LOGIN寝室のベッドの上で、ジュリアンは自分の左手を眺めていた。
全くの飾り物だった時に比べれば、肘や手首が曲がるようになったのは、まさに奇跡だと思う。 が、未だ指はうまくうごかない。「イアン様。お呼びですか?」
扉にノックが響き、アルの声がする。
「うん。入って」
応えると、扉が開いてアルが部屋に入ってきた。
「こんな時間に、呼びつけて済まないね」
「どうしました?」「きみと、キスがしたくて」しれっと言ったジュリアンに、アルが眉をひそめる。
「また、俺をからかってるんですか?」
「違うよ。今夜、きみともっと近くなりたい」「なんですか、それは! また、俺が生理的な欲求を溜め込んでるとか、言いたいんですか?」「ごめん。違うんだ」ジュリアンは手を伸ばすと、アルの耳に触れ、それから髪を漉き、最後にその体を引き寄せて唇を重ね合わせる。
「んむ……」<
ローデンフェルの畑には、金色に輝く麦穂が風に揺れている。「もうじきに、収穫だなぁ」 ゆっくり歩きながら、ジュリアンは働く領民たちを見渡した。「領主様、こんにちは」 キラキラとした笑顔の領民たちは、ようやくジュリアンを〝救世主様〟と呼ばなくなった。 正確には、半ば呼ぶことを禁じたに等しいが……。「どこかで値切られたり、風評で買い叩かれたりしてないかい?」「大丈夫です。領主様と騎士様のおかげです」 集まった領民たちは、ニコニコしながら感謝の念を伝えてくれる。 領内を回るために仕立てた、二人乗りのカブリオレに戻ると、アルが馬にムチを入れ、軽快に走り出す。「今日は、人が多いね」「クリスが第二騎士団の連中を連れてきているからでしょう」 ローデン泉館の前には、大勢の騎士が集まっていた。「ラファエル、様子は?」「第二の連中は、第三とちょくちょく合同で遠征してますからね。仲良くやってますよ」「宿舎の使い心地で、文句は出てないかい?」「騎士団の営舎暮らしが板についている連中です。個室ってだけで大はしゃぎですって」 そこに、クリスが顔を出す。「イアン様、お久しぶりです」「やあ、クリス。王都の様子はどうだい?」「一番のニュースは、マーベラスがルカに騎士団長の座を譲った話ですかね」 ルカは、ジュリアンにとって腹違いの弟になる。「上手くやってるのかな?」「そうですね。第二と第三の騎士の待遇がちょびっと改善されましたよ」「そのおかげかな、最近、転職希望が減ったのは」「いや、それは多分、ラファエルが募集を止めているだけですね」「そうなの?」「どっちにしろ、ルカは結構やる気みたいですね。騎士団を、身分に関わらず能力制に再編成するって噂もあります」「うん、四十代で騎士団長になったんだから、それぐらい意欲的でいいんじゃない?」 ガヤガヤと騎士たちが通り過ぎていく。
寝室のベッドの上で、ジュリアンは自分の左手を眺めていた。 全くの飾り物だった時に比べれば、肘や手首が曲がるようになったのは、まさに奇跡だと思う。 が、未だ指はうまくうごかない。「イアン様。お呼びですか?」 扉にノックが響き、アルの声がする。「うん。入って」 応えると、扉が開いてアルが部屋に入ってきた。「こんな時間に、呼びつけて済まないね」「どうしました?」「きみと、キスがしたくて」 しれっと言ったジュリアンに、アルが眉をひそめる。「また、俺をからかってるんですか?」「違うよ。今夜、きみともっと近くなりたい」「なんですか、それは! また、俺が生理的な欲求を溜め込んでるとか、言いたいんですか?」「ごめん。違うんだ」 ジュリアンは手を伸ばすと、アルの耳に触れ、それから髪を漉き、最後にその体を引き寄せて唇を重ね合わせる。「んむ……」「ありがとう。……そして、済まなかった。……私、きっとすごくきみの気持ちを蔑ろにして、踏みにじっていたよね?」 唇を離し、ジュリアンは両腕をアルの肩に乗せて、額をくっつけた。「……いえ……。イアン様がされた、酷い扱いを慮らず、一方的に気持ちや行為を押し付けたのは、俺です」「でも、きみは必死に、私の尊厳を取り戻そうとしてくれていた」 ジュリアンを見つめる榛色の瞳が、微かな希望を抱いたように笑んだ。 腕が、ジュリアンの体を抱き、ベッドの上にそっと倒す。 そしてアルからのキスを、ジュリアンはすんなりと受け入れた。「いやに、素直ですね」「言っただろう、きみとキスがしたかったって」 肩に掛けた両腕に力を込めて、ジュリアンはアルに抱きついた。「イアン様?」「様付けはやめてくれ、アルフォンス」
