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音もなく、愛は冷え切っていた

音もなく、愛は冷え切っていた

作家:  ロジック完了
言語: Japanese
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概要

切ない恋

逆転

愛人

ひいき/自己中

偽善

後悔

私は十年間パティシエとして働き、ずっと自分の店を持つことを夢見てきた。 夫である森田安弘(もりた やすひろ)は、「機会があれば、二人で店を開き、店名は『洋菓子専門店葉月』にしよう」と言っていた。 結婚五年目になって、ようやく「洋菓子専門店葉月」はオープンした。 その日、私は家で一晩中看板ケーキを作り、明け方四時に店へ向かった。 ショーウィンドウには、すでに完成品がずらりと並んでいた。 店員は私を見ると、少し驚いた顔で言った。「応募の方ですか?」 私は「オーナーの妻です」と答えた。 彼女はますますきょとんとして、「オーナーさんは今日、お忙しいはずですが」と言った。 私は奥へ進み、壁に掛けられた巨大なポスターを見た。安弘が一人の女性と肩を並べ、満面の笑みを浮かべている。 ポスターにはこう印刷されていた。【森田安弘と葉月晴奈共同創業者】 私はその名前を見つめたまま、手にしていたケーキの箱を取り落とした。クリームが床いっぱいに飛び散った。 葉月晴奈(はづき はるな)なんて。 でも、私の名前は葉月美咲(はづき みさき)なのに。

