All Chapters of 記憶を失ったら、復讐しに来た彼に執着されました: Chapter 1 - Chapter 10

67 Chapters

第1話

 この先、自分がこれほどまでに不幸になり、二人の男から執拗なまでの執着を向けられ、どれほど逃げようとしても決して手放してもらえなくなると知っていたなら――あのとき、もっと遠くへ逃げておくべきだった。 誰にも見つけられないほど遠く、二人の手が決して届かない場所まで逃げてしまえばよかったのだと、星奈は今になって思う。「何を考えてる?」 星奈が心ここにあらずなのに気づいたのか、ベッドの上にいた男が低く笑った。そのまま当然のように唇を重ねようと顔を近づけてきたため、星奈は触れられるより先に顔を背ける。「……婚約者のところへ行かなくていいの?」「でも今は、お前のほうが欲しい」 その言葉を聞いた途端、心臓が何度も引き攣るように痛んだ。 星奈はそれ以上何も言わず、痛みに耐えるように固く口を閉ざした。再び距離を詰めてきた男の身体を両手で押し返し、よろめきながらベッドから下りると、一刻も早くこの場所から離れようと、そのまま扉へ向かって歩き出す。けれど、扉を開けた先にいたのは、星奈をこの上なく苦しめ、どれほど逃れようとしても決して逃がしてはくれない、もう一人の男だった。 部屋から出てきた星奈の姿を目にした途端、その男の目は瞬く間に赤く染まる。 まるで捨てられた子犬のような目で星奈を見つめると、今にもここから逃げ出そうとする彼女へ堪えきれないように駆け寄り、その背中へ縋りつくように抱き締めた。「行かないでくれ……お願いだ。もう少しだけ、俺を見てくれないか」 その声を聞いた瞬間、星奈の脳裏には幾つもの夜の記憶が鮮明に蘇る。 かつては、星奈のほうが目の前の男へ必死に縋っていた。 床へ跪き、もう殴らないでほしいと懇願した。どうか許してほしいと、涙を流しながら何度も何度も頼み続けた。 それでも男は、一度として星奈の言葉へ耳を貸そうとはしなかった。 今は、ただ立場が入れ替わっただけだ。 だから星奈も、彼の願いを聞き入れるつもりなど微塵もなかった。 かつて男が自分へ浴びせた言葉を、そのまま返す。「放して。これ以上、私に付きまとわないで。本当に気持ち悪い」 背後の男は、それでも腕を緩めようとはしなかった。わずか数秒、重苦しい沈黙が二人の間に流れた。 やがて、その静寂を震わせるように、押し殺しきれない嗚咽混じりの泣き声が、星奈のすぐ背後から
last updateLast Updated : 2026-07-30
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第2話

 男もすぐに、店の中にいる星奈へ視線を向けた。 二人の目が合い、星奈は思わず息をのむ。 整いすぎているほど端正な顔立ちだった。一瞬だけ見惚れてしまい、はっと我に返って慌てて目をそらす。 ――何を考えているの。 頬がわずかに熱くなり、星奈は気まずさをごまかすように棚へ視線を落とした。 だから気づかなかった。 彼女が目をそらした瞬間、それまで穏やかに見えた男の瞳に、凍てつくような憎悪が滲んだことを。 口元には、軽蔑と嘲笑を滲ませた、冷え切った笑みがゆっくりと浮かんでいた。「兄さん、あの女で間違いないよな?」「純生、声を落とせ」 低く制する声が聞こえたものの、純生は意に介した様子もなく店へ入ってきた。 迷いのない足取りでまっすぐ星奈へ歩み寄り、あっという間に目の前まで迫る。「――っ!」 圧倒されるような威圧感に、星奈は思わず息をのみ、一歩後ずさった。 純生と呼ばれた男も、兄に勝るとも劣らない端正な顔立ちをしていた。 どこか面差しが似ていることに加え、「兄さん」という呼び方からも、二人が兄弟であることはすぐに分かった。「あの……何かご用でしょうか」 恐る恐る声をかける。 しかし千堂純生は答える代わりに、険しい表情のまま星奈を睨みつけていた。 その顔に見覚えはない。 記憶を探っても、何ひとつ思い当たるものはなかった。 戸惑う星奈へ向けて、次の瞬間、悪意に満ちた言葉が投げつけられた。「この性悪女。俺たちがどれだけ捜したと思ってるんだ? こんな寂れた場所に隠れやがって。ここまで逃げれば、俺たちに見つからないとでも思ったのか?」 純生は吐き捨てるように言い放つと、星奈へさらに一歩詰め寄った。 あまりの剣幕に、星奈は息をのむ。 何を言われているのか分からない。反論しようにも、口を開く隙すら与えられなかった。「おい、聞いてんのか? それとも聞こえないふりでもしてんのか?」 返事をしない星奈に、純生は苛立ちを隠そうともせず舌打ちした。「柚木家が潰れても、お姫様気分は抜けねぇってことかよ。俺たちみたいな人間とは、口を利く価値もないとでも思ってんのか?」「え……わ、私は……」 目の前の男が、自分を知っている。 その事実に気づいた瞬間、星奈の胸に小さな希望が灯った。 ようやく、失われた過去を知る手がかりが
last updateLast Updated : 2026-07-30
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第3話

