تسجيل الدخول耳元で、誰かの声が響いた。
「おい……起きろ……」
聞き覚えがあるようで、どこか懐かしく、それでいて見知らぬ響きを含んだ声だった。
ゆっくりと目を開けると、ぼやけた視界の中に一人の少年の姿が映る。
風に揺れる短い髪。反抗的で鋭い眼差し。
修――そう思った。
修以外の誰でもない。
少年は彼女の目の前でひらひらと手を振った。
「おい、ボールが頭に当たって、本当におかしくなったんじゃねえだろうな?
一足す一は?」
澪はハッとして足元を見る。
そこにはバスケットボールが転がり、その隣には自分の鞄が落ち、中から教科書が地面に散乱していた。
目の前の、修によく似た少年は、まるで呆れたものでも見るような目で彼女を見下ろしている。
――いや、少し違う。
そう感じたのは、目の前の修が、澪の記憶にある十八歳の彼よりどこか幼く見え、その瞳もずっと澄んでいたからだった。
修は小さく舌打ちをした。
「こりゃ重症だな。口も利けねえなんて、脳震盪でも起こしたか。
ほら、保健室まで連れてってやる」
面倒くさそうな顔をしながらも、修はしぶしぶと手を差し出してきた。
――修は、さっきまで私の誕生日パーティーにいたはず。
あんなにも悪意に満ちた言葉で、大勢の前で容赦なく私を辱めていたのに。
次の瞬間、記憶が怒涛のように押し寄せる。
誰かに背中を押され、無防備だった自分は長い石段を真っ逆さまに転げ落ちて――。
身体を引き裂かれるような激痛と、底知れぬ恐怖が、一瞬で鮮やかによみがえった。
生存本能が爆発する。
どこから湧いたのかも分からない力で、澪は腕を振り上げ、修の頬を思い切り平手打ちした。
「触らないで! 人殺し!」
血走った目で、澪は修を真正面から睨みつけた。
頬を打たれ、顔を横へ弾かれた修は、完全に呆然としていた。その頬には、みるみるうちに真っ赤な手形が浮かび上がる。
その隙に、澪は弾かれたように彼のそばをすり抜け、一度も振り返ることなく走り出した。
おかしい。
この世界は、絶対におかしい。
あの絶望的な雨の夜、私は確かに階段から突き落とされた。
なのに、目を覚ましたら、どうして世界はこんなにも違っているの?
ここは神崎家ではない。
まるで時間が巻き戻ったかのように、彼女はかつて通っていた高校の校舎へ戻り、若き日の修と再会していた。
澪は無我夢中で校内を駆け抜けた。
地面に散らばった荷物を拾う余裕などない。
周囲から向けられる奇異の視線も、すべて置き去りにして走り続ける。
やがて視界の端に、校内の掲示板が飛び込んできた。
そこには一行だけ、大きくこう書かれていた。
『2x26年 青波私立学園 第十回文化祭 二ヶ月後開催予定』
2x26年……。
二年前?
澪の背筋を冷たいものが走る。
私は……過去に戻ったの?
こんな最悪の人生に、やり直す価値なんてあるというの?
もしかすると、これはただの夢なのかもしれない。
神崎家の令嬢になったことも。
綾音が仕組んだあの誕生日パーティーも。
修の裏切りも。
そして、自分を突き落とした正体不明の犯人も――。
すべて、悪夢に過ぎないのかもしれない。
気づけば、澪は校門まで走ってきていた。
車が絶え間なく行き交う大通りをぼんやりと見つめる。
その時、ふと一つの考えが脳裏をよぎった。
――もう一度死ねば、この夢から目覚められるんじゃないか?