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第1話

第1話

私は十年間パティシエとして働き、ずっと自分の店を持つことを夢見てきた。

夫である森田安弘(もりた やすひろ)は、「機会があれば、二人で店を開き、店名は『洋菓子専門店葉月』にしよう」と言っていた。

結婚五年目になって、ようやく「洋菓子専門店葉月」はオープンした。

その日、私は家で一晩中看板ケーキを作り、明け方四時に店へ向かった。

ショーウィンドウには、すでに完成品がずらりと並んでいた。

店員は私を見ると、少し驚いた顔で言った。「応募の方ですか?」

私は「オーナーの妻です」と答えた。

彼女はますますきょとんとして、「オーナーさんは今日、お忙しいはずですが」と言った。

私は奥へ進み、壁に掛けられた巨大なポスターを見た。安弘が一人の女性と肩を並べ、満面の笑みを浮かべている。

ポスターにはこう印刷されていた。【森田安弘と葉月晴奈共同創業者】

私はその名前を見つめたまま、手にしていたケーキの箱を取り落とした。クリームが床いっぱいに飛び散った。

葉月晴奈(はづき はるな)なんて。

でも、私の名前は葉月美咲(はづき みさき)なのに。

私は店の前で安弘に電話をかけた。

何度も呼び出し音が鳴って、ようやくつながった。

「店名の『葉月』って、私のことを指してるんだよね?」

向こうは二秒ほど沈黙してから言った。「……もう店に行ったのか?」

「答えて」

「もちろん君のことだよ。でも、ただの名前だ」

彼はため息をついた。「俺はまだ寝てたんだ。朝から何なんだよ」

「どうしてポスターには『森田安弘と葉月晴奈』って書いてあるの?」

「宣伝のためだよ。彼女は若くてイメージもいいし、お客様を引きつけやすいから」

私は目を閉じた。「じゃあ、どうして私と一緒に店を開かなかったの?」

「君は専業主婦だろ。そんな才能があるのか?」

彼の口調はいら立ちを帯びてきた。

「投資にはリターンが必要なんだ。

晴奈は海外で製菓を学んだ、プロなんだ。

君は家にいればいいだろ。余計な心配をするな」

私は胃をぎゅっとつかまれたみたいに痛んだ。

「でも、私が専業主婦になったのは……」あのとき、あなたがひざまずいて頼んだのに。

言い終える前に、安弘は冷たく遮った。「もういい、騒ぐな。あとで用事があるんだ」

電話は切れた。

私は暗くなったスマホの画面を見つめながら深呼吸し、自分に言い聞かせた。考えすぎかもしれない、と。

帰り道、胃の痛みがひどくなり、私はコンビニで水を買って胃薬を飲んだ。

最近、この痛みがますます頻繁になっている。

家に着くと、安弘はすでに出かけていて、テーブルにメモが置いてあった。

【店のことで忙しくて、夜は遅くなるかも】

私は書斎に入った。

彼のパソコンはまだついていて、デスクトップに【葉月プロジェクト】というフォルダがあった。

開く。

内装図、メニューのデザイン、契約書。

内装は、ずっと私がやりたかったスタイル。薄いピンクの壁、無垢材の家具、アンティーク調のペンダントライト。

メニューのスイーツは、どれも見覚えがあった。

イチゴのナポレオン、キャラメルマキアートケーキ、レモンタルト。

全部、私が前に企画書に書いたレシピだ。

さらにスクロールする。

一枚の契約書が目に入った。

【甲:森田安弘。

乙:葉月晴奈。

投資額:四千万円。

持株比率:森田安弘は六〇%、葉月晴奈は四〇%】

私はその数字を見つめた。

四千万円。

五年前、私は「千万円あれば店を開ける」と言った。彼は「今は資金が厳しいから、もう少し待って」と言った。

五年間、私は待っていた。

そして今、彼は別の女にあっさり四千万円を出している。

胃がまた締めつけられるように痛み、私は腹を押さえて身をかがめた。

深呼吸。考えすぎるな。

きっと、ただの投資なんだ。

きっと……

そのとき、別のフォルダ名が目に飛び込んできた。【晴奈の誕生日サプライズ】

私は愕然とした。

開く。

【企画書:晴奈二十三歳の誕生日パーティー。

日時:一月五日。

場所:洋菓子専門店葉月。

予算:百万円】

指がマウスの上で固まった。

一月五日。

それは、私と安弘の結婚記念日だった。

……

夜十時、安弘が帰ってきて、ソファにどさっと倒れ込んだ。

「疲れた。今日は思ったよりお客様が多かった」

彼はスマホを取り出した。「ほら、晴奈はやっぱり腕がいい」

