All Chapters of 花火ほど鮮やかじゃなくても: Chapter 1 - Chapter 10

24 Chapters

第1話

「沙耶、今日の参観日は、真美さんも一緒に行くから、君は行かなくていいよ」白川達也(しらかわ たつや)の隣には、知的で上品に着飾った香坂真美(こうさか まみ)が立っている。白川沙耶(しらかわ さや)はスカートの裾を握りしめ、学校の参観日のためにわざわざ支度を整えていたことを言い出せずにいた。しかし、どんなに努力しても、真美の前に立つと、自分が色あせた存在に思えてしまう。ただそこにいるだけの影のような――そんな自分を思い知らされるだけだった。息子の颯太(そうた)が五歳になったとき、達也は高い報酬で育児コンサルタントの真美を家に招いた。それ以来、この家にはもうひとりの「女」がいる。沙耶と達也の結婚生活も、いつの間にか「三人で歩むもの」に変わっていた。最初は、沙耶の貧しい家柄を気にせず、家族の反対を押し切ってでも彼女を妻にしたいと決意してくれた達也。結婚後、彼女の家柄を侮辱するような噂話が聞こえれば、達也は必ず徹底的に相手に報復した。沙耶は信じていた――たとえ世界中が自分を見下しても、達也だけは絶対に自分を見下さないと。だが、真美が家に来てから、すべてが変わった。「真美さんは名家のご令嬢で、教養もあって上品だ。彼女に子どもの教育を任せられるから安心できるんだ」その言葉で、沙耶は初めて気づく。達也は心の奥底で、彼女の家柄を「卑しい」と感じ、「何ひとつ取り柄がない」と思っていること。――母親として子どもを導くことすら、許されていなかったのだ。達也が守ってきたのは、沙耶ではなく、自分自身のもろいプライドだった。真美には、さまざまな肩書きがある。海外帰りの才女、一流大学出身、育児心理の専門家――眩いばかりの称号が、沙耶の心をますますかき乱す。彼女が家に来てからは、沙耶が子どもに何か教えようとするたび、必ず横やりを入れてくる。そして達也は、いつも真美の意見を最優先する。次第に、達也と真美はまるで「夫婦」のように見え、颯太も真美にばかり懐いていく。沙耶だけが、この家の「よそ者」になっていった。そんな沙耶の額に、達也がキスを落とす。それから、どこかごまかすような口調でつぶやいた。「俺と真美さんで行けば、先生たちや他の保護者に子どもが見下されずに済む。君ならきっと、俺の気持ちを理解してくれると思う」
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第2話

達也が沙耶を抱き寄せて、次の一歩を踏み出そうとした、その時だった。部屋の外からノックの音が響き、甘い空気が一瞬で途切れる。「達也さん、書斎の壁のランプが壊れてしまって、本が読めないの。見てもらえませんか」達也は動きを止め、瞳にあった熱をあっさりと引っ込める。「すぐ行く」男はすぐに気持ちを切り替え、服を身につけて沙耶を置いて部屋を出ていった。沙耶は、急に冷たくなった空気の中で、しばらくその場に呆然と立ち尽くしていた。こうして真美に邪魔されるのは、一度や二度じゃない。いつも、ようやくふたりの雰囲気が温まったタイミングで、真美が何かしら理由をつけて達也を呼び出す。沙耶も服を着直して、彼らのあとを追うように廊下へ出た。書斎の中は真っ暗だった。真美はタイトなスカートと短めのジャケット姿で、くびれた腰をテーブルの端に寄せ、どこか挑発的なシルエットを浮かび上がらせている。薄暗い部屋のなかで、男と女の熱気がぶつかり合う。達也はもう抑えきれず、両手で真美の身体をテーブル際に追い詰め、片手でその腰を抱き寄せた。「達也さん、やめてください」真美は顔を赤らめて、必死に抵抗する素振りを見せる。だが、その仕草がかえって達也の征服欲を強く刺激する。「真美さん……君と一緒にいると、自分でもどうしようもなくなるんだ」「私、家庭を壊すようなことはしたくありません。これ以上迫るなら、ここを出ていくしかないです」「待ってくれ。君さえいてくれるなら、他には何もいらない。颯太も君のことが大好きなんだ。君がいなくなったら、颯太はどうするんだ」「私だって苦しいんです。いけない気持ちを持ってしまったのに、あなたは沙耶さんの夫で……それを忘れたくても忘れられなくて」真美の目には涙が浮かび、揺れる瞳がいっそう魅力的に見える。達也は真美の顔を両手で包み込み、優しくその頬をなぞる。「君も、俺のこと好きなんだろ?沙耶と同じベッドで寝ているのに、夜、夢に出てくるのは、いつも君ばかりなんだ。もっと早く出会えていたら、俺の妻は君だったかもしれない」そう言って、達也は真美に唇を重ねた。今度は真美も逃げずに、ふたりは互いに求め合うように熱いキスを交わす。沙耶は扉の外に立ち、口元を押さえながら大粒の涙をこぼしていた。心臓を鋭い刃で貫か
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第3話