***
一方その頃、突然平手打ちを食らった修は、まだ状況をまったく理解できずにいた。
……何なんだ、あいつ。
足元に散らばった荷物へ目を向け、しゃがみ込んで一冊の問題集を拾い上げる。
表紙には、こう書かれていた。
『一年D組 遠坂澪』
聞いたこともない名前だ。
……駄目だ。
追いかけて、ちゃんと話を聞かせてもらわないと。
修は鞄を拾い上げると、澪が走り去った方向へ向かって校門まで駆けていった。
すると、澪はまるで魂が抜けたように、道端でぼんやり立ち尽くしていた。
「おい! 遠坂――!」
修は早足で彼女の前へ回り込み、息を切らしながら問い詰める。
「お前な……いきなり人を殴るなんて、一体どういうつもりだ。
……俺が誰だか分かってんのか?」
「九条……修……」
澪は振り向くこともなく、ただ無感情な目で前だけを見つめていた。
「何だ、俺のこと知ってんのか?
俺が誰か分かってて殴ったのかよ。
俺、どこかで恨みでも買うようなことがあったのか?」
澪の口元がわずかに歪み、冷たい笑みが浮かんだ。
思い出した。
二年前の今日こそ、修が彼女の人生へ足を踏み入れた日だった。
前世で受けた裏切りが、生々しく脳裏によみがえる。
結局、自分を殺した犯人が誰なのか、その顔さえ見ることはできなかった。
このまま犬死にして、本当に悔いはないのだろうか。
その時だった。
視界の端を白い光がかすめ、少し先から一台の黒いセダンが猛スピードで突っ込んでくるのが見えた。
「おい、危ない!」
修は顔色を変え、反射的に澪の腕を掴み、力いっぱい車道から引き戻した。
耳をつんざくようなブレーキ音が響き渡る。
澪は勢いのまま、彼の胸へ倒れ込んだ。
その抱擁はほんの一瞬。
修はすぐに彼女を突き放した。
苛立ちのまま怒鳴りつけようとした彼だったが、ふと視線を落とし、澪の瞳と真正面からぶつかる。
その眼差しは刃のように鋭く、千年の氷を宿したかのように冷たかった。
修は一瞬たじろぎ、喉元まで込み上げていた罵声を無理やり飲み込んだ。
その時、黒いセダンのドアが開き、きっちりとスーツを着こなした初老の紳士が車から降りてきた。
「またお会いしましたね、遠坂澪様」
神崎家の執事――
寛はアタッシュケースから一通の茶封筒を取り出し、恭しく澪へ差し出す。
「遠坂様。報告書が届きました。どうぞご確認ください」
澪の心臓が大きく跳ねる。
彼女はその封筒を穴が開くほど見つめた。
中身が何なのか、知っている。
――DNA鑑定書だ。
震える両手で封筒を受け取り、封を切る。
白い紙に印字された黒い文字を、一文字ずつ目で追っていく。
そこには、
彼女と神崎昴との血縁一致確率――99.9999%。
そう記されていた。
「遠坂様……いいえ、これからは神崎澪様とお呼びすべきでしょうか。
本日、お嬢様をお迎えに参りました。
旦那様と奥様が、お屋敷でお待ちです」
そうだ。
すべて思い出した。
まさに今日、この日から、自分は遠坂ではなく神崎を名乗ることになったのだ。
前世では、この報告書を手にした時、ようやく希望を掴めたのだと信じていた。
けれど今、その胸に広がるのは、果てしない氷のような冷たさだけだった。
澪はゆっくりと息を吸い込む。
本当に、過去へ戻ってきたのだ。
一度死んだ人間に、もう失うものなど何一つない。
これ以上、耐え続ける必要もない。
自分を犠牲にしてまで、誰かのために生きる必要もない。
譲るどころか――今度は、この手ですべてを壊してやる。
再び顔を上げた時、少女の瞳から迷いは完全に消えていた。
そこに宿っていたのは、凍てつくような決意だけだった。