写真には、晴奈がカウンターの向こうで笑顔でスイーツを差し出している姿が写っていた。

「この年でこのレベルだし、経営のセンスもあるし。ブランド育成もちゃんと考えてる。俺たちの店はこの先、きっと大きく成長するよ」

その口ぶりには、はっきりとした賞賛があった。

私は湯のみを握りしめた。「来月の五日、予定ある?」

彼は一瞬きょとんとした。「どうした?」

「私たちの五周年の結婚記念日だよ」

「ああ……そうか!」

彼は額をたたいた。「その日……たぶん無理だな。店でイベントがある。

でも、大丈夫。早く帰れるようにするよ」

「どんなイベント?」

「お客様への感謝イベントみたいなこと」

「ずらせないの?」と私は聞いた。

彼の視線が一瞬泳いだ。「無理だ。もう決まってる」

彼はいら立ったように言った。「美咲、なんでそんなに分別がないんだ。

今、俺は必死で起業してるんだ。少しは理解してくれ」

私はうなずいた。「……分かった」

「ご飯温めてくれ。まだ食べてない。

そうだ、明日キャラメルマキアートケーキを一つ持って帰るよ。食べてみな」

私は立ち上がってキッチンへ向かった。

冷蔵庫を開けた瞬間、また胃が痛んだ。

しゃがみ込むと、涙がこぼれた。

リビングから、安弘の電話の声が聞こえる。

「うん、オープンは順調……晴奈はよくやってる……誕生日パーティーは予定通り準備して……」

私は床にしゃがみ込み、腹を押さえながら、自分に言い聞かせた。

泣くな。

きっと誤解なんだ。

きっと来月、彼は私にサプライズをくれる。

きっと、彼はまだ私を愛している。
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主人公の害にしかならない疫病神が離れたら主人公の病気も治り生活が良くなった 疫病神は主人公という福の神を大事にしないでいたから因果応報な目に遭った 全てが残当
2026-01-10 10:15:22
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第1話
私は十年間パティシエとして働き、ずっと自分の店を持つことを夢見てきた。夫である森田安弘(もりた やすひろ)は、「機会があれば、二人で店を開き、店名は『洋菓子専門店葉月』にしよう」と言っていた。結婚五年目になって、ようやく「洋菓子専門店葉月」はオープンした。その日、私は家で一晩中看板ケーキを作り、明け方四時に店へ向かった。ショーウィンドウには、すでに完成品がずらりと並んでいた。店員は私を見ると、少し驚いた顔で言った。「応募の方ですか?」私は「オーナーの妻です」と答えた。彼女はますますきょとんとして、「オーナーさんは今日、お忙しいはずですが」と言った。私は奥へ進み、壁に掛けられた巨大なポスターを見た。安弘が一人の女性と肩を並べ、満面の笑みを浮かべている。ポスターにはこう印刷されていた。【森田安弘と葉月晴奈共同創業者】私はその名前を見つめたまま、手にしていたケーキの箱を取り落とした。クリームが床いっぱいに飛び散った。葉月晴奈(はづき はるな)なんて。でも、私の名前は葉月美咲(はづき みさき)なのに。私は店の前で安弘に電話をかけた。何度も呼び出し音が鳴って、ようやくつながった。「店名の『葉月』って、私のことを指してるんだよね?」向こうは二秒ほど沈黙してから言った。「……もう店に行ったのか?」「答えて」「もちろん君のことだよ。でも、ただの名前だ」彼はため息をついた。「俺はまだ寝てたんだ。朝から何なんだよ」「どうしてポスターには『森田安弘と葉月晴奈』って書いてあるの?」「宣伝のためだよ。彼女は若くてイメージもいいし、お客様を引きつけやすいから」私は目を閉じた。「じゃあ、どうして私と一緒に店を開かなかったの?」「君は専業主婦だろ。そんな才能があるのか?」彼の口調はいら立ちを帯びてきた。「投資にはリターンが必要なんだ。晴奈は海外で製菓を学んだ、プロなんだ。君は家にいればいいだろ。余計な心配をするな」私は胃をぎゅっとつかまれたみたいに痛んだ。「でも、私が専業主婦になったのは……」あのとき、あなたがひざまずいて頼んだのに。言い終える前に、安弘は冷たく遮った。「もういい、騒ぐな。あとで用事があるんだ」電話は切れた。私は暗くなったスマホの画面を見つめながら深呼吸し
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第2話
