菊池まりなホラー短編集

菊池まりなホラー短編集

last updateLast Updated : 2026-07-19
By:  菊池まりなUpdated just now
Language: Japanese
goodnovel4goodnovel
Not enough ratings
21Chapters
30views
Read
Add to library

Share:  

Report
Overview
Catalog
SCAN CODE TO READ ON APP

今までに私が執筆してきたホラー短編集です。

View More

Chapter 1

第1話 ラスト配信

「皆さん、こんばんは!今夜もMikaチャンネルをご視聴いただき、ありがとうございます」

スマートフォンの画面に向かって、桜井美香は慣れ親しんだ笑顔を向けた。画面の右上に表示される視聴者数は、すでに三千人を超えている。コメント欄には「Mikaちゃん、今日も可愛い!」「今回はどこ行くの?」といった文字が次々と流れていく。

「今夜は皆さんからリクエストの多かった、あの場所に行きたいと思います」

美香は振り返り、背後にそびえ立つ巨大な建物を映した。月明かりに照らされた廃病院は、まるで巨大な墓石のように不気味な影を落としている。

「そう、聖十字架医科大学病院の廃墟です!」

コメント欄が一気に盛り上がった。

「うわあああ、マジで行くの?」

「Mikaちゃん、気をつけて!」

「俺も昔行ったことあるけど、マジでヤバい」

「期待してます!」

視聴者数が四千人を突破した。美香の心臓が興奮で高鳴る。

「この病院、十年前に医療事故で閉鎖されたんですよね。それ以来、色々な噂が絶えなくて」

美香はスマートフォンを自分に向け直し、ウインクした。

「でも、美香は怖くないもん。皆がいるから、きっと大丈夫!」

実際のところ、美香は相当怖かった。しかし、最近視聴者数が伸び悩んでいる。もっと過激な企画をしなければ、他の配信者に置いていかれてしまう。

「それじゃあ、中に入ってみましょうか」

病院の正面玄関は、金属製の板で封鎖されていた。しかし、美香は事前に調べておいた裏口から侵入した。扉は朽ち果てており、軽く押すだけで開いた。

「うわあ、めっちゃ臭い」

美香は鼻を押さえながら、スマートフォンのライトで足元を照らした。床には落ち葉や埃が積もり、所々で配管から滴る水音が不気味に響いている。

「皆さん、見てください。これが廃病院の内部です」

画面越しに映る光景に、コメント欄はざわめいた。

「雰囲気やばすぎ」

「もう帰ろうよ」

「これは本物の心霊スポットだわ」

視聴者数が五千人を突破した。美香の顔に、思わず笑みが浮かんだ。

「あ、あそこに受付があります。行ってみましょう」

美香は慎重に足を進めた。受付カウンターには、色褪せた案内板や古い雑誌が散乱していた。その奥には、診察室へと続く廊下が口を開けていた。

「怖いけど、奥に行ってみます。皆さんも一緒に来てくださいね」

廊下を進むにつれて、空気はより重く、より冷たくなっていった。美香の息が白く見えるほどだった。

「寒い…。でも、これも心霊現象かもしれませんね」

その時、コメント欄に奇妙な文字が現れた。

「もう遅い」

美香は気づかなかった。他のコメントに紛れて、その文字はすぐに流れ去っていった。

三階の病室エリアに辿り着いた頃、視聴者数は六千人を超えていた。美香はこれまでで最高の数字に心躍らせながら、病室の扉を一つずつ開けていった。

「この部屋、ベッドがまだあります。患者さんが使っていたのかな」

錆びついたベッドフレームに、朽ち果てた医療機器。窓から差し込む月光が、それらを不気味に照らし出している。

「あ、あそこに何かあります」

美香は部屋の隅に置かれた金属製のキャビネットを見つけた。引き出しを開けると、中から古いカルテが出てきた。

「医療記録みたいです。えーっと…」

美香は懐中電灯でカルテを照らし、その内容を読み上げようとした。しかし、患者の名前を見た瞬間、彼女の顔が青ざめた。