しばらく、穏やかな日常が続いたある日。 執務室に、慌ただしい足音とともにアルが駆け込んできた。「イアン様!」「アル。ノックをしなさい」 嗜めるジュリアンに、アルがぶるぶると頭を振る。「落ち着いてる場合じゃありません! ヤバイの来ました!」「そんな家名、知らないんだけど、どこの誰?」「違います! ヤベーのが来たんですよ! ヴァレンティン伯爵家の奥方……じゃない、引退した奥様です!」「えっ? アデライン様がっ?」 ジュリアンは独立した準男爵家であり、ローデンフェルはその領地だが。 ヴァレンティンの姓を名乗っている以上、無縁とも言い切れない。 父のヴィクトルならともかく、本家の直系であるアデラインが来たとなれば、アルの狼狽えも大げさとは言えない。 ジュリアンは廊下を早足で急ぎ、扉の前で服の埃を払ってから、応接室へと入った。「アデライン様。ご無沙汰をしております」「こんにちは、ヴァレンティン卿。突然の訪問、すみませんわね」 ジュリアンが最後にアデラインに会ったのは、入団試験を受けるために王都に旅立った日だ。 アデラインは相変わらずきりと背筋を伸ばしていたが、その黒髪に白いものが混ざり始めている。「このような田舎まで足をお運びくださり、恐縮です」 茶器をやや乱雑に扱いながら、ぎこちない仕草でアルがお茶を運んできた。「なにもありませんが……」「気遣いは不要です」 向かい側のジュリアンを、アデラインは真っ直ぐ見つめてくる。 その後ろには、アデラインの腹心である老齢の執事が立っていた。 ギクシャクしながらテーブルから離れたアルに、ジュリアンはちらと視線を送る。 それに気付いたアルは、トレイを持ったままぴしりと気をつけのポーズで扉の傍に立った。「それで、ご要件はなんでしょう?」「今日は、あなたに謝罪に来ました」 ローデンフェルの所有権を主張
ラファエルを残して、クリスとカイルはマークと共に現場に向かった。 本人は付いて来たがったが、ローデン泉館を仕切っているラファエルがフロントを離れるのは、目立ちすぎるために留守番を任されたのだ。「その、カーブを行った先の……」 先頭を走っていたマークが、そこで言葉をつまらせる。「どうした?」「まさか!」 ほとんど悲鳴に近い声を上げ、マークは青ざめた。「しっかりしろ!」「ない! ギルバートの死体が……」 マークは、なにもない地面に膝を付き、オロオロしながら地面を叩いた。「ここに! 確かにここに倒れていたんだ! 胸から血を流し、目を見開いて!」「なにも……ないな……」 カイルの言葉に、マークは激しく頭を振る。「いや! そんなはずは……。あった……はずなんだ……」「落ち着け!」 クリスは腕を組み、しばらく周囲を見回しながら考え込むように口を噤む。 マークは呆然とクリスを見上げ、カイルは立ち尽くしていた。「……マークの見間違いの可能性は、一番最後に回すとして」 不安げなマークを安心させるようにクリスが言うと、カイルも同意を示して頷く。「確かに。マークの性格的に、それが一番ありえない」「本当に……信じてくれるのか?」「当然だ。と言うか、ギルを殺るなら、相談しろ」「クリストファー様は、止めると思いまして」「ギルが騎士団長の息子で、伯爵家の跡取りである限り、止めたさ。恨みを晴らすことよりも、アレを殺したあとに発生する面倒が大きすぎたからな」 アルやマークと違い、クリスはギルバートがジュリアンに行っていた暴行の詳細を知っている。 その反吐が出るような内容に、憤
領民の興奮を抑え、ようやく場が落ち着いたところで、クリスは皆に囲まれている。 ジュリアンは既に領主館に戻り、泉館にはラファエルとカイルが残っていた。「ギルが平民って、本当なのか?」「ああ、本当だ。一刻も早くこの知らせを届けようと、王都から馬を走らせてきたんだからな」 クリスは一枚の新聞を取り出した。 ヴィクトル騎士団長の引退式典を報じたものだ。「次期騎士団長は、副団長だったマーベラス? ルイじゃないのか?」「いや、マーベラスも来年定年だろ。ギルバートの件でヴァレンティン伯爵家に悪い噂が付いたから、マーベラスを中継ぎにするつもりじゃないか? そもそも次男のルイがヴァレンティン伯爵を継ぐのに、色々あるだろうしな」「なるほどな。今までは長男様として幅を利かせていたギルが、突然いなくなったわけだしな」 突然、ローデン泉館の扉が開き、中にマークが駆け込んで来る。「お? どうした血相変えて」「……あ、……あの……」 皆の顔をぐるりと見回してから、マークは言葉をつまらせる。「おい、落ち着け」 狼狽え、自身を失っているようなマークに、クリスは立ち上がって傍に寄り、ラファエルはコップに水をくんで持ってきた。「ほら、これを飲め。なにがあった?」 渡された水を一気に飲み干し、マークは息を吐いてから改めて皆の顔を見る。「ギルバートが、殺された」「なんだとっ!」 場にいる者が全員、気色ばむ。「おい、本当か?」「まさか、マークがやったのか?」「違う! いや……違わないが、違う!」「意味がわからん、殺ったのか?」 クリスが冷静な声で問うた。 マークは一度黙り込み、ごくりと唾を飲み下してから口を開く。「あのまま返しては、今後必ずこの領への災いになる。だから……」
