「沙良ちゃんは元がいいからね。そのままでも十分可愛いのに追い打ちのようにそんなことするってことは……男を誘ってるとしか思えないよ?」
と――。 そうしてギュッと抱きしめられて耳元で 「俺にはキミの気持ちが分かってる……。だからね、ちゃんとキミからの誘いに応えてあげるよ」 そう告げられた時には身の毛がよだった。 「受験の直前だったから、塾をやめることもできなくて……。両親が私のために色々無理して塾へ通わせてくれているのも分かってましたし、何とかその先生を避けながら通い続けました。……でも、本当はもう、限界で……」 そこで沙良は、ふっと息を吐いた。 まるで、心の奥に押し込めていた何かが、ようやく吐き出せたように、僕には見えた。 「本当は私、家から通える大学を希望してたんです。志望校もその範囲で決めていました。でも……もう地元にはいたくなくて……。あの人から逃げたくて……」 彼女は一瞬だけ僕を見て、すぐにまた目を逸らした。 「それで、レベルはもっと上がるけど、明都大学を受けました」 そのくらいインパクトのある志望校変更でないと、両親に申し訳なくて言い出せなかったらしい。 「もちろん、無理だって……そんな無謀なことやめた方がいいって……学校の先生や両親からは止められました。塾のほうからも例の先生が〝わざわざ家まで来て〟『悪いことは言わないから元の志望校に』って私を説得に来ました」 でも、だからこそ余計に絶対に明都大に受かってその先生から逃げなければ、と沙良は躍起になれたらしい。 「実を言うと……自分でも、受かるなんて思ってなかったんです。でも、先生から逃げたい一心で必死に勉強しました。受かってここに来れば、全部リセット出来るって、思ったから」 そこまで話して、沙良は少しだけ笑った。 でも、その笑みは苦く、痛々しいものだった。 見事明都大への切符を手にした沙良は、地元を離れたのを機に、イメチェンをはかった。 「私、別に目は悪くないんです。でも……伊達眼鏡を買って……美容院へ行く頻度もぐんと減らしました。メイクもしないって決めて、眉毛を整えるのもやめました。なるべく目立たないようにして、誰とも深く関わらないように心掛けたんです。それが……自分を守る唯一の方法だって思ってたから……」 (……そこまでしたのに、キミはその美貌を隠し切れなかったんだね) 僕は表情を崩さず、ただ小さく頷いた。 「そっか……。そんな事情があったなんて知らなくてごめんね。僕、凄く軽率だった」 言いながら、僕は沙良の眼鏡越しの瞳をじっと見詰めた。 「けど……沙良はすごいよ」 「えっ?」 僕の言葉に、沙良が『意味が分からない』という顔をする。三日目、木曜日。 今日沙良は下校時、火曜日同様大学前のバス停からバイトへ向かう。バイト終わりの安全はもちろん確保するつもりだから、バスに乗り込むまでの間、しっかり彼女をガードしようと心に誓う。 そんなわけで、今日は学園祭の資金集めの一環としてフリーマーケットをしようと提案して学校の許可を取り付けている。その準備のための日だ。 明日フリマの本番に向けて、たくさんの学生たちが荷物を抱えて大学付近を行き交っている。段ボールの山、机を運ぶ腕、塞がれる視界。 沙良はそのわきをすり抜けて、足早に正門を通って行った。木陰から出てきた白川がすぐさまそんな沙良のあとを追うのが見えたから、僕はわざとそのタイミングで行く手を阻んでやった。 苛立ちを隠しながら、沙良を視線で追う白川に、僕はフリーマーケットのお知らせリーフレットを渡しながらにこやかに宣伝してやった。 握った拳の関節が白く浮き上がっていたのは、怒りか、それとも焦燥か。 お客さんは学内の人間だけに限定してないからね。僕が長々と説明しているうちにバスが来て、沙良が乗り込んでいくのが見えた。(よし!) ……いい傾向だ。 三日間の予期せぬ〝空振り〟で、奴の中の渇きはきっと限界まで膨らんでいる。 