「さくらい…みか…?」

同じ名前、同じ生年月日。しかし、入院日は今から三年前となっている。

「な、何これ…冗談でしょ?」

美香は震える手でページをめくった。そこには詳細な医療記録が続いていたが、最後のページに書かれた死因欄に、美香は絶句した。

「死因:配信中の事故死」

「そんな、ありえない…」

コメント欄が急速に動き始めた。

「Mikaちゃん、どうしたの?」

「顔色悪いよ」

「もう遅い」

「何か見つけた?」

「もう遅い」

「Mikaちゃん、答えて」

「もう遅い」

「もう遅い」

「もう遅い」

「もう遅い」というコメントが、まるで呪文のように画面を埋め尽くしていく。美香は慌ててスマートフォンの画面を覗き込んだ。

「な、何なのこれ…」

美香は配信を終了しようと、停止ボタンを押した。しかし、ボタンは反応しない。何度押しても、配信は続いている。

「止まらない…どうして?」

視聴者数は七千人を超えていた。コメント欄は「もう遅い」で完全に埋め尽くされている。

「皆さん、ちょっと配信の調子が悪いみたいで…」

美香は震える声で話しかけたが、コメントは変わらない。「もう遅い」「もう遅い」「もう遅い」

その時、別のコメントが現れた。

「Mika、後ろを見て」

美香は慌てて振り返った。しかし、そこには何もない。ただ、窓から差し込む月光が、床に美香の影を映し出しているだけだった。

「誰もいない…」

再びコメント欄を見ると、今度は新しいメッセージが流れていた。

「Mika、スマホの画面を見て」

美香は恐る恐るスマートフォンの画面を覗き込んだ。そこには、いつものように自分の顔が映っている。しかし、何かが違った。

画面の中の自分は、すでに死んでいるような表情をしていた。

目は虚ろで、口は半開きになり、顔色は蝋のように白い。まるで死体のような顔が、スマートフォンの画面に映っていた。

「そんな…これは私じゃない…」

美香は手で自分の顔を触った。温かい。生きている。しかし、画面の中の自分は、確実に死んでいた。

コメント欄に新しいメッセージが現れた。

「Mika、もう分かったでしょう?」

視聴者数が8000人を突破した。

「これは夢よ。きっと夢に違いない」

美香は自分に言い聞かせながら、病室から出ようとした。しかし、扉は開かない。ハンドルを何度回しても、扉はびくともしなかった。

「開かない…出られない…」

コメント欄に、また新しいメッセージが現れた。

「Mika、真実を教えてあげる」

美香は震えながら画面を見つめた。

「あなたは三年前、ここで配信中に事故死した」

「そんなの嘘よ!私は生きてる!」

「でも、あなたは気づいていた。最近、鏡に映る自分の顔が変だということを」

美香は息を呑んだ。確かに、ここ数ヶ月、鏡に映る自分の顔に違和感を覚えていた。でも、それは照明のせいだと思っていた。

「友達が連絡を取ってくれなくなったことも」

「それは…みんな忙しいから…」

「家族からの電話が途絶えたことも」

美香の心臓が凍りついた。そういえば、母親から最後に電話があったのは、いつだったろう。

「あなたは三年前から、ずっと一人でここにいる」

「嘘よ!私には視聴者がいる!こんなにたくさんの人が見てくれてる!」

美香は必死にスマートフォンを振った。しかし、画面の視聴者数は変わらず8,000人を示している。

「その視聴者も、全部あなたの想像よ」

コメント欄を見ると、「もう遅い」以外のコメントがすべて消えていた。

「Mika、現実を受け入れて」

美香は膝から崩れ落ちた。スマートフォンは床に落ち、画面にヒビが入った。しかし、配信は続いている。

割れた画面の中で、死んだ自分の顔が微笑みかけていた。

「分かった…分かったわ…」

美香は涙を流しながら、割れたスマートフォンを拾い上げた。

「私は…死んでる…」

その瞬間、病室の扉が静かに開いた。廊下から温かい光が差し込んできた。

「でも、私にはまだやることがある」

美香は立ち上がり、スマートフォンを胸に抱いた。

