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第9話

Author: キカイ
同じころ、クルーズの最上級スイートでは、真美の泣きじゃくる声が、途切れ途切れに続いたが、目の前の男の手は少しも緩まない。

やがて呼吸が落ち着き、彼の肩に置いていた手が力なく枕に落ちた。

「瑛司さん、私、先生に妊娠って言われたのに……そんなに乱暴にしないで」

瑛司は軽く笑い、どこか甘やかす声を落とす。「まだ数日だろ。大げさだな」

真美は頬を赤くして、ベッド脇のテーブルに置かれた家政婦が持ってきたお粥を指さした。

「お腹の赤ちゃん、お腹すいたって。お粥、飲みたいって」

瑛司はベッドを降り、テーブルの前に立って、スプーンでそっとお粥をかき混ぜ、ふうっと湯気を散らす。

「ほら。朝から煮た甘酒だ。体にいいから」

彼はスプーンを唇に運び、さっきより柔らかい声になる。

真美はゆっくり上体を起こし、彼の手に合わせて小さく口を開けた。湯気で頬がますます赤くなる。

「瑛司さん、ここにいて大丈夫かな?かれんさん、怒らない?」

かれんの名が出た瞬間、瑛司の手が一拍止まる。「大丈夫だ。彼女は俺がここにいるのを知らない。大丈夫だから」

そう言いながらも、ふいにかれんの姿が頭をよぎる。

甘酒は、彼女のいちばんの好物だ。昔、彼は「一生、かれんにしか作らない」と言っていた。

言いようのない苛立ちがせり上がる。

美佐子の様子を追わせているボディーガードからは未だ連絡がない。掌からこぼれ落ちるような感覚に、落ち着かない。

真美は彼の眉間の陰りに気づくと、わざと話題を赤ん坊に戻した。

「ねえ、私たち、赤ちゃんができたんだよ。もし、かれんさんが知ったら……嫌がるかな?

だったら、私、赤ちゃん連れて、遠くへ行かなきゃ」

「そんな必要はない」

瑛司は遮り、どこか自覚のない優しさをにじませる。

「生まれたら、かれんのそばで育てる。養護施設から迎えたって伝える。

彼女は優しいから、きっと可愛がるはず」

真美の体が一瞬こわばり、底に黒い影が走る。だが表には出さず、彼に合わせる。

「そう……じゃあ、私たちの赤ちゃん、きっと幸せなはず」

磁器のスプーンが器に触れて、軽い音が鳴った。

胸騒ぎは強くなるばかりだった。その時、携帯に動画が届く。

画面の中で、かれんが美佐子を必死に甲板へ引き上げている。手のひらの皮がむけ、麻縄に血が伝って落ちる。

「藤原さん、モニターに美佐
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