 床一面に散らばった人形を目にし、星奈は思わず焦りの声を上げた。「やめてください……!」 慌てて純生を止めようと手を伸ばす。 星奈の指先が彼の服にわずかに触れた瞬間、純生は大げさなほど激しく腕を振り払い、そのまま彼女を突き飛ばした。 まるで星奈に触れられること自体が、耐え難くおぞましいことだったかのように。 直後に吐き捨てられた言葉が、その嫌悪を何よりも雄弁に物語っていた。「触るな! 汚ねえんだよ」「汚い……?」 星奈は反射的に自分の手へ目を落とした。 何か汚れでもついているのかと確かめ、何も付いていないことを確認してから、ようやく純生が言っているのは、そういう意味ではないのだと気づく。 記憶を失って以来、星奈は誰かから悪意を向けられたことがなかった。 閉ざされた小さな町では、住民同士が互いをよく知っている。 そこへ怪我を負い、記憶まで失ったよそ者の娘が突然現れたというのに、人々は誰一人として冷たい態度を取らず、何かと星奈へ手を差し伸べてくれた。 星奈がこの数か月で知ったのは、人の優しさと温かさばかりだった。 目の前へ突きつけられた露骨な悪意は、あまりにも突然で、あまりにも激しかった。 どう受け止めればいいのかも分からず、星奈は呆然と立ち尽くす。 純生はそんな星奈を見ても苛立ちが収まらないのか、今度は別の陳列棚を勢いよく蹴りつけた。 作品や組み立て式の棚が激しい音を立てながら床へ崩れ落ち、その音が静かな店内へ立て続けに響き渡る。 耳をつんざくような物音に、星奈ははっと我に返った。 助けを求めるように純生から視線を外し、もう一人の男へおそるおそる目を向ける。「あの……すみません。お連れの方を……」 自分へ声をかけられるとは思っていなかったのか、男はわずかに眉を上げた。 その表情はどこまでも淡々としている。 純生が店を好き勝手に壊していても、驚く様子はない。止めようとする気配さえ見せなかった。 男はゆっくりと店内へ入り、星奈との距離を静かに詰めてくる。「柚木星奈。今度はそういう手で来たのか?」「え……?」「俺たちを知らないふりでもすれば、誤魔化せると?」 低く落ち着いた声は、本来なら耳に心地よく響くはずだった。 だが、その声色には凍てつくような冷たさが宿り、星奈を見据える眼差しには、隠しきれない憎悪が滲んでいる
last updateLast Updated : 2026-08-03
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第4話