「最後の配信を…」

画面の中の自分は、もう死んだ顔をしていなかった。いつもの、視聴者に愛された美香の顔に戻っていた。

「皆さん、長い間ありがとうございました」

美香は画面に向かって、最後の笑顔を向けた。

「Mikaチャンネルは…これで終わりです」

視聴者数が零になった。コメント欄も空白になった。

美香は静かに目を閉じた。

翌朝、病院の跡地で一台のスマートフォンが発見された。画面は割れていたが、なぜか電源は入ったままだった。

発見者がスマートフォンを調べると、配信アプリが起動していた。しかし、チャンネルは存在しない。視聴者数は零。コメント欄も空白。

ただ、タイトル欄にだけ、小さく文字が残っていた。

「Mikaチャンネル - ラスト配信」

そして、その下に、震えるような文字で最後のメッセージが書かれていた。

「もう遅い」

【終】

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件等とは一切関係ありません。

Expand
Next Chapter
Download

Latest chapter

More Chapters
No Comments
21 Chapters
第1話 ラスト配信
「皆さん、こんばんは!今夜もMikaチャンネルをご視聴いただき、ありがとうございます」スマートフォンの画面に向かって、桜井美香は慣れ親しんだ笑顔を向けた。画面の右上に表示される視聴者数は、すでに三千人を超えている。コメント欄には「Mikaちゃん、今日も可愛い!」「今回はどこ行くの?」といった文字が次々と流れていく。「今夜は皆さんからリクエストの多かった、あの場所に行きたいと思います」美香は振り返り、背後にそびえ立つ巨大な建物を映した。月明かりに照らされた廃病院は、まるで巨大な墓石のように不気味な影を落としている。「そう、聖十字架医科大学病院の廃墟です!」コメント欄が一気に盛り上がった。「うわあああ、マジで行くの?」「Mikaちゃん、気をつけて!」「俺も昔行ったことあるけど、マジでヤバい」「期待してます!」視聴者数が四千人を突破した。美香の心臓が興奮で高鳴る。「この病院、十年前に医療事故で閉鎖されたんですよね。それ以来、色々な噂が絶えなくて」美香はスマートフォンを自分に向け直し、ウインクした。「でも、美香は怖くないもん。皆がいるから、きっと大丈夫!」実際のところ、美香は相当怖かった。しかし、最近視聴者数が伸び悩んでいる。もっと過激な企画をしなければ、他の配信者に置いていかれてしまう。「それじゃあ、中に入ってみましょうか」病院の正面玄関は、金属製の板で封鎖されていた。しかし、美香は事前に調べておいた裏口から侵入した。扉は朽ち果てており、軽く押すだけで開いた。「うわあ、めっちゃ臭い」美香は鼻を押さえながら、スマートフォンのライトで足元を照らした。床には落ち葉や埃が積もり、所々で配管から滴る水音が不気味に響いている。「皆さん、見てください。これが廃病院の内部です」画面越しに映る光景に、コメント欄はざわめいた。「雰囲気やばすぎ」「もう帰ろうよ」「これは本物の心霊スポットだわ」視聴者数が五千人を突破した。美香の顔に、思わず笑みが浮かんだ。「あ、あそこに受付があります。行ってみましょう」美香は慎重に足を進めた。受付カウンターには、色褪せた案内板や古い雑誌が散乱していた。その奥には、診察室へと続く廊下が口を開けていた。「怖いけど、奥に行ってみます。皆さんも一緒に来てくださいね」廊下を進むにつれて、空気はより重く、より冷たくな
last updateLast Updated : 2026-07-13
Read more
第2話 完璧な隣人