一月五日。私と安弘の結婚五周年の記念日。私は朝からずっとキッチンに立ち、たくさんの料理を作った。豚の角煮、白身魚の甘酢あんかけ、そして安弘の大好物である鯛のかぶと煮。胃はずっと痛んでいたけれど、私は耐えた。テーブルにはケーキを置き、ろうそくを立てた。私は赤いワンピースに着替えた。五年前、安弘が「きれいだ」と言ってくれたあの一着。午後七時。八時。九時。料理は冷め、私は一度温め直した。十時。十一時。ろうそくの蝋がケーキいっぱいに垂れ落ちた。十一時五十分、インターホンが鳴った。安弘が酒の匂いをまとって入ってきた。スーツにはクリームがついている。テーブルにおいてある料理を見ると、彼は一瞬固まった。「……こんなに作ったのか?」私は彼を見た。「今日は早く帰るって言ったよね」彼はこめかみを揉んだ。「今日は……ごめん。店でちょっとトラブルがあって、対応が必要だった。お客様が……」「今日は、私たちの五周年記念日」安弘の動きが止まった。「……知ってるよ」彼は急いで私の前に来た。「ごめん。最近は店のことで手いっぱいで、明日埋め合わせするから。そうだ、君へのプレゼント」彼はポケットからビニール袋を取り出した。「これ、先に渡す」中には製菓道具のセット。でも一目で、百円ショップでついでに買ったものだと分かった。値段まで知っている。六百円。彼のスマホが光った。ロック画面に通知が浮かぶ。【晴奈:安弘、今日は本当にありがとう!人生で一番幸せな誕生日だった!】その後には一枚の写真が添えられている。パイ投げの記念写真。安弘はそれを見ると、すぐに画面を消した。「シャワー浴びてくる」彼は背を向けて浴室へ入った。私はその場に立ち尽くし、六百円の製菓道具を見つめた。そして、すっかり冷えきった料理を見る。胃が激しく痛んだ。私はキッチンへ駆け込み、流しに突っ伏してえずいた。何も吐けず、込み上げてきたのは胆汁の苦さだけ。私は眠れなかった。リビングに座り、天井を見つめていた。午前一時、私はスマホを手に取った。魔が差したように「洋菓子専門店葉月」を検索した。地元のインスタグラムアカウントを見つけた。最新の投稿は今日のもの。九枚の写真。店内は
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第3話
翌朝、安弘は本当に出かけなかった。彼は朝食を作ってくれた。目玉焼きとトースト。「今日はずっと一緒にいよう。行きたいところがあったら、どこでもいいよ」彼の声にはどこか取り入るような調子があった。私はほとんど食べられなかった。胃の痛みがずっと続いていた。「病院で診てもらいたいの。最近ずっと胃の調子が悪くて」彼は眉をひそめた。「疲れすぎじゃないのか?家で休んだほうがいいんじゃない?」「検査したい」「わかった。じゃあ一緒に行こう」彼は車の鍵を取った。病院に着き、受付をして、順番を待った。安弘はそばにいたけれど、ずっとスマホを見ていた。私の番になると、医者はいくつか質問をして、胃カメラ検査を勧めた。「どれくらいかかりますか?」と安弘が聞いた。「二時間ほどです」「じゃあ……」そのとき安弘のスマホが鳴った。彼は着信画面を一目見て、「ちょっと外で電話してくる」と言って廊下に出た。ドアの隙間から、彼の表情が険しくなるのが見えた。「え?審査員が今日来る?来週じゃなかったのか?……わかった。今すぐ行く」彼は電話を切って戻ってきた。「美咲、店で急な用事ができた。晴奈が、早めに審査を受けたほうが宣伝にもなるって言ってて。今すぐ行かないと」私は彼を見つめた。「今日はずっと一緒にいるって言ったよね」「わかってる。でもこの審査は本当に大事なんだ」彼の声に苛立ちが混じりはじめた。「検査を受けるだけだろう。店の審査が終わったら、俺はすぐに戻るから」「ひとりで検査を受けるの……」「もう三十歳だろ。検査ひとつでそんなに不安になるのか?」彼は遮った。「美咲、もう少し一人で何とかしてくれない。俺はいま起業で忙しい。店は大事なんだ。わかってほしい」彼は時計を見て言った。「本当に行かないと。検査が終わったらタクシーで帰って。俺は夜に戻るから」そう言って、彼は振り返らずに行ってしまった。私はその場に立ち尽くした。彼の背中が廊下の奥に消えていくのを見送った。「葉月美咲さん、どうぞ」看護師に呼ばれて、私は検査室に入った。ひとりで。胃カメラ検査はつらかった。冷たいチューブが喉に入ってくる。私は検査台に横たわりながら、吐き気と涙を必死にこらえた。隣の検査室から声が聞こえた。「大
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第4話
