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第3話

Author: まわりまわり
司の視線は、雫を支えている湊の手に注がれ、その表情は陰鬱そのものだった。

かつて雫の母の治療費を負担していたのは司であり、湊も何度か司と顔を合わせたことがある。当然、互いに面識はあった。湊は耐えかねて口を開いた。

「桐生、その言い草はあんまりだ!」

司は雫の腕を引いた。その掌は燃えるように熱い。

「お前には関係ない」

湊がそばにいたからか、あるいは司に対して完全に失望したからか、雫は力を込めてその手を振り払った。はっきりと、噛み締めるように告げる。

「桐生司!」

彼に対して感情を爆発させたのは、これが初めてだった。

「私は五年間、あなたについてきた。まるで犬のように、呼ばれれば行き、払われれば去った。

私が橘怜奈に及ばないのは認めるわ。だったら、ここできれいに別れましょう。今日で終わりよ。

もう関係ないのなら、私がどの男と何をしようが、あなたに止める権利はないはず。もう触らないで!」

雫は目に涙を浮かべながら、当てつけのように湊の手を握り返した。司は彼女を見下ろした。

その瞳は嵐の前の静けさのように暗く、感情が読み取れない。長い沈黙の後、彼は掠れた声で言った。

「それが、お前の本心か?」

雫は顔を上げた。

「そうだ!」

司はしばらく黙っていたが、やがて冷ややかに笑った。

「後悔するなよ。明日から、桐生グループには来るな。クビだ」

雫はこの結末を予想していた。彼に一礼し、湊の手を引いてその場を去った。

どれくらい歩いただろうか。足の力が抜け、その場にしゃがみ込むと、ついに嗚咽が漏れた。湊は視線を落とし、彼女を慰めた。

「雫、泣かないで。おばさんの治療費なら、俺がなんとかするから」

雫は首を横に振った。

「ありがとう。でも、大丈夫。自分でなんとかできる」

彼女にも全くあてがないわけではない。これ以上、借りを増やしたくなかった。湊は少しの間沈黙し、「わかった」と言った。

「家まで送るよ」

雫は自嘲気味に笑った。家に?自分に帰る家なんてあるの?ギャンブル狂の父がいる場所以外は、司が買い与えたあのマンションしかないのに。

雫は首を振った。

「ううん、病院に行こう」

……

病院に着いたのは深夜だった。雫は車の中で、以前から親交のあった投資家に連絡を入れた。

相手は非常に喜び、桐生グループ退職後の入社を即決してくれただけでなく、給与の前払いにも同意してくれた。彼女は胸を撫で下ろした。

車を降りた後、湊に付き添われて母の病室へ向かった。ベッドで眠る母の顔を見て、雫はようやく全身の力が抜けた。

「ありがとう、如月先生」

湊は雫の頭に手を置き、子供の頃のように優しく撫でた。

「お礼なんていらないよ。明日は早番だから、今夜は病院の仮眠室に泊まる。何かあったらすぐにメッセージをくれ」

雫は頷いた。湊が去った後、雫は付き添い用の簡易ベッドに座り、母の髪をゆっくりと撫でた。母のそばにいると、仕事や生活のプレッシャーが一時的に消え去り、疲労感が潮のように押し寄せてきた。

雫は瞼を重くし、あくびを噛み殺すと、簡易ベッドにもたれたまま眠りに落ちた。

しばらくして、湊が毛布を抱えて入ってきた。雫の蒼白で痩せこけた顔を見て、彼はため息をつき、毛布を広げてそっと彼女に掛けた。雫が完全に熟睡しているのを確認してから、彼は病室を出た。