田中誠は新しいマンションの鍵を受け取りながら、不動産屋の営業マンの言葉を思い出していた。「304号室の隣人の方は、とても静かで礼儀正しい方ですよ。きっと快適に過ごしていただけると思います」転職を機に引っ越してきたこのマンションは、築十年とは思えないほど手入れが行き届いていた。エレベーターで三階に上がり、自分の部屋である305号室の前に立つ。隣の304号室のドアには、「山田」という表札が丁寧な字で書かれていた。荷物を運び込んでいると、隣の部屋から夫婦らしい声が聞こえてきた。「あら、お隣に新しい方がいらしたのね」「そうですね。ご挨拶に行きましょうか」ほどなくして、チャイムが鳴った。田中がドアを開けると、そこには四十代くらいの上品な夫婦が立っていた。「初めまして、隣に住んでおります山田と申します」夫の方が丁寧にお辞儀をした。妻も美しい笑顔で会釈する。「私、田中と申します。こちらこそ、よろしくお願いします」「何かお困りのことがございましたら、遠慮なくお声をかけてください」妻の声は穏やかで、まるで音楽のように美しかった。「ありがとうございます」山田夫妻は再び丁寧にお辞儀をして、自分たちの部屋に戻っていった。田中は感心した。最近は隣人との付き合いを避ける人が多い中、なんて礼儀正しい人たちなんだろう。翌朝、田中は早めに出勤の準備を始めた。まだ慣れない通勤路のことを考えると、余裕を持って家を出たい。洗面所で歯を磨いていると、壁の向こうから微かな音が聞こえてきた。規則正しい、機械的な音。まるで時計の秒針のような「カチ、カチ、カチ」という音だった。「朝早くから何の音だろう」田中は首を傾げたが、隣人に迷惑をかけるほどの音量ではない。むしろ、その規則正しさが妙に心地好かった。玄関を出ると、山田夫妻がちょうど出かけるところだった。「おはようございます、田中さん」二人は声を揃えて挨拶した。夫はダークスーツを着込み、妻は上品なワンピースを着ている。まるで雑誌から抜け出してきたような完璧な装いだった。「おはようございます」田中が挨拶を返すと、山田夫妻は再び美しい笑顔を向けて、エレベーターの方へ向かった。その歩き方も、まるで訓練されたかのように美しく、二人の歩幅は完璧に揃っていた。仕事から帰宅した田中は、コンビニ弁当を温めながら、隣から聞こえてくる音
last updateLast Updated : 2026-07-13
Read more
第3話 最後の録音
古いカセットテープレコーダーは、埃をかぶった中古店の棚の奥で静かに眠っていた。黒いプラスチックのボディには無数の傷があり、銀色のスピーカー部分は錆びて変色している。値札には「300円」と書かれていた。「これ、まだ動きますか?」店主は眼鏡の奥の目を細めて商品を見つめた。「さあね。でも昔のものは頑丈だから、案外動くかもしれないよ。試してみる?」私は小さくうなずいた。学生時代に使っていたカセットテープが実家から出てきて、懐かしさに駆られて衝動的に手に取ったのだ。家に帰ると、すぐにプレーヤーを試してみた。電池を入れ、適当なテープを挿入する。再生ボタンを押すと、かすかなモーター音とともにテープが回り始めた。思ったより音質は悪くない。ふと気づくと、本体の中にテープが入ったままになっていた。前の持ち主が忘れていったのだろう。私は好奇心に駆られてそのテープを再生してみることにした。最初に聞こえてきたのは、中年男性の落ち着いた声だった。『7月15日、火曜日。新しいテープレコーダーを買った。日記をつけてみようと思う。今日は特に変わったことはない。仕事は順調だし、妻も元気だ。明日は娘が帰ってくる予定だ。』何の変哲もない日常の記録。私は早送りして、別の日付を聞いてみた。『7月28日、月曜日。最近、家の中で妙な音がする。夜中に足音のような音が聞こえるのだ。妻に聞いても、何も聞こえないと言う。疲れているのかもしれない。』男性の声に、わずかな困惑が混じっていた。私はさらにテープを進めた。『8月3日、土曜日。また音がした。今度は確実に足音だ。階段を上がってくる音。でも二階に行って確認しても、誰もいない。妻は実家に帰っている。家には私一人のはずなのに。』声に不安が滲み始めていた。私は興味深く聞き続けた。『8月10日、土曜日。鏡がおかしい。洗面所の鏡に、時々知らない顔が映る。一瞬だけだが、確かに見えた。痩せた男の顔だった。医者に相談すべきかもしれない。』『8月15日、木曜日。昨夜、寝室のドアが勝手に開いた。風もないのに。そして廊下に人影が見えた。声をかけても返事がない。近づこうとすると、影は消えてしまう。何かがいる。この家に、何かがいる。』男性の声は震えていた。私は身を乗り出してプレーヤーに耳を近づけた。『8月18日、日曜日。もう限界だ。奴らは一人じゃない。複数いる
