Chapter: 第49話「拙宅へようこそ」沈驚月はゆっくりと歩み寄り、卓の傍らに腰を下ろすと、手ずから席を勧めた。「周歓殿、どうぞ」周歓は事態を飲み込めぬまま、促されるがままに沈驚月の向かいへと腰を下ろした。見ると、沈驚月は酒壺を手に取り、静かに二つの杯を満たし、その一つを周歓の前にそっと差し出した。「先ほどは、当家の者が周歓殿にご無礼を。家人に代わり、私からお詫びいたします。まずは罰として、この一杯を」言うなり、沈驚月は杯をすっと掲げ、一息に飲み干した。飲み干すと、沈驚月は杯の底を相手に向けてみせる。周歓が自分を呆然と見つめていることに気づくと、杯を置き、扇子で口元を隠した。わずかに小首を傾げ、伏し目がちに囁く。「私の顔に、何か付いておりますか」「い、いや、何でもない!」周歓はようやく我に返り、慌てて手元の酒を呷ると、ばつが悪そうに笑った。「お恥ずかしい話ですが、先ほどの……」先ほど過って沈驚月に口づけてしまった一幕――その柔らかな感触が生々しく唇に残っており、周歓は珍しくも耳まで真っ赤に染め上げた。「俺は決して、わざと無礼を働いたわけではないのです!あれはただの事故でして!そう、不慮の事故です!」沈驚月は黙って周歓の様子を窺っていたが、そのあまりにしどろもどろな様に、とうとう堪えきれなくなったらしい。パチリ、と手にした象牙の扇子を閉じ、朗らかに笑い声を上げた。「家人に連れられて戻られた姿を拝見していなければ、疑ってしまいましたよ。今そこにいらっしゃる貴方と、先ほど屋根の上で凛として衆を一喝なさった貴方とが、本当に同一人物かと」周歓はきまり悪そうに頭を掻いた。「あれは、まあ、その……人を助けたい一心で、後先考えずに口走ったまでです。今思えば我ながらぞっとしますよ。もしあの時、足を滑らせて屋根から落ちていなければ、今頃は全身に矢を浴びて仏になっていたでしょう。そう考えると、沈驚月殿には命を救われたも同然ですな」その物言いがまた彼のツボに入ったのか、沈驚月は一層楽しげに笑った。「貴方を救ったのは私ではありませぬ。貴方の足を滑らせた、あの腐った瓦ですよ」二人が言葉を交わし笑い合ううち、張り詰めていた空気はすっかり和らいでいった。沈驚月が身の上を尋ねると、周歓もまた、兗州への赴任を隠す必要はないと判断し、陳皇后の勅命で監軍として洛陽からやって来た旨を、包
Last Updated: 2026-01-04
Chapter: 第48話けたたましい音を響かせ、軒先から転落した周歓は、とある人物の上に覆いかぶさる形となり、鈍い音を立てて地面へ叩きつけられた。地面に叩きつけられたその刹那、周歓の唇は、不意に柔らかな何かに押し当てられていた。舞い上がった土煙が収まる頃、ようやく我に返った周歓は、己が誰かを組み敷いていることに気づいた。そして、先ほどの柔らかな感触が、まさしくその人物の唇であったことにも。しばし呆然としていた周歓だったが、はっと事態を悟ると、慌ててその身を飛び退かせた。目を凝らせば、そこに衣を乱して横たわっていたのは、まさしくあの気品高く清麗な貴公子であった。彼は呆気に取られた面持ちで、ただ周歓と視線を合わせている。白磁のごとき肌には薄っすらと埃がつき、先ほど周歓の唇と触れ合ったその唇は、血が滲むほどに赤く染まっていた。「あ、いや、す……すま……」心臓が早鐘を打ち、周歓は言葉を詰まらせた。それが最後まで紡がれることはなく、鈍い衝撃と共に後頭部を凄まじい痛みが襲った。周歓は白目を剥くと、再び貴公子の上へと崩れ落ち、そのまま意識を手放した。「若様!ご無事でございますか、若様ッ!」家令らしき男が木の棒を手に、狼狽えながら周歓の背後に立っていた。周囲の護衛たちも慌てて駆け寄り、数人がかりで周歓を貴公子から引き剥がす。貴公子は秀麗な眉をひそめ、胸元を押さえながら身を起こした。幾度か咳き込んだ後、喉の奥から背筋も凍るような低い声を絞り出す。「この男の口をぐちゃぐちゃに叩き潰せ!」「はっ!」護衛たちが応じ、周歓を拘束して連れ去ろうとした、その時であった。