何も知らない人?沙耶は、本当は美術界では有名なアーティストだ。ただ、それを隠して別の名前で活動してきただけ。真美が育児コンサルタントを名乗っているけれど、知識も経験も中途半端で、絵に関しては沙耶の足元にも及ばない。沙耶が反論しようとしたとき、達也が階段を駆け下りてきた。「どうしたんだ?」「あなたの奥さんに聞いてみてください」真美は、まるで沙耶にひどいことをされたかのように、怒りと悲しみをぶつけてくる。達也は事情も聞かずに、沙耶に詰め寄る。「沙耶、何をしたんだ?」胸の奥がギュッと締めつけられる。本当に皮肉だ。倒れてケガをしたのは自分なのに、責められるのも自分の方だった。「颯太に絵を教えていただけなのに、真美さんが急に割り込んできて、色見本を取り上げられて、そのうえ私を突き飛ばしたの。どうして私ばかり責めるの?まず真美さんに何があったのか聞いてくれない?」そのとき、ようやく達也は沙耶の手から流れる血に気がついた。彼の目に一瞬、心配そうな色が浮かぶ。けれど、それを見ていた真美は、なんとも言えない苛立ちを隠しきれない。「沙耶さんは絵のこと何も知らないのに、そんな人が子どもの教育に口を出すなんて、無責任にもほどがあると思いません?」そう言い放ち、真美は今度は達也の方をじっと見て、少し冷たい口調で言い切る。「私、前から言ってるけど、私を雇うなら私のやり方に従ってもらう約束でしたよね。教育方針に口を出したり、勝手に子どもに何か教えたりするなら、私はここを辞めるしかないです」真美が「辞める」と言い出すと、達也は途端に焦り始める。「今回は沙耶が悪かった。無知だっただけなんだ。怒らないでくれ。沙耶、早く真美さんに謝って」「私は間違ってない」沙耶は一歩も引かずに答えた。すると達也は一気に険しい表情になり、声を荒げる。「俺の我慢の限界を試すな!」達也が自分の味方だとわかった真美の顔には、勝ち誇ったような笑みが浮かんでいた。「教育に関しては、私の方がずっと経験も知識もあります。どうしても納得できないなら、颯太くんに聞いてみたらどうですか?」真美は颯太の前にしゃがみこみ、わざと優しい声で問いかける。「颯太くん、今日は真美先生と外に出て自然に触れるのと、お家でママと一緒にお絵描きするの
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第4話

