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第3話

Author: 西野翠夏
時哉からは、藪蛇になるから下手に動くなと言われていたが、妻として、夫が他の女を抱きしめているのを見て無関心でいられるほうがおかしい。

真夕はスーツケースを引きながら、ヒールを鳴らして大股で近づいた。

今日はロングコートを羽織り、黒髪はすっきりとしたポニーテールにまとめている。耳元には、シンプルながら品のある宝石のイヤリングをつけている。白いシャツに黒のパンツを合わせた姿は、見るからに凛としている。

歩くたびにコートの裾が翻り、その下からすらりと伸びた脚がのぞく。

全体的に隙がなく、威圧感さえ漂うその装いは、こういう修羅場にはうってつけだ。

真夕がすぐそばまで来て、ようやく京介がその存在に気づいた。

京介は一瞬、驚いたが、すぐに平静を取り戻し、何事もなかったように茉優から離れ、笑みを浮かべる。「真夕……」

パァン!

真夕はためらいなく手を振り上げ、京介の頬を思いきりひっぱたいた。

渾身の力を込めて叩いたせいで、京介の頬にはあっという間に真っ赤な手形が浮かび上がる。

「京介!」

茉優が悲鳴を上げ、眉間にシワを寄せて真夕を睨みつける。いけしゃあしゃあと真夕を非難する。「何するの!」

「何するのって?」真夕は冷ややかな笑みを浮かべて茉優をねめつける。

「そこの愛人さん。あなたがぎゅっと抱きしめていた男は、私の夫なんだけど?それを見て私が何をするって?もちろん、不倫現場を押さえに来たに決まってるじゃない!」

声はそれほど大きくなかったが、周囲を行き交う人々の耳に届くには十分だ。

何人もの人がこちらを振り返り、茉優を見る目には、あからさまな冷たさが宿っている。

愛しい人の名誉が傷つくのを黙って見ていられるはずもなく、京介は顔をしかめて真夕を叱るように言う。

「馬鹿なことを言うな!こちらは里中茉優。俺の幼なじみだ。今日はお前を迎えに来たんだが、ちょうど彼女が帰国する日でな。何年も会ってなかったから、再会の挨拶でハグをしただけだ」

茉優の立場を守るためか、声のトーンは普段より一段高くなっている。周囲の人間に聞かせるためだ。愛する女が愛人だと誤解されるわけにはいかない。

真夕はスマホを掲げて見せる。「二人が抱き合ってるところ、動画に撮ってあるけど、これをネットに載せて、本当に『再会の挨拶』なのかどうか、見てもらおうか?」

茉優は赤いワンピースに身を包み、完璧なメイクを施し、長い髪をゆるく巻き、肩にかけている。華やかで、それでいて堂々としている。

彼女はすでに冷静さを取り戻し、悪びれる様子もなく真っ直ぐに真夕を見据える。

「私と京介は、なんといっても幼なじみなの。久しぶりに会ったんだから、つい感情が高ぶってしまったの。

それに、私は京介を兄のように思っているし、彼も私を妹のように可愛がってくれてる。

京介と結婚したんだから、これくらいで目くじら立てないでよね。早く慣れたほうがいいんじゃない?ねえ、京介?」

そう言いながら、茉優は親しげに京介の腕に両手を絡め、にっこりとこちらに微笑みかける。

京介は小さくうなずき、何気ないふりをしながら真夕の様子をうかがっている。

「ふーん、そういうことね」真夕は腑に落ちたような顔をし、声からも、先ほどまでの鋭さが少しずつ消えていく。口元には笑みさえ浮かび、いつもの穏やかで従順な妻に戻ったように見える。

それを見て、京介も少し気を緩めた。「誤解だと分かったなら、茉優ちゃんに謝ってくれ」

いいとも悪いとも言わず、真夕は一歩前に出ると、京介の顔を両手で包み込んだ。

京介は何も疑わなかった。真夕が自分を抱きしめるのだと思った。

きっと、さっき叩いたことを後悔したのだろう。

なにしろ、真夕は彼をどうしようもないほど、深く愛しているのだから。

だが次の瞬間。

――パァン!

