99.99%――この家族には、誰にも言えない秘密がある

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家族の遺伝子検査で表示された「99.99%」という数字。信じていた夫と、養子として迎えた息子の間に隠された真実を知った瞬間、幸せだった家庭は崩れ始める。嘘、不倫、偽造、奪われた財産――。すべてを失いかけた彼女は、静かに証拠を集め、自分の名前と人生を取り戻すため反撃を始める。

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Chapter 1

第1話 99.99%

水瀬紗月は、数字を信じていた。

人は嘘をつく。けれど、塩基配列は嘘をつかない。

だから母の葬儀を終えた翌日も出勤したし、5度目の体外受精が失敗に終わった週も、検査報告書の確認を続けた。

モニターに浮かんだ数字を信じられなかったのは、その日が初めてだった。

【父権肯定確率 99.99%】

紗月はマウスから手を離した。

検体番号を、もう一度確かめる。

P-260817-03。水瀬恭介。

C-260817-01。水瀬悠真。

見間違えるはずのない名前だった。

「所長?」

向かいに立つ分析チームの責任者、三浦直樹が、ためらいがちに呼びかけた。

紗月は答えなかった。画面上部の依頼目的から、もう一度読み直す。

希少血液疾患に関する家族遺伝子パネル検査。

患児、水瀬悠真。法定代理人、水瀬紗月。父親側検体、水瀬恭介。

悠真の血液検査で原因のわからない異常が見つかったのは、1週間前だった。治療方針を決めるには、両親の検体との比較が必要だった。

東京の遺伝子解析センター、GENE ONEで所長を務める紗月は、利益相反を避けるため、受付から解析まで別のチームに任せていた。自分が行うのは、最後の承認だけ。そのつもりだった。