さっき沙耶がぶつけられたときは、誰も気づかなかったくせに、真美に何かあると、達也も颯太も飛んできた。沙耶がぶつけられた音も、二人には真美さんが倒れた音だと思い込まれていた。――きっと、真美さんはすごく痛かったに違いない。達也の目には、今にもあふれそうなほどの心配が浮かぶ。「真美さん、どこかケガしてないか?」「真美先生、どうして急に転んじゃったの?ぼくがふーってしてあげるから、もう痛くないよ」真美はちらりと沙耶を睨みつける。その視線に気づいた達也は、沙耶を責めるような目を向けてくる。「君がやったのか?」「真美さんが先にテーブルを持って私にぶつかってきたの。でも、どうしてか自分で倒れてしまっただけ。それも全部私のせいなの?私だって痛かったのに、どうして心配してくれないの?」沙耶は悔しさと悲しさで声が震える。――私は、あなたの妻なのに。達也は一瞬、動きを止めた。そのときになって、ようやく沙耶の額が大きく腫れていることに気がつく。「君もぶつけたのか?」沙耶が返事をする前に、真美が口を挟む。「沙耶さん、ぶつかったのは認めるわ。でも、わざとじゃないの。重いテーブルを一人で持っていたのに、手伝いもしてくれなかったし、なんで避けてくれなかったの?それに、さっきから人の悪口ばかり言って。もしかして、颯太くんに絵を教えさせなかったことを根に持って、私への仕返しだったの?」達也の表情は、さっきまでの心配そうな顔から、また冷たいものに変わる。「真美さんはただ、君が子どもに余計なことをするのを止めたかっただけだ。それなのに、君は彼女を傷つけた。自業自得だ」その瞬間、颯太が沙耶の前に飛び出してきた。小さな拳で何度も沙耶の体を叩く。「バカ!真美先生をいじめないで!」子どもの拳はまだ頼りないはずなのに、不思議と一発一発がずっしりと重く感じられる。その痛みは身体だけじゃなく、沙耶の心にも鋭く突き刺さった。胸が熱くなり、頭がくらくらして、沙耶はそのまま崩れ落ちてしまう。「達也さん、お腹が痛い……」真美が急にお腹を押さえて、苦しそうに叫ぶ。達也は沙耶を一度も振り返ることなく、すぐに真美のもとへ駆け寄った。「大丈夫、すぐに病院に連れていくから」「ぼくも行く」達也と颯太は、真美を抱えて車に乗り込み、沙
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第5話

「必要ない」達也は冷たい顔で言い切った。「どんな事情があろうと、真美さんを傷つけたのは事実だ。自分のしたことに責任を持て」そのとき、颯太が駆け寄ってきて、沙耶を強く押し倒した。ベッドの端にぶつかった衝撃で、沙耶の頭はますますくらくらして、目の前が回るようだった。「悪い人!真美先生に謝ってよ!謝らなきゃ、ぼくもパパも、もう許さないから!」達也と颯太は、まるで真美の守護神のようにベッドの前に立ちふさがっていた。沙耶は達也の隣で八年間、妻として生きてきた。あのとき、すべてをかけて颯太を産んだというのに。それなのに、私のすべてだったはずのふたりが、今はそろって別の女の味方をしている。ただ責める目だけを私に向けて。沙耶は両手で床を支え、ふらふらしながら立ち上がろうとした。けれど、颯太が足で沙耶の手を押さえつける。「謝ってよ!謝るまで、ママは立っちゃだめ!」幼い一言が、沙耶の心をついに折ってしまった。もう、立ち上がる力も残っていなかった。沙耶は膝をつき、うなだれて、床に涙を落とす。ぽつり、ぽつりと、壊れた心が床を濡らしていく。「真美さん、ごめんなさい」心のどこかが、静かに死んでいく。ここまで来ても、まだ彼らと別れるのがつらいと思っていた。だけど、その思いも、少しずつ消えていくのを感じた。頭が重くなり、力が抜けて、そのまま沙耶は床に倒れ込み、意識を失った。……気がつくと、沙耶は病院のベッドに横たわっていた。達也と颯太がベッドの脇に立っている。けれど、二人とも表情は固く、優しさのかけらもなかった。「医者は軽い脳しんとうだって言ってた」本来なら、沙耶の無事に少しはほっとしてもいいはずなのに、達也の目は冷えきったまま、氷のように冷たかった。何も考えたくない。ちょっと頭を動かすだけで、また痛みがぶり返す。そんな沙耶に、達也が口を開く。「みっともなく同情を引くために、脳しんとうまで起こすなんて、いつからそんな計算高い女になったんだ?」「脳しんとうが自作自演だって言うの?」「そうじゃないのか?俺たちが真美さんを病院に連れて行ったとき、君は何ともなかっただろ。真美さんが入院したら、今度は自分もって?それに、うちに嫁いできたからには、卑しい真似はやめてくれ。みっともない実家のやり口なんて、
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第6話

