LOGIN「婚約者のいる男を寝取ろうとする女、か」
あの真っ直ぐな彼女がそんな誤解をされていたとは。
「俺はもう、あのとき綾子とは……「分かっているわ」」
母は俺の言葉を止めた。
いつもより甲高い声。
少し荒い息。
緊張、しているのか?
母が?
「いまは分かっているの。あの子はそういう子じゃない。でもあのときは、そんな女だという綾子さんの言葉を信じてしまった。あなたをあの子に奪われるかもしれないという綾子さんの不安に同調してしまった」
「……同調?」
「お義父様の送別会にあなたはあの子を連れてきた。あなたはあの子を大事にしていた、お義父様もあの子を可愛がっていた。あの子は私にないものを持っていた。他の人たちも最初はあの子に反発していたけれどあの子の持つ雰囲気が、あの子を受け入れさせていた。可愛らしさや要領の良さといえばいいのかしら、あれは私が欲しくて欲しくて堪らないものだったわ」
母が大きく息を吐いた。
「嫉妬したの。だからあの子をちゃんとみなかった。綾子さんの言うことをそのまま信じたの……私がそれを信じたかったから。だから、あの子がお金を貸してほしいと言ったときは嬉しかった。私は間違っていなかったと思えたから」
なんだろう、この気持ち……やるせない?
力が抜ける。
レンゲを持つ力もなくて、俺はほとんど食べていない椀にレンゲを戻した。
俺は彼女と別れたあと、まるで当てつけのように綾子との婚約を大々的に公表した。
あれは綾子の誕生日だった。
華やかに飾られたパーティー会場で、俺がドレス姿の彼女の頬にキスした写真はあちこちに拡散された。
それを母は見たのだろう。
俺と母は恋愛について話すような気安い仲ではなかった。
だから俺が彼女をどう思っていたのかは知らない。
だからあのSNSを見て、母が彼女を俺を寝取ろうとした金目当ての女と認識を改めたことは仕方がないのかもしれない。
俺に近づく悪い女を追い払っただけ、それで片づけたことも仕方がないことだったのかもしれない。
でも、一言でも彼女が俺に会いにきたと言ってくれれば。
当時の俺ならばもう別れた女だと知らんふりしたかもしれない。
でも、“かもしれない”だ。
違ったかもしれない。
もし違ったなら、俺は温かなあの子に触れられたかもしれない。
こっちも“かもしれない”だ。
でも――あったかもしれない未来。
その考えが捨てられない。
*「どこに納めたの?」
「彼女が海が好きだったと言っていたから、海がよく見える場所を選んだ。あとで地図を送るよ」
「それは……私が行ってもいいってこと?」
俺は肩を竦める。
「それを決めるのは俺ではないから」
俺があの墓地に行けたのは、あの子の骨を納めたあの日だけ。
それから四回、あの子のところに行こうとしたが行けなかった。
最初の日は大事な商談相手がアポなくやってきた。
向こうが日付を間違えてやってきてしまったのだが、大事な商談相手なのであの子のところに行く予定を延期することにした。
次のときは車の事故だった。
あの子に手向ける花を買おうと立ち寄った花屋の駐車場で、駐車していた俺の車に勢いよく車が突っ込んできた。
相手の車が頑丈が売りのドイツ車だったため運転手にケガはなかったが、高齢だったので大事をみて相手の病院に付き添い墓地にはいけなかった。
三回目は車の故障。
事故のあとメンテナンスもしてもらったのにあの日はエンジンがかからず、メンテナンスで何かがあったのかと、墓地は車でないと不便なところだからと仕方がないかと次回にした。
その次回は車のタイヤのパンク。
「偶然ということも……」
「そこまで俺はおめでたくないよ」
母の言葉に俺は苦笑するしかない。
「彼女があの子を俺から守っているのかもしれない」
それが彼女の願いなら――。