澪は報告書を静かに二つ折りにすると、迷いなくポケットへしまい込む。
そして寛へ向き直り、静かに告げた。
「行きましょう」
寛は静かに一礼し、澪のために後部座席のドアを開いた。
前世の私は、このドアの向こうにある場所を「家」だと信じていた。
けれど二度目の人生で、彼女はようやく悟った。
――この先に待っているのは、家ではない。
戦場だ。
綾音はみるみるうちに目を潤ませ、次の瞬間には大粒の涙を頬に伝わせた。「全部、私のせいなんです……。本当の家族に会いたくてたまらなかったんです。やっと本当の両親が誰なのか分かったと思ったら、もう亡くなっていると知らされて……。しかも、叔母さんも同じ車に乗っていたと聞いてからは、何日も食事が喉を通らなくて、夜も眠れませんでした。私はもう両親を失っています。これ以上、叔母さんまで失うわけにはいきませんもの。それで当時の病院について調べたら、叔母さんは亡くなってはいないけれど、植物状態のままで、もう目を覚まさないかもしれないと知ったんです」「かわいそうに……。あなたは一人じゃないわ。私たちがいるじゃない」真っ先に口を開いたのは大奥様だった。ハンカチで目尻を押さえると、従妹へたしなめるような視線を向ける。「せっかくのお祝いの席なのに、そんな縁起でもない話を持ち出すなんて」従妹は舌をぺろりと出した。「だって、気になったんだもん……」平蔵は軽く咳払いをし、昴へ視線を向けた。「この件については、もう調べがついているのか」昴は静かに頷く。「私の不手際です。ご報告が遅れました。早紀さんは頭部に重傷を負い、現在も治療を受けています」深雪は胸を痛めたような表情で綾音の肩を抱き寄せた。「その方は……まだ目を覚ます可能性があるの? 綾音にとって、たった一人の血のつながった身内なのに……」昴は淡々と答えた。「医師の話では……希望を捨てない限り、奇跡が起こる可能性はゼロではないそうだ」平蔵はゆっくりと頷いた。「よし。その人をグループ傘下で最も設備の整った病院へ転院させなさい。費用はすべてこちらで負担する」深雪は安堵の息をつき、綾音へ微笑みかけた。「聞いたでしょう? 神崎家がついているんだから、叔母様もきっと目を覚ましてくださるわ」綾音は感極まったように涙を流した。「ありがとうございます、お祖父様、お祖母様……お父様、お母様」「お礼なんていらないわ。私たちは家族なんですもの」深雪は愛おしそうに綾音の頭を優しく撫でた。皆が温かな眼差しで見守る中、母と娘は固く抱き合った。その場にいる誰もが、目の前の光景に胸を打たれていた。――ただ一人、澪だけを除いて。彼女は表情一つ変えず、食卓の隅で静かにジュースをひと口飲んだ。綾音の危機対応は確かに鮮やか
日曜の朝。澪は清楚なワンピースに身を包み、腰には細いリボンを結んだ。派手さはないが、清潔感があり、どんな場にも溶け込める控えめな装いだった。玄関では、すでに綾音が待っていた。細部まで計算し尽くされた華やかなドレス姿は、澪の質素な服装と鮮やかな対比を成している。「澪、そのワンピース……少し地味すぎないかしら」綾音は目を細め、笑みを浮かべながらも、その目だけは笑っていなかった。「本家の歓迎会には、皆さんきちんとしたドレスでいらっしゃるのよ。もし着るものに困っているなら、お姉ちゃんのを何着か貸してあげるわ」「ありがとう、お姉ちゃん。でも初めて本家へ伺うんだもの。あまり目立たないほうがいいと思うから」澪は礼儀正しく微笑んだ。夕暮れどき、二台のセダンが神崎本家の敷地へと静かに滑り込んだ。