「待て」貴公子が、不意に鋭い声を上げた。「若様……?」護衛と家令は顔を見合わせ、困惑の色を浮かべた。貴公子は立ち上がると、周歓の目前まで歩み寄り、意識を失ったその体を頭の先からつま先までしげしげと眺め、しばし沈黙した。「気が変わった。この男を、屋敷へ連れて行け」貴公子は周歓の顔を見つめ、微かに――まさしく微かに、口の端を吊り上げた。---紫煙がゆるりと立ち上り、沈香の薫りが満ちている。「すまなかった――ッ!」真紅の帳が下りた寝台の上で、周歓は弾かれたように目を見開き、叫びながら飛び起きた。その叫びは、静まり返った室内に虚しく木霊した。周歓はしばし呆然としていたが、ふと視線を落とすと、己の体には柔らかく
Last Updated: 2026-01-03
Chapter: 第47話声に応じるかのように、輿は静かに止まった。家令らしき老人が一人、小走りに駆け寄ると、御簾の前で恭しく身を屈めた。「若様、いかがなさいましたか」「前はどうした」「はっ。少々お待ちを」家令は傍らを振り返り、護衛の一人に命じた。「前方の様子を見てまいれ」その矢先、前方の人の群れから、突如として怒号が轟いた。目をやれば、襤褸をまとった男が、赤子を抱いた女の手を引き、騒ぎの只中から駆け出してくるところであった。「止まれっ!」長槍を構えた衛兵が、すぐ後から追いすがる。夫婦とおぼしき男女は一目散に逃げ惑い、道端の露店をいくつも薙ぎ倒していく。辺りはたちまち騒然とし、収拾のつかぬ混乱に陥った。「若様!前方は大変な騒ぎにございます。すぐにもお引き返しを!」家令が血相を変えて言上した。「何を慌てている」輿の中の主は、落ち着き払っている。言うが早いか、輿の中からすっと細長い手が伸び、御簾を静かに押し上げた。やがて、その主がゆっくりと姿を現す。周歓は、その姿を一目見て、思わず息を呑んだ。輿より現れた男は、雲紋を刺繍した深紅の|鶴氅《かくしょう》を羽織り、下には黒絹の衣を重ねている。広袖の長衣に身を包み、滝のように流れる黒髪は腰まで届き、朱色の細長い錦帯で緩やかに束ねられていた。その高貴な装いに違わず、容貌もまた、凛々しくも秀麗であった。遠目には、さながら峻嶺にそびえる一本の松の如き孤高を漂わせている。その刹那、前方で悲鳴が上がった。女を連れて駆けてきた男が、背後から放たれた長槍に背を貫かれたのである。男は苦悶の声を漏らし、どうと地に倒れ伏した。女は恐怖に顔を蒼白にさせ、何度も夫らしき男の体を揺さぶるが、応えはない。背後から武官が迫るのを見て取ると、女は胸に赤子を抱き直し、なりふり構わず、その貴公子の輿の前へと駆け寄った。「若様!お助けください、若様!」女は必死に護衛の制止を振り払おうともがく。その腕の中では、赤子が張り裂けんばかりに泣き叫んでいた。だが、かの貴公子は表情一つ変えず、象牙の扇をゆるりと開き、口元を隠すのみ。切れ長の目をすっと細め、その瞳には氷のような冷たい光が宿る。助ける気など毛頭ない、というように。見るに見かねた周歓は、すっくと立ち上がると、眼下の一群に向かって怒鳴りつけた。「おい、てめえら!人が困っているのを見て見ぬふ
Last Updated: 2026-01-03
Chapter: 第46話「あれ?俺の|令牌《れいはい》は!?」周歓は血の気が引くのを感じ、慌てて懐や袖を探った。しかし、あるべきはずの小袋の感触はなく、心の内で「万事休す」と呻いた。あの小袋には、けして少なくない銀両ばかりか、朝廷より下賜された令牌、そして何より重要文書まで入っていたのだ。金はまた稼げばよい。だが、文書の紛失は、牢獄行きを免れぬ重罪であった。将校は、周歓の狼狽ぶりを目の当たりにし、侮蔑の色を隠しもせずに鼻を鳴らした。「芝居はよせ。貴様のような手合いは腐るほど見てきた。口から出まかせで官吏を騙り、関所を抜けられるとでも思ったか。無駄な足掻きはやめて、とっとと失せろ」言い放つや、無造作に腕を伸ばし、周歓を突き飛ばした。「待て!俺は本物の朝廷官吏だ!!」