last updateLast Updated : 2026-07-13
Read more
第4話 映し鏡
祖母の家の庭にある古井戸は、子供の頃から近づいてはいけないと言われていた。「あの井戸には、昔から良くないものが住んでいるのよ」祖母はいつもそう言って、私の手を引いて井戸から遠ざけた。しかし、なぜ良くないのか、何が住んでいるのかは決して話してくれなかった。祖母が亡くなり、家を整理していたとき、好奇心に負けて井戸を覗き込んだ。石の井戸枠は苔むして、ひび割れが走っている。深い闇の中に、わずかに水面が光っていた。何気なく小石を落とすと、しばらくして「ぽちゃん」という水音が響いた。思ったより深くはないようだった。音は井戸の壁に反響して、まるで地の底から響いてくるようだった。懐中電灯で照らすと、水面に私の顔が映った。しかし、その表情は私の表情とは違っていた。映った私は、口を大きく開けて何かを叫んでいた。目は見開かれ、まるで何かに怯えているようだった。私が眉をひそめると、映った私も眉をひそめる。私が手を振ると、映った私も手を振る。しかし、その口だけは動き続けている。まるで必死に何かを訴えているように。「逃げろ」そう言っているように見えた。よく見ると、水面の私の後ろに、もう一人の人影があった。薄れた紺色の着物を着た女性が、私の肩に手を置いている。顔は暗くて見えないが、異様に長い髪が水面に広がっていた。私は慌てて振り返った。しかし、後ろには誰もいない。夕暮れの庭には、虫の声だけが響いている。再び井戸を覗くと、水面の私の表情がさらに恐怖に歪んでいた。そして女性の顔が、ゆっくりとこちらを向いた。それは祖母の顔だった。しかし、生前の優しい表情ではない。目は深い空洞で、そこから黒い液体がとめどなく流れ出ていた。口は不自然に大きく開き、やはり黒い水が滝のように流れ落ちている。「来ては、だめ…」祖母の口が動いた。声は聞こえないが、唇の動きでそう言っているのが分かった。「なぜ、来たの…」水面の祖母が、悲しそうに首を振る。「ずっと、守って、いたのに…」私は慌てて井戸から離れようとした。しかし、足が動かない。見下ろすと、井戸の底から幾本もの細長い手が伸びて、私の両足首をしっかりと掴んでいた。手は青白く、指は異様に長い。爪は黒く鋭く伸びていた。私は必死に手を振りほどこうとしたが、力は強く、むしろ井戸の中に引きずり込まれそうになる。「助けて!」私は叫んだ。しかし
last updateLast Updated : 2026-07-13
Read more
第5話 滴る記憶
夜中の二時、蛇口から聞こえる水滴の音で目が覚めた。ポタン、ポタン、ポタン。規則正しく、まるで時計のように響く音。昨日の夜、確実に蛇口を閉めたはずなのに。美穂はベッドから起き上がり、スリッパを履いて台所へ向かった。月明かりが窓から差し込んで、シンクの金属が鈍く光っている。蛇口に手を伸ばすと、それは完全に閉まっていた。ポタン。また音がした。美穂は首をかしげて蛇口の下を覗き込む。一滴の水が、シンクの底に落ちて小さな波紋を作った。「おかしいな」彼女は蛇口をきつく締め直した。しかし、数秒後にまた音が響く。ポタン。今度は確実に見た。蛇口の先端から、透明な水滴が落ちていく様子を。でも蛇口は閉まっている。完全に。翌朝、美穂は不動産屋に電話をかけた。「あの、水道の修理をお願いしたいんですが」「どちらの箇所でしょうか?」「台所の蛇口です。夜中に水が滴るんです。でも、蛇口は閉まっているのに」電話の向こうで、しばらく沈黙があった。「あの物件でしたら...以前にも同じような相談がありました。修理業者を手配いたします」修理業者の田中さんは、午後に到着した。蛇口を分解し、パッキンを調べ、配管をチェックした。「異常ありませんね。どこにも漏れはないです」「でも確実に音がするんです」田中さんは首を振った。「聞こえませんが...