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第4話

Author: 西野翠夏
時哉の考えはこうだ。真夕が空港ですでにひと騒ぎ起こした以上、もうそのまま離婚を切り出してしまえばいい。

不倫の証拠を集め、離婚を切り出す。そうすれば無駄な時間を費やさずに済む。

京介が疑うことはないはずだ。彼は単に、真夕が嫉妬して拗ねているだけだと思うだろう。

事実、京介はまさにそう思い込んでいた。

真夕は時哉と別れると、そのまま車を走らせて篠原家の本邸へ向かう。

その道中、京介の車を見かける。

意外そうに、真夕は眉を上げた。京介は茉優に付き添っているはずで、まさか本邸に戻ってくるとは思っていなかった。

もし空港での一件がなければ、京介もそのまま茉優と一緒に過ごすつもりだった。

しかし、慧から電話があり、いつ帰るのかと聞かれたのだ。真夕がもう帰路についていると聞き、京介は急いで本邸へ向かうことにした。

真夕が帰宅してから茉優の帰国を口にすれば、祖父の栄一に知られて騒ぎになるかもしれない。それが心配だった。

3か月後の結婚式は、何としても予定通りに挙げなければならないのだ。

京介も真夕の車に気づき、窓を下ろして声をかける。「真夕」

だが、真夕は返事をしなかった。そのまま窓を閉め、冷たい表情でアクセルを踏み込む。車は一気に加速し、あっという間に遠ざかっていく。

京介は眉を上げ、ためらうことなくその後を追う。

篠原家の本邸は、南山の中腹にある。山道は幾重にもカーブを描いている。真夕は落ち着き払ってハンドルをさばく。彼女の手にかかれば、車体もまるで手足の延長のように自在に動く。

カーブでは華麗に車体を滑らせ、それでも速度を落とさない。車体は疾風のように駆け抜け、無駄のない滑らかなラインを描いていく。思わず見とれるほどの見事な運転だ。

男という生き物は、どうやらスピードとスリルに弱いらしい。

京介もすっかりその気になり、真夕の車を追ってアクセルを踏み込む。

二台は互いに譲らず、追いつ追われつの攻防を繰り広げる。京介は何度も追い抜こうとしたが、そのたびに真夕に阻まれる。結局、二人はほぼ同時に、本邸へたどり着いた。

京介はすっかり満足した様子で、口元に笑みを浮かべている。車のドアに無造作に手を預けながら、深い眼差しで真夕を見つめる。そこには、驚きと愛おしさが入り混じっている。