「それは……!」 星奈がなおも口を開きかけた、その声を遮るように、「何があったの? さっきからずいぶん騒がしいけど……」 一階の騒ぎを聞きつけた恵子が、二階から慌てて下りてきた。 今日は教室のない日だった。 普段なら二階で新しい作品を作っている時間だ。このところ、コンクールへ出品する陶芸作品の構想がまとまらず、恵子はずっと制作に没頭していた。 少しでも制作に集中してもらいたくて、星奈は店番を一人で引き受けていた。 こんな騒ぎになるとは、夢にも思わなかった。 一階へ下りてきた恵子は、変わり果てた店内を目の当たりにし、息を呑んだ。「星奈ちゃん!」 青ざめた顔で星奈の名を呼ぶ。 店内には見知らぬ男が二人。 身なりを見るだけで、裕福な家の人間だと分かった。 恵子は警戒を露わにすると、すぐに星奈のもとへ駆け寄り、庇うように自分の背中へ隠した。「お二人とも、私の店でいったい何をなさっているんですか?」 恵子はもともと穏やかで、礼儀を重んじる人だった。 大切な店をここまで荒らされ、怒りで震えているはずなのに、その口調にはなお相手への節度が残っている。 恵子が現れると、純生はようやく店を壊す手を止めた。 大股で恵子の前まで歩み寄り、星奈を庇うように立つ彼女を不快そうに睨みつける。「お前が店主か。この女を拾ったのもお前なんだな。後ろにいる女がどれだけ最低な人間か、知ってて――」「その方は」 恵子は眉を寄せ、厳しい声で純生の言葉を遮った。「星奈は私の友人であり、大切な仕事仲間です。本当に優しい子なんです。そのような言い方は、おやめください」「優しい……?」 とんでもない冗談を聞かされたかのように、純生は目を見開いた。「こいつが、優しい子だって……?」 怒りのあまり言葉が追いつかないのか、星奈を指さしたまま何度も口を開くものの、喉の奥で言葉が途切れてしまう。「お前は何も知らないから、そんなことが言えるんだ。こいつが……この女が、何をしたのか……」 純生の呼吸は目に見えて乱れ始めた。 浅く、速く、息を繰り返す。 異変に気づいた純希はすぐに弟の腕をつかみ、そっと背中へ手を添えた。 純生はもともと短気で、感情を抑えることが苦手だった。激しく興奮すると、過呼吸を起こしてしまうこともある。 とはいえ、ここまで取り乱すことは滅多にない
last updateLast Updated : 2026-08-03
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第5話

 純希の言葉に、恵子は眉をひそめた。 目の前の二人が、記憶を失う前の星奈と浅からぬ関係にあったことは察しがつく。 ただ、どう見ても彼らは友好的な相手ではない。星奈がこんな辺鄙な町まで逃げてきたことも、事故に遭ったことも、もしかすると彼らが関係しているのかもしれなかった。 そんな相手に、星奈が記憶を失っていることを明かしていいものか、恵子には判断できない。 今はひとまず隠しておき、二人が帰ってから星奈本人の意向を確かめるつもりだった。「お二人と星奈の間に何があったのか、星奈が以前何をしたのか、私には分かりません。ですが、あなたたちが今していることは犯罪です。すぐにやめてください」「犯罪? だったら警察に通報すればいいだろ。正義の味方が助けに来てくれるか、試してみろよ」 純生は少しも怯まず、恵子の警告を鼻で笑った。 幼い頃から何不自由なく育ち、何をしても兄が後始末をしてくれた。今も純希が止めないということは、この程度なら何の問題にもならないということだ。 星奈まで険しい顔をしていることに気づくと、純生は恵子と言い争うのをやめ、背後にいる星奈へ挑発的な視線を向けた。「聞いただろ、お姫様。お前がここにいるかぎり、その友達も、この店も、平穏に過ごせると思うなよ」「お姫様」という呼び名は、甘さとは程遠く、皮肉と嘲りに満ちていた。星奈は、その悪意に胸を締めつけられるような思いがした。* 店は十分に荒らした。捜していた星奈も見つけた。 純希は腕時計に目を落とし、一枚の小切手を取り出して恵子へ差し出す。「俺は先に車へ戻る」 純生へそう告げると、星奈にはもう一度も目を向けず、そのまま店を出ていった。 純希が立ち去ると、純生もそれ以上暴れる気はないらしい。 最後に星奈を憎々しげに睨みつける。「覚えてろよ」 吐き捨てるように言い残し、純希のあとを追って店を出ていった。 ほどなくして、店の前に停まっていた車も、星奈と恵子の視界から遠ざかっていく。 店内に静けさが戻ると、星奈はようやく、恵子がまだ自分の手を強く握り締めていることに気づいた。 まるで、自分が傷つけられないよう必死で守ってくれているかのようだった。 その温もりに、張り詰めていた心が少しだけ和らぐ。 だが、荒れ果てた店内を見回した途端、胸いっぱいに申し訳なさが込み上げ、星奈の気
last updateLast Updated : 2026-08-04
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第6話