人間が起こした事件だとすれば、犯人像はいくつか浮かぶ。事件は四つある。 彼女の骨が盗まれた件。三沢加奈が転落死した件。墨田聡が転落死した件。風間夫妻が服毒死した件。 犯人がそれぞれ存在するなら、犯人は四人。後ろの三つは俺にとっては今のところどうでもいいから、彼女の骨を盗んだ犯人だけ捜せばいい。でも現時点で子の犯人を見つけるのはほぼ不可能だ。警察が探しているのに見つからないから、捜査力が圧倒的に劣る俺がこの犯人を見つけることはできない。 遺骨が盗まれる事件は国内外で時折発生している。動機や背景は様々だが、今回の件で考えるなら、身代金目的、怨恨や復讐、オカルトや宗教的な動機の色が濃い。俺としては身代金であってほしい。彼女の骨を取り戻せる可能性が一番高いから。でも警察は身代金目的という推測に当初から難色を示していた。彼女の骨だけが盗まれたから。身代金目的なら二つ盗む。何らかの理由で一つしか盗めないなら、子どもの骨のほうを盗む可能性のほうが高い。そんな理由だった。残念なことに、警察の推理のほうが当たりそうだ。あれからかなり時間がたつが、いまだに身代金の要求はない。やはりこんなことはやめようと思ってしまったのだろうか。やめてくれ。ぜひ身代金を要求してくれ。そうでないと――他の動機ではほぼ彼女の骨は俺の手元にこない。オカルトや宗教的な目的の場合は分からないが、俺に対する怨恨や復讐が目的なら、俺が犯人の立場なら手に入れた骨は捨てる。もしくはばら撒く。その光景を見せて留飲を下げることをするかもしれないが、彼女の骨が失われる可能性は極めて高い。 だからだろうか。三沢加奈、墨田聡、風間夫妻。この三つの事件が彼女に関わっていてほしいと思っているのは
ウィンディ映像は風間太一と風間奈美の夫婦二人でやっている小さな会社だった。主な業務は自治体や企業からの委託による記録映像の制作。防災訓練、地域行事、社内研修、工場の安全教育など、ああいうのかって理解できた。特に不審な点がない会社。派手な収入はないが安定した収入がある会社。墨田聡への入金記録がなければ、この会社には何も疑いはもたなかっただろう。あの入金記録があったから、この会社ではあり得ないあの金はどこから得たものかという疑問がわいた。 その答えを知るために俺は風間夫妻を探した。そして見つかった、地方新聞の記事で。人の好い不動産会社のあの社長は「埼玉のほうに家を買ったみたい」と言っていたから、俺は「埼玉」「風間」で検索をかけていた。これに引っかかった。その記事には、二人が不審な死を遂げたとあった。不審と言っても、死因は分かっている。服毒死。夫婦で毒を煽ったならば心中、つまり自殺(もしかしたら一方は他殺)。ただこの場合は同じ毒を飲むことが多い。でも二人は違う種類の毒を飲んで死んでいたという。毒性の差から、同じタイミングで飲んでも死ぬタイミングは時間単位で変わる。でも二人は同じ時間に死んでいた。 ネット民が喜ぶ謎のある事件ではあるが、全国紙の関東版のニュースになるほどではない。隣県で起きたこと、あの夫婦をマークしていなければ分からない。そして俺はこの事件を綾子に教えていない。でも綾子はこの事件を知っていた。 ―― 私も殺される!綾子はそう叫んだ。綾子は地元で大きな寺にお祓いを頼んだが、寺の住職を困惑させるだけに終わった。そんなことをしたからか。綾子が離れに引き籠って数日後、祈祷師を名乗る男が草薙家にやってきた。対応した花江さんが受け取った祈祷師の名刺をもとにネットで検索すると、除