その最後の画面に、ありえない結果が出ている。

悠真は、養子のはずだった。

恭介の従兄とその妻が相次いで亡くなり、ひとり残された子だと聞いていた。4歳だった悠真を家に迎えて、もう3年になる。

初めて会った悠真は、見知らぬ児童養護施設の相談室で、泣きもしなかった。

小さなスニーカーのつま先を見つめていた子が、紗月の差し出した指を、ぎゅっと握った。

その夜、寝ぼけた声で初めて「ママ」と呼ばれた。紗月はトイレに隠れ、声を殺して泣いた。

自分が産めなかった命を愛してもいい。そう許されたような気がした。

それから一度も、悠真をよその子だと思ったことはない。

予防接種の記録も、アレルギーの数値も、好きなおかずも寝相も、誰より知っている。

ただ、実の両親が誰なのかは、詳しく聞かなかった。亡くなった家族の話をするのは恭介につらいだろうし、悠真の傷にも触れると思っていたからだ。

恭介が実の父親であるはずがない。

「混入の可能性は?」

「陰性コントロールに異常はありません」

「バーコードの照合は?」

「受付時の映像と、前処理のログまで確認しました」

直樹の返答には、ためらいがなかった。

それがかえって、紗月の喉を締めつけた。

結果画面を拡大する。15か所のSTR座位が、1行ずつ噛み合っていた。

偶然や機器の不具合では説明のつかない並びだった。

それでも、まだ結論は出せない。

科学者は、疑いを証明と取り違えない。

紗月は机の角に指先を押しつけた。爪の下が白くなる。

胸の中では、何百もの問いが一斉に湧き上がっていた。けれど口にした途端、すべてが事実になってしまう気がした。

今必要なのは、夫の顔でも言い訳でもない。

もう一度、同じ結果が出るか確かめることだ。

「生データをロックして」

「はい?」

「この件にアクセスできるのは、私と三浦さんだけ。自動バックアップも全部保存して」

紗月は立ち上がった。

膝が固まったようで、うまく動かない。それでも声だけは、いつもと変わらなかった。

「残っている検体は、すべて廃棄保留。新しい検体でやり直す」

「所長、結果に何か問題が……」

「まだわからない」

紗月は画面の2つの名前を、まっすぐ見つめた。

水瀬恭介。

水瀬悠真。

夫と、息子。

結婚するときに水瀬の姓を選んだ夫と、3年前に同じ姓になった息子。

法律上だけのつながりだと思っていた2人は、紗月が家族になるよりずっと前から、血でつながっていた。

紗月は短く告げた。

「もう一度、検査して」

* * *

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第1話 99.99%
水瀬紗月は、数字を信じていた。人は嘘をつく。けれど、塩基配列は嘘をつかない。だから母の葬儀を終えた翌日も出勤したし、5度目の体外受精が失敗に終わった週も、検査報告書の確認を続けた。モニターに浮かんだ数字を信じられなかったのは、その日が初めてだった。【父権肯定確率 99.99%】紗月はマウスから手を離した。検体番号を、もう一度確かめる。P-260817-03。水瀬恭介。C-260817-01。水瀬悠真。見間違えるはずのない名前だった。「所長?」向かいに立つ分析チームの責任者、三浦直樹が、ためらいがちに呼びかけた。紗月は答えなかった。画面上部の依頼目的から、もう一度読み直す。希少血液疾患に関する家族遺伝子パネル検査。患児、水瀬悠真。法定代理人、水瀬紗月。父親側検体、水瀬恭介。悠真の血液検査で原因のわからない異常が見つかったのは、1週間前だった。治療方針を決めるには、両親の検体との比較が必要だった。東京の遺伝子解析センター、GENE ONEで所長を務める紗月は、利益相反を避けるため、受付から解析まで別のチームに任せていた。自分が行うのは、最後の承認だけ。そのつもりだった。その最後の画面に、ありえない結果が出ている。悠真は、養子のはずだった。恭介の従兄とその妻が相次いで亡くなり、ひとり残された子だと聞いていた。4歳だった悠真を家に迎えて、もう3年になる。初めて会った悠真は、見知らぬ児童養護施設の相談室で、泣きもしなかった。小さなスニーカーのつま先を見つめていた子が、紗月の差し出した指を、ぎゅっと握った。その夜、寝ぼけた声で初めて「ママ」と呼ばれた。紗月はトイレに隠れ、声を殺して泣いた。自分が産めなかった命を愛してもいい。そう許されたような気がした。それから一度も、悠真をよその子だと思ったことはない。予防接種の記録も、アレルギーの数値も、好きなおかずも寝相も、誰より知っている。ただ、実の両親が誰なのかは、詳しく聞かなかった。亡くなった家族の話をするのは恭介につらいだろうし、悠真の傷にも触れると思っていたからだ。恭介が実の父親であるはずがない。「混入の可能性は?」「陰性コントロールに異常はありません」「バーコードの照合は?」「受付時の映像と、前処理のログまで確認しました」直樹の返答には、ためらいがなかった。それ