「真夕、こんな運転までできるのか?」

正直、京介はまたしても真夕に目を奪われた。

けれど、今の真夕にとって、京介から名前を呼ばれるだけで、頭の中では勝手に「茉優」と変換される。気持ちが悪くて仕方がない。

真夕は京介を無視し、ドアを乱暴に閉めると、そのまま屋敷の中へ歩いていった。

これまでずっと、穏やかで優しい真夕しか見てこなかった。涼しい顔で車を飛ばす彼女は、意外なほど格好よく見えて、京介はどこか面白く感じていた。

自分もドアを閉めると、大股で追いつき、機嫌を取るように真夕の手をつかむ。

「真夕、もうヤキモチを焼くなよ」

京介の体から漂う女性用香水の匂いに、真夕は深く眉をひそめた。

「離して」

京介は悪びれもせず、男の力にものを言わせて真夕を強引に引き寄せ、その腕の中に閉じ込める。

「嫌だ。今回の出張で、俺に買ってきた土産は?」

濃い香水の匂いがまとわりついてくる。真夕は吐き気を覚えながら、手を伸ばして京介を突き飛ばそうとした。

「お土産なんてないわ」

「カードの明細、見たぞ。メンズのベルト、カフス、バッグ、靴。俺へのものじゃないなら、誰のために買ったんだ?ほら、もう怒るなよ」

京介は、それが当然だと言わんばかりの顔をしている。そんな態度を見ていると、真夕は意地でも京介の思い通りにはさせたくないと思った。

「あれは全部、時哉に買ったものよ」

「相馬時哉か?」

京介は眉をひそめる。隠しきれない不快感が、その表情に滲んだ。

だが次の瞬間には、何事もなかったように表情を緩め、確信したように言う。

「お前がヤキモチを焼いて、わざと俺への土産を別の男に渡そうとしてるんだろ。でも、本当に誤解だ。俺と茉優ちゃんはただの友達だ」

いっそう濃く香る香水の匂いに包まれ、真夕はとうとう耐えられなくなった。

「離して。その香水の匂い、気持ち悪い」

京介は腕に力を込める。

「真夕、もういい加減にしろ。ちゃんと説明するから」

真夕はえずき始めた。「うっ……」

次の瞬間、吐き気をこらえきれず、京介の服に吐いてしまった。

一途な夫を演じていた京介は、言葉を失った。

「ママ!」

車の音を聞きつけてすでに屋敷から駆け出していた慧は、真夕が吐いているのを見ると、心配そうに駆け寄ってくる。

……

真夕がシャワーを浴びて着替えて部屋から出ると、慧が白湯の入ったグラスを持って、まるで小さな紳士のように扉の前でじっと待っていた。

「ママ、大丈夫?これ、飲んで」

真夕は笑いながら慧の頭を優しく撫で、グラスを受け取ると半分以上飲んだ。

「ありがとう」

慧は眉をひそめ、心配そうに真夕を見上げる。

「ママ、どこか具合悪いの?」

かつて、京吾が事故に遭った後、京介は篠原グループを引き継ぎ、事業の方向をAI分野に転換すると決めた。

経営学を学んできた京介には技術的な知識がなかった。最初は大きくつまずき、会社にも甚大な損失を出した。

あの頃の京介は、精神的にも追い詰められていた。一族からの重圧、役員や株主からの非難、さらにはライバル企業からの妨害にも直面していた。

京介の妻として、真夕は当然のように夫と苦楽を共にしようとした。

だからこそ、真夕は輝かしいキャリアを捨てて篠原グループに入り、全力で京介を支えたのだ。

連日の残業は当たり前で、食事もまともに取れず、空腹を我慢することも日常になった。そのせいで胃を壊してしまい、いつも吐き気を催してえずくようになった。

それに加え、この7年間の結婚生活がすべて嘘であり、京介には自分への真心など欠片もなかったという事実を最近知ってしまった。

平気でいられるはずがない。

この数日、真夕はろくに眠れず、食事もまともに取っていない。

胃の調子が悪くなるのも当然のことだ。

真夕は慧を安心させるように微笑み、心配しなくていいと言い聞かせた。

そこへ、篠原家の使用人・佐藤和枝(さとう かずえ)がやって来た。

「奥様から、身支度が済んだら夕食の準備をするようにと言われています」

真夕が返事をするより先に、慧が声を上げた。

「ママは具合が悪いんだ。ご飯は作れないから、夕食はシェフに作ってもらえばいい」

だが和枝は立ち去ろうとせず、真夕を頭からつま先まで、値踏みするようにじろじろと眺めた。その視線には、露骨な無礼さがあった。

「本当に具合が悪いんですか?どう見ても元気そうですけど……

まさか、わざと病気のふりをして楽をしようとしてるんじゃありませんよね?

坊ちゃまに心配してもらって、食事の支度をサボりたいだけでしょう?」

京介と結婚して以来、篠原家の人間は真夕を疎んじてきた。どれだけ努力しようと、何をしようと、彼らが真夕を受け入れることはなかった。

上の人間がそうなら、下の人間も自然と同じになる。だからこそ、本邸の使用人たちまでもが、真夕に対して平気で冷たい態度を取っていた。

だが、もうすぐ京介とは離婚する。そうなれば、これ以上、篠原家の人間に気を遣って、何もかも我慢する必要はない。

ましてや、ただの使用人にまでへりくだる義理はない。

真夕は眉を上げ、ふっと笑った。

「佐藤さんの目はレントゲンかしら?一目見ただけで私の体調が分かるなんて。

それとも、私の心の中が読めるエスパーなの?

