Chapter: 第229話早紀が亡くなってから七日目。四時間目の授業が終わる頃、澪のスマートフォンに涼真からメッセージが届いた。『ナンバーの件、結果が出た』画面を見つめた澪の目が、パッと見開かれる。チャイムが鳴り響き、教師が教室を出た瞬間、澪はスマートフォンを手にして駆け出した。昼休みの屋上には誰もいなかった。初夏の風が前髪を乱す中、フェンスに駆け寄って通話ボタンを押した。ワンコールも鳴らないうちに繋がった。『ナンバーが割れたぜ』涼真の低く抑えた声の背後から、風切り音と車の走行音が混じって聞こえる。『三日間張り込んだが、あの車が向かう先はいつも同じ場所だ』「どこなの?」『黒澤不動産のビルだ。地下駐車場に入ったきり、丸一日、車の持ち主が出てこねえ』黒澤不動産――澪はその名を頭の中で反芻した。まったく聞き覚えがなかった。前世の記憶をどれほど手繰り寄せても、掠りもしない社名だった。『車の持ち主の写真も押さえた。今送るから、見覚えがあるか確認してくれ』画像の読み込みを示すアイコンがくるくると回っていた。澪は無意識のうちに、自分の心拍数が跳ね上がっているのを感じていた。画面に男の姿が浮かび上がった。三十代前半。ビルのエントランス前の階段に立ち、仕立てのいいスーツを着こなしていた。首をわずかに傾けて同行者と話す横顔は整っており、写真越しでも、知的なエリート然とした雰囲気が色濃く漂っていた。『どうだ?あの日、病院で見た奴か?』澪は写真を凝視し、即座に否定した。「違うわ。あの看護師の顔は隠れていたけれど、背格好が全然違う。あの人はこの写真の男よりずっと小柄で、華奢だったもの」電話の向こうで短い沈黙が落ちた。『そうか。だが、せっかくここまで来たんだ。こいつが何者なのか、もう少し探ってみる』「涼真さん、今どこにいるの?」『地下駐車場だ。ターゲットがエレベーターに乗ったから、俺も追うところだ』「気をつけて」『安心しろって。これでもプロだぜ』涼真の声音は軽快だった。「……カメラを繋いでくれる?私も気になるから」『了解だ』すぐにビデオ通話への切り替えリクエストが届いた。画面が二度ほど揺れ、インカメラに切り替わると、涼真の険しい表情が下からのアングルで映し出された。『奴は九階で降りた。俺も今ついたところだ』涼真は声を潜め、カメラを前方へと向けた。『このフ
Last Updated: 2026-10-13
Chapter: 第228話「……え?」澪はハッと息を呑んだ。鷹斗は彼女の顔を覗き込み、念を押すようにもう一度尋ねた。「あの『看護師』だ。本当に女だったと確信できるか?」「それは……」澪は口ごもった。制服は女性用で、体つきも華奢だった。歩く時も、ほとんど足音を立てなかった。だが、最初から最後まで相手の素顔は見ていない。マスクでしっかりと覆われていたからだ。「……体つきを見て、女性だと思い込んでいたの」鷹斗は少し考え込むように視線を落とした。「先入観で決めつけるのは早い。人の外見なんていくらでも偽れる。ましてや、素顔すら見ていないんだろう」澪の背筋に、ぞわりと寒気が走った。鷹斗は彼女に向かって手を差し出した。「よし、事情は大体分かった。ナンバーは?」「……何のナンバー?」「あの日、先輩が病院のエントランスまであの看護師を追いかけて、乗り込んだ車のナンバーを控えたと言っていただろう。まさか保存していないとは言わせないぞ」澪は慌ててスマートフォンを操作し、アルバムから写真を見つけて鷹斗に差し出した。「……何をするつもりなの?」鷹斗は写真に写ったナンバーを自分の端末に入力しながら言った。「その看護師の正体を知りたいんだろう。俺が調べてやる」澪はパッと表情を明るくした。「本当!?」「喜ぶのはまだ早い。条件がある。一つ、勝手な単独行動はしないこと。今回の件には人命が絡んでいるんだ、事の重大さが違う。君一人を危険にさらすわけにはいかない」澪は力強く頷いた。「分かったわ!」