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第4話

Author: 霜晨月
last update publish date: 2026-06-25 20:08:32

澪の乗った黒いセダンは、静かに神崎家の屋敷へと滑り込んだ。

車窓越しに、澪は記憶の奥深くに焼き付いたその屋敷をじっと見つめる。

前世の自分は、ここがようやく見つけた希望の場所だと信じていた。だが現実は、人の心を少しずつ蝕んでいく牢獄に過ぎなかった。

澪は深く息を吸い込み、固く握り締めていた拳をゆっくりとほどく。

寛がドアを開けると、澪は慌てることなく静かに車を降り、その後に続いた。

前世で初めてこの屋敷を訪れた時は、一歩踏み出すたびに怯えていた。

だが今は違う。

前世の記憶を抱えた澪は、迷うことなく、落ち着いた足取りで屋敷の中へと歩みを進めていく。

エントランスには使用人たちが整列して出迎えていたが、その視線には品定めするような冷ややかな色が隠し切れなかった。

澪は意に介することなくリビングへ入り、ソファに腰を下ろす。

鼻をつくような、金持ち特有の重苦しい空気に、本能的に眉をひそめた。

「あなたが澪ね。ずっとお待ちしていましたわ」

鈴を転がすような澄んだ声が、頭上から降ってきた。

振り返ると、階段の上には綾音が立っていた。

高い場所から澪を頭の先からつま先まで値踏みするように眺め、口元には穏やかな笑みを浮かべている。だが、その目だけはまったく笑っていなかった。

綾音は優雅な足取りで階段を下りると、すっと手を差し出した。

「私は綾音。お姉ちゃんって呼んでちょうだいね」

「……」

澪はその白く細い手をじっと見つめ、唇をきゅっと結んだ。

綾音が内心で苛立ち始めた、その時だった。

澪はふいに立ち上がり、その手をしっかりと握り返した。

「初めまして、『お姉ちゃん』」

一語一語を噛み締めるように、静かに告げる。

綾音は一瞬だけ虚を突かれたように目を見開いたが、すぐに上品な笑みを浮かべ直した。

「澪が田舎から来ると聞いて、ずっとお会いできるのを楽しみにしていたの。実際に会ってみると……なんて言えばいいのかしら、とても『素朴』で自然な雰囲気ね」

「そうですか」

澪は淡々と答える。

「私は田舎育ちなので、都会の方の言い回しにはまだ慣れていません。でも、お姉ちゃんがそうおっしゃるなら、褒め言葉として受け取っておきますね」

綾音は思わず言葉を失った。

田舎から出てきた世間知らずの少女が、自分の牽制をこうもあっさり受け流すとは思ってもみなかったのだ。

綾音が再び口を開こうとした時、奥の部屋から昴と深雪が姿を現した。

昴は厳しい表情を崩さず、人を寄せつけない威圧感をまとっている。

まるで澪など目に入っていないかのように、その横を素通りし、無言で向かいのソファへ腰を下ろした。

「お父様、お母様!」

綾音は満面の笑みで歩み寄ると、両親の頬へ軽く口づけをし、そのまま深雪の腕に甘えるように抱きつき、二人の間へ腰掛けた。

昴は澪を見ることもなく口を開いた。

「お前、名前は」

「遠坂澪です」

澪は背筋を伸ばし、静かに答える。

「鑑定書は見た。これから神崎家の一員として暮らす以上、姓は神崎を名乗れ」

昴は冷ややかな視線を向けた。

「だが忘れるな。神崎家は名門だ。お前の一挙手一投足が、この家の名を汚すことになる」

「はい、お父様。肝に銘じます」

昴は鼻で笑った。

「中学の頃からアルバイトをしていたそうだな。遠坂家には、お前を学校へ通わせる金すらなかったのか」

「祖母は身体が弱く、父も漁で家を空けることが多かったものですから……。海外へ留学している兄の代わりに、少しでも家計の足しになればと思って働いておりました」

「家計の足しだと? お前がか?」

昴の声はいっそう冷たくなる。

「若者の本分は学業だ。そこで規律を学び、身の程を知る。そうでなければ最低限の礼儀も身につかず、将来、神崎家の恥をさらすことになる」

深雪が小さくたしなめる。

「あなた。この子はまだ来たばかりなんですから、そんな言い方は……」

だが昴は聞く耳を持たず、深雪も困ったように笑うだけだった。

「お父様のおっしゃる通りです。ご期待に添えますよう、精一杯努力いたします」

