로그인結婚三周年の夜。 冷めきった料理の前で、瀬名川紗耶は一枚の写真を見つめていた。 ホテルへ消えていく夫・恭介と、彼の「忘れられない人」。 三年間、帰らない夫を待ち続けた。 姑に「金目当ての嫁」と蔑まれても、「大丈夫です」と笑ってきた。 でも、もう限界だった。 紗耶は離婚届に名前を書き、家を出る。 「金が目当てだったんだろう。いくら欲しい」 冷たく言い放つ夫に、彼女は初めて言い返した。 「一円もいりません。判だけください」 すべてを失った紗耶に手を差し伸べたのは、夫の異母弟・湊。 瀬名川家でただ一人、彼女の味方でいてくれた年下の義弟だった。 「もう遠慮しない。——紗耶」 その日から、湊は「義弟」の顔を捨てた。
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食卓には、腕によりをかけた料理を並べてある。シーリングライトに照らされた料理は、艶やかでどれもおいしそうに見えた。
けれど、それらからは湯気ひとつ立っていない。すっかり冷め切っていて、まるで自分たち夫婦のようだと紗耶は思った。
鼻を近づけても、もうほとんど匂いはしない。ローストしたラムの香ばしさも、ローズマリーの青さも、湯気と一緒に消えてしまった。
テーブルの端には、小さなガラス瓶がひとつ。この日のために調合した香りだった。去年の分も、一昨年の分も、渡せないまま調香部屋の棚に並んでいる。
きっと今日はもう帰ってこないだろう。いつもそうだ。帰る時間の連絡をくれたことなど一度もない。
先に食べようかと思ったが、胃がキリキリと痛んで食べる気になれなかった。それに、冷めた料理を温め直すのも面倒だ。
「もう、片付けちゃおう……」
紗耶は、テーブルの上の食事を片付けようと手を伸ばした。大皿を手にし、椅子から立ち上がる。壁の時計は、十時を少し回っていた。
そのとき、スマホが震えた。画面には、登録している週刊誌の速報が表示されていた。
なにげなく通知をタップして、内容を確認する。
「なに……これ」
大皿が手から滑り落ちた。
パリン!
砕けた皿から、料理が床に散らばった。けれど、紗耶はその場から動くことができなかった。見出しをじっと見つめた。
『瀬名川ホテルズ次期社長候補の瀬名川恭介氏の不倫現場を激写! お相手は美人PRコンサルタント』
恭介が女性と腕を組み、ホテルに入ろうとしている写真だった。恭介は女性に笑顔を向けている。紗耶には見せたことのない顔だった。
――やっぱり
早瀬莉子は、恭介の昔の彼女だ。もう関係ないと言いながら、こうやって陰で会っている。その事実を知った瞬間、紗耶の全身は氷水に浸されたように、すっと冷えていった。
紗耶は散らばった料理を片付けることもできず、よろよろとその場を後にした。ふらつきながら、鏡台の前へ行き引き出しを開けた。そこには一枚の書類が入っていた。
書類を取り出し、ペンを手にした。
半年前に役所へ行ってもらってきた離婚届。記入しようかどうか、これまでずっと迷っていた。けれど今、もうその迷いはなくなった。
紗耶はペンを走らせて、必要事項を書き込んだ。そして、最後に署名をして息を吐いた。すると、空気が肺いっぱいに入ってきた。それで自分が息を止めていたことに気づいた。
離婚届を手に、リビングに戻った。それをテーブルの上に置き、結婚指輪を外した。ふと床を見ると、割れた皿と料理が散らばっていた。
「……片付けなきゃ」
紗耶は、なにも考えることができずに、片付け始めた。
この結婚生活はいったいなんだったのか。自分はなんのために恭介と結婚したのか。
なにも考えたくないのに、これまでのことが次々に脳裏に浮かび、拾い集めた皿のかけらの上に、ぽたりと涙が落ちた。
すっかり片付けも終わり、紗耶は荷物をまとめ始めた。
スーツケースに詰めたのは、着替えと、使い込んだ調香キットだけだった。三年分の香りのメモは、棚に置いていくことにした。持っていけば、きっとまた期待してしまう。
最後の留め具を留めようとしたとき、インターホンが鳴った。紗耶がよろめきながらインターホンへ向かうと、モニターには恭介の弟、
「湊くん……」
『
その声はやさしく、まるで紗耶の傷を癒してくれるかのようだった。紗耶はオートロックの解錠ボタンを押した。
しばらくすると、玄関のインターホンが鳴った。画面を確認すると湊が笑顔で立っていた。
紗耶がドアを開けると、湊は玄関先で言った。
「
「……うん。知ってる」
「だから俺が迎えに来た。行こう」
湊は紗耶の手をそっと握った。紗耶はただ頷くしかなかった。
「……うん」
スーツケースの口を閉じ、紗耶は家を後にした。