「二つ、何か情報が入ったら、真っ先に俺に共有すること」「当然よ」「三つ、何かしらの判断を下す前に、必ず俺を通すこと。一人で勝手に決めたり、無茶をするのは絶対に許さない」「……」澪は下唇を噛み、黙り込んだ。まるで子ども扱いされているようで、少し面白くない。「……私、来月で十七になるのよ」三歳の子どもじゃない、と反論するつもりだった。だが、実際に口から出た言葉は思っていたものとは違い、語尾まで甘く上ずっていた。澪自身は、そのことに気づいていなかった。鷹斗の耳には、まるで拗ねて甘えているかのように届いていた。鷹斗は一瞬虚を突かれたように目を丸くし、次の瞬間、堪えきれずに吹き出した。身を乗り出すと、澪のシートベルトを引き寄せてカチリとバックルに留める。その指先が耳の横をかすめ、鷹斗は
Last Updated: 2026-10-13
Chapter: 第227話三十分後、鷹斗は慌ただしく駆けつけて、澪の目の前へと姿を現した。彼は余計な言葉は一切口にせず、まず澪と視線を交わしてから、科長の向かいに腰を下ろした。「真島グループ代表の真島鷹斗と申します。監視カメラ映像の開示を申請します。十分後には、正式な申請書が貴院の法務部および医療安全課に届く予定となっております。今すぐ上層部へ指示を仰いでいただいて構いませんよ。こちらは急ぎませんので」その口調はあくまでも紳士的だった。真島グループ。その言葉を聞いた瞬間、科長の顔から愛想笑いが完全に消え失せた。五分後、院長自らが医務科に駆けつけ、鷹斗と澪たちを監視カメラのモニタールームへと案内した。モニタールームでは、警備の担当者が録画のタイムラインを三日前の早紀が殺害された当日に戻した。映像が早送りされていく。午後二時十一分、白い人影が医療用トレーを手に画面を横切った。澪の呼吸が一瞬止まる。彼女は一目見て確信した。あの日、廊下で正面からぶつかったあの看護師だ。だが次の瞬間、画面は突然ブラックアウトした。丸々五分間にわたる暗転。その後、映像は回復したが、廊下にはすでに誰もいなかった。「どういうことだ」担当者は額に汗を浮かべながら、シークバーを三回ほど前後に動かしてみたが、あの五分間の途絶だけはどうしても直らなかった。「この部分は……何らかの信号妨害を受けたようです」鷹斗は数秒間画面を見つめ、静かに命じた。「映像を途絶える直前
Last Updated: 2026-10-12
Chapter: 第226話「先輩!もう間に合わないよ」千尋が理奈をぐっと引っ張って引き留めた。理奈は悔しそうにその場で地団駄を踏みながら、車のナンバーを脳裏に刻み込んだ。グレーのセダンの後部座席では――「看護師」がマスクをもぎ取ると、まるで精巧な人形のように美しい、西アジア系の血を引く、精巧な人形のように美しい少年の顔があらわになった。彼はナース服を脱ぎ捨てた。その手つきは、何度も同じことを繰り返してきたかのように手慣れていた。隣の席では、黒澤稔が手の中のライターを弄っていた。炎が上がり、そして消える。「ターゲットは片付けたか」美少年は無表情に彼を一瞥した。「俺に聞いてるのか」稔は半秒ほど呆然とした後、ふっと吹き出し、両手を挙げて降参のポーズをとった。「悪かった、愚問だったな」---早紀が殺害されてから三日後、事件はあっさりと処理された。警察は早紀のロッカーからプリントアウトされた遺書を発見した。そこには、過去に金銭を受け取って病院内で後ろ暗い真似をしたこと、そして今になってそれが露見し、合わせる顔がないと綴られていた。事件を担当する佐伯警部がメディアの前で原稿を読み上げ、早紀に『罪を苦にしての自殺』という烙印をきっちりと押した。もしあの日、澪が現場にいなかったら、彼女も信じていたかもしれない。だが、彼女は看護師姿の人物が病室へ入った直後に、早紀が喉を掻き切られたのをこの目で確かに見たのだ。自殺などという結論を、澪はどうしても受け入れることができなかった。その日の午後、最後の授業は自習だった。澪