もしかして、上の階からの音じゃないですか?」美穂は最上階に住んでいた。上に部屋はない。その夜、美穂は台所で待機することにした。時計を見る。午前二時まであと十分。ソファに座り、台所を見つめる。静寂が部屋を支配していた。午前二時。ポタン。音が響いた。美穂は立ち上がり、懐中電灯を手にシンクに近づく。蛇口の先端を照らすと、そこには何もなかった。完全に乾いている。ポタン。また音がした。でも水滴は見えない。懐中電灯の光をシンクの底に向けると、そこに小さな水たまりがあった。一滴分の。美穂は混乱した。音は確実に聞こえる。水たまりも実在している。でも蛇口からは何も落ちていない。ポタン。三度目の音。今度は水たまりが少し大きくなった。目に見えない水が、確実に落ちている。美穂はインターネットで物件の過去を調べ始めた。この古いマンションには、いくつかの記録があった。十年前、三階の304号室で女性が亡くなっている。浴槽で溺死。発見され
last updateLast Updated : 2026-07-13
Read more
第6話 通話中の沈黙
深夜零時を過ぎても、朝倉環はまだ亮との電話を切っていなかった。「明日、何時に出るんだっけ」「たぶん九時。環は?」「わたしは十時からシフト」他愛のない会話だった。付き合って三年、こういう用もない通話は週に何度もある。環はベッドに寝転がり、スマホを頬に当てたまま天井を見ていた。「亮、あくびした?」「してない」「した気がした」そのとき、回線に小さなノイズが走った。ザザッ、という砂を撒いたような音。「亮?」返事がない。環はスマホを見た。通話時間の表示は動いている。切れてはいない。「もしもーし。聞こえてる?」無音。数秒──環は後になって、あれがどれくらいの長さだったのか、何度も思い出そうとすることになる。五秒か、十五秒か。少なくとも、いつもの「ちょっと電波悪いね」で片付けられる長さよりは、確実に長かった。「もしもし、環?聞こえてる?」亮の声が戻ってきた。何事もなかったかのように。「今の、聞こえてなかったの? 呼んでたんだけど」「ごめん、ちょっと電波悪かったかも。何の話だっけ」環は少し笑って、話を続けた。それだけのことだった。その夜は、それだけで終わった。違和感というのは、後から振り返ると輪郭がはっきりするが、渦中にいるときは驚くほど曖昧なものだ。最初に気づいたのは、環の名前を呼ぶときの間だった。「たまき」でも「環」でもいい。亮はいつも、電話の第一声で名前を呼ぶ癖があった。「環、今大丈夫?」というふうに。それが、あの夜を境に、ほんの一瞬──コンマ何秒か──遅れるようになった。「……環、今大丈夫?」というように。気のせいだと思った。次に気づいたのは食べ物の話だった。亮は昔から茄子が好きで、環がよく茄子の煮浸しを作っていた。それなのにある日、「実は茄子、そんなに好きじゃないんだよね」と言い出した。「え、いつも美味しいって食べてたじゃん」「そう?口に合わせてただけかも」そんなはずはない、と環は思ったが、口には出さなかった。人の好みは変わるものだ、と自分に言い聞かせた。そして三つ目。これが一番、環の中で拭えない違和感として残った。亮は貧乏揺すりの癖があった。電話中、環が黙って考え事をしていると、向こうから貧乏揺すりでカタカタとテーブルが鳴る音や、小さな咳払いが聞こえてくるのが常だった。それが、いつ
last updateLast Updated : 2026-07-13
Read more
第7話 ミステリーバスツアー
ミステリーバスツアー その広告は、駅前の電光掲示板に流れていた。「行き先不明!ミステリーバスツアー参加者募集」 毎日、家と会社の往復ばかりの生活。気づけば、休日も特に予定はない。友人に連絡するのも億劫になって久しい。スマートフォンの画面を眺めながら夜を過ごし、気づいたら朝になっている、そんな日々が続いていた。 ──たまには、こういうのもいいかもしれない。 軽い気持ちで、私は広告を出している旅行代理店に入った。「ミステリーツアーですか。人気なんですよ」 受付の女性はにこやかだった。目尻に柔らかな笑い皺が寄る。