乾いた音が響き、今度は京介の右頬に、真っ赤な手形が浮かび上がる。

真夕は痺れた手を軽く振りながら、京介の顔をまじまじと見つめる。

これで左右対称になった。すっきりした。

ずっと胸につかえていたモヤモヤがようやく晴れ、真夕は笑った。思わず目を奪われるような笑みだ。

茉優の笑顔が怒りに変わる。「頭おかしいんじゃないの!?」

今度は真夕が、にこやかに茉優を見つめた。

「確かにあなたは京介の幼なじみかもしれないけど、私と京介はれっきとした夫婦よ。

そっちこそ覚悟して、早く慣れたほうがいいんじゃない。

これ以上、身のほどもわきまえずになれなれしくするなら、節度ってもんを教えてあげるから」

一方、京介は完全に呆気に取られている。真夕の力は強く、手加減など一切なかった。

耳鳴りが止まらず、何千匹もの蚊が耳元で飛んでいるかのようだ。口の中には鉄のような味が広がっている。

京介にとって、真夕はいつだって穏やかで優しい女だった。自分の家族からどれだけ嫌味を言われても、声を荒らげることすらなかった。

ましてや、人に手を上げるなど……

驚きが去ると、次に込み上げてきたのは怒りだ。

京介は唇の端を拭い、冷え切った目で真夕を睨みつける。氷のように冷たい声で言う。

「わざわざ仕事を切り上げて、お前を迎えに来たんだ。サプライズとして花まで買ったのに、どうしてそこまで俺を信用できないんだ?」

迎えに来たなどとよく言えたものだ。違う。本当は茉優を迎えに来たのだ。

ただ、真夕が予定を早めて帰ってくるとは思っていなかっただけだ。

そして、あの花……真夕は視線を落とし、京介の手にある花束を見る。

案の定、チューリップだ。

皮肉たっぷりに笑い、静かに問いかける。「わざわざ私のために選んだの?」

「他に誰がいるって言うんだ!」京介は歯を食いしばって怒りを露わにする。

「ふふっ……」

青城市にいたとき、私立探偵に京介と茉優の過去を徹底的に調べさせた。

あの調査結果を見ていなければ、本当に自分のために選んだ花だと勘違いしていたかもしれない。

京介と付き合い始めてからというもの、デートの日も、記念日も、京介が選ぶ花はいつもチューリップだった。

「チューリップって、お前に似てるんだ。穏やかで美しくて、気高くて優雅で……見ていると夢中になる」と、彼はそう言っていた。

嘘つき。チューリップが好きなのは、茉優のほうだ。

京介と茉優は、かつて確かに付き合っていた。しかしその後、何があったのかは知らないが、彼女は京介の兄である篠原京吾(しのはら きょうご)と付き合うようになった。

つまり、茉優は京介の兄の女なのだ。

それでも、京介の茉優への想いが消えることはなかった。

かつて京介は、茉優のために篠原家の庭に自分の手でチューリップを植え、一面を花で埋め尽くしたことさえある。

ところが、その後、茉優が原因で京吾が交通事故に遭い、植物状態になった。

篠原家は茉優を社会的に抹殺しようとしたが、京介は命まで懸けて茉優を庇い、最終的に彼女は海外へ送られた。そして庭のチューリップも、1本残らず引き抜かれたのだ。

だが真夕と結婚して家を出ると、京介はまた新居の庭いっぱいに、チューリップを植えた。

今となっては、チューリップを見るだけで嫌悪感がこみ上げ、匂いを嗅ぐだけで吐き気がする。

多くの人が行き交うこの場で、2度も頬を叩かれたとはいえ、京介は怒りをぶつけるわけにはいかない。

それに、あと3か月だ。その間だけは真夕を宥めすかす必要がある。無事に結婚式を挙げて、祖父の持つ株式を手に入れ、一族の実権を完全に握るのだ。

だから京介はわざとらしくため息をつき、困り果てたような、それでいて甘やかすような口調で真夕の機嫌を取るしかない。

「分かったよ。もうヤキモチを焼くのはやめよう。お前に叩かれたことは気にしてない。だが、茉優ちゃんを誤解したことはちゃんと謝るんだ」

「気にしてない?」真夕はまるで、とんでもない冗談を聞いたように笑い出した。だが、その目は笑っていない。

「京介は気にしなくても、私は気にするの」

「何?」

京介は適当に宥めれば済むと思っていた。真夕は物分かりがよく、何事にも分別のある女だったからだ。

だが、今日の真夕は違う。まるで全身に棘を立てたハリネズミのようだ。

「家庭を持つ男なら、他の女とはちゃんと距離を置くべきじゃないの?