突き飛ばされた周歓は、しかし怯むことなく猛然と食い下がった。「令牌は盗まれただけだ!俺を斉王様のもとへ連れて行け!斉王様が俺の身分を御存じだ。嘘ではないと証言してくださる!」「その薄汚いなりで斉王様への御目通りを願うか?」将校はもはや聞く耳持たぬとばかりに刀を抜き放ち、その切っ先を周歓の喉元に突きつけた。「とっとと失せろ!さもなくば、貴様を閻魔の元へ送ってやる!」周歓は、この手の輩が強きに媚び、弱きを挫く類の人間であることを見抜いていた。ゆえに臆する色もなく、相手の鼻先を指差して罵声を浴びせた。「おい、この腐れ役人が!人のなりで判断しやがって。脅せば俺が怖気づくとでも思ったか?知ったことか、俺は斉王様にお会いするんだ!煮るなり焼くなり、斉王様にお会いしてからにしろ!俺の言葉に半
Last Updated: 2026-01-02
Chapter: 第45話「周歓様……周歓様……」朦朧とする意識の底で、繰り返し囁きかける声が耳を打った。やがて、何者かの指が優しく頬をなぞり、そっと下方へと滑り落ちると、挑発的な手つきで肢体を這い回った。かろうじて瞼を押し上げると、揺らめく燭光の中に、黙ってこちらを見下ろすぼやけた人影が浮かんでいた。そのおぼろな影を捕らえんと手を伸ばすも、指先は虚しく宙を掻き、何一つ掴むことはかなわなかった。「俺は……どこにいる……」ゆっくりと瞼を開き、身を起こそうとした途端、脳をかち割るような激痛が走った。思わず頭を抱え、しばし呆然としていたが、やがて、もつれていた視界が徐々に焦点を結び始めた。見渡せば、そこは見知らぬ一室で、人の気配はない。風に煽られた燭台の炎が、頼りなげに揺らめいていた。視線を上げると、精緻な彫刻の施された窓枠が目に映った。窓の外は深い闇に沈み、夜空には月が皓々と懸かっている。己がなぜここにいるのか、周歓は必死に記憶の糸をたぐり寄せようとした。やおら立ち上がり、窓辺へと歩み寄って遠望すれば、眼下に一条の川が横たわっていた。川の此岸は煌々たる灯りに照らされ、管弦の音が鳴り響き、人の賑わいに満ちている。対する対岸は漆黒の闇に沈み、よどんだ空気の中、惨憺たる光景が広がっていた。徐々に頭が冴え、記憶が鮮明に蘇ってくる。ここは兗州の治所、|凛丘《りんきゅう》に相違ない。記憶は数日前へと遡る。あの時、周歓は川の対岸の通りを歩いていた
Last Updated: 2026-01-02
Chapter: 第44話「私の字です。私は未熟児として生まれ、幼い頃は病弱だったのです。両親が私の病を癒そうと名医を探し回り、ついに、ある徳の高いお方からこの玉佩を譲り受けました。聞くところによると、高僧が直々に祈りを込めた品で、厄除けのご利益があるのだとか。不思議なもので、これを身につけるようになってからというもの、見違えるほど壮健になり、病も嘘のように全快したのです」 蕭晗はその話にすっかり呆気にとられていた。「世に、そのような霊験あらたかな物があったとは」 周歓は笑みを浮かべて頷くと、ぐいと蕭晗の手を取り、自身の字が刻まれた玉佩をその掌に握らせた。「ええ。これさえあれば、きっと陛下の御身をお守りできるはずです」 その言葉に、蕭晗は恐れ多いとばかりに狼狽え、慌ててそれを返そうとした。「ならぬ。これはそなたの護り物であろう。かかる大切な品、軽々しくお受けするわけにはいかぬ」「ならぬことなどありましょうか」周歓は有無を言わせず蕭晗の手を強く握り締めた。「陛下の命は、私の命も同然。私がおそばに侍ることのできぬ間に、万が一陛下に何かあれば、これまでの私の骨折りがすべて水の泡と帰してしまいます。ですから……陛下をお守りすることは、すなわち私自身を守ることでもあるのです」 周歓は真っ直ぐに蕭晗の瞳を見据える。その眼差しは揺るぎなく、拒絶も疑念も許さなかった。「実を申しますと、陛下。これはもともと、妻を娶る日のためにとっておいたものでした。ですが、今は……」 周歓はもったいぶるように玉佩を蕭晗の腰帯へ結びつけ、その顔を覗き込み、意味ありげににやりと笑う。