日程を聞くと、ちょうどその日は予定が空いている。空いているというより、最近の週末はいつも空いている。「申し込みます」 私は迷わずそう言った。料金を支払い、領収書を受け取って外に出ると、少しだけ気持ちが軽くなった気がした。どこへ連れて行かれるのか分からないという、その漠然とした不安が、逆に心地よかった。 ツアー当日。 集合場所には、すでに十人ほどの参加者が集まっていた。年齢もバラバラだ。カップルもいれば、一人参加らしい人もいる。六十代とおぼしき老夫婦が穏やかに話し込んでいる隣で、二十代の女性二人組がスマートフォンで写真を撮り合っていた。私と同じように一人で来たらしい中年の男性は、腕を組んで空を見上げていた。 やがて大型バスが到着し、私たちは順番に乗り込んだ。席に着くと、添乗員が人数分の袋を配り始める。三十代くらいの、清潔感のある男性だった。「これよりミステリーツアーの演出として、皆様にはアイマスクを着用していただきます」 袋の中には、黒いアイマスクが入っていた。柔らかな素材で、遮光性が高そうだ。「目的地に到着するまで、外さないようお願いいたします」 車内に少しざわめきが起こる。「本格的ね」と隣の女性が笑った。だが誰も文句は言わない。それもそうだ。ミステリーツアーと銘打っているのだから、これくらいは覚悟の上だろう。私もアイマスクをつけた。 バスが発車する。 右へ。左へ。また右へ。ときどき信号で止まり、また走る。アイマスクのせいで、どこを走っているのか全く分からない。時間の感覚も、方向の感覚も、次第に失われていく。エンジン音と、タイヤが道路をこする音だけが耳に残った。 しばらくして、バスが高速道路に乗ったのが分かった。速度が上がり
last updateLast Updated : 2026-07-13
Read more
第8話 夢の世界で結婚させられそうになった
 あの夢を見たのは、これで9回目だった。不思議な夢だった。私はいつも通りに眠っただけだった。夢の世界で、目が覚めると私の周りには数人の赤ちゃんが眠っていた。そばにある本棚には、日本語ではない文字が書かれた本がたくさん置かれている。また、この世界に来てしまった…。咄嗟に逃げ出そうと私は廊下に出た。しかし、逃げようとすると、酷い頭痛に襲われ、立って歩くのも困難な状態になる。廊下を這うようにして歩く。…出口は、どこ?少し進んだ時、「また、暴れています!」看護師らしき人に見付かり、取り押さえられ、処置室みたいな部屋に連れていかれ、腕に注射を打たれた。「私がここに来るのは、何回目ですか?」私が問うと、「9回目だよ。」看護師らしき人がそう答えた。「あなたは明日、こちらの方とご結婚なさるんですよ。」…え?結婚?看護師らしき人が、サイン済みの婚姻届らしきものを持ってきて、見せられた。この世界での私の名前?と、こちらは、誰だろう?考えてもわからなかった。「じゃあ、一旦お部屋に戻りましょう。」看護師らしき人二人に、支えられてまた廊下を歩く。あの、日本語ではない文字が書かれた本がたくさん置かれている部屋だ。本棚の一番上に書かれた文字を解読しようと試みる。読めたのは、「あなたは最年少で金賞です」ということだった。一体何のことだろう?老婆が襖を開け、お茶を持ってきてくれた。「あの、これは何のことですか?」「私はあんたが羨ましい。私なんか、もう98歳だよ。」とにっこり笑う。逃げなきゃ!この世界で結婚なんてしてしまったら、この世界から抜け出せないのではないだろうか?また酷い頭痛に襲われた。携帯電話の通知音が聞こえていた。私は携帯電話を手に取り、SNSで助けを求めた。「助けて!…ここはどこ?」「明日、またこの世界に来てしまったら、知らない男と結婚させられてしまう!」「どうやって帰ればいい?」立て続けに呟いた。やがて、朝になり、夢から覚めた。携帯電話を見たら、私のSNSアカウントには、夢の中で書き込んだであろう内容が、書かれておりゾッとした。また、あの夢を見てしまったら、今度こそ私は結婚させられてしまうのだろうか。
last updateLast Updated : 2026-07-13
Read more
第9話 白色が怖い