Last Updated: 2026-10-12
Chapter: 第225話理奈も同意するように頷いた。「私も千尋の意見に賛成よ。さっきのあの女の様子、見たでしょ?まるで、うっかり口を滑らせちゃったみたいな顔だったじゃない。もしかすると、誰かにそう言うように口止めされていたのかもしれないわ」誰かにそう言うように口止めされていた。その一言が、澪の心の中でずっと張り詰めていた一本の弦と、ピタリと重なり合った。考え事に気を取られながらうつむき加減で歩き続け、曲がり角を曲がろうとした瞬間――誰かと正面から激しくぶつかった。看護師だった。マスクを着け、スクラブ姿で、手には医療用トレーを持っている。トレーの上のピンセットや鉗子がガチャリと鋭い音を立てたが、相手はそれを見事にバランスを取って落とさなかった。「すみません」相手が手を伸ばし、澪の体を支える。その手はひどくしっかりしていたが、手のひらには無数のタコがあり、そして異常なほど氷のように冷たかった。澪は顔を上げ、ハッと息を呑んだ。マスクの上の切れ長で深みのある目元。目尻がわずかに釣り上がったその瞳は、澪を一瞥した際、微塵の波立ちもないほど静まり返っていた。だが、澪のうなじには何の予兆もなく、じわじわと細かな寒気が這い上がってきた。この感覚には見覚えがあるような、ないような。しかし、この瞳を一体どこで見たのか、咄嗟には思い出せなかった。「いえ、大丈夫です」澪は身を引いて道を譲った。看護師はトレーを持ったまま、慌てるそぶりもなく、ゆっくりとした足取りで廊下の奥へと曲がっていった。澪と理奈、それに千尋はそのまま病院の正面玄関へと向かった。玄関を出た途端、外の冷たい風に吹かれ、泥のように混濁してい
Last Updated: 2026-10-11
Chapter: 第224話病室は数秒ほど静まり返った。頭を抱えていた早紀の手が、ゆっくりと下ろされる。彼女の視線はまだ宙を彷徨っていたが、口元からは独り言のように、途切れ途切れの言葉が漏れ出した。「私……何も知らない……」澪は一瞬ハッとしたが、すぐに言葉を返した。「でも、当時のニュース報道では、赤ん坊が消えた後、あなたがお姉さんに頼んで自分の子供を身代わりに差し出してもらったと言われていたわ。そうでしょう?」「そんなこと、ない……」早紀は不意に首を横に振った。「そんなこと……絶対にない」彼女の声はくぐもっていたが、その一言だけは異様なほどはっきりと響いた。「綾音は……うちの姉の子供なんかじゃ……ない」澪は息を呑んだ。綾音が、早紀の姉の子供ではない?「確かなの?」澪の眼差しが急に鋭さを増し、早紀を真っ直ぐに見据えた。「綾音があなたのお姉さんの子供じゃないなら――彼女は一体、誰の子供なの?」早紀の表情が、ふいに凍りついた。混沌とした霧の底から、一筋の稲妻が突き抜けたかのようだった。彼女の顔色は見る見るうちに青ざめていく――思い出したのだ。いや、自分がたった今何を口走ってしまったのかに、ようやく気がついたというべきか。「あっ……いえ、そうじゃなくて……その……」早紀の声は唐突に裏返り、そして弱々しくしぼんでいった。「私の言い間違いだわ……綾音は、そう、あの
Last Updated: 2026-10-11
Chapter: 第225話翌日、いつも昼過ぎまで寝ている2号が珍しく早起きをした。どれくらい早いかというと。午前六時、外がまだ薄暗い頃、颯斗は首筋に湿った温かい息がかかるのをぼんやりと感じていた。体がずっしりと重く、まるで金縛りにでも遭ったかのように、身動き一つ取れなかった。目を開けた瞬間、見慣れた顔が颯斗の顔の至近距離に迫っていた。「うわあっ!」と颯斗は大声を上げ、すっかり眠気が吹き飛んだ。「お前、何してんだよ?」「起きた?」2号は猫のように颯斗の上に這い寄ってきた。