だった。医師が黙って見守る中、母はその袖をつかんで離そうとしなかった。「あの子、まだ27歳なんです!昔はあんなに元気だったのに!先生、お願いです。もう一度診てください。あの子、まだ生きてるんじゃないですか」医師はしばらく母を見つめたあと、静かに答えた。「搬送された時点で、すでに手の施しようがない状態でした。重度の鬱病に加え、長期にわたって重い身体症状が続き、肝機能や腎機能だけでなく、免疫機能も著しく低下していました。ご愁傷様です」父は病院外の喫煙所に立ち、次々と煙草を吸い続けている。ライターを何度も鳴らしてようやく火をつけ、熱い灰が手の甲に落ちても、まるで気づいていないようだった。孝太郎は松葉杖をついたまま、長椅子に力なく座り込んでいた。ここへ来るまでは、まだどこかでたかをくくっていたのだろう。ただ体調を崩しただけだ。精神科病院に入れられても、しばらく騒いだあと、また家に連れ戻されるだけなのだと。けれど今回、私は戻らなかった。皆が口を揃えて「お前のためだ」と言ったあの場所で、私は死んだ。まだゆっくりと解決すればいいと、彼らが悠長に構えているうちに。最も遅く現実を受け止めたのは、兄の蒼介だった。救命処置室の前に長く立ち尽くし、ようやく医師へ目を向ける。その声はひどく掠れていた。「入院した時点で、すでにここまで悪かったんですか」医師は兄を一瞥した。「あなたはご家族でもあり、医師でもあります。私たちより、よくお分かりのはずではありませんか」兄の顔が一瞬で青ざめた。医師は電子カルテの端末を差し出した。「長期の不眠、栄養失調、繰り返す吐血。入院後も何度も腹痛と倦怠感を訴えていました。ですが、紹介状には精神状態が不安定で、自傷他害の恐れありとだけ記されていました。治療方針が、その前提に引きずられてしまったのです。もっと早く、きちんと身体の検査を受けさせていれば、ここまで至らなかった可能性があります」兄の指先が、端末の端をつかんだまま強張って動かなくなる。分からないはずがなかった。医師である兄
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第6話
私が死んでからというもの、瑞歩はこの家で、誰もが扱いに困る存在になっていた。以前は彼女が泣くだけで、皆が慌ててそばへ駆け寄った。体調が悪いと言えば母が一晩中付き添い、怖いと言えば父がすぐに宥めた。孝太郎に至っては、いつも彼女を背後に庇って守ろうとした。けれど今、私は死んだ。私が死に至った原因は、誰の目にも明らかだった。彼女のお腹に宿る子は、もはや免罪符にはならなかった。むしろ、この裏切りを何よりも生々しく突きつける証拠と化していた。最初に態度を変えたのは孝太郎だった。まだ病院で療養中の彼は、脚にギプスをはめられ、見るからに生気を失っていた。瑞歩が保温容器を提げて見舞いに訪れた。ベッドの傍らに腰かけ、目を赤くして言う。「孝太郎さん、私だって、すごくつらいの。お姉ちゃんが死ぬなんて、思ってもみなかった。分かっていたら、絶対に刺激するようなことしなかった」孝太郎は顔を上げ、彼女を見た。孝太郎が瑞歩にこれほど冷たい目を向けたのは、初めてだった。瑞歩は一瞬たじろぎ、声のトーンを落とす。「……そんな目で見ないでよ。怖いよ」孝太郎は口の端を歪めた。「何が怖いというのか。留佳が死んで、もう誰もお前の罪をかぶってくれなくなったことか?」瑞歩の顔から血の気が引いた。「そ、そんな……孝太郎さん、どうしてそんなこと言うの!私だって、被害者なのに」孝太郎がふっと笑いを漏らした。「被害者だと?」枕元に置かれた婚約解消の合意書を手に取る。「彼女は、とっくに俺を見限っていたんだ。俺が勝手に、償いさえすれば、彼女はいつまでも俺を待っていてくれると思い上がっていただけだ」彼は瑞歩を見据えた。「だがお前は、最初からずっと、彼女がお前をいじめているように皆へ思わせていた」瑞歩は首を振り、涙をこぼした。「違う!私はただ、孝太郎さんのことが好きすぎただけ」孝太郎は目を閉じた。「もう来るな」瑞歩が固まる。「孝太郎さん」「もう来るなと言ったんだ」シーツを握りしめる指先に、力がこもる。「彼女が死んで、これで満足か」そのひと言に、瑞歩は完全に言葉を失った。一方、母は夜も眠れなくなっていた。毎晩のように私の部屋へ入っては、灯りをつけては消し、引き出しを開け、クローゼ
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第7話