翌朝、私は病院へ行った。医者はレントゲン写真を手に、唇をきゅっと結んだ。「胃がんです。早期ですが」私の頭の中が真っ白になった。「すぐに手術が必要です。ご主人を呼んで、同意書に署名してもらってください」指が震えながら、私は安弘に電話をかけた。「もしもし?」彼の眠たげな声だった。「胃がんだって」私はできるだけ落ち着いた声で言った。「すぐ手術しないといけないって。早く病院に来て、サインしてほしい」向こうが三秒、沈黙した。「えっ!」「胃がん。早期だけど、手術が必要なの」「お、俺は……今日は……」彼の声が慌てて乱れた。「今日は店のグルメフェスの決勝で、審査員も来てて……離れられないんだ……」私は目を閉じた。「安弘、私、死ぬかもしれない」「そんなこと言うな!」彼は慌てた。「今の医学なら大丈夫だ。両親に教えてサインしてもらって。俺は夜には必ず行く」「私の両親はほかの都市にいて、明日にならないと来られない」「じゃ……じゃあ、少し待って」彼はためらった。「本当に今は抜けられないんだ。美咲、わかってくれ。今回の決勝は店にとってすごく大事で……」電話の向こうがにぎやかになり、晴奈の笑い声が聞こえた。「もういい」私は電話を切った。医者が尋ねた。「ご家族は?」「来られません」「こんな手術に、ご家族なしでは……」私はかすかに口角を上げた。「先生、私が自分でサインします。いいですか」医者はため息をついた。「できますけど……」「私がサインします」私はペンを取り、【家族署名】の欄に自分の名前を書いた。手術は六時間続いた。途中で大量の出血があった。麻酔の効果がまだ残っていて、医者の声が遠くで響いた。「急いで!輸血を準備して!」「血圧が下がってる!」「ご家族は?」「いない……」「どうしてご家族がいないんだ……」声はだんだん遠のいていった。目を覚ましたのは、翌朝だった。両親が来ていた。母親は目を赤くして私の手を握り、父親は窓辺で涙をぬぐっていた。「……安弘は来た?」私の声がかすれていた。母親は首を横に振った。父親は振り向いて、声を詰まらせた。「何十回も電話したが、全部『忙しい』と言われた」私はそれ以上聞かなかった。ベッドサイドの
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第5話
安弘の顔は、一瞬で真っ青になった。「……何だって?」私の顔色は悪かったが、声だけは異様なほど落ち着いていた。「離婚よ」安弘は愕然として、慌てて言った。「美咲、落ち着いてくれ。今回は俺が悪かった。でも俺だって、全部俺たちのために……」「私たちのため?」私は笑った。「安弘、あなたの言う『私たち』って、誰のこと?店は確かに開いた。使われているのは私のレシピ。でも、ポスターに書かれているのは別の女の名前。五年前、あなたは言ったわ。お金ができたら店を出してくれるって。私は五年間も待っていた。最後に手に入れたのは、がんだけだった」父親はドアの外を指した。「出て行け。今すぐだ。二度と来るな」「出て行って!」母親の声はかすれていた。「美咲にあなたは必要ない!あなたはもう私たちの家族じゃない!」安弘はまだ何か言おうとした。父親が突進して彼を押した。「出て行け!まだ帰らないなら警察を呼ぶぞ」安弘は病室の外へ押し出された。ドアがバタンと閉まった。私は振り向いて、窓の外を見た。しとしとと雨が降り、空は灰色だった。父親は窓辺に立ち、肩を小さく震わせていた。母親はベッドに顔を伏せて泣いた。「大丈夫……これからは、お母さんが一緒だから……」退院した日、私は実家に戻った。安弘は何度か来たが、毎回父親に拒まれた。私は部屋の中で、外の気配を聞いていた。安弘の声が、懇願から沈黙へと変わっていくのを。やがて足音が遠ざかっていった。一週間後、私は法律事務所へ行った。弁護士は四十代の女性で、洗練され、聡明な雰囲気をまとっていた。「離婚のご相談ですか?」「相談じゃありません。離婚します」私は婚姻届受理証明書と病院の診断書を差し出した。弁護士は資料に目を通し、うなずいた。「財産分与については、どうされますか?」「共有財産は半分ずつで」弁護士はうなずいた。私は少し間を置いて言った。「それと、もう一つ条件があります」「何でしょう」「『洋菓子専門店葉月』で使われているすべてのレシピの著作権は、私にあると、安弘に書面で認めさせてください」弁護士は一瞬驚き、すぐに理解したようだった。「なるほど。ご自分のものを取り戻したい、ということですね」「はい」「わかりました。その条項を入れまし
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第6話
