INICIAR SESIÓN挙式は、真夏の南半球、海辺のチャペルで執り行われた。潮風に白波のようなカーテンが揺れ、ウッドデッキのバージンロードの両脇には、私の大好きな向日葵が咲き誇っている。シンプルなマーメイドラインのドレスを纏い、父の腕に引かれて蒼空のもとへ歩みを進める。そこに立つ彼は、目尻を赤く染めていた。いつも冷静沈着な彼が、私の前でこれほどまでに余裕をなくし、指先を震わせている。そんな姿を見るのは、これが初めてだった。式はごく簡素なものだった。指輪を交わす際、彼は囁くような声で言った。「これからは、もう二度と離さないよ」私は笑いながら、涙をこぼした。牧師によって夫婦の誓いが宣言され、蒼空が私のベールを上げて、誓いのキスを交わそうとしたその時。並木道の突き当たり、茂みの陰に見覚えのある人影が立っているのが見えた。結翔だ。彼はしわくちゃのシャツに乱れた髪、無精髭を蓄えた惨めな姿で、ヤシの木の陰に潜んでいた。一瞬、視線が交わる。彼の目は恐ろしいほど血走っていて、私のウェディングドレスと、蒼空が私の腰に添えた手を、食い入るように見つめていた。唇を動かし、何かを呟いているようだったけれど、遠すぎて声は届かない。私は、それ以上目を向けるのをやめた。式は何事もなかったかのように進んでいく。蒼空のキスは優しく、それでいて揺るぎない決意に満ちていた。ゲストの歓声が響き、色鮮やかなフラワーシャワーが空から降り注ぐ。次にその場所へ目を向けたとき、結翔の姿はもう消えていた。披露宴は、浜辺に面したオープンエアのレストランで催された。私は軽やかな赤いカクテルドレスに着替え、蒼空と共にゲストのテーブルを一つひとつ回って挨拶を交わした。海に近い最後のテーブルまで来たとき、少し離れた岩場に座ってこちらを見つめる結翔の姿が目に入った。彼の手にはビール瓶が握られ、足元にはすでに数本の空き瓶が転がっている。「少し、話してくるね」私は隣の蒼空にそっと耳打ちした。彼は二秒ほど沈黙した後、静かに頷いた。「ここで待っているよ」ドレスの裾を持ち上げ、私は砂浜へと歩み寄った。私の気配に気づいた結翔が、弾かれたように立ち上がる。その拍子にビール瓶が手元から滑り落ち、砂の上を頼りなく転がっていった。「……芽依」掠れた声で、
週末の交流展は非常に見応えがあり、蒼空はこれ以上ないほど素晴らしい連れだった。鑑賞を終えても、帰るにはまだ早い時間だった。私たちは美術館の裏手に続く、静かな並木道を散策することにした。「実はね」蒼空がふいに口を開いた。その声は、いつもより少し低く響いた。「あの日、サロンで君に会ったのは、偶然じゃないんだ」私は隣を歩く彼を仰ぎ見た。「結月さんから、才能のある女性がいると何度か聞いていてね。僕は、最初から君に会うつもりであの場所へ行ったんだ」冬の終わりの冷たい風が吹き抜け、私は思わず足を止めた。彼は向き直り、一点の曇りもない瞳で私を見つめた。「こんなことを打ち明けたのは、君とは誠実に向き合いたいと思ったからだ」「……蒼空」私は白い息を吐き出した。「私の過去は、少し入り組んでいるの。今はとても平穏で、ひどく歩みの遅い毎日を過ごしているわ」彼は真剣な面持ちで頷いた。「知っているよ。結月さんから少しだけ聞いた。君が色々なことを乗り越えて、ここで再出発しようとしていることも」彼は一歩、私との距離を詰めた。「芽依、僕は急いでいないよ。今はただ、一緒に展示を見たり、陶芸の話をしたりするだけでいいんだ。いつか、君がもっと僕に踏み込んでほしいと思ってくれる日まで、僕はここにいるから」これって、告白なのかな……私は少し呆然としながら考えていた。彼は、私との距離の取り方が驚くほど絶妙だった。いつの間にか、彼の存在が日常になりつつあった。作業場で、彼が黙って粘土を練るのを手伝ってくれる静かな時間。彼が毎日届けてくれる、甘いお菓子の香り。姉は、一度だけ彼に会ったことがある。わざわざ取り寄せてくれた貴重な鉱物絵具を届けに来た彼の、謙虚で洗練された振る舞いを見て、姉はニヤリと笑った。「いいじゃない、彼!こういう人こそ、あなたの彼氏にぴったりよ。お姉ちゃん、大賛成!」「変なこと言わないで!」私は顔を赤らめた。まだ、何も始まってはいないのだから。展覧会から三ヶ月が過ぎ、南半球にようやく柔らかな春がやってきた。ある夕暮れ時、釉薬の瓶を整理してくれる蒼空の背中を見て、私はたまらず声をかけた。「……こんなことばかり手伝わせて、あなたの時間を奪いすぎじゃないかしら?」蒼空は最後の一瓶
