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第2話

Author: まわりまわり
個室の中は紫煙が立ち込め、酒の臭気が充満していた。雫は男たちの視線を一斉に浴び、針の筵に座らされているようだった。無意識に拳を握りしめる。

金に困っているというだけで、男を釣りに戻ってきたと思われているのだろうか。

彼女はシンプルな黒のキャミソールワンピースを纏っていた。丈は短くないしデザインも控えめだが、そのカッティングは彼女のしなやかな肢体を惜しげもなく強調していた。

司の取り巻きは皆、名士と呼ばれる人間ばかりだ。かつて彼に連れられて社交の場に出た際、その美貌に邪な念を抱く輩もいたが、雫は笑顔で巧みにあしらい、桐生グループとの契約を成立させてきた。

身体的な接触は、すべて自力で回避してきたのだ。だが、司は彼女のそんな苦労など気にも留めていないようだった。

雫が俯いて黙り込んでいると、司が強引に彼女の手を引き、その懐へと抱き寄せた。

グラスが揺れ、数滴の雫が胸元に落ちる。その光景はあまりにも扇情的だった。周囲の男たちは呆気にとられ、喉を鳴らした。

「桐生さん、その秘書、本当に美人だな!この前俺と遊んだモデルより上玉だぞ!囲うのにいくら出したんだ?」

革のジャケットを着て、全身にタトゥーを入れた男が口を開いた。

「怜奈さんが帰ってきたんだ。桐生さんもそろそろ手放すべきだろう」

雫は視線を上げた。かつて橘怜奈を派手に追いかけ回していた西園寺翔(さいおんじ かける)だ。

西園寺グループは帝都でもトップ5に入る財閥だが、家業は兄が継ぐことになっており、彼は放蕩三昧のドラ息子として知られている。

司の友人というわけではないが、桐生グループとはビジネス上の付き合いがあり、西園寺夫婦もこの末っ子を甘やかしている。

司はふと笑みを浮かべ、雫の顎を持ち上げた。

「俺から離れられないのは、こいつの方だ。さっき、何が欲しいと言った?」

雫の体が強張った。反射的に司を突き飛ばしたくなった。自分が望むものは、確かに司なら大抵与えてくれる。だが、いつだって自分が先に頭を下げ、機嫌をとって初めて、彼は施しを与えるのだ。