幼なじみだとか、妹だと思ってるだなんて、そんな子供騙しのくだらない言い訳は聞きたくないわ。

本当の妹なの?血が繋がってるの?百歩譲って実の妹だったとしても、もういい大人なんだから、距離感を保つのが普通よ。

血の繋がりもないのに、既婚者の男をなれなれしく抱きしめるなんて……

昔なら、ただの尻軽女。今風に言えば不倫相手とか、愛人ってところね」

茉優の顔から血の気が引いた。先ほどまでの華やかさも、自信も、堂々とした態度も消えている。

周囲の野次馬はどんどん増え、こっそりスマホで撮影している者までいる。

京介の顔もみるみる険しくなった。騒ぎが大きくなり、祖父の耳にでも入ったら元も子もない。

今はまず、真夕を落ち着かせなければ。

そう判断した京介は、ボディガードに目配せをし、周囲の人払いをさせると、真夕へ近づいて、抱きしめようと手を伸ばす。

京介が近づいた瞬間、彼の体から漂う匂いが鼻についた。いつものメンズ香水に、嗅ぎ慣れない女性用香水の匂いが混じり合っている。

鼻を刺すようなその匂いに、真夕は吐き気を覚えた。

「もういい、説明するから……」

「触らないで。臭い、気持ち悪い」真夕は京介を力任せに押し退け、数歩後ずさって距離を取る。

真夕の目に浮かぶあからさまな嫌悪を、京介は見逃さなかった。男としてのプライドもある。ここまで何度も拒絶されれば、さすがに我慢の限界だ。

「真夕!」

二人の男の声が、ほぼ同時に響いた。

一つは京介の冷たく怒りに満ちた怒声で、もう一つは、穏やかで澄んだ声だった。

真夕がその声を聞いて振り向くと、そこにいたのは時哉だった。

スーツケースを引いているところを見ると、飛行機を降りたばかりなのだろう。黒のオーダーメイドスーツに身を包み、すらりと長い脚が伸びている。

端正な鼻筋の上には、細い金縁の眼鏡がかかっている。物腰は柔らかいのに、どこか近寄りがたいほどの気品が漂っている。

時哉はそのまま真夕のところまで歩いてくると、身をかがめ、軽く真夕を抱きしめた。

「久しぶりだな、真夕」

今のやり取りを見ていたからこそ、わざと抱きしめてくれたのだろう。

真夕は心の中で、そっと感謝した。

「久しぶり、時哉」

男というものは、愛していなくても、自分のものに他の男が触れるのを嫌がるらしい。

ましてや、ついさっき真夕から拒絶されたばかりの京介にとっては、なおさらだ。

腹の底では煮えくり返っていたが、長年ビジネスの世界で揉まれてきただけあって、表情には一切出さない。

「相馬先生と知り合いだなんて、初耳だな」

真夕は意味ありげに笑う。「誰にだって、秘密の一つや二つあるものよ」

そう言いながら、一瞬だけ茉優へ視線を滑らせた。

京介は目を細め、何も言わず、探るような視線で真夕をじっと見つめている。

だが、真夕は気にしない。時哉へ向き直る。「ちょうど相談したいことがあるの。一緒に行こう」

時哉に向ける真夕の態度は、先ほどまでとはまるで違っていた。柔らかく従順で、まるで鋭い爪を隠したきれいな猫のようだ。

そんな露骨な態度の違いに、京介は胸がざわざわして落ち着かない。何かが制御できなくなりそうな苛立ちを覚えた。

真夕の知り合いなら、京介は全員知っていると信じて疑わなかった。

いったい、いつから時哉と知り合いになったのか……

真夕が時哉と一緒に立ち去ろうとしている。

このまま行かせるわけにはいかない。京介はこめかみを押さえ、追いかけようと足を踏み出した。

「真夕!」

その瞬間、茉優は激しい憎しみを覚えた。

そもそも、昔京介が真夕を口説いたのは、茉優への当てつけだった。

もし真夕が身の程もわきまえず、京介の告白を受け入れたりしなければ、自分が嫉妬して、京吾と別れようとすることもなかった。

そうすれば、京吾が事故に遭い、植物状態になることもなかった。