「早く起きて、哲のところへ連れてってよ」「頭おかしいんじゃないのか!」颯斗は枕元のスマホに目をやった。「まだ六時だぞ!」そう言い捨てると、2号を突き飛ばし、布団を被って背を向け、再び眠りにつこうとした。ところが2号は両手で颯斗の顔を押さえ、無理やり自分の方を向かせた。「寝るな!」「わ、わかった、首を捻るな!首が折れる!」「一日は二十四時間しかないのに、もう四分の一が過ぎたんだぞ」と、2号は大真面目な顔で言った。「それがどうした?まだ朝の六時だぞ、勘弁してくれよ。それに今日は週末だ、お前の哲だって休みたいに決まってるだろ」「哲は早寝早起きだから、六時にはもう起きてる。お前みたいに、日が昇りきってもまだグースカ寝てるような人間とは違うんだ」「この時間に太陽なんてあるかよ……おい!何するんだ!」颯斗が相変わらず布団から出ようとしないのを見て、2号は作戦を変え、飛びかかって布団の奪い合いを始めた。颯斗が死に物狂いで布団を抱え込んでいるのを見て、2号は思い切り布団を掴んで勢いよくめくった――
Last Updated: 2026-10-13
Chapter: 第224話それだけならまだしも、2号はなかなかに気難しかった。例えばある日の食事時、颯斗が料理を作り終えて2号を呼びに行ったところ、2号は二階で哲と電話で盛り上がっており、颯斗が三度催促しても一切反応がなかった。一時間が経過し、料理がすっかり冷え切ってから、2号はようやく気だるそうに階段を降りてきて、食卓についたのだった。それなのに、2号はあれこれと文句をつけ、ピーマンが多すぎるだの、お味噌汁の味が薄すぎるだのと文句ばかり言った。颯斗はどうしても我慢できず、思わず言い返した。「もしこれを哲が作ったって言われたら、たとえクソみたいな味でも、お前は皿まで舐め回すんじゃないか」2号は途端に顔をしかめ、箸を置いた。「あんたこそクソだよ。哲は料理できるんだから」颯斗は少し信じられない様子だった。「でも、この前あいつは料理しないって言ってたぞ」「他にも作れる人がいたから、面倒くさかっただけでしょ」それを聞いて、颯斗はふと引っかかりを覚えた。「待てよ。その口ぶりだと、もしかして哲に作ってもらったことがあるのか?」2号が頷くのを見て、颯斗はさらに尋ねた。「いつの話だ?」「研究所にいた頃」2号は淡々と答えた。研究所、という言葉を聞いた瞬間、颯斗の脳裏にふと風が吹き抜け、立ち込めていた深い霧の端がほんの少し晴れて、誰も知らない過去がかすかに垣間見えたような気がした。練と哲は、一体どうやって知り合ったのか?二人はど
Last Updated: 2026-10-11
Chapter: 第223話どうやら練は性格が急変しただけでなく、一部の本能的な部分まで以前とは変わってしまったようだ。かつての練は、重度の猫好きとまではいかずとも、猫に対してこれほど強い拒絶反応を示すことは決してなかった。「怖くない、大丈夫だからな!」颯斗は慌ててフロイトを抱き上げ、毛並みを撫でながらベランダへと連れて行き、落ち着かせるために猫缶を開けてやった。そしてベランダの引き戸を閉め、一人と一匹を隔離した。「よし、猫はあっちに隔離したぞ。あれ?どこ行った?」振り返ると、練の姿はすでになかった。リビングを見回しても見当たらないため、颯斗は仕方なく二階へと視線を向けた。すると、階段の踊り場の陰から、練が恐る恐る顔を覗かせ、警戒心むき出しでこちらを観察していた。なんだか小動物みたいだな。それも外から拾ってきたばかりの、警戒心が異常に強くて、少しでも近づこうものならシャーッと威嚇してくる野良猫そっくりだ。「上にある少し広い方がお前の部屋だ。疲れたなら、そこで……」颯斗が階段を上ろうとしたのを見て、練はすかさず大声で制止した。「来ないで!一人が好きなんだ」(ふざけるな!さっきは哲にべったりくっついてたくせに!)そうツッコミを入れたかったが、今の練は以前の練ではない。怒ったところでどうにもならないため、颯斗はこみ上げる怒りをぐっと飲み込んだ。「一人が好き?じゃあ哲はどうなんだ?」「哲は例外」颯斗は鼻であしらわれた気分だったが、怒りを爆発させるわけにもいかず、不機嫌さを押し殺して答えた。
