LOGIN家族の遺伝子検査で表示された「99.99%」という数字。信じていた夫と、養子として迎えた息子の間に隠された真実を知った瞬間、幸せだった家庭は崩れ始める。嘘、不倫、偽造、奪われた財産――。すべてを失いかけた彼女は、静かに証拠を集め、自分の名前と人生を取り戻すため反撃を始める。
View More水瀬紗月は、数字を信じていた。
人は嘘をつく。けれど、塩基配列は嘘をつかない。
だから母の葬儀を終えた翌日も出勤したし、5度目の体外受精が失敗に終わった週も、検査報告書の確認を続けた。モニターに浮かんだ数字を信じられなかったのは、その日が初めてだった。
【父権肯定確率 99.99%】
紗月はマウスから手を離した。
検体番号を、もう一度確かめる。
P-260817-03。水瀬恭介。
C-260817-01。水瀬悠真。見間違えるはずのない名前だった。
「所長?」
向かいに立つ分析チームの責任者、三浦直樹が、ためらいがちに呼びかけた。
紗月は答えなかった。画面上部の依頼目的から、もう一度読み直す。
希少血液疾患に関する家族遺伝子パネル検査。
患児、水瀬悠真。法定代理人、水瀬紗月。父親側検体、水瀬恭介。悠真の血液検査で原因のわからない異常が見つかったのは、1週間前だった。治療方針を決めるには、両親の検体との比較が必要だった。
東京の遺伝子解析センター、GENE ONEで所長を務める紗月は、利益相反を避けるため、受付から解析まで別のチームに任せていた。自分が行うのは、最後の承認だけ。そのつもりだった。その最後の画面に、ありえない結果が出ている。
悠真は、養子のはずだった。
恭介の従兄とその妻が相次いで亡くなり、ひとり残された子だと聞いていた。4歳だった悠真を家に迎えて、もう3年になる。
初めて会った悠真は、見知らぬ児童養護施設の相談室で、泣きもしなかった。
小さなスニーカーのつま先を見つめていた子が、紗月の差し出した指を、ぎゅっと握った。 その夜、寝ぼけた声で初めて「ママ」と呼ばれた。紗月はトイレに隠れ、声を殺して泣いた。 自分が産めなかった命を愛してもいい。そう許されたような気がした。それから一度も、悠真をよその子だと思ったことはない。
予防接種の記録も、アレルギーの数値も、好きなおかずも寝相も、誰より知っている。 ただ、実の両親が誰なのかは、詳しく聞かなかった。亡くなった家族の話をするのは恭介につらいだろうし、悠真の傷にも触れると思っていたからだ。恭介が実の父親であるはずがない。
「混入の可能性は?」
「陰性コントロールに異常はありません」 「バーコードの照合は?」 「受付時の映像と、前処理のログまで確認しました」直樹の返答には、ためらいがなかった。
それがかえって、紗月の喉を締めつけた。結果画面を拡大する。15か所のSTR座位が、1行ずつ噛み合っていた。
偶然や機器の不具合では説明のつかない並びだった。それでも、まだ結論は出せない。
科学者は、疑いを証明と取り違えない。
紗月は机の角に指先を押しつけた。爪の下が白くなる。
胸の中では、何百もの問いが一斉に湧き上がっていた。けれど口にした途端、すべてが事実になってしまう気がした。 今必要なのは、夫の顔でも言い訳でもない。 もう一度、同じ結果が出るか確かめることだ。「生データをロックして」
「はい?」 「この件にアクセスできるのは、私と三浦さんだけ。自動バックアップも全部保存して」紗月は立ち上がった。
膝が固まったようで、うまく動かない。それでも声だけは、いつもと変わらなかった。「残っている検体は、すべて廃棄保留。新しい検体でやり直す」
「所長、結果に何か問題が……」 「まだわからない」紗月は画面の2つの名前を、まっすぐ見つめた。
水瀬恭介。
水瀬悠真。夫と、息子。
結婚するときに水瀬の姓を選んだ夫と、3年前に同じ姓になった息子。法律上だけのつながりだと思っていた2人は、紗月が家族になるよりずっと前から、血でつながっていた。
紗月は短く告げた。
「もう一度、検査して」
* * *