ローデン泉館でなにか騒ぎが起きたと聞き、マークはその場に駆けつけた。 だが、その時には既に、クリスとラファエルがギルバートを押さえつけ、ローデン泉館の外へ追い出していたところだった。「貴様ら、俺にこんなことをしてただで済むと思うなよっ!」 喚くギルバートを、ラファエルは蔑んだ顔で、クリスは呆れた顔で見やった。「もう一度言いますがね、元第一騎士団所属、大隊長殿。あんたもう、騎士でもなけりゃ貴族でもないんだよ。ここで諍いを起こしたら、ただの〝平民の喧嘩〟です。更に俺らが証言したら、あんたは〝領主様に暴言を吐いた〟罪に問われますよ?」「ちっ!」 舌打ちをしたギルバートの背中に、コツンとなにかが当たる。 騒ぎを聞きつけ、集まっていた領民の子供が、しゃがんで石を拾っていた。「このガキっ!」「ご領主様をいじめるな!」 別の方向からも、礫が飛んだ。 それを皮切りに、集まっていた領民から罵声が上がり、礫が次々に投げつけられる。「帰れ!」「立ち去れ!」「ローデンフェルの領主は、ジュリアン様だ!」 最初は唖然としていたラファエルとクリスだったが。 ギルバートの眉間に礫が当たり、血が滲んだことに気づき、慌てて民衆の抑制に走る。「よさないかっ!」 だが、そんな声で収まるわけもなく、ギルバートは両手で頭を庇いながら駆け去った。 やんやの声が上がり、ますます騒ぎが大きくなる中、マークは場の収拾に参加せずにギルバートの後を追う。──このまま、放っておいては災いになる。 第三騎士団第七分隊で、ジュリアンと共に戦ってきたマークは、ギルバートが執拗な嫌がらせをしていたことを目の当たりにしている。──全部、あの男の所為ではないか……。 よろよろと歩くギルバートの後を追い、マークはタイミングを伺った。 領境から少し離れた、人気のない街道に出るのを待つ。 距離を取りつつ後を付け、林に挟まれたカーブで一瞬、ギルバ
ジュリアンは奉仕をしながら、ちらりとアルの顔を見た。 真っ赤になって、唇を震わせ、快感に呑まれている表情。 髪を掴んでいる手が、さらなる刺激を欲して力を込めたいが、ジュリアンを慮って力を込めるべきではないと押しとどまっているのか、迷いで震えている。 かなり常軌を逸した行為ではあるが、ジュリアン自身はそれをさほども気にしてはいない。 騎士団に入ってから、背中の負傷で退団するまでの十二年間。 嫌がらせの噂が広がるにつれ、望まぬ場所で望まぬ行為を強いられることもままあった。 あまりに日常的に繰り返される暴行に、嫌悪も
婦人に示された方へ走ると、山の林へと足跡が続いていた。──熊が二頭……となると、かなり厄介だぞ……。 そう思い、気配察知と身体強化に魔力を割いて、先へと進む。 少し行くと、木々や草が倒された場所があった。 その向こうに、熊が一頭、頭蓋を割られて倒れている。 そして、その傍には、折れた杖が落ちていた。 アルの喉が、ヒュッと鳴る。 杖がここにある……ということは、ジュリアンは現在、無手ということだ。──どっちだ? 急がねば……っ! 気ばかり焦る。 アル
翌日、ジュリアンは執務室に顔を出した。「ジュリアン様、もう起きてよろしいのですか?」 執務室で仕事をしていたマークが、驚き顔で問う。「寝ていると、落ち着かなくてね。それよりマーク」 改まった口調のジュリアンを見て、持っていた資料を置き、マークは向き直る。「なんでしょう」「私のことを思いやってくれるのは嬉しい。だが、……きみほどの騎士が抜けてしまったら、損失は計り知れないぞ。今からでも、戻って……」「申し訳ありません。ですが、戻る
書斎で書類に目を通していたアンソニー・シンフィールドは、扉のノックに「入れ」と返した。「ジュリアン・ヴァレンティン準男爵様がご到着にございます」「分かった。応接間に通しておいてくれ」 執事が出ていくと、奥の安楽椅子に座っていた老人が、意味ありげに咳払いをする。「なんですか、お父さん」「会ってやる必要なぞ、なかったんじゃないのか?」 しわがれたガラガラ声の、小柄な老人。 だが未だ矍鑠とした前シンフィールド子爵であるオーガストは、不満げに息子の顔を見やる。「ローデンフェルを父