車を降りた一行は、そのまま母屋へ足を踏み入れる。本家と分家の親族はすでに勢揃いしており、一斉に澪へ視線を向けた。好奇心、品定め、そして軽蔑――さまざまな感情を帯びた視線が、網のように彼女へ絡みつく。上座には、厳格な面持ちの白髪の老人がどっしりと腰を据えていた。――神崎平蔵(かんざき へいぞう)。「お父様」昴は恭しく一礼した。「娘を連れてまいりました」「この娘か」平蔵は湯呑みを手にしたまま、澪へ静かに視線を向けた。「初めまして、澪と申します。よろしくお願いいたします」澪は静かに頭を下げる。平蔵は頭の先から足元までじっくり見定めると、可もなく不可もなくといった口調で言った。「無事に着いたならそれでいい。座りなさい」一方の綾音は、水を得た魚のように場へ溶け込んでいた。大奥様のそばでは甘えるように微笑み、叔父には手際よく茶を注ぎ、礼儀作法の教本から抜け出してきたような完璧な笑顔を振りまいている。「九条家のご子息がお着きです――」玄関から声が響いた瞬間、澪の心臓が小さく跳ねた。長身の影が足早に大広間へ入ってくる。修は仕立ての良いスーツをまとい、背筋を真っすぐ伸ばしていた。その眼差しには、名門の跡取りらしい成熟した冷たさが宿っている。部屋へ入るや否や、彼の視線は居並ぶ人々を通り越し、部屋の隅にいる澪を真っ直ぐ射抜いた。「修! 来てくれたのね!」綾音はすぐに歩み寄り、親しげに彼の手を取る。「紹介するわ。この子が――」「澪、だろ」修は綾音の
澪は物置で着の身着のまま身体を丸め、一晩を明かした。夜が白み始めると同時に起き上がり、誰にも見つからないうちに屋敷の造りを把握しておこうと、音を立てないようそっとドアを開けて外へ出る。廊下は水を打ったように静まり返っていた。厨房の前を通りかかったその時、棘のある声が静寂を切り裂いた。「……いいこと、よく覚えておきなさい。神崎家のお嬢様はただ一人、綾音お嬢様だけよ」澪は足を止め、壁に身を寄せて息を潜めた。半開きのドアの隙間から覗くと、メイド長の中井円香が腰に手を当て、若いメイドたちを前に説教しているところだった。円香はこの家で二十年以上勤めており、実質的には屋敷を取り仕切る女主人のような存在だ。前世で離れに住んでいた頃、澪はこのメイド長から散々な『特別扱い』を受けてきた。「旦那様がどれほどのお方か分かっているの? 神崎グループの総帥よ! あんなスラムから這い上がってきたような野蛮な小娘に、その尊い血筋を汚されてたまるものですか」円香は調理台の上から一枚のメモをつまみ上げ、若いメイドたちの前でひらひらと振った。「旦那様と奥様、それに綾音お嬢様の朝食は、和牛サンドにフレンチオムレツ、それから搾りたてのアボカドジュース。あの小娘には、お粥と漬物でも適当に出しておきなさい。もし文句を言ってきたら、『厨房が忙しくて用意が間に合いませんでした』って言えばいいわ。あとは勝手にさせておけばいいの」「でも……」若いメイドの一人が、おずおずと口を開いた。「あの方も、奥様がお腹を痛めて産んだ、本当のお嬢様なんですよね……?」澪の視線が、その少女で止まる。十七、八歳ほどだろうか。丸みのある顔立ちに、大きなアーモンド形の瞳が印象的で、俯きがちな他のメイドたちの中でもひときわ目を引いていた。前世では、この少女を見かけた記憶はない。「本当のお嬢様ですって?」円香はとんでもない冗談でも聞いたかのように、声を荒らげた。「あんな子が本当の娘なわけないでしょう。十六年間、旦那様は存在すらご存じなかったのよ。それが今さら突然現れるなんて、遺産目当ての詐欺師かもしれないじゃない」円香は目を細め、その場にいる全員を見回した。「いいこと。この家で誰につくのが一番賢いのか、よく考えて行動しなさい。あなたたちが小さい頃からお仕えしてきたのは綾音お嬢様よ。