一か月後、私のインスタのフォロワーは千人を超えた。体調もほぼ回復し、私は少しずつプライベートオーダーを受けるようになった。コンセプトは「健康・低糖質」シリーズだった。最初のお客様たちからの評判はとてもよかった。【やっと甘ったるくないスイーツに出会えた!】【話題のあの店よりもずっと美味しくできた!】そんな中、あるグルメ系インフルエンサーが私に目を留め、スイーツをいくつか買って試食してくれた。三日後、彼女は動画を投稿した。【これこそ本当のヘルシースイーツ!本気でおすすめ!】動画の中で、彼女は私の作ったレモンタルトを手にしていた。「口当たりがさっぱりしていて、あとからほんのりレモンの香りが残る。これこそ、スイーツの本当の味だと思う」コメント欄には、次々と質問が来た。【お店はどこですか?】私は返信した。【今はプライベートオーダーのみです。応援ありがとうございます】その一方で、「洋菓子専門店葉月」の問題はますますはっきりしていく。評価は4.6から4.2へと下がり、低評価のコメントが増え始めた。【甘すぎて、一切れ食べただけで飽きる】【砂糖の量が多すぎる気がする】リピーターは明らかに減っていた。安弘は帳簿をめくりながら、眉をひそめていた。向かいに座る晴奈は、爪を噛みながら言った。「どうする?今は低糖質・健康志向の流れで、お客様はうちのスイーツを甘すぎるって思ってるの」安弘は顔をしかめた。「じゃあ、レシピを少し変える?砂糖を減らして……」「そうするとコストがかなり上がるわ」晴奈は言った。「天然甘味料を使えば、コストは倍になる。それに、配合も全部調整し直しになるし」「でも……」「それにね、あなたの元妻は、ネットショップ始めたの。健康・低糖質のシリーズだよ」晴奈はスマホを差し出した。安弘は私のインスタを見た。写真の中の私は、穏やかに笑っている。コメント欄は称賛で埋まっていた。安弘の胸の奥に、言葉にできない感情が湧いた。「……彼女、うまくやってるな」「当たり前でしょ。うちのお客様を奪ってるんだから」晴奈は不満そうに言った。安弘は何も言わなかった。お客様が奪われたのではない。自分たちが、うまくやれなかっただけだ。さらに半月後。「洋菓子専門店葉月
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第7話
三か月後、私は小さな部屋を借りた。五十平方メートルで、1LDK。私はリビングを作業場にし、寝室を倉庫にした。そしてアシスタントを二人雇った。どちらも卒業したばかりの女の子だった。「葉月さん、今日の注文、また全部埋まりました!」彩香(あやか)が注文帳を持って言った。「もう来週までびっしりです」私は笑って言った。「じゃあ、もっとスピード上げないとね」あのグルメインフルエンサーはまた動画を投稿した。タイトルは【ついに誠意ある洋菓子店を発見!あの話題の店との違いは雲泥の差!】動画の中で、彼女は私のイチゴタルトと「洋菓子専門店葉月」のものを並べて比較していた。「ほら、これが『美咲のキッチン』のスイーツ。切り分けると内部の層が均一で、クリームの厚みも過剰ではない。またこっち見て。クリームが分厚すぎて、イチゴも見えない。一口食べてみて……うわ、甘ったるすぎる。比べると、美咲のスイーツには、本当に誠意が込められているよね」コメント欄は大荒れだった。【『洋菓子専門店葉月』ってこんなにひどかったの?】【『美咲のキッチン』に乗り換えた】私のフォロワーは一晩で十万人に増え、DMは返信しきれないほどになった。一方で、「洋菓子専門店葉月」では事故が起きていた。私はニュースでそれを知った。【人気店である『洋菓子専門店葉月』に食品事故発覚、複数人が食中毒で入院】私は記事を開いた。「調査の結果、同店は期限切れのクリーム、人工甘味料、安価な着色料を使用していたことが判明し、十五人が食中毒を発症、そのうち三人が重症である。衛生局は営業停止処分および罰金千万円を科し、警察も捜査に着手した」私はスマホを置き、クリームを泡立て続けた。彩香が寄ってきた。「葉月さん、見ました?『洋菓子専門店葉月』で事故がありました!」「見たよ」「コスト下げるために粗悪な材料使ってたんですって。入院した人もいるらしいですよ!」彩香は憤慨していた。「あんな店、潰れて当然です!」私は何も言わなかった。手の中のホイッパーを、規則正しく回し続けていた。二日後、晴奈は警察に連行された。有害食品の製造・販売の容疑だった。手錠をかけられた彼女は叫んでいた。「全部安弘の指示よ!私はただの雇われなのに!」安弘も事情
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第8話