 恵子と二人で店内をあらかた片づけ終える頃には、すっかり夜も更けていた。 店に並んでいた作品の半分以上は、素材の性質上、原形を失うほどひどく壊されてはいなかった。 それでも、恵子が一つひとつ念入りに確認した結果、かなりの数を売り場から下げることになった。壊れていなくても、多かれ少なかれ傷や汚れがついており、商品として売るわけにはいかなかったのだ。 店を閉めたあとも、恵子はずっと星奈を励まし続けていた。 売り場から下げた作品を詰め込んだ大きな紙袋を両腕に抱え、何でもないことのように言う。「ちょうどよかったわ。実はこの子たち、どれも売るのが惜しいと思ってたの。それに、あれだけのお金があれば、しばらく店を休んだって平気よ」 星奈は重い足取りで、恵子と一緒に家へ向かった。 この町に来てから、星奈は恵子の家に住まわせてもらっている。恵子は家賃すら受け取ろうとせず、星奈が何度も頼み込み、ようやく水道光熱費の一部だけ負担させてもらえるようになった。 そんなにも優しい恵子が、自分のせいで何の落ち度もないのに巻き込まれ、被害を受けてしまった。 そう考えるうちに、星奈は泣きそうになった。 隣を歩く星奈がいつまでも黙っていることに気づき、恵子は顔を覗き込む。今にも泣きだしそうな表情を見て、小さく息をついた。「星奈ちゃん、私を見て」 言われるまま星奈が顔を上げると、恵子はすぐに満面の笑みを浮かべた。「本当に気にしてないのよ。昔、父が借金を作ったせいで、高利貸しが家まで押しかけてきて、散々物を壊されたこともあるんだから。私、ああいうのはもう見慣れてるの」 恵子はことさら大げさな口調で続けた。「あの頃なんて、家をめちゃくちゃにされても一銭ももらえなかったのよ? それに比べたら、今日はあんな大金まで置いていってくれたんだから、大儲けじゃない!」 星奈を笑わせようと、あえて明るく茶化してみせる。 恵子がそんな苦労をしてきたとは、星奈は初めて知った。 思わず呆然と彼女を見つめた瞬間、それまでどうにか堪えていた涙が一気に溢れ出す。「恵子さん、そんなにつらい思いをしてきたんですね……。ごめんなさい。本当にごめんなさい……!」 星奈は恵子に抱きつき、子供のように声を上げて泣いた。 今度は恵子が呆然とする番だった。 自分の苦労を笑い話に変えるのは、昔から人を笑わ
last updateLast Updated : 2026-08-04
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第7話

 教室の生徒が突然、全員揃って来られなくなるなど、そんな都合のいい偶然があるはずもない。  星奈も恵子も、その理由が何なのかは分かっていた。ただ、恵子はあえてそのことには触れようとしなかった。 「せっかくだし、どこか遊びに行きましょうよ。どこがいいかしら……」  楽しそうに出かける場所を選ぶ恵子の声を聞きながら、星奈は椅子に座ったまま、後ろめたさからわずかに俯いていた。  膝の上に置いた両手は、いつの間にかきつく握り締められている。  どうすればこの状況を変えられるのか、いくら考えても答えは見つからない。頭の中ではいくつもの考えが絡まり合い、焦りばかりが募っていく。  そのせいで、恵子に何度も名前を呼ばれていたことにも気づかなかった。 「星奈ちゃん? 大丈夫?」 「……え?」  ようやく顔を上げると、恵子が心配そうにこちらを見つめていた。 「自分のせいだなんて思わなくていいのよ。もしかしたら、本当にたまたま全員都合が悪くなっただけかもしれないでしょう?」  そんなはずはない。  恵子だって分かっているはずだ。それでも星奈を気遣い、そう言ってくれている。  星奈は心配をかけまいと、少し無理をして唇に笑みを浮かべた。  何か言葉を返そうとしたその矢先、教室の固定電話が鳴り響いた。「あら! ほら、もしかしたら、やっぱり教室に来られるっていう生徒さんかもしれないわよ!」  恵子はぱっと表情を明るくし、すぐに電話を取った。 「はい、もしもし――」  電話の向こうで何を告げられたのか、初めは嬉しそうだった恵子の顔が、次第に強張っていく。  やがて笑みは完全に消え、表情はみるみる険しくなった。 「……分かりました。すぐに向かいます」  電話を切ると、恵子は星奈を振り返った。 「ごめんなさい、星奈ちゃん。ちょっと出かけてくるわ。今日はお店も開けないから、あなたはゆっくり休んでいて。ね?」 「恵子さん、何かあったんですか?」  星奈はすぐに尋ねた。  だが、恵子は詳しく説明する余裕もないほど焦っているようだった。急いで鞄を手に取ると、そのまま慌ただしく階段を駆け下りていった。* 純希と純生が滞在している場所を突き止めるのは、さほど難しくなかった。  もともと小さな村だ。何かあれば、あっという間に村中へ話が広まる。  まして、あ
last updateLast Updated : 2026-08-05
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第8話