桐生家と西園寺家の今後の提携には、自分の調整が必要になる。どうせ二人とも自分を見下しているのだ。いっそ演じきって、この話題をやり過ごす方が賢明かもしれない。

彼女は口を開いた。

「西園寺様、乾杯させてください。先日の提携では大変お世話になりました」

雫がそんな言葉を口にするとは誰も思っていなかった。司の瞳が暗く澱む一方、翔は面白そうに眉を跳ね上げた。

「秘書ちゃん、なかなか話がわかるじゃないか」

雫の目が冷ややかに光る。この男たちは、わざと自分の意図を曲解している。翔は酒を一気に煽ると、値踏みするような視線で雫を舐め回した。

「怜奈さんと張り合えるものが、お前にあるのか?」

雫はこの視線を知っていた。グラスを強く握りしめる。蔑み、挑発。誰も彼女が司に相応しいとは思っていないし、司が彼女を一生愛するとも思っていない。

もし雫が自ら司を振ると言っても、誰も信じないだろう。

彼女が口を開く前に、翔は軽蔑したように笑った。

「桐生さん、どうやらこの秘書、お前じゃなきゃダメってわけでもなさそうだぜ。どうせ婚約するんだ。こういう上物は部外者に譲るより、俺に楽しませてくれよ。

俺が代わりに試してやってもいいか?」

この御曹司たちは、表向きは洗練された上流階級だが、その本性は下劣極まりない。演技と分かっていても、雫は吐き気を催した。

言い返そうとした瞬間、司が腰に回していた手をふっと離した。

「好きにしろ」

雫の瞳孔が収縮した。自分を離れさせないくせに、今度は他人にあっさりと譲り渡すのか。

しかし、口座の残高を思い浮かべ、雫は瞬きをしてから、営業用の完璧な微笑みを貼り付けた。演技は慣れている。今更だ。

胃の底からせり上がる嘔吐感を強引に飲み込み、雫は立ち上がって翔の方へ歩き出した。翔は彼女に触れようとはせず、嘲るような目で奔放に見つめてきた。

「安物が」

翔の刺すような嘲笑。だが、雫が本当に気にかけている男は向かいに座り、無関心を貫いている。

雫は胸の痛みに耐え、司と視線を合わせないようにしながら、翔の顔に酒をぶちまけたい衝動を必死に抑え、一杯、また一杯とグラスを空けた。

涙も酒と一緒に腹の底へ流し込んだ。

ボトルを半分ほど空けたところで、雫はグラスをテーブルに叩きつけた。

もう十分だ。苦しみも、もう十分味わった。

その間、どさくさに紛れて体を触ろうとする手があったが、雫はそれを掴んで振り払った。

「西園寺様、社長、疲れましたのでお先に失礼します」

以前から患っている胃が悲鳴を上げている。彼女は腹部を押さえ、ふらつく足取りで部屋を出た。角を曲がったところで、突然、彼女が誰かの手に物陰に引きずり込まれた。

「急いで帰ることはないだろう!さっき自分から来たんだ、西園寺ができるなら、俺だっていいだろう?

どうせ桐生には捨てられたんだ。上に俺専用のスイートをとってある。

今夜俺を満足させれば、ゆっくり休ませてやるよ……」

中年の男の手が雫の頬を撫で回し、鳥肌が立つほどの嫌悪感が走った。

司がいない今、これ以上演じる必要はない。雫は反転し、男の頬を平手打ちした。その男――権田志雄(ごんだ しお)は激昂した。

「ふざけやがって!売女のくせに貞淑ぶるな!調子に乗るのもいい加減にしろ!」

胃の激痛で力が入らない雫は、突き飛ばされて数歩後退し、目が回るような感覚とともに床に倒れ込んだ。

声もなく涙が溢れる。その時、誰かが雫を助け起こした。清涼な声が降ってくる。

「どうしたんですか?」

聞き覚えのある声だったが、今の雫には誰かを確認する余裕もなかった。胃液が逆流し、耐えきれずにその人物の服を掴んだまま嗚咽を漏らした。

夜は何も食べていないため、何も吐き出せなかった。その人物は状況を察したようで、声を低くして権田を睨みつけた。

「これが権田会長の教養ですか?賠償してください」

権田は逆上した。

「俺に金を払えだと?てめぇ、何様のつもりだ――」

男が一歩踏み出した。身長は190センチ近くあり、肩幅は広く、腰は引き締まっていて、体格は酒色に溺れた男より大きかった。

権田も相手が只者ではないと悟ったのか、虚勢を張って罵った。

「キチガイめ!俺の女でもないくせに!こいつは桐生グループの秘書だ。金が欲しいなら、桐生司に請求しに行け!」

足音が慌ただしく遠ざかっていく。雫は安堵し、顔を上げて相手を見た。

「湊?」

如月湊(きさらぎ みなと)は雫の幼馴染であり、現在は母の主治医でもある。記憶の中の彼は、病院で金縁の眼鏡をかけ、患者に慕われる優しく忍耐強い医師だった。

だが今夜の彼は黒のスーツを纏い、眼鏡を外しており、どこか高貴な雰囲気を漂わせていた。そういえば、如月家も帝都で指折りの名家だったことを思い出した。

雫は苦笑し、彼に支えられながらゆっくりと立ち上がった。

「ごめんなさい、如月先生。迷惑をかけたわね」

湊は声を和らげた。

「雫、怪我はない?」

雫の視界が潤んだ。

「私――」

言いかけた時、エレベーターがこの階に到着した。扉がゆっくりと開き、中から司が出てきた。雫がまた別の男と一緒にいるのを見て、彼は冷笑した。

「南雫、乗り換えるのが早いな。もう少し待っていれば、四人目も現れるのか?」
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