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記憶を失ったら、復讐しに来た彼に執着されました
記憶を失ったら、復讐しに来た彼に執着されました
Author: るるね

第1話

Author: るるね
last update publish date: 2026-07-30 02:49:43

<プロローグ>

 この先、自分がこれほどまでに不幸になり、二人の男から執拗なまでの執着を向けられ、どれほど逃げようとしても決して手放してもらえなくなると知っていたなら――あのとき、もっと遠くへ逃げておくべきだった。

 誰にも見つけられないほど遠く、二人の手が決して届かない場所まで逃げてしまえばよかったのだと、星奈は今になって思う。

「何を考えてる?」

 星奈が心ここにあらずなのに気づいたのか、ベッドの上にいた男が低く笑った。

そのまま当然のように唇を重ねようと顔を近づけてきたため、星奈は触れられるより先に顔を背ける。

「……婚約者のところへ行かなくていいの?」

「でも今は、お前のほうが欲しい」

 その言葉を聞いた途端、心臓が何度も引き攣るように痛んだ。

 星奈はそれ以上何も言わず、痛みに耐えるように固く口を閉ざした。

再び距離を詰めてきた男の身体を両手で押し返し、よろめきながらベッドから下りると、一刻も早くこの場所から離れようと、そのまま扉へ向かって歩き出す。

けれど、扉を開けた先にいたのは、星奈をこの上なく苦しめ、どれほど逃れようとしても決して逃がしてはくれない、もう一人の男だった。

 部屋から出てきた星奈の姿を目にした途端、その男の目は瞬く間に赤く染まる。

 まるで捨てられた子犬のような目で星奈を見つめると、今にもここから逃げ出そうとする彼女へ堪えきれないように駆け寄り、その背中へ縋りつくように抱き締めた。

「行かないでくれ……お願いだ。もう少しだけ、俺を見てくれないか」

 その声を聞いた瞬間、星奈の脳裏には幾つもの夜の記憶が鮮明に蘇る。

 かつては、星奈のほうが目の前の男へ必死に縋っていた。

 床へ跪き、もう殴らないでほしいと懇願した。どうか許してほしいと、涙を流しながら何度も何度も頼み続けた。

 それでも男は、一度として星奈の言葉へ耳を貸そうとはしなかった。

 今は、ただ立場が入れ替わっただけだ。

 だから星奈も、彼の願いを聞き入れるつもりなど微塵もなかった。

 かつて男が自分へ浴びせた言葉を、そのまま返す。

「放して。これ以上、私に付きまとわないで。本当に気持ち悪い」

 背後の男は、それでも腕を緩めようとはしなかった。

わずか数秒、重苦しい沈黙が二人の間に流れた。

 やがて、その静寂を震わせるように、押し殺しきれない嗚咽混じりの泣き声が、星奈のすぐ背後からかすかに漏れ聞こえてくる。

 すべては数か月前――二人と再会した、あの日から始まった。

***

<1>

「恵子さん、納品しておきますね」

 二階へ向かって声をかけると、すぐに「お願いね」と明るい返事が返ってきた。

 柚木星奈ゆずきせなは抱えていた籠から、できたばかりの羊毛フェルトの人形を取り出し、一つひとつ丁寧に棚へ並べていく。

 ここは小さな手作り工房だ。

 二階は手芸教室、一階は作品を販売する小さな店になっている。広くはないものの、店内には羊毛フェルトや陶芸作品が種類ごとに並べられ、中央のショーケースには店の看板でもある恵子お手製の大きなぬいぐるみが飾られていた。

