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第13話

Author: 錦玉のきらめき
達也のオーダーメイドの革靴は、乱暴にブラシでゴシゴシ洗われたあげく、太陽の下で干されて、すっかりダメになってしまった。靴箱の中の皮靴が全部ダメになってしまい、出勤するにも履く靴がなくなった。

真美のシルクの服は洗濯機で無造作に放り込まれ、白も黒も一緒くたに洗われて、全部色移りして型崩れしてしまった。高価な上に、今シーズン限定の品ばかりで、もう二度と手に入らないものだった。

颯太の送り迎えも家政婦に任せていたが、その家政婦は道に迷ったり、颯太を何度も遅刻させたりして、学校の先生からの苦情が絶えなかった。達也は会議中にも、先生からの電話に対応しなければならず、心身ともに疲れ切っていた。

それでも真美は「条件に合う人だから」と我慢を続けていたが、ある日、家政婦の衛生管理が悪かったせいで、家族全員が食中毒になり、夜中に吐き気と下痢で救急病院へ駆け込む羽目になった。

さすがの達也も、このときばかりは我慢の限界を超え、家政婦を即座にクビにした。

病院からようやく家に戻ってきたとき、達也はまだ体がふらふらしていた。

一日中吐き続け、二日間も下痢が止まらず、すっかり力が抜けてしまった。散らかり放題の家の中を見回すと、ふと沙耶のことが頭をよぎった。

沙耶がいたころは、家の中はいつも整然としていて、心配する必要がまったくなかったから、そのぶん仕事にも全力を注げていた。

自分だって、家政婦を雇って沙耶の負担を減らそうとしたことはあった。だが沙耶は「家族の靴や服、食事は自分の手でやらないと安心できない。本当に家族だからこそ、心を込めて世話をしたい」と、頑として譲らなかった。

今ごろ、沙耶はどうしているのだろう。

達也は思わず携帯を手に取り、沙耶の番号に電話をかけていた。

電話がつながるまでの間、もし沙耶が優しく応じてくれたら、いっそもう一度家に戻ってきてほしい。たとえ家柄が低くて何もできなくても、この家のために、妻として家を守ってくれるなら許してやってもいい、そう思いながら電話をかけていた。

「沙耶、俺だ……」

だが、電話の向こうから返ってきたのは、沙耶の声ではなく、凛とした男性の声だった。

「彼女は今、電話に出られません」

達也は一瞬、耳を疑った。何度も番号を確認したが、確かに沙耶の携帯だった。

「君は誰だ?沙耶は今どうしてる?どうして君が電話に出るんだ?
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