Last Updated: 2026-10-10
Chapter: 第222話「あるけど、それがどうした?」颯斗はきょとんとした。「入ったことがあるなら、彼の心界に何があるか知っているだろう」「四つの扉があって、そのうちの一つは教会に繋がっていた。俺もそこに入って、中であんたを見つけたよ」「そうか?それは光栄だね」哲は特に驚いた様子もなく、微かに微笑んだ。「残りの三つの扉については、中に入ったことがないから、何があるかは俺も知らない」颯斗は彼のその飄々とした笑みに苛立ちを覚えたが、突っかかるのも面倒でそのまま話を続けた。「俺の推測が正しければ、レンの意識はおそらく心界の中、つまりあの三つの扉のいずれかに迷い込んでしまっている」哲の言葉を聞き、颯斗はまるで藁にもすがる思いで、パッと表情を明るくした。「じゃあ、練はまだ助かるんだな?心界に入って、元の意識を見つけ出せば……」「そう簡単に考えないことだ。何しろ今の君にはSPがないんだから、一人で行けば十中八九、生きては戻れないだろう。ただし、俺たちが手を組めば話は別だが……」ここまで言うと、哲はふいに声を潜めた。「手を組む?俺とあんたが?」颯斗は虚を突かれた。「そうだ。一緒にレンの心界へ入るんだ」哲は颯斗の目をじっと見据えた。颯斗は哲の顔を見つめたまま、長い沈黙に陥った。口から出まかせばかり言うこの男が果たして敵か味方かという問題はさておき、颯斗はいまだに哲が何を企んでいるのか全く読めずにいた。この男の口から出た言葉は、どうしても信憑性に欠ける気がしてならない。もしかすると、相手はと
Last Updated: 2026-10-09
Chapter: 第221話オープンキッチンのダイニングテーブルを囲み、三人が座っている。練はフォークを手に、目の前のフルーツサラダを美味しそうに食べていた。食べ進めるうちに、リンゴの一切れをフォークに刺し、哲の口元へと運んだ。「食べてみて」「腹は減っていない。君が食べな」「つべこべ言わずに、早く。あーんして」練の口調は頑なで、有無を言わさなかった。哲は仕方なく顔を近づけ、口を開けてリンゴを小さくかじった。「美味しい?」練は満足そうに頬杖をつき、にこにこと彼を見つめている。「悪くない」哲は頷き、極めて簡潔に答えた。傍らで二人の一挙一動を見ていた颯斗は、とうに腹の虫が収まらず、バンッとテーブルを叩いた。「おい!これを作ったのは俺だぞ!?そいつの機嫌を取る前に、少しは俺を労ったらどうなんだ!?」練は目を覚ましてからというもの、口を開けば哲のことか、腹が減ったということばかりだった。当然ながら哲が料理などできるはずもなく、カノンに至っては全く当てにならない。結局、颯斗が自ら腕まくりをして台所に立ち、哲の家にあるあり合わせの食材でフルーツサラダを作る羽目になったのだ。「あんた、まだいたの?そういえば……名前、何だっけ?」練はようやくそばに他の人間がいることに気づいたかのように、振り返って颯斗を見た。「な、る、み、は、や、とだ!さっき教えたばかりだろうが!」颯斗は歯ぎしりしながら、一文字ずつ区切って言った。「ごめん。名前が長すぎて、覚えられない」練は気だるそうに顔を背け、
Last Updated: 2026-10-08
