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第8話

Author: キカイ
かれんは手すりを支えに立ち上がり、こめかみの血が顔中を伝ったが、何も感じないようだった。

愛が極まれば痛む。憎しみが心に残れば、それだけで痛い。

けれど今の彼女にとって、愛も憎しみも刃の鈍ったナイフ。もう心は波立たない。

もう何も要らない。何も気にしない。

かれんは震える足で母のそばへ行き、手すりの外にぶら下がる美佐子を全力で引き上げた。

「かれん、瑛司さんがサプライズがあるって言うから、来たの」

美佐子はまだ息が荒く、娘の手をつかんで震えている。「いったい何があったの?あのクズ、あんたを脅すのに私を使うなんて」

美佐子の真っ赤な目と向き合い、かれんは小さく首を振った。「お母さん、何も聞かないで、何もしないで。一緒に行こう。

いい?」

美佐子は娘の目に宿る死んだような静けさを見て、歯を食いしばり、やがて頷いた。

二人は支え合って部屋へ戻り、かれんは素早く荷物をまとめ、身分抹消の機関に電話をかけた。

「椎名様、ヘリは30分後に到着します。お客様の全情報は同時に完全消去されます」

通話を切って、かれんは精一杯の笑顔を作り、美佐子を見た。「あと30分で、全部終わる」

美佐子は痛ましげに彼女の青白い頬を撫で、言葉を探したが、その瞬間、ドアが弾け飛び、黒服の一団がなだれ込んできた。

母娘が抗う間もなく、口と鼻を塞がれ、意識が闇に落ちた。

目を覚ますと、二人は同じ麻袋の中で縛られ、口には布切れが押し込まれていた。

外から雑な足音が近づき、ボディーガードの報告が混じって聞こえた。「藤原さん、真美さん。真美さんを連れ去った連中を見つけました。この麻袋の中です」

死んだような静けさのあと、瑛司の冷たい声が麻袋を突き抜けた。

「鉄パイプを持ってこい」

かれんの瞳孔が一気に縮む。母と二人、麻袋の中でもがく。だが次の瞬間、革靴が正確に彼女の頭を踏みつけた。

「俺の人間に手を出すとは、命がいくつあっても足りないな」

言い終えるより早く、ドンという鈍い音とともに、美佐子の頭に重い一撃が叩き込まれた。

血が一気に麻袋を染み通り、かれんの顔をべっとり濡らす。

信じられず目を見開き、喉から嗚咽が漏れるのに、まともな悲鳴は一つも出てこない。

耳鳴りが渦巻き、心臓が見えない手でねじ切られるように締めつけられ、口の中に鉄の味が広がった。

美佐子は最後の力で口の布を吐き出したが、言葉になる前に、もう一撃が落ちた。

かれんは、母が数度痙攣し、完全に動かなくなるのを、目の前で見た。

血と涙が麻袋の中に溜まり、心は生きたまま裂かれて粉々になった。

あと30分待てば、離れられたはずなのに。なんで、こんなことに……

かれんは絶望的にもがき、口の布をようやく押し出した。だが声を上げるより早く、無数の拳と蹴りが雪崩れ込んだ。

釘のついた棒が皮膚を裂き、鈍い拳が肋骨を折り、尖った骨が内臓に食い込む。

最後の一撃が落ちたとき、気道は温かい血でふさがれ、息をすることさえ叶わなかった。

外から、泣きまねの混じった真美の声がした。「瑛司さん、やめて。死んじゃう」

彼女は前に出て「止めるふり」をし、麻袋の前で泣き崩れた。けれど身を屈めたとき、二人にしか聞こえない声で笑う。「かれんさん、母親と一緒に死になさい」

「藤原家の妻の座は、私のもの」

瑛司は真美を抱き上げ、振り返ることなく歩き出した。「麻袋の中のゴミは、サメの餌にしろ」

かれんには、もう誰の声か分からない。意識の底から、ただいくつかの音を絞り出す。

「ふ…じ…わら…えい…じ…」

かすかな声だったが、それが彼女の最後の力だった。

瑛司の体がびくりと固まり、足が止まる。震える声で振り返り、周囲を見回す。

「かれん?どこだ?」

麻袋がかすかに揺れ、抱かれていた真美が突然叫んだ。「あっ、お腹が痛い……

瑛司さん、私……妊娠したかも」

一瞬よぎった疑念は、たちまち吹き飛んだ。瑛司の顔に驚きと焦りが走る。

「妊娠?医者を呼べ!」

彼は真美を抱いたまま大股で立ち去り、二度と振り返らなかった。

かれんと母の麻袋は、深い海へ投げ込まれた。

冷たい海水で縄が緩み、二人の体はゆっくり海面へ浮かび上がる。

瑛司がほんの一度でも振り返れば、これまで大事にしてきた女が、いま静かに浮かんでいるのが見えたはずだ。

けれど彼は振り返らない。彼の目にあるのは、腕の中の愛人だけ。

身分抹消の機関のヘリが轟音とともに現れ、海面のかれんを拾い上げて運び去った。

意識を手放す直前、かれんは首のネックレスを力いっぱい引きちぎり、深い海へ投げ捨てた。

「藤原瑛司。もう一生会いたくない」
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