LOGIN「アルフォンス様、ジュリアン様となにかあったんですか?」
厩で、裏手の山へ向かうための準備をしているアルに向かって、村に出かける支度をしていたマークが問うた。
「なにも……」
リュックサックに道具を詰めていたアルは、マークに背を向けたまま答える。
「そうですか……」
静かにそう返したマークは、しばらく黙っていたが。
「今日か明日には、クリストファー様がこちらに到着しますから。それまでに、そのおかしな態度を改めてください」
「お……おかしな態度って、なんだ?」振り返ると、マークは真っ直ぐアルを見ていた。
「その、挙動不審な態度全般です」
「どこが……」「ですから、全部です」「それじゃあ、わからん!」「具体的にあげろと?」「そうだ」「まず、挨拶をされてませんよね、今朝。それかオーガストは、それまでのふてぶてしい態度から一転し、顔を強張らせた。「ありえん……、ローデンフェルに瘴気だと!」「父上、落ち着いてください。どうされました?」 唇をわなわなと震わせ、シワだらけの顔を真っ青にし、オーガストは椅子から立ち上がった。「ワシは、少々ヴィクトルの若造を困らせてやろうとしただけだっ!」「父上っ?」 オーガストが何を言っているのかが分からず、アンソニーは自分も立ち上がって父の傍に寄った。「ワシは……、あ……、あ……ワシはっ! あの美しい土地を穢してしまったっ!」 周囲の声など耳に入らぬ様子で、オーガストは半ば錯乱したように叫び、両手で顔を覆っている。「誰かあるっ!」 アンソニーが呼びかけると、執事と使用人が部屋に駆け込んできた。「父上を、お連れして」「離せ! アンソニー! エイドリアン様の意志をっ! ……ワシはっ!」 数人がかりで抑え込み、使用人たちに連れ出されたオーガストの声が遠のいていく。 最後に執事が扉を締めて、声は完全に聞こえなくなった。「お見苦しいところをお見せしまして……」「いえ、……なにかこちらが、オーガスト様のお気に障るような発言をしてしまったようで、申し訳ございません」 ジュリアンが頭を垂れる横で、カイルも深々と頭を下げている。「準男爵殿、顔を上げてください」「はい。ありがとうございます。……ところで、最初にお渡しすべきでしたが、うっかり忘れておりました」 ジュリアンが目配せをすると、カイルは鞣した毛皮をアンソニーに差し出した。「これは?」「本日、お時間を割いて頂いたお礼に、お持ちしました。魔獣化したグリズリーの毛皮です」「こちらは、先日ジュリアン様が仕留めた
応接間の扉を開けると、そこに従者を一人連れたジュリアン・ヴァレンティン準男爵が立っていた。「この度は、お時間を割いていただきありがとうございます」 だらりと下がったままの左腕、体をようやく支えている右手の杖。 こちらに向き直り、頭を下げる仕草から、右足が上手く動かないことも容易に察しが付いた。──この体で、立って待っていたのか……? オーガストはジュリアンをほとんど見ようともせず、さっさと腰を下ろしてしまった。「おかけください」「ありがとうございます」 アンソニーに勧められて、ジュリアンはようやく座った。「この度は、準男爵の叙爵とローデンフェル領の領主就任、誠におめでとうございます」「いえ、ご挨拶が遅れまして……」「ジュリアン殿は、ヴァレンティン騎士団長様の御子息と伺っておりますが。あまり似ておられませんな」「はい。父ほどの技量があれば良かったのですが……」 はははと謙遜するジュリアンの様子は、気の弱そうな印象を受ける。 だが、本当に弱々しいわけでもなさそうだ。 先程からオーガストがあからさまな敵意をむき出しにした殺気を放っているが、それに怯む気配が全く無い。 オーガストは、若い頃は血気盛んに武功を上げ、褒章をいくつも得ている実力者だ。──父上の殺気に晒されて、動じないとはな。傷さえ負わねば、ヴィクトルを超える騎士になれたかもしれぬな……。 そんなことを考えて、アンソニーは〝まさか〟と心の内で頭を振る。 ジュリアンの履歴は、ローデンフェルの領主となった時に簡単に調べた。 騎士を志望するなら、十八歳で受けるはずの入団試験。 それを、二十歳まで遅らせているのは、普通に考えれば無才の者だ。「それで、本日はどのようなご要件で?」「はい。図々しいお願いだとは思うのですが、ローデンフェルに伝わる〝奇跡の泉〟のお話を伺いたく、まかりこしました」