まさか、篠原家はシェフも雇えないほど落ちぶれたんじゃないよね?」

「なんて口の利き方ですか!」

和枝は信じられないといった様子で声を上げる。

「篠原家の一員として、この家の顔でもあるというのに、そんな下品な言葉遣いで……品がなさすぎます!」

「佐藤さん、忘れちゃったみたいだから教えてあげるけど、あなたはただの使用人よ」

そう言いながら、真夕はにこやかに和枝を見つめる。

まるで頬を思いきり張られたような屈辱に、和枝の顔はカッと熱くなり、みるみる血の気が引いていく。

「結構です。このことは奥様にご報告させていただきます」

和枝は息巻いて踵を返すと、篠原靖子(しのはら やすこ)に尾鰭をつけて告げ口しに行った。

靖子は京介の母であり、真夕の姑である。

普段から使用人や家族の前で、真夕に何かと細かい決まりを押しつけてきた。

慧が真夕の手を握る。

「ママ、怖がらないで。パパは今、ひいおじいちゃんに呼ばれて書斎に行ってるけど、ママには僕がいるから。

もしおばあちゃんがいじめて、無理やりご飯を作らせようとしたら、僕が守ってあげる」

真夕は微笑んでうなずくと、慧を連れて乗馬場へ向かった。

本邸の裏山には乗馬場がある。真夕はこの息苦しい屋敷を離れ、馬に乗って思い切り走りたかった。

階下へ向かっていると、偶然、和枝が別の使用人と話している声が聞こえてくる。

和枝ともう一人の使用人は足音に気づいておらず、背を向けていたため、真夕たちがいることにも気づいていない。

「佐藤さん、奥様にそんなふうに報告して大丈夫ですか?もし真夕様が京介様に言いつけたら、クビになるんじゃ……」

「あの女にそんな度胸はないわよ。あんたは入ったばかりで知らないだろうけど、この家じゃ京介様以外、誰もあの女を認めてないの。

京介様と上手くやっていきたいなら、奥様に媚びへつらって大人しくしてるしかないのよ。

『真夕様』なんて呼ばれてるけどね、この家じゃ私たちと変わらない、ただの家政婦よ。

いや、下手をすれば私たち以下かも。しっぽを振って、ご主人様から恵んでもらおうとする犬みたいなものよ」

「ちょっと!そんなこと言って大丈夫なんですか?」

「だって本当のことじゃない。私たちは使用人だけど、自分で働いて給料をもらってる。胸を張って生きてるわ。

あんな風に、顔がいいのを武器にして、金持ちに嫁いでセレブ妻になろうなんて浅ましい真似はしないわよ。

まさか結婚してみたら、自分が犬扱いされるとは思わなかったはずよ。だから、奥様に嫌われてるのよ」

真夕は聞きながら、自嘲するように笑った。和枝の言葉も、あながち間違いではない。

京介を母親と妻の間で板挟みにしたくなくて、真夕は篠原家ではいつも大人しく、従順に振る舞ってきた。

孤児だった真夕は、養父母に引き取られる前から、養護施設で「いい子」でいることを覚えていた。

我慢することなど、真夕にとっては造作もない。ただ、これからも我慢するかどうかは、もう自分で決められる。

かつては、篠原家の人間に嫌われていても構わないと思っていた。京介さえ自分を愛してくれれば、それでいい。

だが、それは間違いだった。この家には、自分を愛してくれる人など誰もいなかった。

「お前たち、黙れ!」

慧の怒った声が、真夕の注意を引き戻す。

「ママの悪口を言うな!」

胸の奥に、じんわりと温かいものが広がっていく。真夕は、また一つ間違えていた。

誰にも愛されていないわけではない。真夕には、息子がいる。

慧はすぐに執事の田中泰三(たなか たいぞう)を呼びつけた。

「この二人をクビにして。もう二度と篠原家に顔を出させないようにして」

泰三は恭しく腰を折った。

「坊ちゃま、人を解雇するには、それなりの理由が必要です」