紗耶は、湊の運転する車の助手席に乗り込んだ。
「義姉さん、安心して。俺がちゃんと守るから」
紗耶は膝の上で握りしめた手をほどかないまま、窓の外を見ていた。
車がゆっくりと走り出した。薄く開いた窓から爽やかな風が吹き込んできた。その風に乗って、湊からなんだか懐かしい香りが漂ってきた。
どこかで嗅いだことのある懐かしい香り。
香りなら、一度嗅げば忘れない。それだけが取り柄だったはずなのに。
どこで嗅いだのか、紗耶はどうしても思い出せなかった。
紗耶が朝目覚めると、いつもと違う天井が目に入り、思わず飛び起きた。周りを見渡して、ようやく昨日のことを思い出した。 遮光カーテンの隙間から、白い光が一筋差し込んでいる。広すぎるベッドの片側だけが、くしゃりと乱れていた。 週刊誌の速報で、夫の恭介が元恋人の早瀬莉子とホテルに入っていく写真が出ていた。よりによって、自分との結婚記念日に。 帰りが遅いのは、仕事が忙しいからだ。ずっとそう自分に言い聞かせてきた。その言い訳が、たった一枚の写真で崩れてしまった。 紗耶は額に手をやった。まだ気持ちの整理がうまくできていない。 枕元のスマホに手を伸ばす。昨夜、電源を切ったままだった。 電源を入れると、ニュースアプリの通知がいくつも並んだ。その中に、着信を知らせる通知が一件だけ混じっていた。恭介からだった。 一件だけ。 紗耶はスマホを伏せた。 こめかみを揉み、ベッドから降りて洗面所へ向かった。 鏡に映った自分の目は、赤く腫れぼったかった。泣きながら眠ったのだと、そこで初めて知った。 冷たい水で顔を洗っていると、スマホが震えた。画面を確認すると、湊からだった。《義姉さん、起きてる?》 紗耶は顔をタオルで拭きながら、返事を書いた。《さっき起きたところだよ》 送ってすぐに既読がついた。《よかったら下のラウンジで、一緒に朝ごはん食べない?》 そういえば、昨日の夜はなにも食べていなかった。そう思ったとたん、お腹がぐうっと鳴った。《うん、いいよ。すぐ支度して行くね》 紗耶は服を着替え、手首にいつもの香水をひと吹きしてから、エレベーターに乗り込んだ。 扉の鏡に映る自分に、小さく笑ってみせる。大丈夫。ちゃんと笑える。 一階に到着すると、エレベーターホールの前で湊が待っていた。「義姉さん、おはよう」 湊は手を小さく上げて声をかけてきた。「湊くん、おはよう」 すると、湊は紗耶
朝。恭介が自宅のドアを開けると、家の中はしんと静まり返っていた。陽は昇っているはずなのに、廊下の先は薄暗い。 記事が出てから、広報対応に追われて一睡もしていない。恭介は重いため息をつき、ネクタイを緩めた。「おい、帰ったぞ」 玄関で声を出すが、自分の声だけがそこに響いた。いつもなら聞こえるはずの、キッチンの物音もしない。家の空気が、どこかひんやりとしていた。「……まだ寝ているのか」 恭介は靴を脱いで上がると、まっすぐ寝室へ向かった。ドアを開けると、カーテンは閉められていて、部屋の中は真っ暗だった。ベッドは、きれいに整えられたままだ。鏡台の引き出しが、半分開いている。 紗耶は毎日決まった時間に起き、家中のカーテンを全て開ける。それが閉まっているということは、紗耶は家にいないのだろうか。 恭介は胸騒ぎがした。拳を握り、声を張り上げた。「おい、紗耶! どこにいる」 けれど、返事はない。 恭介はリビングの扉を開けた。そこもカーテンは閉まっていて、薄暗い部屋に食事の匂いがこもっていた。 カーテンを開けると、まぶしい日差しが差し込んだ。恭介は目を細めて、テーブルへ目を向けた。そこには冷めた料理が手付かずのまま並べられていた。 ローストビーフにはマッシュポテトが添えられ、グレービーソースがかけられている。きのこのマリネからは、紗耶がベランダで育てているハーブの、青々とした香りがした。 ガーリックトーストは冷えて固くなり、コーンポタージュの表面には薄い膜が張っていた。粒をわざと粗めに残すのは、恭介の好みに合わせた紗耶の作り方だった。 テーブルの中央だけが、皿一枚分ぽっかりと空いている。 どれも恭介の好きなものだった。こんなに好きなものばかりを作るなんて、珍しい。昨日はなにかあっただろうか。 考えるが、なにも思い浮かばない。 首を傾げると、テーブルの隅で、なにかが光っているのが見えた。恭介はその場所に向かった。 そこには、離婚届と結婚指輪が置かれていた。署名欄には、見慣れた紗耶の字が並んでいる。 なんだ、これは……。 恭介は指輪をつまみ上げた。小さな輪は、思っていたよりずっと軽かった。 しばらくその場から動けなかった。 ああ、そうか。昨日出た週刊誌の記事を見たんだな。 口角が、ゆっくりと持ち上がった。 なるほど。あの記事を口実に、慰謝