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第2話 3度の検査
2度目の検体は、病院の採血室で採取した。水瀬紗月は、自分では一切触れなかった。担当の看護師が恭介と悠真の本人確認を行い、それぞれの採血管にバーコードを貼る。その過程を最初から最後まで撮影した。恭介は何も知らない顔で、同意書に署名した。「この前のじゃ、足りなかった?」「結果を確認する必要があるの」「そっか。それなら何度でもやろう」むしろ悠真の腕をさすりながら、冗談まで言った。「パパと一緒なら、怖くないだろ?」「パパのほうが怖がってるじゃん」悠真がくすくす笑う。2人の間で交わされる、いつものやり取り。紗月は顔をそらした。恭介は一瞬たりとも、検査を避けようとしなかった。結果を知らないからなのか。それとも、ばれない自信があるのか。判断がつかなかった。装置も変えた。最初の検査にはGENE ONEの2号機を使ったが、再検査には外部精度管理用に使用していた4号機を使った。解析担当には、最初の結果を知らない別チームの研究員を指名した。3時間後。【父権肯定確率 99.99%】紗月は画面を閉じなかった。「もう一度」今度は口腔粘膜の細胞を採取した。血液とはまったく異なる検体だ。同じように封印した検体を、外部の認定検査機関にも送った。夜11時を過ぎて、3度目の結果が届いた。【父権肯定確率 99.99%】3度とも、同じ数値だった。もう機器のせいにはできなかった。外部機関からは、父子関係は排除されないとの一次所見とともに、生データも届いていた。GENE ONEの結果と、各座位の値まで一致している。検体を取り違えたというのなら、2つの機関が、まったく同じ取り違えをしたことになる。そんな偶然は、ありえなかった。「所長」直樹が紙コップを差し出した。水が半分ほど入っている。「大丈夫ですか」紗月は受け取らなかった。「アクセス履歴を出して。検体を受け取った人、解析した人、承認した人まで、全員分」「わかりました」「今日見たことは、口外しないで」直樹は硬い表情でうなずいた。紗月はスマートフォンを手に取った。お気に入りの一番上に、その名前がある。水瀬恭介。通話ボタンの上で、指が止まった。電話をかけたら、彼は何と言うだろう。驚いたふりをするだろうか。検査がおかしいと怒るだろうか。それとも従兄の子ではなく、自分の子だと打ち
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第3話 亡くなったはずの母親
養子縁組の書類は、寝室の金庫の一番下に入っていた。恭介が出勤したあと、紗月は金庫を開けた。縁組のときに何十回も読んだ書類だ。それなのに、1枚目から見知らぬものに思えた。悠真の生母は、高橋由紀。恭介の従兄、榊俊介と事実婚の関係にあり、悠真が2歳のときに交通事故で亡くなったと書かれていた。さらに2年後、俊介も急性心筋梗塞で亡くなり、悠真は施設に預けられることになったという説明だった。紗月は、その話を疑わなかった。亡くなった人の事情を根掘り葉掘り聞くのは、残酷だと思っていた。養子の相談をしていたときも、恭介は書類を自分がまとめると言って、紗月を手続きから遠ざけた。5度目の体外受精のあとで、まだ体が回復していなかった時期だ。「紗月は、悠真の心を開いてやって」気遣いだと信じていた言葉が、今は支配に聞こえた。紗月は書類を1枚ずつ撮影した。出生証明書、死亡を証明する書類の写し、親族関係の申述書、縁組の書類作成に関わった司法書士の確認書。3枚目で、手が止まった。【生母側の連絡可能な親族:相沢玲奈】続柄は「母方のいとこ」となっている。恭介の秘書、相沢玲奈。養子縁組の際に何度か顔を見せた理由を、恭介は、会社の用事と一緒に手伝ってくれているのだと説明していた。玲奈も、高橋由紀とは遠縁だから書類を手伝っているだけだと言った。紗月はあのとき、お礼まで言った。スマートフォンで、悠真が生まれた年の会社の写真を探した。その前年も翌年も、創立記念式典では必ず恭介のすぐ後ろに玲奈が立っている。