沙耶は、心の傷を静かに抱えながら、新しい仕事の準備を進めていた。愛を失っても、まだ自分には「仕事」がある。達也が沙耶を避けてくれるおかげで、絵に向き合う時間も増えた。そんなある日、颯太が「海に行きたい」と言い出したことがきっかけで、達也と沙耶の冷戦は思いがけず中断されることになった。達也が沙耶と一緒に海へ出かけるなんて、本当に久しぶりのことだった。かつて達也が沙耶を追いかけていた頃、彼は、沙耶がアルバイトしていたクルーズ船をわざわざ貸し切り、サプライズで誕生日を祝ってくれたことがあった。あの日、沙耶は給料のいいバイトがあると聞いて、迷わずそのクルーズ船に向かった。華やかな服をまとった紳士淑女たちに囲まれて料理を運んでいたとき、突然、達也が大きな花束を抱えて現れ、みんなの前で沙耶に花を差し出した。「誕生日おめでとう。俺が愛する人には、せめて誕生日くらいは苦労させたくないから」そのためだけに、船ごと貸し切り、役者まで雇っていたと後で知った。新婚当初、達也はよく沙耶を海に連れて行き、大切にしてくれていた。いつも優しく、目に映るのは沙耶だけだった――だけど、その幸せも、真美が現れるまでの話だった。……その日、天気は澄みきっていた。家族三人と真美の四人で、達也のプライベートヨットで沖へ出かけることになった。「さあ、この小型ヨットの操縦を教えてあげるよ。こっちは今乗ってる大型ヨットよりずっと速いし、二十分もあれば近くの島まで行けるから」達也が声をかけると、颯太と真美が嬉しそうに小型ヨットのそばへ集まった。沙耶は少し離れて、静かにその様子を見つめていた。昔、達也も沙耶にヨットの操縦を教えてくれたことがある。一度教わっただけで、すぐに舵の扱いも覚えてしまった。今もその感覚は、体にしっかり染みついている。「できた!パパ、あの島まで行きたい!」颯太は目を輝かせて、今にも飛び出しそうだ。真美は実は操縦のことをほとんど覚えていなかったが、それを認めるのが恥ずかしくて、強がって「私も大丈夫です」と達也に笑いかける。どうせ達也が一緒なら大丈夫――そう思っていた。ところが、いざ出発というタイミングで、達也の携帯が鳴った。大事なビジネスパートナーからだった。「ちょっと仕事の話があるから、真美さん、悪いけど颯
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第7話

沙耶は、達也が子どものために育児コンサルタントを雇ったはずなのに、今ではそのコンサルタントのために、子どもの命すら顧みないのだと気づいた。力を振り絞って、沙耶は意識を失いかけた颯太を必死に支え続けた。やがて救助隊が駆けつける。「まず子どもを……」沙耶は最後の力をふりしぼって、颯太を救助員に託した。救急車が二台到着した。達也が真美を抱えていたため、周囲の人は真美を奥様だと思い込んだ。医療スタッフは、颯太と真美を同じ救急車に乗せ、達也もその車に同乗した。沙耶はひとり、もう一台の救急車に乗せられた。病院に到着し、カーテン一枚隔てた隣のベッドから、達也のかすれた声が聞こえてくる。「真美さん、君に何かあったら……自分の本当の気持ちがやっとわかった。どうか無事でいてくれ。君がいなくなったら、俺は生きていけない」達也は知らなかった。カーテンのすぐ向こう側が沙耶のベッドだということを。沙耶は拳を固く握りしめ、爪が手のひらに食い込むほどだった。痛い。体のあちこちが痛む。颯太も目を覚まし、真美のベッドのそばで大泣きしている。「真美先生、もし選べるなら、ずっと真美先生にママになってほしいと思ってた。真美先生に何かあったらいやだ……」沙耶の胸が、石で打たれたみたいにズキンと痛む。涙が止まらず、歯を食いしばって声が出ないように必死にこらえた。さっき命がけで救ったはずの我が子が――もう、母親としての自分をとっくに捨てていたのだと知る。しばらくして、真美も目を覚ました。退院の手続きが終わると、達也は今回のボート転覆の原因を問い詰めはじめる。「何もなければこんな事故は起きなかったはずだ。俺が教えたとおりに操縦していれば問題はなかったはず」沙耶が真美が間違った操作を止めなかったことを指摘しようとした瞬間、真美が話を遮った。「沙耶さんが操作の順番を間違えて、どうしても颯太くんのハンドルを奪おうとしたから、あんなことになったんです。沙耶さん、何度も止めたのに、聞いてくれなかったじゃない。なぜ余計なことをしたの?」「でも、あなたたちが覚えていた順番こそ、間違ってたじゃない」「どこが間違いだったの?」真美は沙耶の言葉をかわし、ボートの上で沙耶が言ったことをそのまま繰り返した。「スピードを落としてからハンド
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第8話