出国の前日、紗月は家を片づけた。結婚写真を額から外し、処分する袋に入れた。恭介と一緒に選んだ食器も、記念日ごとにもらった贈り物も、必要としてくれる人に譲った。母から相続したビルは、売らなかった。恭介の痕跡が残っているからと手放すなら、それもまた、彼の選択に引きずられることになる気がした。紗月は専門の管理会社と新たに契約し、賃料の管理と建物の維持を任せた。所有者の欄には、水瀬紗月ひとりの名前だけがあった。寝室の引き出しを空にしていると、小さなカードが出てきた。【まま だいすき】悠真が5歳のとき、初めて書いた文字だった。「だ」と「す」の大きさがばらばらで、ハートは片側が潰れていた。紗月は、カードを捨てなかった。結婚写真と、子供のカードを、同じ袋に入れる理由はない。嘘から始まった家族の中でも、悠真を抱いて笑ったあの瞬間だけは、本物だった。本棚の上には、緑色のティラノが残っていた。誠一から写真が届いた。悠真が定期検査を終えて、病院の前で笑っている。手には、同じ形の恐竜のぬいぐるみを持っていた。【悠真は、きちんと治療を受けている。新しい学校にも慣れてきた。君が元気でいてくれるよう願っていると、伝えてほしいそうだ】紗月は返信した。【私も、悠真が元気でいてくれることを願っています。薬の内容が変わったら、教えてください】少し迷ってから、もう一文付け加えた。【大好きだと、伝えてください】空港へ向かう前、紗月は誰もいない家を最後に見回した。恭介と選んだソファのあった場所は空き、本棚には悠真のティラノだけが残っていた。管理人には、子供が取りに来たら、保管場所を開けてやってほしいと頼んだ。翌日、紗月はひとりで飛行機に乗った。初めて暮らす街。新しい組織。誰も待っていない家。怖くないと言えば、嘘になる。けれど、怖さと自由は、一緒にやってきてもよかった。慣れた嘘の中にとどまるより、知らない場所でも、自分で選んだ方角へ進みたかった。飛行機が滑走路を離れるとき、結婚アルバムを削除した。悠真の写真は、そのまま残した。フォルダの名前も、飾らなかった。【悠真】その名前だけで、十分だった。数か月後。シンガポール国際ゲノム研究センターに、新しい研究棟が開設された。紗月は白衣を着て、廊下を歩いた。研究室のドアには、金属のネームプ
恭介の会社は、結局、民事再生手続きに入った。名義を盗用して借りた金を出資金に偽装していたと知られ、主要な取引先が契約を打ち切った。恭介は代表としての権限を失い、残った株式には、被害回復のための差押えが行われた。彼は最後まで、紗月のせいにした。「告訴さえ取り下げていれば、会社は助かったんだ」けれど会計監査の報告書には、会社の金を玲奈の住まいや個人旅行、架空のコンサルティング費用に使った記録が、びっしり並んでいた。1億5,000万円が入る前から、会社はすでに、損失で資本が目減りした状態だった。会社を壊したのは、告訴状ではない。恭介の帳簿だった。玲奈も、もう「パパの会社のおばちゃん」として、悠真の周囲をうろつくことはできなくなった。裁判所は、実の母親として治療費や生活費を分担し、養育についての指導とカウンセリングに参加するよう求めた。「私には、お金がありません」玲奈がそう主張すると、恭介は、玲奈名義のマンションを処分すればいいと言い返した。玲奈は恭介が約束した対価だと言い、恭介は犯罪で得た財産だから自分とは関係がないと言った。2人は、悠真の定期検査の費用とカウンセリング代を、どちらが多く負担するかで、そのたびに争った。紗月に負わせるときには、家族のための当然の出費だった金だ。和代は、あれほど望んだ実の孫を手に入れた。けれど子供は、相続財産を運んでくる名前ではない。定期検査の日を覚えなければならない。夜に悪夢を見れば、誰かがそばに座ってやらなければならない。カウンセラーは、和代が悠真の前で紗月と玲奈の悪口を言ったことを確認し、彼女ひとりに養育を任せることに反対した。結局、誠一が主な養育者になった。彼は悠真の前で誰の悪口も言わず、紗月と連絡を取りたいという子供の気持ちも尊重した。最初の面会交流の日、恭介と玲奈は廊下にいるうちから言い争った。「私が先に抱くわ。母親なんだから」「3年間隠れてたくせに、今さら何だよ」悠真は相談室の中で2人の声を聞き、爪を噛んだ。カウンセラーは、すぐに面会を中止した。生物学上の親であるだけで、保護者としての資格が完成するわけではなかった。その夜、悠真から音声メッセージが届いた。【ママ、ティラノ元気? あとで取りに行くね。ママも、ちゃんとご飯食べてね】紗月は何度も聞き返してから、短く返した