珍しく悪夢も見ず、雫は朝まで眠り続けた。病床のサイドテーブルには、豪華な朝食が並べられていた。目を覚ました雫に、母が笑いかけた。

「全部、湊くんが届けてくれたのよ。あなたが一番好きな店の肉まんだって」

雫は頷いた。

「お母さん、調子はどう?」

「まあまあね、悪くないわ」

母は彼女の手を握った。

「それより、湊くんからプロポーズはまだなの?」

雫は面食らった。

「お母さん、何言ってるの?」

母は笑った。

「隠しても無駄よ。二人は小さい頃から仲が良かったし、彼はあなたのことすごく気にかけてるじゃない。湊くんはいい子よ、逃しちゃだめ。

どうしてもダメなら、既成事実を作っちゃいなさい。彼なら責任を取ってくれるわ!」

雫は眉間を揉み、呆れたように叫んだ。

「お母さん!」

母は眉を顰めた。

「あなたのためを思って言ってるの!女の幸せは、いい男を見つけて結婚することなんだから!」

母の説教は三十分も続き、たまらなくなった雫は仕事を口実に病院から逃げ出した。スマホを取り出すと、湊からラインが入っていた。

【もう少し待ってて。昼ごはんを食べてから送っていくよ】

雫は少し考え、【大丈夫】と返信した。今日は湊の勤務日だ。あまり彼に迷惑をかけたくなかった。

タクシーを拾い、マンションへと向かった。直接荷物をまとめて、別の住処を探すつもりだった。

そこはここ二年で開発されたばかりの高級エリアで、ワンフロアに一世帯という贅沢な作りだ。

雫が玄関前に着くと、ドアが大きく開け放たれていた。自分の私物がまるで廃棄物のように、家の前に放り出されている。

雫は瞳を細め、大股で近づいた。何か言う前に、中から橘怜奈が出てきた。

雫は以前、怜奈に会ったことがあった。五年前、彼女が留学する前に桐生グループに来た時だ。当時、新入社員のインターンだった雫は、怜奈を一目見て「美しい」と思った。

化粧っ気もなく、ブランドのロゴも見当たらない白いワンピースを着ていたが、住む世界が全く違うと感じさせられた。

その時、雫は理解した。なぜ年配の人たちが「育ち」を重視するのかを。人の気品とは、環境が養うものだ。

雫がいくら着飾ったところで、路傍の男たちは彼女を「安っぽい女」としか見ないだろう。

怜奈は雫の荷物を抱え、ゴミのように地面に投げ捨てた。彼女に気づくと、わざとらしく驚いた声を上げた。

「司は今日いないけど……雫さん?どうしてここに?」

雫は冷ややかな笑みを浮かべた。

「私はここに住んでいるの。あなたが捨てているのは、私の荷物よ」

怜奈はさらに驚いた顔をし、困ったように言った。

「え……ここは司が私に住めって言ったの。中の物は好きにしていいって。

見たら安物で古びたものばかりだから、全部捨てようと思って。まさか雫さんのものだったなんて。ごめんなさい」

怜奈は茶目っ気たっぷりにウインクし、明るい口調で言った。そこには微塵の謝罪も含まれていない。

雫は思わず失笑した。お嬢様である怜奈が謝る必要などない。彼女の手を汚さなかっただけ感謝しろ、ということか。

雫はポーカーフェイスを崩さず、冷徹に言い放った。

「橘さん、私は今日、引っ越しの準備に来ただけ」

怜奈は目を瞬かせ、尋ねた。

「手伝いましょうか?」

「結構」

雫はしゃがみ込み、一つ一つ荷物を拾い集めた。彼女自身の荷物は少なく、スーツケース一つで足りた。

残りの大半は、この五年間で司と一緒に買ったペアグッズだったが、今となっては残しておく必要もない。

司が別れ際、最低限の礼儀すら払わなかったから。自分も過去に執着する理由などない。

部屋の中からまだ物が放り出されてくる。その中には、雫が出る前に洗濯して干しておいた下着も含まれていた。

雫はスーツケースを閉じると、一度も振り返ることなく、未練を断ち切ってその場を後にした。

怜奈はドア枠にもたれ、スーツケースを引きずってエレベーターに乗り込む雫を見送り、蔑みの笑みを浮かべた。

怜奈はスマホを取り出し、電話をかけた。甘ったるい声で話す。

「お義母さま!このマンションを譲ってくださってありがとうございます。とても住み心地がいいです」

電話の向こうから、司の母の穏やかな声が聞こえた。

「気に入ってくれてよかったわ。ここ数年、司の奴はそこを別宅代わりにしていたみたいだからね

あなたがそこに住めば、二人の仲も深まるでしょう」

怜奈の顔に羞恥の色が浮かんだ。

「司はまだこのことを知らないんです。彼に内緒だなんて、まずいんじゃ……」

「何を言ってるの?家は私があげたんだから、あの子が文句を言えるわけないでしょう?」

司の母はからかうように言った。

「あなたを『食べちゃう』かもしれないけどね。

怜奈ちゃん、あなただけが、私が認める唯一の嫁なんだから」

一方、雫がエレベーターを降りてマンションの出口に出た瞬間、剛からの電話がまたかかってきた。
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