沙耶は新しい仕事の準備を進めながら、心の中では家族への未練が静かに薄れていくのを感じていた。あと十日で、この家を出ていく――そう決めてからは、もう家族のために三食を用意することもなくなった。まるで、結婚もしていないし、この子の母親でもなかったかのように。むしろ沙耶の方が、彼らよりずっと冷たくなった。達也も颯太も、そんな沙耶の変化に戸惑っているようだった。ある晩、達也がめずらしくキッチンに立った。「ママ、今日のご飯はパパがママのために作ったんだよ」無邪気な颯太の言葉に、沙耶の心は少しだけやわらいだ。「ほら、これ、君の好きなエビだから。いっぱい食べて」達也はいつになく優しく、沙耶の茶碗によそってくれる。八年も連れ添った夫婦だ。もうすぐ離れるのだから、最後くらいは優しい思い出で終わらせてもいいかもしれない――「ありがとう。お疲れさま」沙耶は素直に、達也が取ってくれた料理を口にした。その日、真美も静かに席につき、珍しく波風を立てなかった。食事が終わると、真美と颯太がすすんで皿洗いをした。あまりに穏やかな時間に、かえって不安になるほどだった。けれど、案の定――食事が終わるや否や、玄関のチャイムが激しく鳴り響いた。沙耶が不審に思いながらドアを開けると、そこには達也の母親・節子(せつこ)が立っていた。「お義母さん、こんな時間にいらして、どうされました?」節子の目は冷たく光っていた。「誰か、家の掟を!」節子の言葉と同時に、数人のボディーガードが現れ、沙耶をリビングへ連行した。太い革のムチが、何度も沙耶の体を打ちつける。背中が熱く焼けるように痛み、やがて皮膚が裂けて血がにじんだ。後になって沙耶は知ることになる。数日前、達也が真美を連れて実家のコレクションルームを案内し、そこに並ぶ数十億もする美術品を「気に入ったものがあれば好きなだけ持っていっていい」と真美に約束していたことを。その最中、二人はふざけ合い、真美がうっかり名画を壊してしまったのだ。その絵は、義父が政界の大物への贈り物として、苦労して手に入れたものだった。その贈り物で、白川家の事業もうまくいくよう根回しをしようとしていたのだ。まさか、そんな大事なものが、こんなふうに台無しになるなんて。「違います……私じゃない……
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第9話