Chapter: 第220話「一度目は覚ましたんだが、精神的にかなり不安定でな。今はまた眠っている」颯斗は緊張した面持ちで哲を睨みつけた。「不安定だって?あんた、あいつに何かしたんじゃないだろうな?」練は哲に対してわだかまりを抱えており、普段から敬遠している。だが今回はよりによって、自慰の最中に気を失ってしまったのだ。あんな無防備で惨めな姿を、練が哲に見られたくなかったであろうことくらい、火を見るより明らかだった。もし哲が意地悪をして、練の目の前で何かを言ったり、刺激するようなことをしたりしていたら……駄目だ、これ以上は考えられない。哲は颯斗をちらりと一瞥した。「何かとは何だ。俺がこいつを見つけた時、どういう状態だったか、君も知らないわけじゃないだろう?こいつの体を隅から隅まで綺麗に拭きあげるだけで、丸一時間もかかったんだぞ」颯斗は一瞬言葉に詰まったが、その惨状を想像して罪悪感がこみ上げ、返す言葉が見つからなかった。「その後、車で病院へ連れて行き、全身の精密検査を受けさせた」「結果はどうだった?」「大したことはない。連日の徹夜と、極度の興奮が引き金となって、迷走神経反射による失神を起こしただけだ」颯斗は眉をひそめて尋ねた。「迷走……神経反射による……失神?何だよそれ?重症なのか?」「命に別条はないよ。ゆっくり休ませれば、たいていは自然に治る」哲の言葉を聞いて、颯斗はようやく胸をなでおろした。だが、ほっと一息つく
Last Updated: 2026-10-07
Chapter: 第265話夕暮れ時、周歓が家へ足を踏み入れると、食欲をそそる濃厚な香りが漂ってきた。鶏を煮込む匂いだ。その匂いは、厨房に繋がる裏庭から流れてきていた。裏庭へ向かって歩いていくと、遠くから楽しげな笑い声が聞こえてきた。庭でせわしなく立ち働いているほっそりとした人影は、他でもない孟小桃であった。孟小桃は作業のしやすい粗末な麻の着物姿で、薪を割ったり水を運んだりと、まるで独楽のように、周歓の両親の周りをくるくると動き回っている。厨房で腕を振るっているのは、周歓の父である周勁松だ。寡黙で厳格な性格だが、見事な料理の腕前を持ち、味にもうるさい彼は、三十を過ぎた今でも毎日欠かさず自ら包丁を握っていた。父とは対照的に、母の孫氏は元々豪商の令嬢であり、気さくで親しみやすい性格をしていた。ただ一つの欠点は、何をするにも手先が不器用なことである。おまけに彼女はじっとしていられない性分で、夫が厨房で忙しくしているのを見ると、いつもそばをうろうろと歩き回り、何か手伝おうとするのだ。だが結局は裏目に出て、良かれと思ってやったことで余計な手間を増やしてしまうのが常であった。こうした些細な諍いで、夫婦は日常的によく口論になっていた。周歓にとって、それはとうに見慣れた日常の光景である。しかし、孟小桃が来るようになってから、周家は急に和やかになった。孟小桃は手際が良く、機転も利き、何かあればいつも率先して手伝ってくれる。夫婦が今にも喧嘩になりそうなのを見ると、彼はいつも自然な様子で間に入り、それとなく話題をそらしてしまうのだ。時が経つにつれ、孟小桃は周家を円滑に回す潤滑油となり、一家に笑顔をもたらす存在となっていった。特に孫氏は、孟小桃を見るだけで目尻を下げて喜び、まるで十歳も若返った
Last Updated: 2026-10-13
Chapter: 第264話案の定、沈驚月は微かにまぶたを引きつらせた。「どうしてだ」周歓はさも訳知り顔で分析し始めた。「そんなの聞くまでもないだろう?こいつはすごく綺麗じゃないか。他の扇子を見てみろよ。白か黒ばかりで、つまらないったらありゃしない!これだけが、こんなにも他と違って際立っている。この色を見てみろよ、隣の親父の被り物より、よほど青々とした見事な緑色だぜ。何て言ったっけな……そうそう、『青は藍より出でて藍より青し』ってやつだ!俺に言わせりゃ、この極彩色こそあんたにお似合いだ」沈驚月は鼻を鳴らし、見下すような顔つきで言った。「俗悪極まりないな」周歓は蛙の面に水といった調子で言い返した。「今頃気づいたのか」口では嫌がりながらも、沈驚月はすぐさま店主に振り返って言った。「主人、この三本とも、私がもらおう」周歓は呆気に取られた。「三本とも買うのか?だったら何で俺に選ばせたんだよ。まったく、無駄口を叩かせやがって」沈驚月は彼を横目で流し見た。「つべこべ言わずに、さあ、金を払え」その言葉に、周歓は途端にぽかんと口を開けた。「金を払う?何の金だよ」「もちろん、この三本の扇子の代金だ」沈驚月は腕を組み、笑っているような、いないような表情で彼を見つめた。「でなければ、私がここへお前を連れてきたのは、本気