澪の乗った黒いセダンは、静かに神崎家の屋敷へと滑り込んだ。車窓越しに、澪は記憶の奥深くに焼き付いたその屋敷をじっと見つめる。前世の自分は、ここがようやく見つけた希望の場所だと信じていた。だが現実は、人の心を少しずつ蝕んでいく牢獄に過ぎなかった。澪は深く息を吸い込み、固く握り締めていた拳をゆっくりとほどく。寛がドアを開けると、澪は慌てることなく静かに車を降り、その後に続いた。前世で初めてこの屋敷を訪れた時は、一歩踏み出すたびに怯えていた。だが今は違う。前世の記憶を抱えた澪は、迷うことなく、落ち着いた足取りで屋敷の中へと歩みを進めていく。エントランスには使用人たちが整列して出迎えていたが、その視線には品定めするような冷ややかな色が隠し切れなかった。澪は意に介することなくリビングへ入り、ソファに腰を下ろす。鼻をつくような、金持ち特有の重苦しい空気に、本能的に眉をひそめた。「あなたが澪ね。ずっとお待ちしていましたわ」鈴を転がすような澄んだ声が、頭上から降ってきた。振り返ると、階段の上には綾音が立っていた。高い場所から澪を頭の先からつま先まで値踏みするように眺め、口元には穏やかな笑みを浮かべている。だが、その目だけはまったく笑っていなかった。綾音は優雅な足取りで階段を下りると、すっと手を差し出した。「私は綾音。お姉ちゃんって呼んでちょうだいね」「……」澪はその白く細い手をじっと見つめ、唇をきゅっと結んだ。綾音が内心で苛立ち始めた、その時だった。澪はふいに立ち上がり、その手をしっかりと握り返した。「初めまして、『お姉ちゃん』」一語一語を噛み締めるように、静かに告げる。綾音は一瞬だけ虚を突かれたように目を見開いたが、すぐに上品な笑みを浮かべ直した。「澪が田舎から来ると聞いて、ずっとお会いできるのを楽しみにしていたの。実際に会ってみると……なんて言えばいいのかしら、とても『素朴』で自然な雰囲気ね」「そうですか」澪は淡々と答える。「私は田舎育ちなので、都会の方の言い回しにはまだ慣れていません。でも、お姉ちゃんがそうおっしゃるなら、褒め言葉として受け取っておきますね」綾音は思わず言葉を失った。田舎から出てきた世間知らずの少女が、自分の牽制をこうもあっさり受け流すとは思ってもみなかったのだ。綾音が再び口を開こうとした時、奥の部
耳元で、誰かの声が響いた。「おい……起きろ……」聞き覚えがあるようで、どこか懐かしく、それでいて見知らぬ響きを含んだ声だった。ゆっくりと目を開けると、ぼやけた視界の中に一人の少年の姿が映る。風に揺れる短い髪。反抗的で鋭い眼差し。修――そう思った。修以外の誰でもない。少年は彼女の目の前でひらひらと手を振った。「おい、ボールが頭に当たって、本当におかしくなったんじゃねえだろうな?一足す一は?」澪はハッとして足元を見る。そこにはバスケットボールが転がり、その隣には自分の鞄が落ち、中から教科書が地面に散乱していた。目の前の、修によく似た少年は、まるで呆れたものでも見るような目で彼女を見下ろしている。――いや、少し違う。そう感じたのは、目の前の修が、澪の記憶にある十八歳の彼よりどこか幼く見え、その瞳もずっと澄んでいたからだった。修は小さく舌打ちをした。「こりゃ重症だな。口も利けねえなんて、脳震盪でも起こしたか。ほら、保健室まで連れてってやる」面倒くさそうな顔をしながらも、修はしぶしぶと手を差し出してきた。