大きな手続きが一段落するまで、10か月以上かかった。家庭裁判所は、親族関係の資料が虚偽であり、実の両親の存在が隠されていたことを確認した。養子縁組と戸籍に関する手続きが進み、悠真の記録は実際の親子関係に沿って訂正された。悠真が暮らす場所は、児童専門家の意見を踏まえ、誠一の家に決まった。誠一は、悠真の学校と病院から遠くない場所へ引っ越した。真っ先に子供部屋を整え、紗月が書いた服薬表を冷蔵庫に貼った。引っ越しの前日まで、紗月は悠真と一緒にいた。服を季節ごとに分け、病院の予約日と食物アレルギー、悪夢を見たときにつけておく常夜灯の明るさまで書き出した。最後の箱には、恐竜のおもちゃが入った。引っ越しの日、悠真は泣くまいとして、唇をぎゅっと結んでいた。「ティラノ、ママの家に置いていっちゃだめ?」「置いておきたい?」「うん。あとで、取りに来られるから」紗月は、緑色のティラノサウルスを1体、本棚の上に残した。「取りに来てもいい?」「先生とおじいちゃんと、相談して約束を決めようね」「ママも、約束して」2人は、小指を絡めた。車が走り出すと、悠真は後ろの窓に手のひらをつけた。紗月も同じように手を上げ、車が角を曲がって見えなくなるまで立っていた。玄関へ戻ると、悠真が脱いだ小さなスリッパの跡が床に残っていた。ずいぶん経ってから、ようやくドアを閉めた。刑事裁判の一審では、恭介と玲奈による文書偽造と、融資詐欺への関与が認められた。虚偽の養子縁組資料と、1億5,000万円の資金の流れも、判決文に記された。和代もまた、養子縁組と贈与の計画に関与した部分について、別途責任を問われた。離婚の判決も、確定した。婚姻関係が破綻した主な責任は、恭介にあるとされた。不倫だけではない。虚偽の不妊診断、実子の存在の隠蔽、偽りの養子縁組、名義を盗用した融資。そのすべてが、判断の根拠になった。1億5,000万円の融資については、紗月に債務が存在しないことを確認する判決が出た。銀行は根抵当権を抹消した。恭介の会社と玲奈へ流れた金は、回収の手続きに入った。紗月は、もう一度、登記事項証明書を取得した。母が遺したビルの権利部乙区から、あの見知らぬ記載が消えていた。【根抵当権抹消】個人信用情報からも、1億5,000万円の債務が消えた。偽の署名によって生じ
真実が明らかになったあとも、悠真はしばらく紗月と暮らした。家庭裁判所は、生活環境を急に変えるべきではないという児童専門家の意見を受け入れた。恭介と玲奈の刑事手続きは進行中で、少なくとも学期が終わるまでは、慣れた家と保護者が必要だった。紗月は今までと同じように朝食を用意し、学校へ送り出した。夜には薬を飲ませ、眠る前に本を読んだ。変わったのは、パパが帰ってこないことだけだった。恭介の靴と、寝室の結婚写真がなくなった。玲奈おばちゃんが送ってくるプレゼントも、途絶えた。悠真はひとつずつ空白に気づきながらも、紗月が話すまで我慢しようとしているようだった。「パパ、お仕事で遠くに行ったの?」「パパがしてしまった悪いことを、今、大人たちが確かめているの」「ママとけんかした?」「うん。でも、悠真が何とかしなきゃいけないことじゃないよ」「ぼくがいい子にしてたら、パパ、帰ってくる?」紗月はすぐに首を振った。「悠真がいい子にしても、大人のした悪いことは消えないの。悠真がわがままを言っても、大人がしなきゃいけないことは、なくならないよ」悠真はわかったと言ったが、夜になると歯ぎしりをするようになった。学校では、友達がネットの記事で見た名前を口にしたという。記事に悠真の名前はなかった。それでも、周りの大人の顔だけで、自分に関係のあることだと気づいていた。紗月はカウンセラーと、伝える言葉を何度も考え直した。「偽物のママ」「本物のママ」という言い方はしないと決めた。産んだ人と、一緒に暮らしてきた人がいる。間違っていたのは、大人たちがその関係を隠したやり方なのだと説明することにした。土曜日の午後。カウンセラーも一緒に、公園の隅のベンチに座った。大切な話が始まる前から、悠真は紗月の手を握った。「パパと玲奈おばちゃんは、悠真が生まれたときから、大事なことを隠していたの」紗月は、悠真にわかる言葉だけを選んだ。「悠真を産んだのは、玲奈おばちゃん。パパは最初から、悠真のパパだった。でも、ママには、別の人の子だって言っていたの」悠真はしばらく、まばたきだけをしていた。「じゃあ、ママは?」「ママは悠真が4歳のときに出会って、家族になったの。それは、本当だよ」「でも、もう家族じゃないの?」紗月は息を整えてから、答えた。「大人たちが、法律できちんと