初冬のある夕暮れ、結月さんが上品なデザインの封筒を差し出してきた。「ある個人コレクターのサロンよ。規模は小さいけれど、とても品位がいいの。主催者が最近、現代工芸に凝っていてね」彼女はいたずらっぽく、片目を閉じてみせた。「それに、あそこには美味しいお菓子も用意されているわ」私は思わず笑ってしまった。お菓子は二の次だが、作品を披露する機会は確かに魅力的だった。サロンの会場は、人里離れた山あいの水辺に佇む現代美術館だった。招かれた客はごくわずかで、館内は心地よい静寂に包まれている。私が手元でキャプションを整えていると、すぐ傍らで落ち着いた声がした。「このひび割れは、あえて残したもの?」顔を上げると、一人の若い男が私の作品の前で足を止め、わずかに腰を落として熱心に見入っていた。「ええ」私は答えていた。「壊れることも制作の過程の一部だから。隠す必要なんてないと思ってる」彼が、こちらを向いた。私は一瞬、息を呑んだ。整った顔立ち以上に、驚くほど透き通った、知性を感じさせる瞳が印象的だった。その瞳が今、穏やかな笑みを湛えて私を見つめている。「素敵な考えだね」彼は微笑み、手を差し出してきた。「周藤蒼空(すとう そら)」「……林田芽依」「次の展示の予定は?」彼は、旧知の仲であるかのように自然に問いかけてきた。「今はまだ準備中で……来年の春くらいになるかな」「楽しみにしているよ」彼は余計な肩書きのない、名前と番号だけが記されたシンプルな名刺を差し出してきた。「会場の確保でも、リソースの面でも、力になれることがあればいつでも言って。協力は惜しまないから」私はその名刺を受け取った。「ありがとう。でも、今はまだ大丈夫」彼は頷いた。「それじゃ、邪魔をしたね。また会えるのを楽しみにしてるよ、芽依」立ち去る彼の背筋は凛と伸びていて、すぐに人混みの中へと溶け込んでいった。「……で、どうだった?」いつの間にか隣にいた結月さんが、瞳を輝かせて囁いてきた。「何が?」「彼のことよ。あんなに長いこと、自分から誰かに話しかけるなんて滅多にないことなんだから」結月さんは声を潜める。「周藤家はこの界隈では一目置かれる名家よ。でも、そんなことより……さっきの彼の眼差し。あれは間違い
「……芽依?」「どうして、ここに」私は足を止めたが、一歩も近寄らなかった。彼は一瞬だけ瞳を揺らし、私の方へ大股で歩み寄ってきた。「友達から聞いたんだ、君が個展を開いてるって。どうしても、一目見たくて。これ、向日葵。君に」差し出された花束には目を向けず、私は入り口を指差した。「そこに置いておいて。あと数分で閉館だから、見るなら勝手にして」それだけ言い残し、私は振り返ることもなくその場を去ろうとした。「芽依!」結翔の声に、私はぴたりと足を止めた。けれど、振り返ることだけはしなかった。客足が途絶えた会場に、開いたドアの隙間から晩秋の湿った風が忍び込む。背中に、彼の視線が重く突き刺さるのを感じた。それは、卑屈なまでに懇願するような、ひどく湿った視線だった。「芽依……」掠れた声が、静まり返った空間に落ちる。「少しだけでいい……話をさせてくれないか。ほんの、数分でいいんだ」彼は何度も繰り返し、赤くなった目で私を追った。「……話し終えたら、すぐに帰るから」数秒の沈黙の後、私はようやく彼に向き直った。間近で見る彼は、見る影もなくやつれ果てていた。頬はこけ、目の下には深い隈が刻まれている。以前の彼とは別人のようで、一瞬、誰だか分からなくなるほどだった。「……話しなさいよ」私は、自分でも驚くほど冷静な声で言った。「君の作品……本当に、綺麗だ」彼は言葉を絞り出し、ほら貝を象った器の数々をなぞるように見つめた。「まるで、君がずっと好きだった海を、そのまま閉じ込めたみたいだ」私は何も答えなかった。彼は深く息を吸い込み、残された勇気をすべて振り絞るようにして、震える声を絞り出した。「……今さら何を言っても、もう遅いことは分かってる。僕が間違っていた。取り返しのつかない過ちを犯したんだ。二人とも繋ぎ止めておけるなんて思い上がった結果、一番大切な人を失ってしまったんだ」「それは過ちなんかじゃないわ、結翔」私は彼の言葉を静かに遮った。「それは、あなたが自分で選んだことよ。ゲストルームで彼女を抱きしめることも、偽物の婚姻届受理証明書で私を繋ぎ止めることも、あの家に別の女を住まわせることも……全部、あなたが選んだこと。私の目が届かない場所で、そして、私の耳が聞こえな