書斎で書類に目を通していたアンソニー・シンフィールドは、扉のノックに「入れ」と返した。「ジュリアン・ヴァレンティン準男爵様がご到着にございます」「分かった。応接間に通しておいてくれ」 執事が出ていくと、奥の安楽椅子に座っていた老人が、意味ありげに咳払いをする。「なんですか、お父さん」「会ってやる必要なぞ、なかったんじゃないのか?」 しわがれたガラガラ声の、小柄な老人。 だが未だ矍鑠とした前シンフィールド子爵であるオーガストは、不満げに息子の顔を見やる。「ローデンフェルを父上から召し上げたのは、陛下でしょう?」「生意気なヴィクトルが陛下にねだりさえしなければ!」 吐き捨てるようにオーガストは言った。 父が、ローデンフェルを理不尽に取り上げられてからずっと、ヴィクトル・ヴァレンティンを──いや、ヴィクトル・レイヴンクロフトを恨んでいるのは知っている。 事あるごとに、恨み言を聞かされ続けたアンソニーは、父がどれほど恨んでいるかを理解している一方で、そこまで恨み続けている父を嫌悪していた。──確かにローデンフェルを取られたのは大きい。 父が領地経営をしていた時代の書類を見れば、ローデンフェルをなくした直後の打撃の大きさは想像に余りある。 それ以上に、シンフィールド家にとってローデンフェルは、一族の歴史で最も古い〝最初の土地〟でもあった。 なぜならローデンフェルは、初代当主エイドリアン・シンフィールドが拓いた土地だからだ。「シンフィールドの歴史の始まりの場所だ!」「ローデンフェルは麦が名産ですが、我が領の主要産業は絹織物です。あの地を陛下に召し上げられた時、既に領都はこちらに移したあとだったじゃないですか」「だからといって、易々と盗られてよい道理はない!」「それで? ヴァレンティン準男爵との面会に、父上も立ち会われるのですか?」「当然だ。盗人の顔を、しっかりとこの目に焼き付けてくれるわ」
クリスが調達した馬車の中には、ジュリアンとカイルが乗っていた。 御者席にはマークが乗り、アルとクリスは騎乗して、馬車の左右を守っていた。「マークたちが村で集めた噂を整理すると、奇跡の泉の話は、年代によって認知に差がありますね」「そうだな。カイルより若い世代になると、泉の話を知っている者の数が急激に減っている」「ですが、私の父の年齢ぐらいの者たちは、みな知っている様子です。話したがらないので、言質を取れていませんが……」 馬車は、シンフィールド子爵の屋敷に向かっていた。 ジュリアンの手紙を届けたカイルは、子爵からの〝了承〟の返事を持って帰ってきた。 日程を合わせ、ようやく面会にこぎつけたのだ。「シンフィールド家は子爵ですが、歴史が古い家系です。あまり信用なさって、なんでも話してはだめですよ」「きみにまで、言われるとはな……」 その話は、朝から全員に口酸っぱく言い聞かされた。「私だって、貴族のしきたりを学んできているよ?」「しきたりを知っていても、ジュリアン様は腹芸ができませんから」「それを言われるとなぁ……」 ローデンフェルの土地を抜けると、周囲の空気がふっと軽くなり、窓の外の景色も紫から緑に変わる。「この距離で、これほど変わるか……」「ローデンフェルは山間なので、どうしても空気の流れが淀みがちですし」 馬車はそのまま、シンフィールド子爵家の本邸へと乗り入れた。
クリスが調達してきたのは、新品の箱馬車だった。「待ってくれ。いったい、いくらしたんだこれ?」 扉は特殊仕様になっていて、開くと同時に杖をついていても昇降がしやすいステップが現れる。 中の座席も、たっぷりと中綿が詰め込まれた革で出来ており、御者席には道の先を遠くまで照らす、魔物避けの灯りまで付いていた。「良いでしょう? 座席に使ってる革はケルピーですから、水をこぼしてもお手入れ簡単なんです。イアン様の家紋がわからなかったので、入れられなかったのが残念ですけど。決まったら入れましょうね」「家紋? 一代限りの準男爵に必要ないだろう?」「ないわけないでしょう。貴族なんだから。あとでみんなで考えましょうね」「いや……、いやいやいや、そうじゃなくて! 金額の問題を……」「出世払いのツケですから。今は、気にしないでください」「……マグワイア卿、本当に、こういうのは困る」 ジュリアンが姓を呼んだことで、クリスは空気が変わったことを察した。「では言わせていただきますがね、ヴァレンティン準男爵様。