 この店で働くようになって、もう数か月が経つ。

 星奈は今でも、恵子と出会った日のことだけは鮮明に覚えていた。

 ――いや。

 正確には、それ以前のことを何ひとつ覚えていない。

 見知らぬ町の路上で目を覚ましたとき、星奈は古びた鞄を提げ、傍らには少し歪んだスーツケースが転がっていた。

 転んだのか、右膝からはひどく血が流れ、わずかに動かすだけでも激痛が走った。それ以外の場所もひどい状態で、全身がずきずきと痛んでいた。

 だが、外傷よりも深刻だったのは、自分に何が起きたのかまったく思い出せないことだった。

 頭の中は真っ白で、自分が何者なのかさえ、きれいさっぱり忘れていた。

 どうすればいいのか分からず、その場に座り込んでいた星奈を見つけたのが、朝のジョギング中だった恵子だった。

 血まみれの星奈を見るなり、恵子は悲鳴を上げて救急車を呼び、病院まで付き添ってくれた。

 検査の結果、車にはねられた可能性が高いと告げられた。

 全身の擦り傷は、衝突したあと路面を滑った際にできたものらしい。幸い命に別状はなかったものの、頭を強く打った影響で、星奈は記憶を失っていた。

 過去のことは何ひとつ思い出せない。

 自分がどんな人生を歩み、誰と出会い、何を大切にしてきたのか――そのすべてが、跡形もなく消えてしまっていた。

 幸い、鞄の中に入っていた健康保険証のおかげで身元だけは判明した。

 分かったのは、「柚木星奈」という名前だけ。

 住所や家族の情報は確認できず、鞄の中にも携帯電話は入っていなかった。何度探しても、自分を知っていそうな人へつながる手がかりは何ひとつ見つからない。

 そんな星奈を放っておけなかったのだろう。心優しい恵子は、退院した星奈を自宅へ迎え入れてくれた。

 もちろん、星奈も最初から甘えるつもりはなかった。

 これ以上迷惑はかけられないと、身体が回復したらすぐに家を出るつもりでいた。けれど、記憶を失ったままでは帰る場所も、頼れる相手も分からない。

 行く当てのない星奈は、結局、恵子の厚意に甘え、その家で暮らすことになった。

 日中は手芸教室で助手を務め、給料をもらっている。教室が忙しくないときは、今のように一階の店番を手伝っていた。

 ここは地図で見ても辺鄙な場所にある小さな町だ。それなのに、星奈の健康保険証に記載されていた所在地は東京だった。

 自分がどうしてこんな場所まで来たのか、星奈には分からない。

 恵子から「東京へ戻ってみる?」と聞かれたこともあった。

 健康保険証には東京の住所が記されていても、その場所にどんな家があり、誰と暮らしていたのか、何ひとつ思い出せない。

 そんな状態で戻ったところで、行く当てもなければ頼れる相手もいない。

 星奈は、ひとまず東京へ戻ることを諦めた。

 この町は居心地がよかった。

 時間がゆっくりと流れ、穏やかで、傷を癒やすにはぴったりの場所だった。

 星奈は次第にこの町での暮らしに馴染み、恵子と一緒に過ごす日々を好きになっていった。数か月のうちに二人の距離はすっかり縮まり、恵子は星奈をさまざまな面で支えてくれた。

 そのため星奈は、ときどき思うようになった。

 記憶を失ったことも、案外悪いことばかりではないのかもしれない。

 過去を思い出せないのなら、これから新しい人生を始めればいいのだ、と。

 完成した作品を棚へ並べ終えた星奈は、ずらりと並んだ愛らしい人形たちを満足そうに見つめた。

 その中には、自分が作った作品も混じっている。

 どうやら星奈には手芸の才能があったらしい。恵子に何度か教わっただけで、すぐに一人でも作れるようになった。

 今日もいつもと変わらない、穏やかで幸せな一日になる。そう思っていたとき、一台の車が店の前に停まった。

 この町では見かけたことのない高級車だった。

 磨き上げられた黒い車体は、のどかな町並みからひどく浮いて見える。

「兄さん、あの女、本当にこんな辺鄙なところにいるのかよ」

 助手席から降りてきた若い男が、不満そうな声を上げた。その声に、星奈は思わず顔を向ける。

 続いて、もう一人の男が車を降りた。

 長身で、息をのむほど整った顔立ち。

 黒いシャツに黒のスラックスという簡素な装いでありながら、その無駄のない体躯がひどく目を引く。

 星奈は思わず目を瞬かせた。

 次の瞬間には、その端正な横顔から視線を逸らせなくなっていた。

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