FAZER LOGIN婚約者の高間孝太郎(たかま こうたろう)が、私の養妹、米光瑞歩(よねみつ みずほ)と新居に用意したベッドで体を重ねる姿を目撃したあの日―― うつ病の症状がひどくなった私、米光留佳(よねみつ るか)は睡眠薬を30錠、一度に飲んだ。 一命を取り留めた私に、両親は静かに切り出した。瑞歩が不治の病に侵され、余命3か月と宣告されたのだと。 「許すかどうかは、お前が決めろ」 孝太郎も目を潤ませて私の前に跪いた。 「君が許してくれても、くれなくても、1か月後には必ず結婚式を挙げる」 後悔に満ちたその表情に、私はついほだされてしまった。 けれど、それも医師である兄、米光蒼介(よねみつ そうすけ)のスマホで、あるやり取りを目にするまでの話だ。 音声メッセージの中で、瑞歩が甘ったるい声を上げて笑っていた。 「やっぱりお兄ちゃんはすごいよ。偽の診断書1枚で、あのイカれた女を思い通りに操れるんだから」 震える手でスマホを握りしめ、私は家族が集まるリビングへ向かった。 兄は無言で煙草に火をつけ、押し黙っていた。 両親はうんざりした顔で私をなじった。 「お前の心が弱すぎるのが悪いんだろう。お前がまた自殺を図るんじゃないかと心配したから、こんな手の込んだ嘘をつく羽目になったんだ」 孝太郎に至っては、恨めしそうに私を睨み、瑞歩を背後に庇いながら、こう言い放ったのだ。 「少しくらい大目に見てやれないのか。家族を滅茶苦茶にする気か」 誰よりも愛した男と、血のつながった家族が、悪びれもせずに放つ言葉を聞きながら、口の中に広がる血の味を感じ、私は静かに笑った。 彼らは瑞歩を守るため、手の込んだ嘘まで吐いて「不治の病」をでっち上げた。 けれど彼らは知らない。私の重度の鬱病が、本物であるということを。 うつ病の身体症状によって、複数の臓器が機能不全に陥っていることも、紛れもない事実だということを。 もう、この家はいらない。 どうせ私は、この冬を越せないのだから。
Ver maisそれから長い間、誰もが後悔の中で生きることになった。けれど後悔ほど何の役にも立たないものはない。母は、私が最初に薬を飲んだ時、きちんと治療に向き合おうとしなかったことを悔やんだ。父は、いつも私に瑞歩へ譲らせていたことを悔やんだ。兄は、医学を学んでいながら自らの手で、私を誰にも信じてもらえない場所へ追いやったことを悔やんだ。孝太郎は、私を手放したくないと思いながら、自分が一線を越えるのを止めなかったことを悔やんだ。けれどどれほど深く悔やんだところで、私は二度と戻らない。瑞歩は、のちにこの街を去った。発つ前に一度だけ霊園を訪れている。帽子とマスクを身につけ、私の墓の前に立った。手には花もなく、供物もなかった。墓石を見つめ、小さな声で言った。「お姉ちゃん、私、わざとお姉ちゃんを死なせようとしたわけじゃないの」風が霊園を吹き抜けていったが、誰も答える者はいなかった。彼女は長く立ち尽くしたあと、ふっと笑みを浮かべた。「でも、どうして死んじゃったの?お姉ちゃんが死んだせいで、みんな私を責めるのに」そう言いながら、涙がこぼれ落ちていく。「あの人たちにだって、責任はあるはずなのに」その言葉だけは嘘ではなかった。瑞歩だけが罪人ではない。だからといって、瑞歩に罪がなかったわけでは決してない。その日、霊園をあとにしようとしたところで、瑞歩は孝太郎と鉢合わせた。孝太郎の手には花があった。彼女の姿を見て、足を止める。瑞歩の目が一瞬輝いた。「孝太郎さん」孝太郎は応えなかった。彼は彼女の横を素通りし、私の墓の前まで歩くと花を供えた。瑞歩はその背後で、震える声を出した。「子ども、いなくなっちゃった」孝太郎の手が、一瞬止まった。「俺には関係ない」瑞歩は息を呑んだ。「孝太郎さんの子でもあったのに」孝太郎は振り返り、彼女を見た。「留佳を裏切ったあの日から、俺には子どもを持つ資格なんてなかった」瑞歩の顔から血の気が引いていった。彼女はまだ何か言おうとしていたが、孝太郎はすでに背を向けていた。「もう、二度と来るな。生きている間、お前たちは散々あの子を煩わせただろう」瑞歩は泣きながらその場を去っていった。孝太郎は、墓の前に長く立ち続けた。たくさんの