ところが、出産の前後6か月間に限って、どの写真にも姿がなかった。会社のホームページには、古い人事のお知らせも残っていた。【秘書室・相沢玲奈 私事都合により休職】休職開始日は、悠真の出産予定日の5か月前。復職日は、出産の6週間後だった。紗月は悠真の法定代理人として、本人の新生児期の診療記録と退院時のサマリーを請求した。産婦本人の診療記録は開示されなかったが、悠真の記録には、出生時の保護者の連絡先が残っていた。産婦の名前は伏せられていた。けれど、電話番号の末尾4桁は見えた。4721。相沢玲奈が、今も使っている番号だった。会社の連絡網、先月の宅配便の伝票、恭介が登録している緊急連絡先を順に開く。すべて、末尾は4721だった。共有カレンダーも7年前
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第4話 母親も、99.99%
相沢玲奈は、約束の20分前に到着した。きちんとしたベージュのスーツに、低いヒール。いつも恭介の一歩後ろに控えていた姿と、何ひとつ変わらない。「所長。悠真くんは、大丈夫なんですよね?」心配そうな表情まで、自然だった。紗月は相談室の向かいの席を示した。「座ってください」テーブルには、遺伝カウンセリングの同意書が置かれていた。悠真の疾患に関わる可能性のある遺伝的要因が母系から受け継がれたものかを調べるには、養子縁組の記録で「生母の母方のいとこ」とされている玲奈の検体が役立つ。その説明も添えた。嘘はついていない。「私でお役に立てるなら、もちろん」玲奈はペンを手にしたが、同意書の途中でふと動きを止めた。【家族関係の確認に伴い、予期しない生物学的血縁関係が判明する場合があります】「こういうことも、わかるんですか?」「家族の検査ですから」紗月の返事は穏やかだった。玲奈が唇を湿らせる。それでも断れなかった。自分が高橋由紀のいとこだと、署名したのだから。「悠真くんの治療に、必要なんですよね?」「ええ」紗月は玲奈から目をそらさなかった。「生母側の病歴で、ご存じのことがあれば教えてください。高橋由紀さんに、貧血や出血に関わる病気はありましたか?」玲奈の手の中で、ペンがほんの一瞬止まった。「それは……ずいぶん前のことなので、よく覚えていなくて」「出産のときも、病院にいましたよね?」「書類の関係で、少しだけ行ったと思います」用意していたかのような、滑らかな返答。ただ、指先が紙を強く押さえていた。ようやく玲奈は、自分の名前を書いた。検体の採取と解析は、外部の認定検査機関に任せた。玲奈は本人確認を受けたあと、予期せぬ直系血縁関係が判明する可能性があるという項目まで読んで署名した。採取から封印、輸送に至るまで、その過程は映像と引継記録に残された。翌日の午後、暗号化された報告書が届いた。紗月はドアに鍵をかけ、ファイルを開いた。【母権肯定確率 99.99%】相沢玲奈。水瀬悠真。その下には、数十もの遺伝マーカーが、少しの食い違いもなく並んでいた。紗月はモニターを見つめたまま、息の仕方を忘れた。恭介と玲奈の間に生まれた子。その子を、私の養子にした。毎朝ご飯を食べさせ、熱を出せば一晩中抱き、幼稚園の初日には送り届けたあと、ひ
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第5話 5度の体外受精
紗月は寝室のクローゼットの一番上から、古い書類封筒を取り出した。【不妊治療関係】恭介が自分で書いて貼ったラベルだった。封筒の中には、胚の写真と処方箋、診療費の領収書が日付順に整理されていた。一番下にあった、最初の胚の写真を手に取る。小さく丸い、4つの細胞。あの頃は、写真を見るだけで胸が高鳴った。まだ着床もしていない細胞に名前をつけ、お腹をなでながら「ママ、待ってるよ」と囁いた。最初の体外受精に向けて、毎日同じ時間にお腹へ注射をした。針を刺す場所がなくなるほど痣が広がると、恭介が薬の瓶を手のひらで温めてくれた。「もう少しだけ、頑張ろう」自分の体が、夫婦の希望を阻む障害物になってしまったかのように、紗月は歯を食いしばった。1度目は、着床しなかった。2度目は、血液検査の数値が上がったのに、3日で下がった。3度目は、採卵後に腹水がたまり、救急外来へ運ばれた。4度目には、妊娠を確認する診断書まで受け取った。恭介は泣きながら、紗月を抱きしめた。けれど妊娠8週の超音波検査で、心拍は止まっていた。流産のあと、紗月は病院の駐車場で、40分間も車のドアを開けられなかった。恭介も助手席で一緒に泣いた。