――修は、さっきまで私の誕生日パーティーにいたはず。あんなにも悪意に満ちた言葉で、大勢の前で容赦なく私を辱めていたのに。次の瞬間、記憶が怒涛のように押し寄せる。誰かに背中を押され、無防備だった自分は長い石段を真っ逆さまに転げ落ちて――。身体を引き裂かれるような激痛と、底知れぬ恐怖が、一瞬で鮮やかによみがえった。生存本能が爆発する。どこから湧いたのかも分からない力で、澪は腕を振り上げ、修の頬を思い切り平手打ちした。「触らないで! 人殺し!」血走った目で、澪は修を真正面から睨みつけた。頬を打たれ、顔を横へ弾かれた修は、完全に呆然としていた。その頬には、みるみるうちに真っ赤な手形が浮かび上がる。その隙に、澪は弾かれたように彼のそばをすり抜け、一度も振り返ることなく走り出した。おかしい。この世界は、絶対におかしい。あの絶望的な雨の夜、私は確かに階段から突き落とされた。なのに、目を覚ましたら、どうして世界はこんなにも違っているの?ここは神崎家ではない。まるで時間が巻き戻ったかのように、彼女はかつて通っていた高校の校舎へ戻り、若き日の修と再会していた。澪は無我夢中で校内を駆け抜けた。地面に散らばった荷物を拾う余裕
澪が会場へ戻って間もなく、誕生祭は華やかに幕を開けた。来賓からの祝辞が続く中、人々の視線を一身に集めながら、修がゆっくりとステージへ上がる。マイクを手にした彼は、鋭い眼差しで会場をゆっくりと見渡し、最後にその視線を澪のもとでぴたりと止めた。澪の心臓が大きく跳ねる。緊張で身体をこわばらせながらも、胸の奥ではかすかな期待が膨らんでいた。修は――どんな祝福の言葉を贈ってくれるのだろう。「今日、この場を借りて、皆さんにお伝えしたいことがあります」修は澪を見つめたまま、一語一語、会場中に響き渡る声で告げた。「澪。俺はずっと、お前のことが好きだと思い込んでいた。だが、ようやく気づいた。それは、ただの思い違いだったんだ」――修……何を言っているの?澪は呆然としたまま、ステージの上の彼を見つめた。修はマイクをスタンドに戻すことなく手に持ち、そのままゆっくりとステージを降りる。向かった先は、澪ではなく――綾音のもとだった。修は綾音の前で立ち止まると、居並ぶ賓客たちが見守る中、静かに片膝をつき、彼女の手を取った。「俺の心を本当に動かしたのは、お前だった。綾音」その瞬間、会場が大きくどよめく。修はポケットから青いベルベットのケースを取り出して開き、照明を受けてまばゆく輝く指輪を差し出した。「今日から、俺の恋人になってくれないか」修と澪が交際しているという話は、上流階級の社交界ではちょっとした噂になっていた。誰もが、名門・九条家の御曹司である修が、なぜ澪のような地味な娘を恋人に選んだのか理解できずにいた。だからこそ、修が大勢の前で綾音に想いを告げた瞬間、人々は一度こそ息を呑んだものの、すぐに納得したような表情へと変わっていった。それも当然だった。修と綾音――誰が見ても、この二人こそが釣り合いの取れた理想のカップルだったのだから。鳴りやまない拍手と歓声、そしてあちこちから漏れ聞こえる囁き声。その渦の中で、ただ一人、澪だけが魂を抜かれたように立ち尽くしていた。「このプレゼント、気に入ってくれたか?」修のその言葉は、澪ではなく、綾音へ向けられたものだった。綾音は、この世で一番幸せな女性のような笑みを浮かべながら、修が自分の薬指に指輪をはめるのを見つめていた。それでも彼女は、気遣うふりだけは忘れなかった。「修、ちょっとやりすぎよ。今日は澪の