葬儀のあと、この家は完全にばらばらになった。孝太郎が退院して最初にしたことは、結婚後に住むはずだったあの新居から引き払うことだった。ベッドはまだそこにあった。真っ新なシーツもそのままだ。クローゼットには、私が選んだプチギフトの箱が残されていた。机の上には、書きかけの招待客のリストが置かれたままだ。彼はその部屋に一度だけ足を踏み入れた。出てきた時には、顔面を蒼白にさせていた。秘書が尋ねた。「社長、これらの荷物はどういたしましょうか」孝太郎は戸口に立ったまま、長い沈黙のあと、ようやく答えた。「……全部まとめて、封をして保管しておけ」秘書はそれ以上何も尋ねられなかった。その部屋は以後ずっと空室のままになり、孝太郎が二度とそこに住むことはなかった。彼は頻繁に私の墓を訪れるようになった。最初は松葉杖をついて通っていた。脚が治ってからも、変わらず通い続けた。毎回、白い花を1束持って行き、供えたあとは、長い間そばに座り込んでいた。ある雨の日、霊園の管理人が彼に帰るよう勧めた。彼は言った。「彼女は昔、何度も俺を待っていた。今度は俺が待つ番だ」管理人はため息をついた。「もう逝ってしまった人を待っても、仕方ないでしょう」孝太郎は墓石に刻まれた名前を見下ろした。「分かってる」ようやく彼は気づいたのだ。私への償いは、3階から飛び降りて脚の骨を折れば済むようなものではなかった。今さら結婚式を挙げたところで、償えるものでもなかった。私が彼にそばにいてほしかったあの瞬間、彼は一度も私の隣に立ってくれなかったということだった。その後、彼は兄を訪ねた。ふたりは外で長い時間を過ごした。何を話したのか、誰も知らない。ただ分かっているのは、兄が帰宅したあと、一晩中吐き続けていたということだけだ。翌日、兄は病院に休職願を提出した。その時点では、偽造診断書の件はまだ表沙汰になっていなかったものの、彼自身がもう白衣を着る資格はないと感じていたのだ。病院の上司が、兄と話をする場を設けた。「米光先生、あなたの腕はこれまでずっと確かなものでした。家庭の事情というだけなら、しばらく休んでもらって構いません」兄は向かいに座ったまま、低い声で答えた。「家庭の事情ではありません。
私の葬儀は、ごく簡素なものだった。父はあまり大ごとにして騒がれたくないと言った。けれど母は、私のスマホの中身を一通り確認し、何人かの親戚や友人に連絡を入れていた。きっと、私が誰からも必要とされない娘ではなかったと、証明したかったのだろう。けれど、実際に来てくれた人は両親が思っていたよりずっと多かった。大学時代の友人たちが来た。かつての同僚たちも来た。さほど親しくなかったはずの人たちまで、顔を見せてくれた。皆、葬儀会場の外に立ち、小声で私の名を口にしていた。母はそれを耳にして、また涙をこぼす。ようやく気づいたようだった。私が他人の目に、ただの厄介者としてしか映っていなかったわけではないということに。あの時、個別に【留佳、ごめん。みんな、あなたも知ってると思ってた】と連絡をくれた女友達も来ていた。私の遺影の前に立ち、長く泣き続けていた。