LOGINバックステージの控室。私は鏡の前でメイク直しをしていた。そこへ、海斗が入ってくる。彼はドアに鍵をかけ、外の喧騒を遮断した。「疲れたか?」肩を揉む彼の手は、ちょうどいい強さ。「大丈夫。ただ、笑いすぎて顔が固まっただけ」私は彼の胸に身を預け、束の間の静けさを味わった。その時――海斗が突然片膝をついた。まるで手品のように、指輪を取り出す。「秋山社長。仕事は全部終わりだ」彼は私を見上げる。その瞳は、星明かりよりも眩しかった。「……次は、俺たちの結婚の話をしてもいい?今はもう、あなたより稼ぎが少ないかもしれないけど……それでも、婿入りする覚悟はある。洗濯も、料理も、子育ても。全部俺がやる」胸がじんと熱くなった。ここまで来るのは、本当に容易じゃなかった。私は手を差し出す。彼が、そっと薬指に指輪を通す。――ぴったりだった。「神楽社長。あなたの誠意、確かに受け取った」私は彼を引き寄せ、耳元で囁く。「この取引、成立!契約期間は――永遠」海斗は私を抱き上げ、その場でくるくると回った。……私と海斗の結婚式は、プライベートアイランドで行われた。それは、世界中を驚かせるほどの盛大な結婚式だった。三千粒のダイヤが散りばめられたウェディングドレスは、完成までに丸一年を要したという。化粧室で、私は鏡の中の自分を見つめる。――まるで別人だ。数万円の歩合のために接待で酒を飲み、胃を壊していた昔の秋山知玖は、もう前世の記憶のようだった。「奥様、とてもお美しいです」メイク担当が、心からの賛辞を送る。その時、入口がざわついた。ボディーガードに押さえられ、ウェイトレス姿の女が連れてこられる。「秋山社長。裏方で不審な動きをしていました。酒に何かを混ぜようとしていたようです」女が顔を上げると、土気色のやつれた顔が現れた。――一瞬、誰かわからなかった。美咲だった。たった三年で、二十歳は老け込んだような顔。張りのあった肌は失われ、目元には細かい皺。手には霜焼けの痕。……刑務所での生活は相当きつかったらしい。「秋山知玖……」美咲は私を睨みつける。憎しみと恐怖が、入り混じった目。「どうして……どうしてあなたが全部手に入れて、私はドブネズミみたいに生
鳴海は実刑判決を受け、懲役三年となった。美咲も共犯として、一年の判決を言い渡される。かつて飛ぶ鳥を落とす勢いだった佐藤株式会社は、正式に破産を宣告された。私は佐藤株式会社が持っていた中核技術と資産を、二束三文で買い取り、社名を「新生株式会社」と改めた。それは、会社の再生であると同時に、私自身の再生でもあった。祝賀パーティーで、私は少し飲みすぎてしまった。海斗が私を家まで送ってくれる。車内には、甘く低いジャズが流れ、空気はどこか曖昧で熱を帯びていた。私は酔いに任せて、ずっと胸の奥にしまっていた問いを口にする。「ねえ、海斗……どうして、私を助けたの?引き抜き目的だなんて言わないで。信じないから」海斗は答えなかった。車を路肩に停め、財布の中から一枚の色あせた写真を取り出し、私に差し出す。街灯の明かりの下で、私はそれを見た。十年前の大学図書館。机に突っ伏して眠る一人の女の子。その傍らに置かれた、半分だけ残ったパン。写っているのは私だった。「その頃、俺は起業に失敗して、金もなくてさ。二日、何も食べてなかった」海斗の声は低く、どこか懐かしさを帯びている。「あなたは、残ってた半分のパンを俺にくれて、紙にこう書いて置いていったんだ。――『頑張って。きっと、なんとかなる』って」私は言葉を失った。そんなこと、ただの思いつきでやっただけで、とっくに忘れていた。「それから、ずっと探してた。やっとあなたの前に立てると思った時には……あなたの隣には、もう佐藤鳴海がいた。だから、待つしかなかった」海斗は私に向き直り、その深い瞳に、私の姿だけを映す。「知玖。俺は、火事場泥棒なんかじゃない。……最初から、ずっと狙ってた」彼の指が、そっと私の頬に触れる。わずかに、震えていた。「今度は、俺があなたのために働く。一生契約だ。……どうだ?」ドキドキ、ドキドキ。――私が一人で踏ん張っていたあの年月、ずっと、誰かが暗闇で見守っていたなんて。私はもう、損得で選ばれる側の人間じゃない。私は迷わず選ばれる宝物だ。顔が熱くなるのを感じながら、私から彼の唇にキスをした。「神楽社長。試用期間は三か月。出来が悪ければ、即クビよ」海斗はそのキスを深め、掠れた声で笑う。「