 純生はそれだけ言い残し、本当にその場を離れていったらしい。「純生さん? あの……まだそこにいるんですか?」 星奈は扉の向こうへ何度も呼びかけた。少しずつ声を大きくしてみても返事はない。呼びかけるたび、静けさだけが返ってくる。ようやく、本当に扉の外には誰もいないのだと悟った。 小さな建物の中は、ひどく風通しが悪かった。 どういう理由なのか、平屋建ての小屋にある窓はどれも固く閉ざされている。力いっぱい開けようとしても、わずかに動く気配すらなかった。 ただでさえ蒸し暑い日だった。 風ひとつ入らない室内に閉じ込められていると、ほどなく空気そのものが重く淀み、息苦しさまでまとわりついてくる。 額や首筋にも、うっすらと汗が滲み始めた。「……っ」 暑さだけではない。 焦りなのか、恐怖なのか、自分でも分からなかった。いつの間にか頭の奥では、耳鳴りにも似た低い音が途切れることなく響いている。 ブーン、ブーン――。 頭の中を震わせるような不快な音が、いつまでも消えない。 呼吸も少しずつ浅く、速くなっていく。 いくら息を吸っても、肺の奥まで空気が届かない。胸の奥がぎゅっと締めつけられ、苦しさばかりが増していった。 暑い。 息苦しい。 時間が経てば慣れるかもしれない。そう思っていたのに、不快感は薄れるどころか、ますます強くなっていく。 星奈はじっとしていられず、何度も狭い室内を歩き回った。 窓の留め具を外そうとしたり、壁際を調べたり、風の通る隙間や外へ出られそうな場所を必死に探す。 だが、どこにも見つからない。「誰か……いませんか?」 思い出したように扉へ駆け寄り、何度も外へ向かって声をかける。「あの、お願いです。誰か……」 返ってくるのは、どこまでも続く静寂だけだった。 あまりにも静かだった。 その静けさが、不安をさらに膨らませる。考えたくもないことばかりが、次々と頭の中へ浮かんできた。 不安と恐怖で張り詰めた神経は、時間が経つほど限界まで追い詰められていく。 純希は、どこへ行ったのだろう。 もし純希がいつまで経っても帰ってこなかったら。 純希が帰ってきても、純生が自分のことを何も伝えなかったら。 それとも――。 あの二人は自分のことをあれほど嫌っているのだから、最初から全部わざとなのではないだろうか。「……」 一度
last updateLast Updated : 2026-08-05
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第9話