「留佳、ごめんね……本当は、あの時あなたに伝えたかったの。でも孝太郎に嫌われるのも、あなたの家のことに巻き込まれるのも怖かった。いつかは、あなたも知ることになると思ってたから」そう言い終えると、彼女は深く頭を下げた。実のところ、彼女だけではなかった。多くの人が知っていたのだ。孝太郎と瑞歩が2人で出かける姿を見かけ、ふたりが私に隠れてSNSで親密さを匂わせる投稿をしていることも知っていた。それでも皆、見て見ぬふりをした。孝太郎も来ていた。松葉杖をつき、喪服に身を包んでいた。式が始まってから終わるまで、彼はずっと一番後ろに立ち続け、一度も前に出ようとはしなかった。参列者がほとんど帰った頃、ようやく彼はゆっくりと私の遺影の前へ歩み寄った。長い間、写真を見つめていた。その写真は、母が大学の卒業写真から私の姿を切り出し、引き伸ばしたものだった。あの頃の私は、まだあんなに痩せてはいなかった。瞳にも、まだ光が残っていた。孝太郎は懐から、あの婚約解消の合意書を取り出した。そこにはすでに彼の署名も加えられている。彼はそれを、祭壇に供えた。「留佳」低い声だった。「署名した」誰も答える者はいなかった。彼はもう一度言った。「すまなかった」母はそばで、祭壇の端にすがりつくことすらできずに泣き崩れていた。父は顔を背けた。兄は
彼らを完全に打ちのめしたのは、精神科病院から新たに提出された、私の詳細な診療記録だった。兄は医師であり、遺族でもあった。資料を手に入れるのは、彼にとって難しいことではなかった。資料の写しを受け取った彼は、1ページずつ確認していった。ページをめくるごとに、兄の顔色はみるみる青ざめていった。夜中、痛みに耐えかねて眠れずにいたことは、「休息の指示に従わない」と記録されていた。吐血の訴えも、十分な身体的精査が行われないまま、「不安による身体症状と考えられる」と記録されていた。精密検査を求める訴えは、「病気への過度な不安が顕著」と記されていた。どのページも、兄にこう告げているようだった。私は助けを求めていなかったわけではない。ただそのたびに、彼らによって冷たく突き放されていたのだと。その夜、兄は初めて家の中で感情を爆発させた。テーブルの上のものを、すべて床へ払い落とす。グラスが砕け散り、灰皿が父の足元まで転がっていった。母が驚いて立ち上がる。「蒼介、何してるの!」兄が顔を上げて母を見た。その目は、ぞっとするほど赤かった。「俺たちが、留佳をあんなところに閉じ込めたんだ」母は泣きながら首を振った。「私たちはただ、あの子を落ち着かせたかっただけよ」「落ち着かせた?」兄はカルテを机に叩きつけた。「留佳は痛いと言った。血を吐いたと言った。もう限界だと言った。それを、あんたたちのどっちが信じてやった?」父は硬い顔で言った。「今さら俺たちを責めて、何になる」兄は父に向き直った。「なら、誰に向ければいい?偽造診断書を書いたのは俺だ。入院の同意書に署名したのは、あんたたちだ。孝太郎と瑞歩に裏切られても、あんたたちは留佳に許せと言った。留佳が遺書を書いた時は、瑞歩を追い詰める気かと責めた。留佳が死んだら、今度は思ってもみなかったと言う」兄はひとつひとつの言葉を、はっきりと言い放った。リビングには、誰ひとり言葉を返せる者がいなかった。母はソファに崩れ落ち、泣きながら言った。「あの子を死なせたいなんて、思ってなかった」兄が小さく笑った。けれどその笑みは、泣き顔よりもずっと醜かった。「そうだろうな、思ってなかっただろう。あんたたちは、留佳の命を本気で考えたこと
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