篠原家が自分を憎み、7年もの間、海外へ追いやることもなかったはずだ。

そして、京介が真夕と結婚したのも、彼女の実家が貧しく、後ろ盾もなく、従順で扱いやすかったからだ。

将来自分が帰国したとき、離婚しやすいという理由で選ばれただけなのだ。

茉優は、二人の結婚が京介によって仕組まれたものだと知っている。

それでも、海外にいた7年間、京介が芝居のつもりだったはずの結婚を本物にしてしまい、あの身代わりの女を本気で愛してしまうのではないかと、毎日気が気ではなかった。

だから茉優は探偵を雇い、京介と真夕の姿を密かに撮らせた。

まるで日陰者のように、京介が真夕を大切にする姿や、二人が楽しそうに笑う姿、家族三人で幸せそうに過ごす姿を、こっそりと覗き見ていた。

ハンサムで一途な夫、優しくて美しい妻、利口で可愛い息子、なんて完璧で幸せな家族だ。

茉優は嫉妬で狂いそうだった。

京介は自分のものなのに、京介の隣に立つべきなのも、京介が愛し、大切にするべきなのも、自分だ。

真夕は泥棒だわ。自分の幸せを盗んだ泥棒なの。

だからもうじっとしていられず、一刻も早く帰国したかった。京介のそばに戻って、真夕を追い出し、自分のすべてを取り戻したかったのだ。

茉優は京介の手をそっと掴んだ。顔色は少し青ざめ、不安そうに眉をひそめている。もう片方の手は、まだ目立たないほど膨らんだ腹部へそっと添えられている。

「お腹が、痛い……」

京介が茉優を支えながら顔を上げると、真夕と時哉が立ち去っていく後ろ姿が見えた。

長身で姿勢のいい時哉と、華奢で美しい真夕、並んで歩く姿はひどくお似合いで、それゆえにひどく目障りだ。

京介の苛立ちは、さらに募っていく。胸に重い石を押し込まれたように、息苦しくなる。

「京介……」その様子を見て、茉優の心の中では憎しみと怒りが渦巻いているが、寂しげで傷ついた顔を作る。

「まさか……彼女を好きになったの?」

そう言いながら、茉優の目から涙がこぼれた。誰が見ても、放っておけない姿だ。

真夕と茉優の顔立ちは確かに似ているが、雰囲気はまるで違う。

真夕は水のように優しい。山野に咲く花のように、控えめで、静かに咲いている。

一方の茉優は、まるで真夏の太陽だ。眩しいほど華やかで、見る者の目を奪ってしまう。丹精込めて育てられた赤いバラのように、情熱的で、あざやかだ。

そんな茉優が涙を流す姿を見た瞬間、京介は真夕のことなど忘れ、胸が締めつけられるほど、茉優が愛おしくてたまらない。

「養護施設にいた頃から言ってただろ。俺の花嫁になるのは茉優ちゃんだけだ。一生君を大切にする。

俺はただ、結婚式とじいさんが持っている株に何か問題が起きるのが心配なんだ。余計なことを考えるな。お腹の子に障るぞ」

京介は自ら茉優を、あらかじめ用意していた別荘へ送り届けた。帰り道にかかりつけの医者に連絡を入れ、別荘で待機してもらうよう手配する。

……

一方その頃、真夕と時哉は空港内のカフェに入っていた。

時哉は、これまでの調査の進み具合を真夕に報告する。

京介は国内でも屈指の資産家だ。保有している不動産や株式、預金なども多く、しかも今回は表立って調べるわけにはいかない。

そのため、京介の財産状況を完全に把握するにはもう少し時間がかかるという。

また、海外で進めている調査にも、ある程度の進展はあった。ただ、送られてきた証拠は、手を繋いでいる写真や抱き合っている写真ばかりだ。

キスやホテルでの密会など、より決定的な証拠はまだ見つかっておらず、もう少し時間が必要だ。

真夕は尋ねた。「じゃあ、私はまだ我慢しなきゃいけないの?」

「無理に耐える必要はないさ」時哉は作成済みの離婚協議書を真夕へ送る。「これを、あいつの顔に叩きつけてやればいい」

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