鳴海はそのまま連行され、事情聴取を受けることになった。会社の資金繰りは完全に断絶。――生き残るため、あの二人は「犬猿の仲」どころではなくなった。美咲は罪を逃れるため、「すべては鳴海の指示だった」と告発し、さらに鳴海が脱税や粉飾に使っていた極秘の帳簿までネットに晒し、それを材料に「口止め料」として別れ金を要求した。鳴海は激怒し、オフィスで美咲と取っ組み合いの大喧嘩をした。その一部始終が社員に撮影され、SNSで拡散された。かつて「時代の寵児」と持て囃された若手CEOは、一夜にして、全ネットの嘲笑の的となった。だが、これで終わりではない。鳴海の悪名高き母親が、神楽株式会社ビル前に現れた。横断幕を掲げ、地面に座り込み、泣き喚く。「秋山知玖は恩知らず!うちの息子を陥れた悪女!!ふしだらな女!間男と組んで夫を殺そうとしたよ!!」通行人たちが立ち止まり、指をさす。海斗が彼女を追い払おうとしたが、私が止めた。「私にやらせて」私は大きなモニターをビル前に運ばせた。そして――一本の映像を再生させる。三年前。私が可愛がっていた小さな犬が、病気になった日の記録。留守中、「縁起が悪い」と吐き捨てた鳴海の母親が、熱湯を浴びせて、生きたまま殺した瞬間。画面いっぱいに映る歪んだ笑顔。響き渡る犬の悲鳴。――その場にいた全員が息を呑んだ。世論が一転する。「なんて人でなしだ。悪魔じゃないか」「親も親なら子も子だな!」「息子が刑務所入りは当然だ!」石が次々と投げつけられる。鳴海の母親は罵声を浴びながら、逃げるように立ち去った。数日後。鳴海は保釈された。行き場を失った彼は夜更け、雨の中――私のマンションの下に立っていた。「知玖……上にいるんだろ。俺が悪かった……本当に……愛してるのは、君だけだ……美咲は、あいつが俺を誘惑したんだ……」私は海斗と並んで外へ出た。二人で立つ私たちを見て、鳴海の目に一瞬、憎悪が走る――だが、すぐに消えた。彼は地面に膝をついた。懐から取り出したのはダイヤの指輪。「知玖……これ、君がずっと欲しがってただろ。結婚しよう……全部君に任せる……」私はその指輪を見つめた。――知っている。数日前、美咲がLINEで見せびらかし、「デザイン
翌日――業界サミット。この町で、最も格式あるビジネスイベントだ。例年なら、鳴海は人脈を求めて必死にもぐり込み、私は徹夜で彼のスピーチ原稿を書かされていた。――今年は違う。私は、海斗が用意してくれた高級仕立てのドレスに身を包み、彼の腕を取り、堂々と会場の中心の位置に立っている。スポットライトの下、次々とグラスを手にした人々が集まってくる。「秋山さん、神楽株式会社に移籍されたと聞きましたね。今後とも、ぜひご指導をお願いいたします」「秋山さんは、業界随一の看板ですから。神楽社長、本当にお目が高いです」かつて鳴海の得意先だった連中が、次々と鞍替えしていく。――彼らが見ていたのは、鳴海の名刺などではない。最初から、「秋山知玖」というブランドだった。その時、入口のほうがざわついた。鳴海が美咲を連れて、無理やり中へ入ろうとしていた。二人とも、見る影もなくみすぼらしい。鳴海は目の下が青黒く、ひげも伸び放題。美咲は化粧も崩れ、金切り声で喚いている。「どうして入れないのよ!招待状があるでしょう!」警備員は冷たく首を振った。「申し訳ありません。主催者より、佐藤株式会社の招待状は無効との通達が出ています。それと――お二人は、業界団体の取引停止リストに登録されています」その瞬間、鳴海が人混みの中にいる私を見つけた。目がぎらりと光る。まるで溺れる者が藁を掴むように。警備員を振り切り、必死に駆け寄ってくる。「知玖!知玖、説明してくれ!会社がめちゃくちゃなんだ!サーバーは落ちたまま、取引先は解約の嵐だ!戻ってきてくれ!戻ってくれれば、営業部長の席はそのままだ!美咲には、君の世話をさせる!茶汲みでも何でもやらせる!」彼が、私のドレスの裾に手を伸ばした、その瞬間――海斗が一歩前に出た。私を庇うように立ち、鳴海を見下ろす。その視線は、虫を見るように冷ややかだった。「佐藤社長。身の程をわきまえろ。乞食のように、俺の彼女のドレスを汚すな」彼女?心臓がドキドキ、ドキドキ。鳴海は目を見開き、信じられないという顔で叫ぶ。「彼女!?君たち……最初からデキてたのか!?秋山知玖!なんて尻軽な女だ!」美咲も我を忘れて突っ込んでくる。「秋山知玖!クソビッチ!あなたのせいで……会社が