真美が辞職を申し出て、白川家を出て行った。達也はひどく落ち込み、正気を失ったように部下を総動員して真美を探し回った。傷ついた沙耶のことも、颯太のことも、もう気にかけようとしなかった。毎日のようにバーに入り浸り、酒で自分を誤魔化す日々。沙耶は、そんな達也を初めて見た。以前、仕事で莫大な損失を出したときでさえ、これほどまでに打ちひしがれたことはなかった。――真美は、達也にとってそれほど大きな存在だったのだ。ある日、酔いの残る達也が沙耶を訪ねてきた。無精髭に青白い顔、目の下には深いクマができている。長い間まともに身なりを整えてもいないし、眠れてもいないのが一目でわかった。達也は離婚届を沙耶の前に差し出した。「真美さんが言ったんだ。自分が第三者になるのは嫌だから、俺が君と離婚しなければ戻らないって」離婚届には、驚くほど高額な慰謝料が書き込まれていた。沙耶はその額を見つめ、皮肉な笑みを浮かべる。「本当にこれでいいの?」「……わからない。でも、俺も颯太も、もう真美さんなしじゃいられないんだ。沙耶、これは一時的なものだ。いずれ颯太が大きくなったら、また君とやり直すつもりだ。どうなっても、君は颯太の母親であることに変わりはない。血のつながりは、何よりも強いはずだろ?」達也は、もし沙耶が離婚届にサインをしなかったら、無理やりでも押し切るつもりでいた。だが思いもよらず、沙耶は何のためらいもなくペンを取り、離婚届にサインした。あまりにもあっさりとしたその態度に、達也の胸には一瞬、妙な虚しさが広がった。けれど、「これで真美さんが戻ってくる」と思い直すと、達也はすぐに元気を取り戻し、離婚届を手にしてそのまま家を飛び出していった。沙耶は思わず苦笑いしながら、静かにスーツケースを用意し始めた。達也は、もう沙耶の個人的なものが寝室から消えていることにも気がついていなかった。――まあ、これでいい。離婚すれば、もう何も心残りはない。あとは思う存分、芸術の世界に没頭すればいい。達也は、沙耶がまだ家にとどまるつもりだと思っている。仮の離婚だと信じているのだ。だが、沙耶の心はもう、完全に離れていた。最後の日。沙耶は荷物をまとめて送り出し、街の友人たちにも別れを告げた。後になって友人から、達也が沿岸の都市で
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第10話

沙耶はアメリカに到着した。「教授、着きました」「よかった。すぐに慶介(けいすけ)を迎えに行かせるから、彼に住まいまで案内してもらいなさい」慶介は教授の息子だ。沙耶が「そこまでしなくても」と返そうとした瞬間、電話はもう切れていた。背後から、低くて心地よい男の声が聞こえた。「沙耶先生、ですよね?」振り返ると、スラリと背が高く、顔立ちもはっきりとした男性が立っていた。きちんと仕立てられたジャケットが、広い肩と細身の体をより際立たせている。彼はすぐに沙耶を見分けて、手を差し出した。「はじめまして。僕は教授の息子の三宅慶介(みやけ けいすけ)です」「はじめまして」「厳密には『はじめまして』じゃないんですけどね。沙耶さんは覚えていないだけで。さあ、車に乗ってください」はじめてじゃない?沙耶はその場で立ち尽くしていたが、慶介は手早く沙耶の荷物を車のトランクに運び、さりげなく助手席のドアを開けてくれた。車の中で、慶介は運転に集中していて、一言も話しかけてこなかった。沙耶は、慶介は無口でクールなタイプなんだろうと思ったが、むしろその方が自分にはありがたかった。余計な気遣いをせず、静かにしていられる時間の方が好きだったからだ。到着したのは、ギャラリーと一体型のホテルだった。「このギャラリーの上の階が、沙耶さんのために用意した部屋です。もし合わなければ、あとで変更できますから」「十分すぎるほど満足です。下がギャラリーで、周囲も商業施設がたくさんあって、生活もすごく便利そうです」ここなら、きっと芸術に集中できる。沙耶はそう思った。慶介は軽くうなずき、さりげなく尋ねる。「でも、長く滞在するつもりはないんでしょう?家にはご家族がいらっしゃるはずですし」達也と颯太のことを思い出し、沙耶は少し苦い笑みを浮かべた。「笑われるかもしれませんが、離婚したんです。息子は夫が引き取りました。私は今、自由の身なんですよ」あえて明るくふるまったが、慶介はそれを見透かしているようだった。「それは良かった。向こうが見る目がなかったんでしょう。家庭という重荷から離れて、今こうして絵に向き合えることは、あなたにとっても、絵の世界にとっても幸せなことですよ」そう言って、慶介は「何かあったらいつでも頼ってください」と、隣の部屋に入っていった
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