義姉である紗耶を助手席に乗せ、湊はハンドルをきつく握った。ギュッと革が鳴った。 まっすぐ前を向いて、アクセルを踏み込む。車はゆっくりと滑り出した。 紗耶が息苦しくないように、窓を少し開ける。そこから夜の爽やかな風が吹き込んできた。 その風を受けて、湊は胸がすく思いがした。横目で紗耶を見ると、じっと膝の上で拳を握っている。その肩が、浅い呼吸に合わせて小さく上下していた。 風に混じって、助手席からかすかに香りが届く。紗耶がいつも手首につけている、自分で調合した香りだ。三年間、兄の家の中に閉じ込められていた香り。 赤信号で車が止まる。フロントガラスの向こうで、街の灯りがにじんでいた。もうすぐ日付が変わる。結婚記念日が終わる。 これでいい。これでいいんだ。 湊はハンドルを握り直し、ただひたすら前へと進んだ。「義姉さん、着いたよ」 紗耶を連れてきたのは、瀬名川ホテルズ系列ではない、ライバル系列のホテルだった。 紗耶は最初こそ緊張した面持ちで助手席に座っていたが、しばらくすると規則正しい寝息を立て始めた。今回の件で、よっぽど疲れたのかもしれない。 それもそうだろう。夫が別の女とホテルに入る写真が週刊誌に載ったのだ。 今はデジタルですぐに配信され、拡散も早い。だから、兄の恭介もすでにあの記事を目にしているだろう。 そう考えると、湊の口の端が自然と上がった。 自業自得だ。こんなにも献身的に尽くしてくれる妻がいながら、ほかの女と逢瀬を楽しんでいるなんて許せるはずもない。 湊は拳を握った。 紗耶は湊に起こされて、ゆっくりと目を開いた。まだ焦点が定まっていない。ぼんやりした表情で周りを見渡している。「湊……くん、ここ……」 寝ぼけたくぐもった声が、やけにかわいく感じられた。紗耶が自分より三つ年上だということを忘れてしまうほどだった。「ここはホテルだよ。ほら、行こう」 湊は紗耶へ手を差し伸べた。紗耶はその手を取り、助手席から降りた。「大丈夫。ここは瀬名川ホテルズ系列じゃないから。支配人と知り合いだから、部屋をすぐに用意してもらえたんだ」「そう……なの?」「うん。だから安心して。さ、行こう」 湊は紗耶の手を握り、先導してフロントへ向かった。握った手は、驚くほど冷たかった。 夜更けのロビーは静まり返っていた。磨かれた床に、ふたりの
結婚三周年の夜。今日も、夫の恭介は帰ってこない。 食卓には、腕によりをかけた料理を並べてある。シーリングライトに照らされた料理は、艶やかでどれもおいしそうに見えた。 けれど、それらからは湯気ひとつ立っていない。すっかり冷め切っていて、まるで自分たち夫婦のようだと紗耶は思った。 鼻を近づけても、もうほとんど匂いはしない。ローストしたラムの香ばしさも、ローズマリーの青さも、湯気と一緒に消えてしまった。 テーブルの端には、小さなガラス瓶がひとつ。この日のために調合した香りだった。去年の分も、一昨年の分も、渡せないまま調香部屋の棚に並んでいる。 きっと今日はもう帰ってこないだろう。いつもそうだ。帰る時間の連絡をくれたことなど一度もない。 瀬名川ホテルズの副社長で、次期社長候補として名高い恭介は、妻の紗耶のことは二の次で仕事一筋だ。きっと今日が結婚記念日であることすら忘れているに違いない。 先に食べようかと思ったが、胃がキリキリと痛んで食べる気になれなかった。それに、冷めた料理を温め直すのも面倒だ。「もう、片付けちゃおう……」 紗耶は、テーブルの上の食事を片付けようと手を伸ばした。大皿を手にし、椅子から立ち上がる。壁の時計は、十時を少し回っていた。 そのとき、スマホが震えた。画面には、登録している週刊誌の速報が表示されていた。 なにげなく通知をタップして、内容を確認する。「なに……これ」 大皿が手から滑り落ちた。 パリン! 砕けた皿から、料理が床に散らばった。けれど、紗耶はその場から動くことができなかった。見出しをじっと見つめた。『瀬名川ホテルズ次期社長候補の瀬名川恭介氏の不倫現場を激写! お相手は美人PRコンサルタント』 恭介が女性と腕を組み、ホテルに入ろうとしている写真だった。恭介は女性に笑顔を向けている。紗耶には見せたことのない顔だった。 ――やっぱり早瀬さんとは続いてたんだ……。 早瀬莉子は、恭介の昔の彼女だ。もう関係ないと言いながら、こうやって陰で会っている。その事実を知った瞬間、紗耶の全身は氷水に浸されたように、すっと冷えていった。 紗耶は散らばった料理を片付けることもできず、よろよろとその場を後にした。ふらつきながら、鏡台の前へ行き引き出しを開けた。そこには一枚の書類