「だ、出してください……! お願い、誰かいませんか? 純生さん? 純生さん……!」 光が消えた瞬間、星奈は咄嗟に扉へ飛びついた。 だが間に合わず、閉まりきった扉へ身体を強く打ちつける。全身を鈍器で殴られたような衝撃が走り、身体の奥までじんじんと痺れた。 それでも痛みを気にする余裕などない。「純生さん……! 開けてください! お願い……!」 星奈は何度も扉を叩いた。 外にいるはずの純生の名を呼び、こんな悪ふざけはもうやめてほしいと必死に訴える。 だが、手のひらが痛くなるほど叩き続けても、外から返事はない。 物音ひとつ聞こえなかった。 純生は星奈を閉じ込め、そのまま本当にどこかへ行ってしまったらしい。叫んでも、懇願しても、その声は虚しく暗闇へ吸い込まれていくだけだった。 先ほど閉じ込められていた倉庫には、まだ窓があった。 だが、今いる物置は違う。 ただでさえ狭く息苦しい空間なのに、扉が閉まった途端、光まで完全に断ち切られた。 本当に、何ひとつ見えなかった。「……っ、は……」 扉が何でできているのかさえ分からない。 床との隙間もほとんどないのか、足元へ一筋の光すら差し込まなかった。 暗闇に包まれたまま立ち尽くしていると、自分の居場所まで少しずつ闇に呑み込まれていくような錯覚に襲われる。 呼吸は浅く、速くなり、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。 耳の奥では鼓動だけがやけに大きく鳴り響き、吸っても吸っても空気が足りない。 焦りに駆られ、何かないかと手探りで周囲へ手を伸ばした。「……きゃっ!」 暗闇の中で、手が何かにぶつかった。 ガタン、と大きな音が響き、続けざまにいくつもの物が落ちてくる。 掃除道具だったのか、それとも別の何かだったのか。何が落ちてきたのかさえ分からないまま、腕や肩へ次々とぶつかり、床へ転がっていった。「……っ」 星奈は泣きそうになった。 暗闇が、胸の奥の不安をじわじわと膨らませていく。 心臓は壊れそうなほど速く、大きく脈打っていた。耳の奥では、耳鳴りにも似た低い音が絶え間なく響いている。 手足の感覚が少しずつ遠のいていく。 身体の反応は自分でも抑えられないほど激しくなり、とうとう助けを呼ぶ声さえまともに出せなくなった。 指先が小刻みに震える。 その震えは少しずつ腕へ、肩へ、全身へと広がっていく。
last updateLast Updated : 2026-08-06
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第10話

「……」 管理人は純希を見つめ、何度か口を開きかけた。 だが結局、星奈が今も階段下の物置へ閉じ込められていることを口にはできない。 純生からは、絶対に兄には言うなと何度も念を押されていた。 自分で始末をつけるから、余計なことはするな、と。 あんな若い女性を、あれほど狭い物置へいつまでも閉じ込めておいて、本当に大丈夫なのだろうか。 胸の内では、不安ばかりが膨らんでいく。 それでも、この屋敷で自分を雇っているのは千堂家だった。 純生は、その千堂家の次男でもある。「……いいえ、何でもございません」管理人は小さく頭を下げた。「純希様も、どうぞお早めにお休みください」「ありがとう」 純希は穏やかに頷くと、今度こそ振り返ることなく二階へ上がっていった。* 純希は、何度もしつこく鳴り続ける呼び鈴の音で目を覚ました。 もともと眠りは浅い。ほんの些細な物音でも目を覚ましてしまうことがある。 呼び鈴が鳴ったとき、窓の外はまだ薄暗かった。「……」 眉を寄せたまま、枕元のサイドテーブルに置いていたスマートフォンを手に取り、時間を確認する。 午前三時。 眠りについてから、まだ一時間ほどしか経っていない。「……どうした?」 突然起こされたせいで、身体がひどく重い。 純希が階段を下りると、同じように呼び鈴で起こされたらしい純生がいた。 髪は寝癖で乱れ、目もまだ半分ほどしか開いていない。純希に気づくと、純生は片手で目を擦りながら声をかけた。「兄さんも起きたのかよ」「こんな時間に、誰が呼び鈴を鳴らしてる?」 尋ねた相手は、ちょうど慌ただしく戻ってきた管理人だった。 この別荘へ急遽滞在することになったため、今いるのは純希と純生、それに管理人の三人だけだ。 今はその三人が、全員ここに揃っている。 管理人は長年、こうした突発的な事態にも対処してきた。呼び鈴が二度目に鳴った時点で玄関へ向かい、訪ねてきた相手を確認していた。「それが……外に若い女性がいらしておりまして。柚木様のお友達だと……」 そう報告しながら、管理人は困ったように純生へ目を向け、静かに純希へ視線を戻す。「……」 柚木星奈の名前を聞いた途端、眠そうにしていた純生の表情がぴたりと止まった。 その顔が、見る間に青ざめた。「どういう意味だ? どうしてここへ、あの女のことを聞
last updateLast Updated : 2026-08-06
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