澪は静かに答えた。

昴は鼻を鳴らし、それ以上は何も言わなかった。

深雪が話題を変える。

「右も左も分からないでしょうから、何かあれば綾音に聞きなさい。寛、お部屋の準備はできているの?」

寛は一礼して答えた。

「奥様、現在空いておりますのは物置が一部屋だけでございます」

「それは、さすがに……」

深雪は困ったように眉を寄せた。

「何が問題なんだ」

昴は葉巻に火をつける。

「物置でも部屋は部屋だろう」

「そんなの駄目ですわ、お父様」

綾音は昴の腕に甘えるように身を寄せた。

「澪は神崎家の娘なんですもの。使用人の休憩室のような場所に住まわせたら、神崎家の評判にも関わりますわ」

昴は綾音を見た。

「なら、どこへ住まわせる」

「私としては、中庭の二階建ての離れが一番いいと思いますわ。静かですし、人の出入りも少なく、景色も素敵ですもの」

綾音は狐のように目を細めて微笑む。

「澪には、あそこが一番お似合いですわ」

「それなら安心ね」

深雪も満足そうに頷いた。

「あの離れなら必要なものは何でも揃っているし。綾音、本当に妹思いの優しいお姉ちゃんね」

妹思いの優しいお姉ちゃん――か。

確かに、この提案だけを聞けば魅力的だった。

前世の澪も、それを心から喜んで受け入れ、母屋から離れた離れで暮らし始めた。

だが、その結末はどうだったか。

離れに移ったその日から、綾音は「生活習慣が違うから」という理由を口実に、澪を実質的な軟禁状態に置いた。

母屋へ入ることを許されたのは、毎日の夕食時だけ。

それ以外は、特別な用事でもない限り離れから出ることを禁じられた。

当時の澪は、それを何の疑いもなく受け入れていた。

しかし時が経つにつれ、自分が隔離された囚人のような生活を送っていることに気づく。

両親との距離はますます遠ざかり、神崎家の使用人たちと顔を合わせる機会すらほとんどなくなっていった。

やがて根も葉もない噂が広まり、事情を知らない使用人の中には、澪を精神を病んだ変わり者だと思い込む者まで現れた。

すべてに気づいた時には、もう手遅れだった。

何かが起きても、この広い神崎家で味方になってくれる者は一人もいなかった。

そのすべての始まりが、綾音の「思いやり」に満ちたあの提案だったのだ。

澪は、花が咲くような笑みを浮かべる綾音を静かに見つめた。

「お姉ちゃん、お気遣いありがとうございます。でも……お父様のおっしゃる通り、物置も立派なお部屋です。私にはあちらで十分です。リビングにも近くて便利ですし」

綾音の笑顔が、目に見えて引きつった。

「でも澪、あの物置はいくら何でも狭すぎますわ……」

「大丈夫です」

澪は絶妙な間で彼女の言葉を遮る。

「狭い場所には慣れていますし、これ以上ご迷惑をおかけしたくありません。お姉ちゃんのお気持ちだけで十分です」

昴が苛立たしげに口を挟んだ。

「もういい、綾音。本人が構わないと言っているんだ。お前が気にする必要はない」

綾音の瞳の奥を、一瞬だけ暗い影がよぎる。

だが、それもすぐに消え去り、再び優しい姉の笑顔を浮かべた。

「それならいいけれど。何か困ったことがあったら、遠慮しないでお姉ちゃんに相談してちょうだいね」

澪は小さく頷く。

「はい。ありがとうございます、お姉ちゃん」

***

荷物を置き終えると、澪は寛の片付けを手伝うという申し出を丁重に断り、一人で埃っぽいベッドの端に腰を下ろした。

部屋は狭く、備え付けの家具も質素だった。

あるのはベッドとクローゼット、それに勉強机が一つだけ。

あの離れの華やかさには遠く及ばない。

それでも、母屋への出入りは自由で、外とのつながりを断たれることもない。

前世で離れに閉じ込められていた頃とは、まさに天と地ほどの違いだった。

澪は窓の外へ目を向ける。

厚い雲に覆われた空が、どこまでも広がっていた。

きっと今頃、綾音の胸の内も、この曇り空のように晴れないままだろう。

何しろ、彼女の完璧だったはずの計画が、初めて狂い始めたのだから。

だが、これはまだすべての始まりに過ぎない。

今世の私は――神崎澪は、もう二度と誰の思い通りにもならない。

私の復讐は、私を殺したこの場所から始まる。

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