「こいつはもう、陛下のものです。これを目にするたび、私がそばにいるとお思いください」 蕭晗の胸の奥から熱いものがこみ上げ、耳までかっと熱くなった。指先で玉佩に刻まれた『長楽』の二文字をなぞり、微かな震えを禁じ得ない。「分かった……待っている。一年後、事の成否にかかわらず、必ず戻ると約束してくれ」「ああ、約束です」 しばし見つめ合っていたが、不意に周歓が蕭晗を路地の壁に押し付け、覆いかぶさるようにしてその唇を激しく奪った。 蕭晗の喉から「ん……」と甘い吐息が漏れる。幾日も周歓に会えずに募らせた抑圧と苦悶が、この瞬間に堰を切って溢れ出した。もはや理性を保ってはいられず、周歓の背に腕を回して強く抱き締め返すと
Last Updated: 2025-12-30
Chapter: 第33話睦弥と会う約束を取り付けたのは、水曜日のことだった。その日、東雲市では七月に入って初めての雨が降り、長く続いた猛暑に火照る街へ、束の間の涼を運んできた。約束の時間きっかりに、睦弥は煎餅の紙箱を提げて診療所の入り口に姿を見せた。聞けば、煎餅専門の老舗の品で、一時間もの行列に並んでようやく手に入れたのだという。応接室に腰を下ろした三人は、早速その煎餅をつまみ、傍らの猫を撫でながら、和やかに談笑を始めた。「この嵯峨乃焼、甘すぎず、それでいて風味豊か。この歯触りもいい。実に絶品だな」お世辞を言う柄でもない練が、睦弥の持参した嵯峨乃焼をいたく気に入り、賛辞を惜しまなかった。練という男は理系出身の気質からか、物言いは常に率直で、是々非々を明確にする、良くも悪くも裏表のない人間だ。そのため、颯斗の手料理に対しても、当然のごとく辛辣な評価を下すのが常だった。その練がここまで褒めるのだから、よほど美味いのだろう。颯斗は好奇心をそそられ、一枚つまんで口に運んだ。なるほど、練の賛辞は決して社交辞令ではなかったらしい。「涙が出るほど美味い」とは、まさにこのことか。「嵯峨乃焼といえば、確か京都の名物ですよね。昔、学生寮に京都出身の同級生がいまして、よく土産に持ってきてくれたんです」颯斗は一枚を食べ終えるや、早くも次のものへと手を伸ばしながら言った。「そうなんですか。奇遇ですね、実は奏も京都の出身なんですよ」睦弥はぱっと目を輝かせ、嬉しそうに微笑んだ。「さっき話した老舗も、奏の行きつけの店でして。彼と一緒になって初めて、この世にこんなに美味しいお菓子があるのだと知りました。そんなわけで、今ではすっかり彼の影響を受けて、僕も嵯峨乃焼が大好きになってしまったんです」奏の名を口にするとき、睦弥の表情はひときわ柔らかくなり、その口元には自然と甘い笑みが浮かぶ。「仲睦まじいのだな」練は何かを探るように目を細め、睦弥を見つめた。「ええ、まあ……」睦弥ははにかむように微笑むと、照れを隠すかのように、指先でそっと前髪を梳いた。先ほどから、颯斗は睦弥の表情を注意深く観察し、何か不審な兆候を見つけ出そうとしていた。しかし今のところ、彼の表情から読み取れるものは何一つなかった。「すみません、これではまるで惚気話ですね」ふと我に返ったように、睦弥は少し気まずげな表情で二人の顔を
Last Updated: 2026-01-04
Chapter: 第32話「彼には言わないでほしい」「え?誰に?」振り返った颯斗は、訝しげに問い返した。「練だよ」テツは両手を組んだまま、言葉を続けた。「彼には伝えないでくれ。俺がここにいることを」颯斗は愕然とした。頭の奥で、何かが弾ける音が響く。まさか、この教会も、テツという存在さえも、練本人は知らないというのか?はっと意識が現実へと引き戻される。颯斗は弾かれたようにアイマスクを外した。視界に飛び込んできたのは、リクライニングチェアに深く身を預けた練の姿だった。わずかに首を傾げ、瞼を閉ざしている。微睡んでいるかのような、安らかな寝顔だった。「霧生さん?霧生さん!」颯斗は身を乗り出して、練の肩を揺さぶった。練の睫毛が震え、薄い唇が微かに動いた。「……何を見た?」