その夜には、もう治療を終わりにしようと言って、残っていた注射薬をすべて片づけた。ところが1週間後、彼は新生児用の靴下の写真を送ってきた。【いつか、僕たちにも】結局、先に口にしたのは紗月だった。「もう一度だけ、やってみよう」今になって思えば、彼が待っていた答えだった。5度目は、着床さえしなかった。「ごめん、紗月。全部、僕のせいだ」恭介はいつも、もうやめようと言ったあとで、紗月が再び希望を抱くような言葉をこぼした。最後に選んだのは、いつも彼女ということになった。諦められなかったのも、5度目の治療を始めたのも、紗月だった。胚の写真を置き、診断書を広げた。【診断名:非閉塞性無精子症】担当医の印と病院のロゴ、証明書の発行番号までそろった書類だった。結婚直後、恭介がひとりで検査を受け、持ち帰ってきたものだ。「自然妊娠は難しいって。でも、手術で精子を見つけられる可能性はあるらしい」不妊治療クリニックでは、恭介があらかじめ保存していたという凍結検体を使い、顕微授精を行った。精巣の組織から、やっとのことで採れた精子なのだと彼は説明した
last updateLast Updated : 2026-09-17
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第6話 偽の診断書
「書類が本物かどうかだけ、確認していただければ結構です」紗月は診断書の写しと発行番号を、病院の証明書担当者へ送った。恭介の詳しい診療記録は、本人の同意なしでは受け取れない。けれど、その番号で書類を発行したかどうか、書式や印影が当時の病院のものと一致するかどうかは、確認してもらえた。30分後、返答が届いた。【当院の発行した文書ではありません。記載された発行番号には使用履歴がなく、発行日当時の印章様式とも異なります】担当者は、記載された医師が、その日付より3年も前に退職していることも付け加えた。紗月は返答を保存し、不妊治療クリニックへ、夫婦の治療に関する記録を請求した。自分の採卵や胚移植に関わる、閲覧可能な資料だった。6年前の初診票からめくっていた手が、止まる。【男性側要因:特記事項なし】【精液検査:正常範囲】【検体種別:通常採取後に凍結】手術で得た精子だという記載は、1行もなかった。初診の日、恭介は恥ずかしいからと言って紗月より先に診察室へ入り、他院の診断書を提出したと話していた。その後も、男性側の検査は自分で進めると言って、結果の説明までひとりで受けていた。紗月はホルモン値と卵胞の数、麻酔の同意書のことばかり考えていた。培養室で恭介の検体は正常だと説明されたときも、手術で得た貴重な精子が、無事に生き残ってくれたのだと受け取っていた。信じたいように、聞いていたのだ。けれど、記録は違った。恭介は最初から、正常な検体を提出していた。紗月は5度の治療費と薬代、休職によって失った収入を合計した。2,000万円近かった。大半は、母が遺した金融資産から支払われていた。嘘が奪ったのは、体と時間だけではなかった。「もしもし、真帆?」紗月は、大学時代の友人で、家事事件と財産に関する事件を扱う弁護士、橘真帆に電話をかけた。「相談したいことがあるの。離婚だけじゃなくて、文書偽造や財産の問題まで見てくれる人が必要で」真帆は理由を尋ねるより先に、事務所の住所を送ってきた。その日の午後、紗月はDNA鑑定の結果、養子縁組の書類、偽の診断書に関する資料を、順に並べた。真帆は最後の報告書を閉じてから、眼鏡を外した。「紗月。今から、ご主人には何も気づいてないふりをして」「そのつもり」「夫婦の財産、相続した財産、保険、借金。全部調べないと
last updateLast Updated : 2026-09-17
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第7話 1億5,000万円
真帆が最初に指示したのは、不動産の登記事項証明書を取ることだった。「相続した財産は、原則としてあなた個人のものよ。でも、根抵当が設定されていたり、保証に使われていたりしたら、話は別」紗月は、母から受け継いだテナントビルの所在地を入力した。母が生涯営んできた薬局を取り壊し、その跡に建てたビルだった。結婚するときにも、母は念を押した。「誰の妻になっても、この建物はあなたの名前で守りなさい」登記の情報が表示された瞬間、見知らぬ1行が目に刺さった。【根抵当権設定】【極度額 180,000,000円】【債務者 水瀬紗月】マウスを動かせなかった。「何、これ……」真帆が隣へ来た。