Last Updated: 2026-10-13
Chapter: 第263話「悪いが、今は手が離せないのでな。大将軍殿の相手はしていられないよ」周歓は気だるげにひらひらと手を振ると、顔を背けて薛炎と酒を飲み続けた。沈驚月は下唇を噛み、すぐさま一歩前に出ると、周歓の手からひったくるように酒を奪い取った。「何をする……」周歓が文句を言う間も与えず、沈驚月はぐいと顔を仰向け、ごくごくと喉を鳴らして壺に残っていた酒を一気に飲み干した。周歓は目を丸くして勢いよく立ち上がると、大声を張り上げた。「おい!なんで全部飲んじまったんだよ!?それは皇太子殿下が薛炎殿に振る舞った酒だぞ!」沈驚月は横目で睨みつけた。「なんだ?太子殿下の酒は、この私が飲んではいけないとでも?」「お前……!」周歓が言い返そうとしたところを、薛炎がぐいと引き止めた。薛炎は愛想笑いを浮かべて言った。「飲んでいただけますとも。大将軍殿、お好きなだけお飲みください!」沈驚月は口元を拭い、空っぽになった酒壺を周歓の胸元へ放り投げた。「酒は飲み終わった。これで私と一緒に来てもらえるな?」周歓は美味しい酒を堪能する間もなく、沈驚月に引っ張られて驍騎営を出ると、有無を言わさず馬車に押し込まれた。沈驚月もすぐさまその後から周歓の隣に腰を下ろし、御者に向かって声をかけた。「西市へ向かえ!」ここ洛陽では、高官や貴族の多くは東市の周辺に居を構えており、東市で売られている品物も、そのほとんどが高価な珍品であった。一方、異国の豪商たちは西側に集まっているため、西市で出回る品物は比較的日常的で、庶民向けのものが多い。日はすでに高く昇り、一日の中で最も賑わう昼時の市が立っている時間帯であった。二人は人通りの多い賑やかな大通りを歩いていた。沈驚月は大股でぐんぐん進み、周歓は訳が分からないままその後を追いかけて尋ねた。「俺を昼の市なんかに連れてきて、一体何をするつもりだ?」「ここに来て、買い物以外に何をするというのだ」沈驚月は振り返ることもなく、両目を真っ直ぐ前へ向けたまま、いかにも悠然とした様子だった。周歓はますます訝しんだ。「いや、天下に名だたる沈大将軍のそばに、従者の一人もいないわけがないだろう?どうして俺を供の者として引っ張り回すんだよ」言い終わるか終わらないかのうちに、沈驚月がふいに足を止めた。周歓は避けきれずに、ゴツンと沈驚月の後頭部に鼻をぶつけ、痛み
Last Updated: 2026-10-12
Chapter: 第262話詳しく尋ねようとした矢先、ふいに遠からぬ場所から馬の蹄の音が立て続けに響いてきた。周歓が顔を上げて見やると、見覚えのある人影が高頭の大馬に跨り、深紅の披風を羽織って、兵士たちに囲まれながらゆっくりと陣営の中へ歩み入ってくるのが見えた。その見慣れた姿を目にした途端、周歓の心にあった疑念はすっかり吹き飛んだ。「沈驚月!?あいつ、どうしてここへ来たんだ」薛炎が言った。「なんだ、お前知らなかったのか。沈驚月殿は今や大将軍となり、都の禁軍三十万を総べるお立場だ。我ら驍騎衛も当然その例外ではない」「大将軍だって!?」周歓は思わず舌を巻いた。今回の政変において、沈驚月は統帥の一人として、確かに少なからぬ功績を上げていた。しかし、蕭晗が沈驚月にこれほどの厚い信任と優遇を与えようとは、周歓は思いもよらなかった。薛炎は周歓の肩を叩いて言った。「お前も斉王殿下も、恩賞を固辞するからだろうが。斉王殿下が兵を率いて兗州へお戻りになられたのはまだいい。あの方は藩王という身分ゆえ、陛下の御傍に残ればいらぬ疑いを招きかねないからな。