勉強家のあなたのことですから、父上のヴィクトル閣下がローデンフェルを手に入れた経緯、ちゃんとご存知なんでしょう?」「まだレイヴンクロフト伯爵家の三男だった十九歳の時に、武功を上げて陛下から所領と騎士爵を賜った……はずだ」「王都を出る前に、その辺りの話をかなり聞き込んできたんですがね。当時のシンフィールド子爵は、そりゃもうブチギレしてたって話なんですよ」「そう……なのか?」「はい。ですから、こっちが見くびられるのは悪手です。少なくともあっちは、あなたを〝土地泥棒の息子〟と見做しますし、ぬけぬけと〝相続したつもりか〟と言ってくるかもしれませんから」 クリスが、いつものふざけた態度でない様子から、ジュリアンも事情を飲み込んだ。「分かった。……だが、こういう分不相応な物を調達されるのは、本当に今後は止
ふと、ジュリアンがアルの顔を見た。「アル。顔色が悪いが、具合が悪いのか?」 昨晩、肌を重ねたあと。 ジュリアンは視線を合わせてくれずに、背を向けてよそよそしい態度になった。 前回と同じく、黙って体を清めて部屋を去ったが。 結局、今朝から挨拶も出来ないまま、マークに〝態度がおかしい〟とまで指摘されてしまった。 だが、そんな気まずい空気のままのはずなのに。 ジュリアンが、自分の些細な変化に気付き、気遣ってくれるのがたまらなく嬉しい。「いえ、体調は別に……、ただ……」 そこまで言って、アルは言い淀んだ。 山の中であったことは、どうにも説明がしにくかったからだ。「どうもその、上手く説明が出来ないんですが……」 しどろもどろに、事実を語る。 終わったところでクリスが首を傾げた。「瘴気が足に絡んだ?」「あり得ないでしょう?」 即座に、マークが否定する。「だが、他に説明のしようがないんだ」「アルほどの騎士が、説明できないとは……。かなりの異常事態と見ていいだろう」 ジュリアンは、全く否定をしなかった。「信じるんですか?」「当然だ。アルは素人じゃない。……だが、手練の騎士がそこまで混乱する状況となると、地の利を知らない我々だけで向かうのは危険かもしれないな」「あの……」 そこで、カイルが挙手をする。「なんだ?」「私はローデンフェル出身です」「そうだったのか?」「はい。私が幼少の頃、魔法の才があると分かり、父は私をヴァレンティン家の騎士養成所に入れるため、本領に移住してくれました」「カイルは今年三十七だったか? その移り住む前は、麦の収穫はどうだった?」「良くありません。父は元々農家だったのですが、やっていくのがかなり
マークとクリス、それにカイルを伴って、アルは領主館の執務室をノックした。「どうぞ」「失礼します」 次々と入ってきた面々を見て、ジュリアンは驚きの顔になった。「マグワイア卿に……、カイル? どうして、きみたちが……?」「あの〜、イアン様。俺もみなと同じくクリスって呼んでくれませんかね?」 ぽりぽりと頬を掻き、落ち着かない顔でクリスが言った。「いや……、でも……」「
どのくらいの時間、どのくらい距離を走ったのか? 気付けば、アルは領主館の見える場所に転び出ていた。「はあっ……、はあっ……」 館が見えたことで、少し冷静さを取り戻して、足を止める。 握っていた剣を見ると、刃毀れが酷い。 額を拭い、息を吐く。 よろよろと厩へ向かい、井戸から水を汲むと、そのままざぶりと頭から被った。「アルフォンス様、どうしました?」 そこで、馬に飼葉を与えていたマークが、アルの
瘴気の濃度が、目に見える霧になっている。──なんだよ、ちょっと先まで見えねぇじゃんか……。 人が入らなくなり、道は雑草に覆われていて、そもそも道の境界がはっきりしていない。 そこにこの霧では、さほど高くもない山であっても、迷いそうだ。──ライトで明るさを確保すれば……? いや、魔力は温存して、いざとなったら身体強化で強引に降りること考えるべきか……? 騎士団の遠征で状況判断には慣れていると思っていたが。 こんな場所で
山の中は、瘴気の濃度が村よりもずっと濃い。 べったりと張り付くシャツの感触は、ただの汗の不快さだけではない。──山って、もっと涼しいもんじゃねぇのかよ……。 額の汗を拭うために、アルは立ち止まる。 ついでに、持っていた地図を広げてみた。──見辛い……のは、かすれているせいだけでもないのか……? ぐるぐると上下を変えてみたり、明るい場所で透かしてみたり、紙面を四苦八苦しながら眺める。「役に立