鳴海は海斗の姿を認めた瞬間――完全に腰が引けた。業界の伝説――彼が必死に取り入ろうとしても、名前すら通じなかった「本物の大物」。「か……神楽、神楽社長?」鳴海の声は情けなく震え、さっきまでの威勢は影も形もなく、露骨な媚びへと変わった。「い、いったいどんな風の吹き回しで……?これは、あくまで弊社の内部トラブルでして……」海斗は彼に一瞥すらくれなかった。ただ、私のほうへ視線を落とし、乱れた襟元をそっと整える。その仕草は驚くほど優しく、まるで子どもをあやすみたいだった。「嫌な思いをしたか?」私は首を横に振った。しかし、なぜか目の奥がじんと熱くなる。「ううん。ちゃんと……やり返したから」海斗は小さく笑った。そして鳴海へ視線を向けた瞬間――空気が、一気に凍りつく。「佐藤社長。さっき、『業界から消す』と言ったのは、誰のことだ?」鳴海は脂汗を流しながら、私と海斗を指差す。その指先は、情けないほど震えていた。「き、君たちは……どういう関係なんだ……?秋山知玖!まさか最初から次を見つけていたとは!これは明らかな産業スパイ行為だぞ!」まるで、溺れる者が藁を掴むように。彼は道徳を振りかざし、私を断罪しようとした。私は海斗の腕にそっと絡める。伝わってくる筋肉の硬さと、確かな力。そして振り返り、鳴海に向かって、満面の笑みを向けた。「ご紹介しますね。こちら、私の新しい上司で、これから先を共にするパートナーです。鳴海、クビにされたわけじゃない。私が――あなたをクビにしたの」そう言って、胸の社員証を外す。全員の前で、私はそれをゴミ箱へ投げ捨てた。「神楽社長、行きましょう」海斗は私の腰を抱き寄せ、そのまま振り返って行く。弁護士団だけがその場に残り、鳴海の前に一通の書類を差し出した。「佐藤さん、秋山さんに対する成果報酬の不当な未払い、ならびに名誉毀損・脅迫行為について、我々が代理人として対応いたします。なお、篠原さんには業務上横領および営業機密漏洩の疑いがあり、警察へ通報済みです。そちらに向かっているはずです」背後で、美咲の絶望的な泣き叫びと、鳴海の怒号が響いた。けれど、私は一度も振り返らなかった。ビルを出ると、まぶしいほどの陽光が降り注ぐ。私は胸いっぱいに、自由の空気を
会場は死んだような静寂に包まれた。美咲の顔から、さっと血の気が引く。手にしていたグラスがパリンと音を立て、床で粉々に砕け散った。鳴海の笑みも、そのまま顔に張り付いたように固まり、みるみるうちに表情が強張っていった。――それは、美咲が契約を取るために顧客へリベートを約束し、会社の底値を売り渡し、さらには公金にまで手を出していた決定的な音声だった。「止めろ!今すぐ止めろ!!」鳴海は激昂した獅子のように吠え、マイクを奪おうと突進してくる。私は身をひるがえしてそれをかわし、すぐそばに置いてあった分厚い書類の束を掴んだ。――昨夜、海斗が私に渡してくれたもの。美咲の粉飾決算の全証拠。バンッ!私はその書類を、鳴海の顔面に思いきり叩きつけた。紙が宙を舞う――まるで白い花びらが落ちるようだった。「社長、よくご覧になってください!これが、あなたが誇っていた『実績』の正体ですよ」鳴海は慌てて数枚を拾い上げたが、読むほどに、手の震えが止まらなくなる。「きゃあああ!」美咲が金切り声を上げ、爪を立てるように私に飛びかかってきた。「この女ッ!秋山知玖!あなた、よくも私を陥れたわね!!」私は迷いなく、彼女の頬を平手で殴った。パァン!乾いた、はっきりとした音。美咲はその場でくるりと一回転し、床に崩れ落ちる。頬を押さえ、信じられないという目で私を見上げた。「この一撃は――私の母の分よ」私はさらに一歩踏み出し、見下ろすように言い放つ。「そして、これはあなたが切り捨てた『救命救急の電話』への制裁」私はハイヒールを履いている足を上げ、そのまま――彼女の丁寧にネイルされた手を踏みつけた。「ぎゃああああっ!!」美咲は耳をつんざくような悲鳴を上げた。ようやく鳴海が我に返って駆け寄り、私を押しのけた。しかし彼は、美咲を真っ先に気遣うことはせず、逆に、私を目に釘付けにした。その眼差しは、陰鬱で恐ろしいほどだった。「秋山知玖!これを公にするなんて、会社を潰す気か!どれほどの損失になるか、分かっているのか!」最後まで、彼が気にしているのは、金と会社だけだ。「損失?」私は冷笑した。「鳴海、これはまだ始まりにすぎない」鳴海は逆上し、入口を指さして怒鳴り散らす。「警備員!何をしてい