彼らを完全に打ちのめしたのは、精神科病院から新たに提出された、私の詳細な診療記録だった。兄は医師であり、遺族でもあった。資料を手に入れるのは、彼にとって難しいことではなかった。資料の写しを受け取った彼は、1ページずつ確認していった。ページをめくるごとに、兄の顔色はみるみる青ざめていった。夜中、痛みに耐えかねて眠れずにいたことは、「休息の指示に従わない」と記録されていた。吐血の訴えも、十分な身体的精査が行われないまま、「不安による身体症状と考えられる」と記録されていた。精密検査を求める訴えは、「病気への過度な不安が顕著」と記されていた。どのページも、兄にこう告げているようだった。私は助けを求めていなかったわけではない。ただそのたびに、彼らによって冷たく突き放されていたのだと。その夜、兄は初めて家の中で感情を爆発させた。テーブルの上のものを、すべて床へ払い落とす。グラスが砕け散り、灰皿が父の足元まで転がっていった。母が驚いて立ち上がる。「蒼介、何してるの!」兄が顔を上げて母を見た。その目は、ぞっとするほど赤かった。「俺たちが、留佳をあんなところに閉じ込めたんだ」母は泣きながら首を振った。「私たちはただ、あの子を落ち着かせたかっただけよ」「落ち着かせた?」兄はカルテを机に叩きつけた。「留佳は痛いと言った。血を吐いたと言った。もう限界だと言った。それを、あんたたちのどっちが信じてやった?」父は硬い顔で言った。「今さら俺たちを責めて、何になる」兄は父に向き直った。「なら、誰に向ければいい?偽造診断書を書いたのは俺だ。入院の同意書に署名したのは、あんたたちだ。孝太郎と瑞歩に裏切られても、あんたたちは留佳に許せと言った。留佳が遺書を書いた時は、瑞歩を追い詰める気かと責めた。留佳が死んだら、今度は思ってもみなかったと言う」兄はひとつひとつの言葉を、はっきりと言い放った。リビングには、誰ひとり言葉を返せる者がいなかった。母はソファに崩れ落ち、泣きながら言った。「あの子を死なせたいなんて、思ってなかった」兄が小さく笑った。けれどその笑みは、泣き顔よりもずっと醜かった。「そうだろうな、思ってなかっただろう。あんたたちは、留佳の命を本気で考えたこと
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第8話
私の葬儀は、ごく簡素なものだった。父はあまり大ごとにして騒がれたくないと言った。けれど母は、私のスマホの中身を一通り確認し、何人かの親戚や友人に連絡を入れていた。きっと、私が誰からも必要とされない娘ではなかったと、証明したかったのだろう。けれど、実際に来てくれた人は両親が思っていたよりずっと多かった。大学時代の友人たちが来た。かつての同僚たちも来た。さほど親しくなかったはずの人たちまで、顔を見せてくれた。皆、葬儀会場の外に立ち、小声で私の名を口にしていた。母はそれを耳にして、また涙をこぼす。ようやく気づいたようだった。私が他人の目に、ただの厄介者としてしか映っていなかったわけではないということに。あの時、個別に【留佳、ごめん。みんな、あなたも知ってると思ってた】と連絡をくれた女友達も来ていた。私の遺影の前に立ち、長く泣き続けていた。「留佳、ごめんね……本当は、あの時あなたに伝えたかったの。でも孝太郎に嫌われるのも、あなたの家のことに巻き込まれるのも怖かった。いつかは、あなたも知ることになると思ってたから」そう言い終えると、彼女は深く頭を下げた。実のところ、彼女だけではなかった。多くの人が知っていたのだ。孝太郎と瑞歩が2人で出かける姿を見かけ、ふたりが私に隠れてSNSで親密さを匂わせる投稿をしていることも知っていた。それでも皆、見て見ぬふりをした。孝太郎も来ていた。松葉杖をつき、喪服に身を包んでいた。式が始まってから終わるまで、彼はずっと一番後ろに立ち続け、一度も前に出ようとはしなかった。参列者がほとんど帰った頃、ようやく彼はゆっくりと私の遺影の前へ歩み寄った。長い間、写真を見つめていた。その写真は、母が大学の卒業写真から私の姿を切り出し、引き伸ばしたものだった。あの頃の私は、まだあんなに痩せてはいなかった。瞳にも、まだ光が残っていた。孝太郎は懐から、あの婚約解消の合意書を取り出した。そこにはすでに彼の署名も加えられている。彼はそれを、祭壇に供えた。「留佳」低い声だった。「署名した」誰も答える者はいなかった。彼はもう一度言った。「すまなかった」母はそばで、祭壇の端にすがりつくことすらできずに泣き崩れていた。父は顔を背けた。兄は
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第9話