私は少しためらいながら言った。「私にそんな準備ができているのか、自信がなくて……」結月さんは、穏やかな微笑みを浮かべた。「芸術に『準備』なんていらないわ。それはただ誰かに見出され、形を与えられるのを、静かに待っているだけなのだから」姉の熱烈な後押しもあり、私は結月さんの誘いを受けることにした。それからというもの、週に二度、彼女のアトリエに通って共に土と向き合うのが、私の新たな日常となった。そこは柔らかな陽光が降り注ぎ、瑞々しい植物の香りに満ちた空間で、棚には彼女が半生をかけて生み出してきた作品たちが誇らしげに並んでいた。私はまず、ごく単純な器から作り始め、少しずつ、より複雑で繊細な造形へと歩みを進めていった。掌の中で形を変えていく粘土の感触は、バラバラになった自分の生活を一つひとつ繋ぎ合わせ、再構築していく作業そのものだった。数ヶ月後、初めての連作が完成した。ほら貝をモチーフにした陶器の器。その内側に施した釉薬は、深い藍から透き通った水色まで、まるで掌の中に小さな海を閉じ込めたような輝きを湛えていた。それを見た結月さんの瞳が、ぱっと輝いた。「素晴らしいわ」こうして、個展の開催に向けて具体的な準備が動き出した。私はコミュニティセンターで子供たちに陶芸を教える傍ら、一心不乱に制作に打ち込んだ。忙しない日々が心を埋め尽くすにつれ、深夜にふと襲ってくる過去の残像も、次第にその影を潜めていった。ただ時折、粘土を捏ねている瞬間に、かつて誰かがこれと同じように、私を壊れ物を扱うように大切にしてくれた気がして、不意に手が止まることがあった。そんな時は深く呼吸を繰り返し、意識を強引に目の前の創造へと引き戻した。忘れた頃に家族が口にする彼の近況は、風に乗って届く微かなざわめきのように、私の心を素通りしていった。仕事も辞め、あの街を離れたらしいこと。琴葉が流産してしまい、結局二人は袂を分かったらしいこと。彼は今も私の行方を探しているようだが、家族は頑なに口を閉ざしてくれていること。そんな知らせも、今の私にとっては通り過ぎる風のようなものだった。私の心にさざ波を立てることは、もう二度となかった。個展は、初秋の静かな日に幕を開けた。開催初日、私はシンプルな白いワンピースを纏い、自分の作品たちの真ん
飛行機が雲を突き抜け、私は窓際に身を預けて静かに目を閉じた。十六時間のフライトを経て、私は真夏の南半球に降り立った。飛行機の外に出た瞬間、熱気が波のように押し寄せ、そこには微かに潮の香りが混じっていた。小さなスーツケースを引きながら到着ロビーへ向かうと、人混みの中に、見慣れた家族の姿をすぐに見つけた。「芽依!」姉の林田美波(はやしだ みなみ)が真っ先に駆け寄り、私を壊れ物を扱うように抱きしめた。「おかえり……」彼女の声は、涙で震えていた。後ろに立つ母は、赤くなった目頭を押さえながら、震える手で私の頬をそっと撫でた。父は黙って私のスーツケースを受け取ると、もう片方の手で私の肩を力強く叩いた。「よく帰ってきたな」戻る数日前、私は結翔との間にあったことをすべて、家族に打ち明けていた。だからこそ、彼らは何も聞かなかった。あえて触れないでいてくれる優しさが、痛いほど伝わってきた。家に着くと、私は泥のように眠り続けた。一度眠れば十数時間は目覚めず、目が覚めた瞬間は、まだ結翔と一緒にいるような錯覚に陥ることもあった。聴覚が完全に蘇った今、私の世界はもはや無音の静寂ではなかった。そこには幾重にも重なる、色彩豊かなシンフォニーが鳴り響いていた。夜明けを告げる鳥のさえずり、午後の蝉時雨、夕暮れの潮騒、そして真夜中に響く雨音。その音の一つひとつが、私の欠けた部分を埋めるように、凍りついた心をゆっくりと解きほぐしていった。一週間後、姉に誘われて海を見に行った。白い砂浜に座り、寄せては返す波を眺める。姉が差し出してくれた冷たいレモネードを口にしたとき、彼女がふいに口を開いた。「あなたが発った翌日、あいつから電話があったわ」グラスを握る私の手が、ぴくりと止まった。「実家の固定電話にかかってきたわ。あなたが戻ってるかって」姉は水平線を見つめたまま言った。「そうだって答えたら、代わってほしいって。でも、今は誰とも話したくないって言ってるからって断ったわ。あいつ、泣いてたわ」姉が私を振り返る。その瞳は、凪のように静まり返っていた。「電話の向こうで、子供みたいに声を上げて泣きじゃくって。自分が間違っていた、愛してる、一度だけでいいから説明するチャンスをくれって。なりふり構わず縋り付くような、惨め