「俺は……」颯斗は一瞬、言葉に詰まる。意識が戻る直前、テツに告げられた言葉が脳裏をよぎった。と、その時。練がゆっくりと瞼を上げ、澄み切った瞳と真正面から視線がぶつかった。刹那、様々な思考が脳内を駆け巡る。以前、練が口にした言葉が蘇った。潜在意識とは、人の心の中で最も陽の当たらない、決して表に出すことのできない領域なのだと。そして、あの教会でテツが告げた言葉も。練はこれまで、誰一人としてあの場所に足を踏み入れさせたことはない。それどころか、教会も、テツという男の存在さえも、練自身にとって未知の領域なのだ。どれほど相手を信頼すれば、自分自身でさえ把握しきれていない領域を、こうも無防備にさらけ出せるのだろう。たとえ、見せたのが氷山の一角に過ぎないとしても。自分に、果たしてそれだけの勇気があるだろうか。「……教会が見えた。中に男が一人座っていて、名はテツだと」颯斗は練の瞳をじっと見据え、一言一句を噛みしめるように告げた。「テツ」。その名を聞いた瞬間、練の表情が微かに強張った。内心を見透かされたような動揺が、その表情に一瞬よぎる。だが、それも刹那のこと。練はすぐにいつもの平静を取り戻した。「他には?」「いえ、それだけ。部屋を出ようとした途端、意識が戻ったので」颯斗は真剣な面持ちで首を横に振った。練の表情が幾分か和らぐ。「SPである俺の誘導がなければ、心界ではまともに動くことさえできないのが普通だからな」「SP?」「サポーター(Supporter)、つまり支援者のことだ」練は上体を起こしなが
Last Updated: 2026-01-03
Chapter: 第31話再び目を開けると、颯斗は自分が見渡す限りの草原にいることに気づいた。薫風が微かな暖かさを運び、足元では野花が揺れている。颯斗は辺りを見回したが、この広大な草原にいるのは自分一人だけのようだ。そして前後左右の四方向には、それぞれ扉が一つずつ、草原の上に唐突にそびえ立っていた。「ここはどこだ?」颯斗は訳が分からないといった様子だ。「俺は……霧生さんの心界に入ったのか?」自分の心界は監獄だというのに、練のそれは、あまりにものどかな大草原だった。両者の対比が強烈すぎて、颯斗は思わず気恥ずかしさを感じてしまった。「霧生さんー!」颯斗は大声で練の名を呼んでみた。しかし荒野には、自分の声が虚しくこだまするだけで、何の応答もなかった。それにしても、練も変わった男だ。自分から颯斗を心界へ招き入れておきながら、いざ入ってみれば本人は影も形もない。一体何のトレーニングだというのか。あまりにも無責任ではないか。仕方なく、颯斗は歩き出し、四つの扉のうちの一つへと向かった。どうせ周囲には四つの扉以外何もないのだ、とりあえず進んでみるしかないだろう。そういえば、以前自分の心界にいた時、練はあの奇妙なサングラスをかけることで、意識を通わせて会話ができるようになっていたはずだ。しかし今回は、いくら叫んでも応答がない。もしかして練の身に何かが起き、サングラスをかけられない状況にあるのではないだろうか。あれこれと考えを巡らせながら、颯斗はある扉の前へと辿り着いた。それはゴシック様式の尖頭アーチ扉で、四つの中で最も存在感を放っていた。近づいて手をかけ、軽く押してみると、扉の隙間から微かな光が漏れ出した。「うわっ
Last Updated: 2026-01-02
Chapter: 第30話颯斗は一瞬、何を言われたのか呑み込めず、一拍置いてからおずおずと自らを指差した。「……俺が?お前の心界に、入るだと?」「その通りだ。D.I.A.を介して、な」練は片手でこめかみを支え、もったいぶるようにゆっくりと告げた。「初回はテストも兼ねる。お前の共感力がどこまで通用するか、この俺が直々に見極めてやる。前回は俺がお前の『中』に入ったが、今回はお前が俺の『中』に入る番だ」その言葉を耳にした途端、颯斗の脳裏にあの日の記憶――自分の心界で、練と交わした破廉恥な行為の数々――が鮮やかに蘇り、羞恥に顔を真っ赤に染め上げた。「なっ……!