だが、お前はどうだ。あれほどの大功を立てておきながら、いかなる官職も望まないとは。沈驚月のほかに、陛下は誰に恩賞を賜ればよいというのだ。それに、沈驚月はなんといってもあの沈琮の末裔だからな」周歓は言った。「確かに。沈琮もかつて大将軍を務めていたからな。そう考えると、彼ら沈家代々の伝統とも言えるだろう」「だが、あの頃と今とでは事情が違う。かつて沈琮が大将軍に任じられた時はそれこそ順風満帆だったが、今の沈驚月は危急の際に命を受け、どうしようもない厄介事を引き継いだようなものだからな」周歓は好奇心をそそられ、それ
Last Updated: 2026-10-12
Chapter: 第261話帝と皇太子を守った功績により、薛炎と薛氷も昇進を果たしていた。今の二人はもはや蕭昱の近侍ではなく、左右の驍衛を領し、禁軍である|驍騎衛《ぎょうきえい》を統率する立場にある。懐竹は蕭昱のあまりにも痛々しい表情を見て、たちまち心を打たれて言った。「皇太子殿下……懐竹はもちろん、皇太子殿下のお側を離れたりいたしません」蕭昱は目を輝かせ、大喜びで言った。「本当!?絶対に離れないね」懐竹は泣き笑いのような顔になり、ただ頷くほかなかった。情に訴えかけるとは見事な手だ。傍らで見ていた周歓は、思わず心の中でニヤリとした。懐竹は身分が低く、その上かつては陳皇后の男寵であったのだから、宮中ではさぞかし冷たい目で見られてきたことだろう。蕭昱は皇太子という尊い身分でありながら、懐竹の出自など少しも気に留めず、心の底から彼に優しく接しているのだ。懐竹が深く恩義を感じないわけがなかった。それに、一人きりになった蕭昱がひどく孤独であることも確かであった。本来なら蕭昱の側には薛炎と薛氷がいた。この兄弟は長年蕭昱に寄り添い、とっくに家族も同然の絆で結ばれていたのだ。ところが今や、兄弟はたった一枚の辞令で驍騎営の配下に組み込まれてしまったのである。そして蕭昱は皇太子という立場ゆえ、容易に皇宮を離れることはできず、当然ながら昔のように頻繁に顔を合わせることもできなくなった。あの日、別れ際に蕭昱は周歓に対し、自分の代わりに薛炎と薛氷の様子を見に行ってほしいと頼んでいた。翌日、周歓は蕭昱からの重大な頼みを引き受け、一壺の酒を手に、皇城の外に駐屯する驍騎衛の陣営へと足を運
Last Updated: 2026-10-11
Chapter: 第260話「今夜は……ここに残ってくれ。行かないでほしい」激しい情事の後、蕭晗は全身の力をすっかり抜け落とし、周歓の胸に抱かれながらそう懇願した。周歓は彼の背中を優しく撫でるだけで、何も答えなかった。蕭晗は恨みがましい瞳で彼を見つめた。「どうして……そなたはかたくなに朝廷に残って官に就こうとしないのだ。そなたが一言頷きさえすれば、朕はそなたを一人に次ぎ万人の上に立つ地位に就かせてやれるというのに。これでもまだ……何か不満があるというのか」「不満などありませんよ」周歓は蕭晗の汗に濡れた鬢髪を指で掬い上げ、うつむいて彼を見つめた。蕭晗は潤んだ瞳で見上げ、眉をひそめて言った。「ならば、なぜだ」周歓は涙の痕が滲む蕭晗の目元の泣きぼくろを指先で優しくなぞり、低い声で言った。「私はもとより、官吏の器ではありませんから。私がしたいのは、たった一つだけです」蕭晗は胸を早鐘のように鳴らしながら尋ねた。「何だ」周歓は意味ありげな笑みを浮かべ、蕭晗の耳元に顔を寄せた。「天下を納めるよりも、陛下をこの腕に抱くほうが、よほど面白そうに見えますのでな」言葉が終わるか終わらないかのうちに、周歓は身を翻し、再び蕭晗を下に組み敷いた。蕭晗が抗議の声を上げようと口を開いた途端、その唇は塞がれ、喉の奥からただ微かな甘い喘ぎ声だけが途切れ途切れに漏れ出すばかりであった。程惟湘の言った通りだ。周歓という男は、紛れもなく傲慢
Last Updated: 2026-10-10