白色が怖い──。いつからだろう?そんな風に思うようになったのは──。とある病院では、外観こそ白ではないが、廊下や階段、待合室や診察室の壁紙の色、診察台の色、照明の色、全てが白色で、私は意識が朦朧となってしまった。診察台に腰をかけるだけなのに、それすら分からない。催眠術にでもかかったかのように──。戸惑いながら、「どう座ったらいいですか?」と医療スタッフに聞く。「ここにただ座るだけですよ。」「???靴はどうしたら?」医療スタッフが不思議そうに私の顔を見つめながら、「靴はそのままで大丈夫ですよ。」と言った。ようやく診察台に腰をおろし、医師が来るのを待つ私。でも、思うように口が開かず、うまく喋れない。なぜだ?白色が眩しすぎるくらいで、目の前は霞んでいる。私は夢を見ているのだろうか?一体何がどうなっているんだ?病院の会計を済ませ、外に出る。一気に意識が鮮明になっていく。──この病院、何かがおかしい。。。そう思うのは、私だけだろうか?ひとついっておくなら、脳ドッグ受けたが異常はなかった。白色が怖い。※白色が怖いという方は、過去のトラウマや白色の持つネガティブイメージから連想されるものから、その色を自然と避けるようになるそうです。私は白に囲まれた部屋だと、ブレインフォグ起こしてしまいます。病院の外に出れば霧が晴れていくんです。中にはパニック起こされる方もいらっしゃるとか。皆さんの、怖い色は何色ですか?
last updateLast Updated : 2026-07-13
Read more
第10話 封じの祠
重機のエンジン音が山間の静寂を破っていた。新しい住宅地の造成工事は順調に進んでいるはずだった。「おい、田中!そこの岩、どかすぞ!」現場監督の声が響く中、オペレーターの田中は小さな違和感を覚えていた。その岩の上には、古びた小さな祠が建っていた。苔むした石造りの祠は、明らかに何十年、いや何百年もそこに佇んでいたのだろう。「監督、これ...祠ですよね。移設した方が...」「時間がねぇんだよ!予定通りやるぞ!」監督の怒声に押し切られ、田中は重いため息をついた。ショベルカーのアームが祠に向かって伸びる。ガラガラガッシャーン!古い石が崩れ落ちる音が山に響いた。祠の中から、黒い何かがほんの一瞬見えた気がしたが、田中は目を擦った。きっと見間違いだろう。その夜、田中は悪夢にうなされた。黒い影が彼の周りを這い回り、耳元で何かを囁き続けている。目を覚ますと、汗びっしょりになっていた。工事が始まってから一週間。現場では奇妙なことが続いていた。作業員の一人が、「昨夜、誰かに見られている気がして眠れなかった」と言い出した。別の作業員は、「家の中で足音が聞こえる」と青ざめた顔で話した。監督は「疲れのせいだ」と一蹴したが、田中は違った。あの祠を壊してからだ。明らかに何かが変わった。その日の午後、現場で事故が起きた。クレーンから資材が落下し、作業員の一人が重傷を負ったのだ。幸い命に別状はなかったが、その作業員は病院で意味不明なことを口走り続けた。「黒いのが...黒いのが追いかけてくる...」田中の背筋に冷たいものが走った。その夜、田中は地元の図書館に向かった。あの祠について調べるためだった。古い郷土史の本を何冊か借り出し、家で読み始める。すると、驚くべき記述を見つけた。『明治時代、この山で大きな土砂崩れが発生し、村の一部が埋まった。多くの死者を出したこの災害の後、村人たちは山の神の怒りを鎮めるため、祠を建立した。以来、この祠は決して移動させてはならないと言い伝えられている...』田中の手が震えた。さらに読み進めると、もっと恐ろしい記述があった。『祠を破壊した者には、山の神の呪いが降りかかる。まず悪夢に悩まされ、次に身内に不幸が訪れ、最後は...』そこで本のページが破れていた。まるで意図的に隠されているかのように。翌日から、田中の家族にも異変が起き始めた。妻
last updateLast Updated : 2026-07-13
Read more
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status