この状態で目の前にエサを投げ込めば、喉元まで飲み込みにくるだろう。 そして四日目、金曜日――。 僕が以前裏アカ掲示板に書いた、沙良が人通りの少ない川沿いを一人で歩く日だ。 その日は、人の波が消えた。募金も、練習も、準備も、――全部ない。 川沿いの道は〝いつものように〟しんと静まり返り、白川の目には〝ようやく訪れた絶好の機会〟に見えたはずだ。 十六時半、沙良が正門を出る。 三日間、距離を詰め損ねてきた男が、ついに水を得た魚のように、沙良の背後を嬉々として尾行する。 僕はランニングウェアに身を包み、物陰でそれを見守った。「……篠宮沙良ちゃん、だよね? 久しぶりだなぁ」 低い声。沙良が振り返り、表情が凍る。「&helli
僕が匿名掲示板に餌を投げ込んだだけで、白川はあっさり動き出した。 それだけで、奴の思考がどれほど単純で、どれほど渇いていたかが分かる。 僕が言うのもなんだけど、沙良に対する執着も相当なものだ。 だってそうだろう? 普通あれだけの内容で、書き込まれた子が沙良かも? なんて思わないはずだもの。 僕が書き込んだのはM大なんて至極曖昧なものだったし、なんなら沙良のイニシャルも、大学のある地域ですら限定していない。ただ、貴方のアイコンに似た子がM大にいますよ、ってだけ。 あれでダメならもう少し踏み込んだ餌に切り替えなきゃいけないかな? とか考えていたけど、そんな必要ないくらい、白川は沙良に餓えていたんだと思う。 でも、すぐには沙良に近付けさせてあげない。狩りは焦らせてからの方がより効果的だもの。 だから、最初の三日間は沙良の姿を白川の前へちらつかせておいてわざとヤツに〝待て〟をさせた。 沙良が下校する時刻に合わせて、まるで偶然を装って彼女の周りに人を集めるようにしたんだ。 手を伸ばせそうで伸ばせない距離に求める対象を置き続ければ、欲はいやでも膨らんでいく。 焦りと苛立ちで熱された男は、徐々に判断力と警戒心を鈍らせていくはずだ。 それこそが、僕の求める悪役《ヒール》だ。 火曜日。月曜には喫茶店にいた白川が、明都大付近で確認できるようになった一日目の日だ。 例の裏アカ掲示板に、 『狙っているM大の可愛い子。●日にはもう少し近くで彼女を見てみようと思う』 そんなことを書き込んでいたのをチェック済みだった僕は、その日に合わせて正門前で学生会が学園祭の募金活動をするように仕向けた。 派手なプラカード、呼び込みの声、立ち止まる人々――僕が頼んだのは「●日のこの時間だったら僕も手伝えそうだから」という一言だけだ。 沙良は今日、大学前のバス停でバスに乗ってバイトへ向かう日だ。バイト先は把握しているから終わるころには見守りに行くつもり。 沙良は学生会の面々に混ざって、帽子を目深《まぶか》にかぶった僕には気付かず、身をすぼめて人波を抜け、バス停へと向かっていった。 白川は後ろを歩きながら、何度も立ち止まっては周囲を伺っていた。偵察のため、喫茶店で張っていた時より明らかに人目が多かったからだろうね。案の定、正門前にある
そんな風にして入手した、白川の裏アカウントのやり取りを覗いてみれば、女子高生や女子大生ばかりを物色し、襲いたい妄想を語り合う中年男たちの吐き気を催すやりとりが並んでいた。 ――しかも今、その白川が明都大から一駅の距離に潜んでいることまで僕は知ってしまった。 これが、偶然であるはずがない。 何故なら白川は塾講師という立場から、沙良が明都大に合格したことを知っていたはずなのだから。 (気持ち悪い男だな) そう思いはしたが、不幸中の幸い。白川は、沙良の住まいまでは〝まだ〟特定していないようだった。だけど、それも時間の問題に思えた。 〝僕のあずかり知らないところで〟沙良に被害がなかったから良かったものの、沙良をつけ狙う男が彼女の近くにいたと思うと、実に嫌な気分だ。 僕の沙良が、他の男の手あかに汚れるとか、絶対にあってはいけない。 ――もっとも、この〝駒〟をどう動かすか考えると、悪くない気分でもあった。 さて、この男をどう利用してやるのが最も効果的かな? 白川の〝嗜好〟は、僕にとって格好の材料だった。 正面から沙良に近付けば、まだ完全に警戒を解いていない彼女はきっと身を引く。 だが、外部からの脅威に晒されれば――話は別だ。 僕は白川に直接接触はしなかった。そんな真似をすれば、余計な足跡を残す。 代わりに、〝smile_myu〟が入り浸っている匿名掲示板に、海外経由のサーバーから作った捨てアカで忍び込み、ゆっくりと餌をまいた。『M大文学部の二年に、すげぇ大人しくて可愛い子がいる。smile_myuさんのアイコンの後ろ姿にそっくり。地味メガネで芋っぽいけど、絶対に化けるタイプ』『大体いつも水曜と金曜の十六時半過ぎ、正門からひとりで出てくる。人通りの少ない川沿いの道を歩くから、声かけるのも簡単だと思う。俺、この前ちょっと肩に触れてみたけど、ビビって固まってた。次はもう少し踏み込んでみようかな』 ほんの数行の書き込み。それだけで十分だ。 あとは、白川の中に沈殿している汚泥みたいな執着心が、自動的に動き出す。 数日後、調査員から上がってきた報告に、僕はゆっくりと口角を上げた。 白川が水曜と金曜の十六時過ぎになると、明都大正門が見えるカフェや駅近くのベンチで、何時間も暇を潰すようになったらしい。 視線は常に正門の方角。
――準備は、整った。 あの日、沙良を手中に収めるための〝最高の方法〟を思いついてから、僕はすぐに動き出した。 まずは彼女の口から漏れた、ひとつの名前――白川《しらかわ》慎策《しんさく》。 その名が、僕と沙良の絆を深める計画の鍵になる。 白川《しらかわ》慎策《しんさく》は四十代半ばの中年男だ。中肉中背。見た目は可もなく不可もない感じ。 これは、高校生の頃の篠宮《しのみや》沙良《さら》が通っていた進学塾で、数学を教えていた塾講師――沙良を苦しめた男の〝表向きの〟基本データだ。 実はこの男、調べて分かったんだけど、離婚の理由がろくでもない。 まずはひとつめの要因。 沙良が塾に通い始める数ヶ月前。白川は娘と同年代の女子高生への痴漢疑惑で捕まりかけたことがあるらしい。証拠不十分で不起訴になったものの、近所の井戸端会議であっという間に噂が広がった。家族としては、これほど不名誉な噂話はなかっただろう。 幸い職場は家から離れていたからバレなかったみたいだけど、僕から言わせれば、危機管理のなっていないクソみたいな塾だ。 それだけでも十分に夫婦関係が破綻する火種だったはずだけど、決定打は別にあった。 白川夫人がある日、夫の部屋のクローゼット奥から、娘の下着を数枚見つけたのだという――これは、調査員が元妻本人から直接聞き出した話だ。 てっきり干していた時に、下着泥棒に盗まれたとばかり思っていた娘の下着が、夫の手元に隠されていたのだ。奥方のショックを思うと計り知れない。 当たり前のことだが、そんなものを隠し持つ父親のもとに娘を置いておけば、何をするか分からない。普通に考えて、耐えられる事案じゃなかっただろう。 奥方はその日のうちに、慎策《しんさく》との離婚を決めたらしい。 それからもうひとつ。 これは結果論の余談かも知れないが、奥さんが白川に孕まされたのは高校卒業直前だったというオマケ話もあった。当時はふたりの年齢差がさほどではなかったことから問題視されなかったが、夫が四十を越えた今もなお、若い娘にばかり執着しているのを知って、奥さんは夫の性癖にようやく思い至ったらしい。 思い返せば、娘を生んで数年後からは夫婦生活も完全に途絶えていたそうだ。 そういう諸々の結果、奥さんから離婚届を突き付けられて、白川は晴れて(?)バツイチになったのだという。 この