半年後、私は初めての実店舗をオープンした。都心の路地裏に場所を選んだ。家賃は高くなく、そして静かだった。三十平方メートルの店内は、昔の企画書に描いた通りに内装した。薄いピンクの壁、無垢材の家具、掃き出し窓、アンティーク調のペンダントライト。開店当日、多くのファンが駆けつけた。「葉月さん!やっとお店を開いたんですね!」「全部のメニュー制覇したいです!」店内は人でいっぱいだった。私はカウンターの後ろに立ち、一人ひとりのお客様に笑顔で対応した。ここは、私の店。本当に私のものになった店だ。午後三時、上品な中年男性が店に入ってきた。「こんにちは、葉月さんはいらっしゃいますか?」「私です」私は手を拭きながら言った。「お名前は……」「林勇樹(はやし ゆうき)と申します。投資関係の者です」彼は名刺を差し出した。「実は五年前、葉月さんが企画書を持って俺のところに来たことがあります」私は思わず固まった。「その時はご主人の了承を得る必要があると言われたので、その後は連絡を取らなかったのです」勇樹は微笑んだ。「今こうして自分で事業を始めたのを見て、感心しています」「ありがとうございます」私は名刺を受け取った。「今でも投資のご予定はありますか?『美咲のキッチン』には大きな可能性があると思います」私は少し考えて答えた。「ありますよ。そして今は、誰にも相談せず自分だけで決められます」勇樹は感心したように頷いた。「それでいいですね」私たちは店内で長く話した。拡張計画、ブランドのポジショニング、将来の展望について。勇樹は非常にプロフェッショナルで、多くのアドバイスをくれた。「来週のグルメフェスに出店枠があるんですが、ご手配できますよ」「それは助かります」私はコーヒーを一杯注ぎ、彼に差し出した。日差しが掃き出し窓から差し込み、店内を柔らかく照らす。私は突然、生活ってこんなに美しくなるんだ、と感じた。安弘は店の入り口に立っていた。彼はさらにやつれ、古びた服を着て、白髪も以前よりずっと増えていた。ガラス越しに、彼は私が男性と話しているのを見た。私は楽しそうに笑っている。男性は優しくコーヒーを手渡し、二人は並んで書類を見ている。安弘は拳を握り締めた。この半年、彼
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第9話
それ以来、安弘は毎日やって来た。何も言わず、ただ隅の席に座るだけ。いちばん安いアメリカーノを一杯頼んで、午後ずっとそこに座っている。私は彩香に彼を追い払わせようとした。「お客様、何もご注文なさらないのでしたら、ご退店ください」安弘はカップを掲げた。「ちゃんと払ってますよ」彩香が私を見る。私は手を振った。「いい、放っておいて」相手にする気も起きなかった。彼はそんなふうに毎日来た。私がお客様に対応するのを見て、ケーキを作るのを見て。勇樹が店に来るのを見て、私と勇樹が提携の話をするのを見て。私がどんどんうまく生きていくのを見ていた。彼を必要としないほどに。ある日、宅配便が届いた。開けると、ケーキの箱だった。中身はストロベリーのナポレオンパイ。とても心を込めて作られていたけれど、手つきはまだ不慣れなのがわかる。メモが入っていた。【これは自分で作ったもの。何度も失敗した。ごめん。君の好きな味を、やっと今になって覚えた】私は一口食べた。甘さはちょうどよく、甘ったるくもない。それでも私は、そのケーキをゴミ箱に捨てた。夜、店を閉めると、安弘が入口で待っていた。「美咲!」彼が駆け寄ってくる。私は入口に塞がれた。「また何か用?」「今の俺が君にふさわしくないのはわかってる」彼の声は焦っていた。「でも、俺は本当に変わったんだ。お菓子作りを覚えたし、『お客様に恥じない』って君の言葉もわかった。毎日バイトして借金を返してる。もう、これ以上手っ取り早い方法に頼ることはしていない。俺は君が望んでいたような人間になった」私は彼を見る。「それで?」安弘は焦った。「美咲、ずっと待つから。君が許してくれるその日まで」「死ぬまで待てばいい」安弘は突然ひざまずいた。「美咲、お願いだ……」通りすがりの人々が足を止めて見始めた。スマホを取り出して写真を撮る人もいた。私は彼を見下ろした。「あなたが愛しているのは、私じゃない。ただ、かつてあんなにあなたを愛していた人が、もう愛さなくなったことを受け入れられないだけ。あなたが取り戻したいのは私じゃなくて、『必要とされている』という感覚よ」私は少し間を置いた。「でも、あなたを必要としていた美咲は、一年前の手術台の上
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