あの日、墨田聡が向かったのは埼玉県の秩父地方。甲高いブレーキ音とドンッと響く音がして、近くにある展望エリアにいた人たちが現場に駆けつけるとう墨田聡のバイクが単身で事故を起こしていた。プロテクター入りのライダースーツだったため即死は免れ、彼らが呼んだ救急車に乗って病院に運ばれた。墨田聡はその病院で死んだ。それを知った俺は墨田聡が勤めているホテルに行った。墨田聡が死んだことは家族からホテルに連絡がきており、俺は墨田聡の友人だと名乗って葬儀に参加するためと言って墨田聡の生家を訪ねた。個人情報だが草薙グループの名前が聞いて、俺は墨田聡の両親がいる千葉にいった。墨田聡の家は農家。墨田聡の親族や葬儀にきた者たちの中に、墨田聡が分譲マンションを二つも持てた理由となりそうな人物はいなかった。 刑事ドラマでは、事件の捜査のため刑事たちは金の流れを追うが一般人にはこれが限界。ただ墨田聡の両親は善人で、俺が墨田聡の友人だと信じて、墨田聡が死んだ本当の理由を教えてくれた。"本当の”と言っても俺が勝手にバイクの事故で死んだと思っただけだが。 墨田聡はバイクの事故では死んでいない。事故から数時間後に目を覚ましたときには脳波も正常で特に危険とみられる兆候はなかったと、墨田聡の事故の知らせを受けて病院に駆けつけた墨田聡の母親は俺に言った。墨田聡が死んだのは、階段からの転落死。非常階段から大きな物音がして、看護師数名が駆けつけると墨田聡が階段下に横たわっていた。その首の骨はあり得ない方向に折れており、通報を受けた警察によってその死亡が確認された。 墨田聡に何があったのか。それを知るための手掛かりとなる防犯カメラは壊れていた。一年ほど前に壊れたのだが病院経営も厳しくて直していなかった。非常階段を使う人は基本的にいないし、一階の入口と外来と入院フロアを分ける三階の入口のカメラは正常に作動しているからセキュリティは最低限確保されていると考えたようだ。この辺りは病院の業務上過失致死になるのだろうが、非常階段に出るまでの墨田聡には誰かに連れ出された様子はなかったという。ただ非常階段にいった理由が分からない。階の移動ならばエレベータを使えばいい。墨田聡の部屋はエレベータに近い。さらにエスカレータを無視して非常階段に向かっている。ほぼ事故。でも事故の証拠
祖父の送別会に彼女を連れていったあと、祖父から継いだ仕事でバタバタ忙しいときに墨田聡は俺を訪ねてきた。二回ほど面会の希望があったけれど忙しくて断り、「受付で必死だったから見ていられなくて」と綾子が墨田聡を俺のところに連れてきてしまったので仕方がなく俺は彼と話すことにした。あの日、墨田聡が俺に見せた映像はいまも忘れられない。まず映ったのは彼女の全裸。そして目が覚めたのか、眠そうな顔をした彼女が墨田聡に甘く笑いかけた。でも次の瞬間に驚いた顔をして、悲鳴をあげて顔を背けた。撮られていることに気づいて恥ずかしくなったのだろう。そこからは彼女の抗う声が続いたが、墨田聡は照れる姿が可愛いと言って行為を続けていた。その先のことは知らない。墨田聡は映像をそこで止めたし、俺もそんなものを見る趣味がないのでこのときは気にしなかった。 ああ、やっぱり彼女は浮気をしていたんだな。このときの俺はそう思った。 祖父の送別会のあと、彼女は急によそよそしくなった。時間をひねり出してデートの時間を作っても断られ、バイト先の喫茶店にいくと気まずそうで素気なかった。その程度で浮気を疑ったわけではないが、彼女の項についた付けた覚えのないキスマークに初めて浮気を疑った。ショートカットの彼女は首にキスマークをつけるのを嫌がったし、何よりも彼女とそういう行為をしてからはかなり時間がたっていた。浮気を一度疑うと、どんなことも浮気の証拠に聞こえるから不思議だ。忙しいくせに彼女の浮気を確認しようと彼女のアパートに行ったりして。隣の部屋に住んでいるらしい夫婦と会って、妻のほうに「この前はありがとう」と心当たりのない礼を言われて、疑問を向けると隣にいた夫が「この人じゃないよ」と妻を窘めた。いま考えても取り留めのない話。でもこのときの俺は、彼女の周りに俺以外の男がいるとしか思わなかった。だから墨田聡との浮気の映像は、俺が彼女と別れる決定打になった。