「まず、実際にいくら借りられているか見よう」開示された個人信用情報には、1億5,000万円の不動産担保ローンが記録されていた。融資実行日は、3年5か月前。悠真を養子に迎える4か月前だった。紗月は、その日の予定を検索した。午前8時、採卵。午後1時、回復室を退出。午後4時、帰宅。5度目の体外受精のため、静脈麻酔を受けた日だった。融資の書類には、本人が銀行へ出向いて担保提供の意思を確認し、恭介を代理人に指定したと記載されていた。「私はあの日、銀行になんて行けなかった」真帆はすぐに、契約書の原本と本人確認資料、電子記録の保存を求める内容証明郵便を作成した。紗月も、自分名義の金融取引について異議を申し立てた。翌日受け取った写しには、水瀬紗月の名前があった。署名は似ていた。実印も押されている。委任状には、代理人として恭介の名前が記載されていた。けれど紗月は、そんな委任状を書いたことがなかった。「署名の最後を見て」自分で書いた治療の同意書を、隣に広げる。「私は名前の最後を少し上に払うの。これは、下へ折れてる」「間違いない?」「自分の名前よ。35年、書いてきたんだから」印鑑登録証明書の発行日は、採卵の2日前だった。発行窓口は、恭介の会社の近くにある区の出張所。その日、紗月は治療前の検査で、朝から病院にいた。診療記録も位置情報も残っている。契約書の末尾には、本人確認映像の静止画が添付されていた。マスクと帽子で顔を隠した女は、体格こそ似ていたが、紗月ではなかった。銀行は当初、本人確認は適切に行ったとの回答を繰り返した。真帆が入院記録と融資の時
last updateLast Updated : 2026-09-17
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第8話 私の名前で借りた金
1億5,000万円は、痕跡を残していた。恭介は金を複数の口座に分けたが、その痕跡まで消すことはできなかった。真帆が紹介した会計士は、紗月名義の融資口座の出金履歴と公開されている法人情報を照合し、金の流れを図にした。1億5,000万円のうち、8,000万円は恭介の会社の運転資金に入っていた。恭介が、外部からの出資を取りつけたと自慢していた、ちょうどその頃だ。3,000万円は、医療機器の輸入契約の保証金に使われた。2,000万円は、玲奈名義のマンションの購入資金に消えていた。残る2,000万円は、玲奈が代表を務めるペーパーカンパニーを経由し、恭介の個人口座に戻っていた。「結婚生活を続けたかったわけじゃないのね」真帆が資料を置いた。「あなたの財産で会社を救って、玲奈の財産を作って、悠真くんをあなたの法律上の子にした。離婚することになっても、子供を前に出せば財産に手を伸ばせる。そういう形を作っていたんだわ」真帆はテーブルの資料を、3つに分けた。実の親子関係を隠した記録。虚偽の養子縁組の資料。紗月名義の融資書類。別々に見れば、それぞれ異なる裏切りと犯罪だった。日付をそろえると、ひとつの計画につながった。結婚前から玲奈と関係を持ち、悠真が生まれたあとで紗月に近づいた。不妊だという嘘で罪悪感を植えつけ、妊娠できなかった妻に、自分の子供を救いのように差し出した。養子縁組が終われば、子供を理由に財産の移転を求める。その前には、担保融資まで引き出していた。日付を並べるだけで、6年の結婚生活が、ひとつの計画に見えた。「仮差押えを申し立てたら、向こうも気づくよ」「わかってる」「会社の口座を全部押さえるのは難しい。あなた名義の借入金が流れた範囲と、玲奈の財産から特定する。銀行には追加の融資を止めるよう求めて、ビルについても処分を防ぐ保全措置を検討する」仮差押えの対象には、玲奈名義のマンションと、恭介の会社が持つ一部の売掛債権が含まれていた。犯罪に使われた金がさらに分散する前に、裁判所へ示す資料を徹夜でまとめると、真帆は言った。紗月は書類の最後に署名した。今度の署名は、最後の線がはっきり上を向いていた。「刑事告訴は、証拠の保全が済んでから。それまでは、スマホや帳簿を処分される可能性がある」「10日後に、親族の集まりがあるの」「お義
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第9話 それでも夫は優しい