慧は感情のない黒い瞳で泰三を見つめる。

「陰でママの悪口を言っていた。十分すぎる理由だろ?」

泰三はそれには答えず、視線を上げてちらりと真夕を見た。裏で慧をそそのかしていたのだと勘違いしているのだ。

慧はまだ5歳の子どもにすぎないが、幼い頃から栄一のそばで育ち、篠原家の跡取りとしてふさわしい教育を受けてきた。

そのため同年代の子どもよりもずっと賢く、人の表情や空気を読むことにも長けている。

だから、泰三の視線も見逃さなかった。

「そんな目でママを見るな。ママは関係ない。二人をクビにするのは僕の意思だ」

泰三は恭しく「かしこまりました」と答え、それから和枝たちに視線を向けた。

「田中さん、誤解です。きっと坊ちゃまの聞き間違いです」

和枝は平然と言い逃れようとした。そして、何かを思いついたように付け加える。

「もしかすると……先ほど私が真夕様のご機嫌を損ねてしまったので、そのせいかもしれません」

それはつまり、真夕が慧をそそのかし、自分に仕返ししようとしているという意味だ。

慧は拳を握りしめ、顔を強張らせる。何か言い返そうと口を開いた瞬間、真夕がその肩をそっと押さえて止めた。

「慧、今日は一つだけ教えてあげる。

犬に吠えられたからって、吠え返しちゃダメよ。そんなことをしたら、同じレベルに成り下がっちゃうから。

ただ、きちんとやり返せばいいの」

そう言うと、真夕は泰三を見て、淡々と言う。

「防犯カメラの映像を確認して」

篠原家の防犯カメラは4K並みの画質で、音声もはっきり記録されている。

言い逃れができなくなり、泰三は和枝たちに荷物をまとめて出て行くよう命じた。ただし、その月の給料は全額支払う。それがせめてもの情けだ。

篠原家での割のいい仕事を失いたくない和枝は、大人しく出ていこうとはせず、靖子のもとへ駆け込み、泣きながら訴えた。

「これからはもう、奥様にお仕えすることはできません。頭痛がなさる時は、香織にマッサージをさせてくださいませ。出ていく前に、ちゃんと教えておきますから。

申し訳ございません。私が真夕様にあのような口を利いてしまったのがいけなかったのです。すべて私の責任でございます。怒られて当然です。

私、もう篠原家を出ていきます。ただ、奥様とお別れするのが辛くて……ううっ……」

話を都合よく切り取って聞かされた靖子は、もともと真夕を好いていなかったこともあり、すっかり和枝の言葉を信じ込んだ。

不快そうに眉をひそめ、真夕を叱りつける。

「この家をいつから真夕が仕切るようになったの?」

真夕は、靖子の目にある確かな嫌悪の色を見逃さなかった。

以前の真夕には、なぜここまで篠原家の人間に嫌われるのか分からなかった。

ただ、家柄が悪いからなのだろうか?

しかし、今はもうはっきりと分かっている。

自分の顔が、茉優にあまりにもよく似ているからだ。

京吾は、幼い頃から篠原家の跡取りとして育てられてきた。彼自身も非常に優秀で、決断力もあり、商才に恵まれていた。

ところが、そんな京吾が茉優のせいで植物状態になってしまった。篠原家の人間からすれば、茉優は疫病神であり、人殺しも同然なのだ。

彼らは茉優を骨の髄まで憎んでいる。

だからこそ、茉優とよく似た顔を持つ真夕に、好意を抱けるはずがない。

真夕がぼんやりと考えに耽っている間にも、慧は小さな体で真夕の前に立ちはだかった。

「おばあちゃん、田中さんに二人をクビにするよう言ったのは僕だよ。ママは関係ない。

クビの理由は、あの人たちが陰でママの悪口を言っていたから。防犯カメラの証拠もあるよ」

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