事件は急に起きる。そこかしこで。 * 東京に戻ってあの子の骨を埋葬した数日後、家に警察がきた。彼女と子どもの件で俺に用事かと思い、夕飯時で花江さんが忙しそうだから俺が出た。警察は俺ではなく綾子に用事だった。俺は彼らを離れに案内した。俺は彼女たちの件で北海道に二ヶ月近くいて、帰ってきたら綾子は離れで生活していると母と花江さんに言われた。新婚旅行を一日で切り上げたから怒っているのだ。早く謝ったほうがいい。そんな母たちの言葉を俺は右から左へ聞き流して放っておいた。彼女たちのことがあったから新婚の夫として振る舞わなくてすむことに安堵もしていた。 離れの入口で、綾子は明らかに怯えた様子を見せた。当時はまだ俺にではない。俺の後ろにいる警察官だ。でもこのときは深く気に留めなかった。北海道にいる間はほぼ警察にいたから自分は警官の姿に慣れてしまったが、普通は綾子のように何をしたわけではないけれど警官が来たら驚くに違いないと思っていた。綾子が何かしたとも思っていなかった。モデルをしている綾乃は知人が多いし、そのうちの誰かのトラブルだろうと思った俺はその場を離れようとしたが警察官に留められた。警察官は二人とも男性だから、女性の綾子一人よりも俺がいたほうが色々いいと言われた。綾子は一人で大丈夫だと言った。いつもの俺なら綾子が一人でいいと言ったのだからといってその場を去っただろうが、これも虫の知らせか、俺は同席を了承した。 警察が綾子を訪ねてきたのは、三沢加奈という女の転落死の捜査だった。三沢加奈という女を俺も知っていた。綾子を通してではなく、彼女を通して。三沢加奈は彼女と同じ施設の出で、同じ年の二人は高校卒業と同時に施設を出たあとはずっと同居をしていた。最初は同姓同名かと思った。綾
彼女と子どもの骨を引き取る。彼女には身寄りがないから、それは叶う願いだと俺は思っていた。でも彼女たちの骨を受け取るまでには思った以上の時間がかかった。俺と彼女が何も証明がない関係だったから。記録がない「元恋人」という関係は証明できず、証明できない関係に法的な力はない。病院、役所、葬儀社相手に思い知った。役所でも、葬儀社でも、最初に確認されるのは関係性だった。「ご家族ですか」という問いに俺はいつも一拍遅れて「いいえ」と答えた。婚姻関係のない俺たち。家族ではない記録はある。 ――恋人だったという、なにかこう、証明みたいなものは?警察のほうも困っていた。このままでは彼女の骨は無縁仏として埋葬することになる。でも目の前に俺がいて、名の知れた企業の御曹司で、できれば面倒は避けたいというのが彼らの顔にありありと出ていた。写真の一枚でもあれば特例として認めないでもない。そんな空気があったが、彼女と恋人だったときにとった写真は一枚もなかった。スマホ本体の中の写真は俺自身が消していた。綾子から結婚前にきちんと関係を清算してほしいと言われ、それも当然だと思って削除した。メッセージアプリから彼女とのトーク履歴も連絡先も消した。スマホの写真はクラウド上に自動的にバックアップが取られているが、そちらも消えていた。彼女といった店の写真。彼女が可愛いと言って撫でようとしてた道端の猫の写真。彼女といたという記憶は俺の中だけで、彼女が写っている写真は一枚もなく俺は彼女の元恋人であることも証明できなかった。若い警察官は自分も別れた恋人の写真は見るのもつらくて削除するとか、その場の空気を軽くしようと軽口を叩いてくれたが、気を使ってくれたことに感謝の言葉を言うことしかなかった。―― へへっ。お偉いさんっていつも“やってもらって当たり前”って態度なのに、草薙さんは違うんすね。彼女のおかげでそういう人間になれた。でもそれも彼女との関係の証明にならなかった。 子どもの骨も同じだった。俺の子だというのは可能性が高いというだけの話。可能性では足りなかった。父親であることの証明が必要だと言われて、DNA鑑定を受けることになった。あの子の小さな骨から取られたDNAと俺の血のDNAが比べられた。検査には時間がかかった。あの子の検体採取に時間がかかってし