何が『俺がお前の中に入って、お前が俺の中に入る』だ!もっとまともな言い方ができねえのかよ!」「事実だろう。俺は何か間違ったことでも言ったか?」練はそう言いながら、いつの間にか音もなく颯斗の手に触れ、その指を絡めとっていた。「前にも言ったはずだ。潜在意識は人によって千差万別。単純な思考回路の人間ほど、心界への侵入は容易い。……例えば、お前のような、な」颯斗は言葉を失い、改めてリクライニングチェアと物々しい装置全体を見回す。その間にも、練は颯斗の指にさらに深く己の指を絡ませてくる。その感触に、颯斗は一瞬、息を詰めた。「おい、話があるなら口頭で済ませろよ。何でそうベタベタ触ってくるんだ」「手ずから教えてやっているんだ。俺の心界への侵入は、そう容易いことではない。ましてやお前は、右も左も分からぬ素人なのだからな」練が不意に腕を引いたため、颯斗は体勢を崩し、その
Last Updated: 2026-01-01
Chapter: 第29話睦弥は長く、深い息を吐き出した。「霧生さんの言う通りです……最近いろいろありすぎて、僕には感情の捌け口が必要なのかもしれません」「そうでなくては。ですから星野先生、もしご都合がつくようでしたら一度うちの診療所へ。積もる話は、直接お会いしてゆっくりと」練がそう口にした時、ちょうど風呂から上がった颯斗が、湯気の立つ裸の上半身のまま姿を現した。リビングに足を踏み入れた途端、己のスマートフォンを片手に通話する練の姿が目に入り、颯斗はあからさまに眉をひそめた。練は振り返って彼を一瞥し、口の端をにやりと歪める。「そうそう、うちの診療所で最近黒猫を飼い始めたんですよ……ええ、人懐っこくて、好きなだけ撫でられますよ……肩のマッサージ?もちろん、お安い御用です。うちの颯斗くんにやらせますから……ええ、もちろんできますとも。あいつは何でもできますから」特に最後の「あいつは何でもできますから」というくだりで、練は颯斗へ向けてことさらにOKサインを作ってみせる。「はあ!?」颯斗の頭は無数の疑問符で埋め尽くされ、状況がまったく呑み込めない。「ええ、では明後日の午後四時にお待ちしております」練が通話を切るや否や、颯斗は濡れた足も構わず駆け寄り、その手からスマートフォンをひったくった。「勝手に俺のスマホ使ってんじゃねえよ!今の電話、誰だ?それにマッサージって一体何なんだよ」「誰って、星野睦弥に決まっているだろう。安心しろ、もう丸め込
Last Updated: 2025-12-30
Chapter: 第28話「もしもし?」一秒ほどの間の後、受話器の向こうから、おずおずとした声が届いた。「あの、こちらは鳴海颯斗さんの携帯電話でしょうか」その声を聞いた瞬間、練の眼差しに確信の色が灯った。間違いない、これは睦弥の声だ。練はスピーカーモードを解除し、スマートフォンをすっと耳元に寄せた。「ええ、そうです。颯斗くんなら今、シャワーを浴びているところですが……。よろしければ私がご用件を伺いましょうか。後で必ず本人に伝えますので」睦弥は一瞬言葉に詰まったが、やがて何かに思い当たったように、はっと息を呑む気配がした。「霧生……さん?あなた、霧生さんですよね」練は口元を綻ばせた。「はい、その通りです。星野先生に覚えていただけていたとは、光栄の至りです」「すごいですね、声だけで僕だとお分かりに?」睦弥は感心したように、それでいて少し照れくさそうに言った。「いえ、颯斗くんからお話は伺っていました。今夜、先生からお電話があるかもしれないと。それで、気をつけているようにと頼まれていましたので」「そうでしたか……。すみません、僕の個人的な事情で、お二人の手を煩わせてしまって……」睦弥の声が、申し訳なさそうに沈んでいく。「とんでもないことです。むしろ、私たちの方からお節介を焼かせていただきたいくらいですから」練は声を潜め、言葉を継いだ。「星野先生とは、一度ですが食事をご一緒した仲です。もし何かお困りのことがあれば、私や颯斗くんが見て見ぬふ
Last Updated: 2025-12-29