仮差押えを申し立てても、家の中は変わらなかった。恭介は毎朝、紗月のコーヒーを淹れた。出勤前には悠真の額にキスをした。週末に使う食材を注文し、洗濯機を回したあとは、紗月のシャツだけ皺にならないよう先に取り出して干した。夜になれば、3人で同じ食卓を囲んだ。傍から見れば、非の打ちどころのない夫だった。結婚してから紗月が最もよく聞いた言葉も、そういうものだった。「恭介さんみたいな人、なかなかいないわよ」友人や親戚は、子供を養子に迎えた彼の決断まで褒めた。そのたびに恭介は控えめに笑い、すべて紗月のおかげだと言った。「うちの妻のほうが、ずっと立派ですよ」その一言で、彼は誰よりもいい夫になった。「今日はセンター、どうだった?」「いつもと同じ」「悠真の検査結果は、いつ出るの?」「追加の解析中」紗月の返事が短くなるほど、恭介は優しくなった。「最近、気が張り詰めてるみたいだね。マッサージでも予約しようか」背後から、紗月の肩を抱く。慣れ親しんだ香水の匂いがした。かつては、その腕の中に入るだけで、心配事が全部消えた。今は、彼の手が真っ先に目に入る。偽造した委任状に、自分の名前を書いた手。麻酔から覚めた自分にお粥を食べさせながら、その日に実行された1億5,000万円の融資を隠していた手。「大丈夫」紗月は自然に身を離した。恭介は、寂しそうな顔さえしなかった。代わりに、冷蔵庫から果物を出して皮をむき始める。「父さんの古希のお祝いに流す動画だけど、僕の古いスマホに家族の写真がたくさん入ってるんだ。暗証番号は紗月の誕生日。時間があったら、選んでくれない?」恭介は引き出しから電源の切れたスマートフォンを出し、充電器と一緒に渡した。自分の写真やメッセージが残った端末を、ためらいもなく預けてくる。その態度さえ、計算ずくの信頼に見えた。紗月が何を疑い得るのか、想像すらしたことのない人間の余裕だった。「わかった」彼は疑わなかった。紗月は今も、自分の言うとおりに動くと確信していた。夜が更けると、恭介は先に眠った。紗月はベッドの端に座り、その顔を見た。安らかな寝顔だった。玲奈と悠真の関係を隠し、妻の体と財産を利用した男に、罪悪感で眠れずにいた痕跡などなかった。紗月は同じベッドに横になり、天井だけを見つめた。夫の息が背中に触れるたび
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第10話 ママと呼ぶ子
悠真の追加診察の日、紗月は自分で学校まで迎えに行った。悠真は車に乗り込むなり、連絡帳を差し出した。「ママ、書き取り、100点だった!」「すごいね」「先生が、おうちの人にサインしてもらってきてって」紗月は助手席の収納からペンを取り出した。紙の下に、自分の名前を一文字ずつ、はっきりと書いた。水瀬紗月。誰にも代わりに書かせない、自分の名前だった。病院では、悠真の状態は今すぐ危険なものではないと説明された。特定の遺伝子変異が見つかったものの、定期的に血液の数値を確認すれば、治療の時期を判断できる。担当教授は、実の両親の病歴もそろえば、見通しを立てる助けになると付け加えた。紗月は、親子関係に関する資料と、治療の記録を分けて管理してほしいと頼んだ。子供の病気を、大人同士の争いに巻き込みたくなかった。「ママ。ぼく、大変な病気なの?」診察室を出ながら、悠真が聞いた。「大丈夫。ママと一緒に、ちゃんと病院に通おうね」「また注射する?」「必要だったらね」悠真は口を尖らせたあと、紗月の手を握った。「ママも、注射いっぱいしたんだよね」紗月の足が止まった。「パパが言ってた。ママはぼくに会うために、痛いのも我慢したんだって」恭介は、自分の嘘が作った傷まで母の愛の証しに変えて、子供に聞かせていた。紗月は膝を折り、悠真と目を合わせた。「悠真。ママが痛い思いをしたのは、悠真のせいじゃないよ」「知ってるよ。ぼく、そのときはママのこと知らなかったもん」悠真は当然のように笑った。紗月はようやく、息を吐くことができた。病院の近くのカフェで、悠真はいちごミルクを飲みながら、家族の絵を描いた。パパとママと自分を並べて描き、3人の手を長く伸ばしてつなぐ。「玲奈おばちゃんも描こうかな」紗月のペン先が止まった。「どうして?」「ぼくがちっちゃいときから知ってるんだって。パパの会社で、ぼくにいちばん会いたいんだって言ってた」「そうなんだ」「でも、ぼくはママがいちばん好き」「どうして?」「ぼくが寝てるときに吐いても、逃げないもん。パパは、くさいって言って、まずタオル取りに行くでしょ」たいしたことではないように言って、悠真はいちごミルクを飲んだ。家族は、遺伝子の数字だけで決まるものではなかった。だからといって、誰かの嘘で無理やり作っていい関係で
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