「だってそうでしょう? 誰にも相談できないような状況の中、自分の力で変態ヤローから逃げるために無理だって言われたここの合格まで勝ち取ったんだよ? それって誰にでも出来ることじゃない。こんな小さな身体で、誰にも頼らずに全部ひとりで背負ってきたんだと思うと、僕は沙良のこと、凄いとしか思えない」「ただ……必死だっただけです……。そんな大したものじゃ……。現に私、毎日不安で不安で……」 うん、〝自己肯定感の低い〟キミなら、そう言ってくれると思ったよ? 眉根を寄せて僕の賛辞の言葉を否定する沙良に、僕は内心ニンマリ微笑んだ。「沙良……。……すぐには難しいかも知れない。けど……もし、誰かを信じてみてもいいって思えるようになったら……その時は、僕のことを思い出してくれると嬉しいな?」「……でも……八神《やがみ》さん、私……」「急ぐ必要はないよ? 沙良のペースで大丈夫」 なるべく優しい声音で呼びかけて、ふんわり包み込むような眼差しで沙良を見つめる。 口では急がなくていいって言ったけど……なるべく早く僕の檻の中へ入っておいでね、沙良。 キミが僕の方へ逃げ込んで来てくれさえすれば、僕は出入り口をしっかり塞いで、キミを守ってあげるって誓う。 そんなことを思っているだなんておくびにも出さず、僕は沙良の手を握るような真似すらしない。 僕がキミに触れるのは、キミの方から僕に手を伸ばしてくれたその時だ。 僕の言葉に、沙良がゆっくりと|頷《うなず》いた。 きっとキミは、僕に過去のことを話してしまったことで……少なからず僕に心を許してしまい始めていることにすら気づいていないんだろうね。 そういう鈍感で危ういところがキミに変な男
「沙良ちゃんは元がいいからね。そのままでも十分可愛いのに追い打ちのようにそんなことするってことは……男を誘ってるとしか思えないよ?」 と――。 そうしてギュッと抱きしめられて耳元で 「俺にはキミの気持ちが分かってる……。だからね、ちゃんとキミからの誘いに応えてあげるよ」 そう告げられた時には身の毛がよだった。 「受験の直前だったから、塾をやめることもできなくて……。両親が私のために色々無理して塾へ通わせてくれているのも分かってましたし、何とかその先生を避けながら通い続けました。……でも、本当はもう、限界で……」 そこで沙良は、ふっと息を吐いた。 まるで、心の奥に押し込めていた何かが、ようやく吐き出せたように、僕には見えた。 「本当は私、家から通える大学を希望してたんです。志望校もその範囲で決めていました。でも……もう地元にはいたくなくて……。あの人から逃げたくて……」 彼女は一瞬だけ僕を見て、すぐにまた目を逸らした。 「それで、レベルはもっと上がるけど、明都大学を受けました」 そのくらいインパクトのある志望校変更でないと、両親に申し訳なくて言い出せなかったらしい。 「もちろん、無理だって……そんな無謀なことやめた方がいいって……学校の先生や両親からは止められました。塾のほうからも例の先生が〝わざわざ家まで来て〟『悪いことは言わないから元の志望校に』って私を説得に来ました」 でも、だからこそ余計に絶対に明都大に受かってその先生から逃げなければ、と沙良は躍起になれたらしい。 「実を言うと……自分でも、受かるなんて思ってなかったんです。でも、先生から逃げたい一心で必死に勉強しました。受かってここに来れば、全部リセット出来るって、思ったから」 そこまで話して、沙良は少しだけ笑った。 でも、その笑みは苦く、痛々しいものだった。 見事明都大への切符を手にした沙良は、地元を離れたのを機に、イメチェンをはかった。 「私、別に目は悪くないんです。でも……伊達眼鏡を買って……美容院へ行く頻度もぐんと減らしました。メイクもしないって決めて、眉毛を整えるのもやめました。なるべく目立たないようにして、誰とも深く関わらないように心掛けたんです。それが……自分を守る唯一の方法だって思ってたから……」 (……そこまでしたのに、キミはその美