葬儀のあと、この家は完全にばらばらになった。孝太郎が退院して最初にしたことは、結婚後に住むはずだったあの新居から引き払うことだった。ベッドはまだそこにあった。真っ新なシーツもそのままだ。クローゼットには、私が選んだプチギフトの箱が残されていた。机の上には、書きかけの招待客のリストが置かれたままだ。彼はその部屋に一度だけ足を踏み入れた。出てきた時には、顔面を蒼白にさせていた。秘書が尋ねた。「社長、これらの荷物はどういたしましょうか」孝太郎は戸口に立ったまま、長い沈黙のあと、ようやく答えた。「……全部まとめて、封をして保管しておけ」秘書はそれ以上何も尋ねられなかった。その部屋は以後ずっと空室のままになり、孝太郎が二度とそこに住むことはなかった。彼は頻繁に私の墓を訪れるようになった。最初は松葉杖をついて通っていた。脚が治ってからも、変わらず通い続けた。毎回、白い花を1束持って行き、供えたあとは、長い間そばに座り込んでいた。ある雨の日、霊園の管理人が彼に帰るよう勧めた。彼は言った。「彼女は昔、何度も俺を待っていた。今度は俺が待つ番だ」管理人はため息をついた。「もう逝ってしまった人を待っても、仕方ないでしょう」孝太郎は墓石に刻まれた名前を見下ろした。「分かってる」ようやく彼は気づいたのだ。私への償いは、3階から飛び降りて脚の骨を折れば済むようなものではなかった。今さら結婚式を挙げたところで、償えるものでもなかった。私が彼にそばにいてほしかったあの瞬間、彼は一度も私の隣に立ってくれなかったということだった。その後、彼は兄を訪ねた。ふたりは外で長い時間を過ごした。何を話したのか、誰も知らない。ただ分かっているのは、兄が帰宅したあと、一晩中吐き続けていたということだけだ。翌日、兄は病院に休職願を提出した。その時点では、偽造診断書の件はまだ表沙汰になっていなかったものの、彼自身がもう白衣を着る資格はないと感じていたのだ。病院の上司が、兄と話をする場を設けた。「米光先生、あなたの腕はこれまでずっと確かなものでした。家庭の事情というだけなら、しばらく休んでもらって構いません」兄は向かいに座ったまま、低い声で答えた。「家庭の事情ではありません。
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第10話
それから長い間、誰もが後悔の中で生きることになった。けれど後悔ほど何の役にも立たないものはない。母は、私が最初に薬を飲んだ時、きちんと治療に向き合おうとしなかったことを悔やんだ。父は、いつも私に瑞歩へ譲らせていたことを悔やんだ。兄は、医学を学んでいながら自らの手で、私を誰にも信じてもらえない場所へ追いやったことを悔やんだ。孝太郎は、私を手放したくないと思いながら、自分が一線を越えるのを止めなかったことを悔やんだ。けれどどれほど深く悔やんだところで、私は二度と戻らない。瑞歩は、のちにこの街を去った。発つ前に一度だけ霊園を訪れている。帽子とマスクを身につけ、私の墓の前に立った。手には花もなく、供物もなかった。墓石を見つめ、小さな声で言った。「お姉ちゃん、私、わざとお姉ちゃんを死なせようとしたわけじゃないの」風が霊園を吹き抜けていったが、誰も答える者はいなかった。彼女は長く立ち尽くしたあと、ふっと笑みを浮かべた。「でも、どうして死んじゃったの?お姉ちゃんが死んだせいで、みんな私を責めるのに」そう言いながら、涙がこぼれ落ちていく。「あの人たちにだって、責任はあるはずなのに」その言葉だけは嘘ではなかった。瑞歩だけが罪人ではない。だからといって、瑞歩に罪がなかったわけでは決してない。その日、霊園をあとにしようとしたところで、瑞歩は孝太郎と鉢合わせた。孝太郎の手には花があった。彼女の姿を見て、足を止める。瑞歩の目が一瞬輝いた。「孝太郎さん」孝太郎は応えなかった。彼は彼女の横を素通りし、私の墓の前まで歩くと花を供えた。瑞歩はその背後で、震える声を出した。「子ども、いなくなっちゃった」孝太郎の手が、一瞬止まった。「俺には関係ない」瑞歩は息を呑んだ。「孝太郎さんの子でもあったのに」孝太郎は振り返り、彼女を見た。「留佳を裏切ったあの日から、俺には子どもを持つ資格なんてなかった」瑞歩の顔から血の気が引いていった。彼女はまだ何か言おうとしていたが、孝太郎はすでに背を向けていた。「もう、二度と来るな。生きている間、お前たちは散々あの子を煩わせただろう」瑞歩は泣きながらその場を去っていった。孝太郎は、墓の前に長く立ち続けた。たくさんの
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