INICIAR SESIÓN一方、会社へ入った心愛と暁は、互いに一言も交わさぬまま、そのままエレベーターへ乗り込んだ。先に降りた心愛は、意識して背筋を伸ばし、あえて軽やかな足取りで廊下を進んでいく。まるで、あのマイバッハの車内に満ちていた息苦しい曖昧さと気まずさを、一刻も早く振り切ろうとしているかのようだった。背後でエレベーターの扉が閉まりきった瞬間、彼女はようやく足を止め、深く息を吐き出した。加賀見グループ・デザイン部のオフィスは、普段ならこの時間、朝会の準備で慌ただしく騒がしいはずだった。だが今朝は、異様なほど静かだった。誰もいないわけではない。嵐の到来を前に、無理やり押さえつけられたような、不気味な静寂が空間を覆っていたのだ。心愛が足を踏み入れた瞬間、社員たちの視線が一斉に跳ね上がった。そして彼女と目が合った刹那、まるで感電したかのように、全員が慌てて目を逸らして俯く。空気の中には、探るような視線と、どこか同情めいた湿った冷たさが重く漂っていた。心愛の胸を、不吉な予感が走る。それは冷たい蛇のように、ゆっくりと背骨を這い上がってきた。そのまま真っ直ぐ自分のオフィスへ向かった。その途中、碧のデスクの前を通りかかったところで、ふと足を止める。いつもなら「今サボってます」と顔に書いてあるような小柄なアシスタントが、今日は充血した目でパソコン画面を睨みつけていた。顔は怒りで真っ赤に染まり、奥歯を噛み締め、マウスを握る指先の関節は白く浮き出ている。今にもそのプラスチックの塊を握り潰してしまいそうな勢いだった。「高橋さん?」心愛は彼女の背後へ回り、デスクのパーテーションを軽く叩いた。「どうしたの?朝からそんな怖い顔して。もしかして、また桐生グループから仕様変更の連絡でも来た?」「深水さん!」碧は飛び上がるように驚き、椅子から弾かれたように立ち上がった。勢いよく振り向いた拍子に、机の上のサボテンの置物が倒れる。心愛の姿を見た瞬間、それまで瞳に燃えていた怒りは、一転して狼狽と隠し立てへと変わった。彼女は慌ててディスプレイを閉じようとし、さらには自分の身体で画面を隠そうとする。「な、なんでもありません!その、ちょっと芸能人のスキャンダル記事見てて、腹立っちゃって!ほら、あの……誰でしたっけ、不倫現場を撮られたってニュ
「社長……ひとまず、一度会社へ戻りませんか」助手席に座る隆が、恐る恐る口を開いた。車内には濃い煙草の匂いが立ち込め、空気そのものが押し潰されたように重い。隆はもう、その息苦しさに耐えきれそうになかった。社長は朝から予定されていた公務をすべて放り出し、あろうことか加賀見本社ビルの前で張り込みを続けている。もしこの姿をパパラッチにでも撮られれば、ただでさえ不安定な桐生グループの株価は、さらに暴落しかねない。「黙れ」貴臣の声は、まるで紙やすりで擦ったように嗄れていた。その視線は加賀見本社ビルの正面入口へと貼り付いたまま、微塵も動かない。まるで、自らへの判決が下される瞬間を待っているかのようだった。その時だった。象徴的なブラックとシルバーのツートンカラーを纏ったマイバッハが、静かに車寄せへ滑り込んできた。そして、ビル正面の中央へぴたりと停車する。貴臣の瞳孔が、不意に収縮した。ドアが開く。先に降りてきたのは暁だった。彼は自然な足取りで車の前を回り込み、助手席側へ向かう。貴臣はその男を見つめていた。かつて、自分が最大のライバルだと認めていた男。ビジネスの世界では冷酷無比な手段を取り、男女の駆け引きにおいても、一歩たりとも引こうとしない男だ。暁は助手席のドアを開けた。だが、すぐにはその場を離れなかった。片手を車内ルーフの縁へ添え、降りてくる相手が頭をぶつけないよう、ごく自然に庇ったのだ。続いて、心愛が車から姿を現した。今日の彼女は、アイボリーのパンツスーツを纏っていた。仕立ての良いその装いは、引き締まった立ち姿をいっそう美しく際立たせている。髪は後ろで簡素にまとめられ、白く細い首筋がすっきりと覗いていた。顔色も良い。まだ多少痩せてはいるものの、その全身からは、かつて桐生家にいた頃には決して見られなかった、瑞々しい生命力が溢れていた。その自信。その余裕。そして、大切に愛されて育まれている者だけが纏う光。それらすべてが、貴臣の胸を鋭く刺し貫いた。彼は見た。暁が彼女へ顔を寄せ、何かを低く囁く姿を。その直後、まるで当然のような手慣れた動作で、心愛のビジネスバッグを受け取る姿を。二人は並んで回転ドアへ向かって歩いていく。身体が触れ合うことはない。だが、その間に流れる空
心愛は、あらかじめ用意していた台詞を暗唱するかのように、早口で言葉を吐き出した。「私は、ようやくこの家を手に入れたのよ。物心ついた頃から、どこにいても自分だけが余計な部外者みたいだった。深水家でもそうだったし、桐生家ではなおさらだったわ。でも今は、お父さんもお母さんも、こんなに大切にしてくれている。あなたも……あなたも、私にこんなによくしてくれてる」心愛の声は次第に小さくなり、その奥には隠しきれないかすかな震えが滲み始めていた。「お兄ちゃん、私はこの全部を壊したくないの。ほんの一時の衝動なんかで、この家をぎくしゃくさせたり、バラバラにしたりしたくない。今の私は、ただ必死に働いて、俊輔をちゃんと一人前に育てて、加賀見グループのデザイン部を軌道に乗せたいだけなの。それ以外のことなんて、本当に考える余裕がないし……考えること自体が怖いのよ」それが、彼女の切り札だった。――お願いだから、これ以上私を追い詰めないで。あなたを「お兄ちゃん」として見ること。それだけが、今の私に許された唯一の、安全な距離なの。もしその線を越えようとするなら、私は逃げる。この家を失うことになったら、今の私は耐えられないから。暁は、緊張でわずかに赤く染まった彼女の瞳を見つめた。その奥には、小動物のように張り詰めた警戒と怯えが、ありありと浮かんでいる。まるで誰かに心臓を容赦なく鷲掴みにされたように、胸の奥が甘く、鈍く疼いた。「私がいる限り、この家が壊れることなどない」そう告げてやりたかった。「私ならあなたに、もっと揺るぎない、二人だけの家を与えられる」そう言って抱きしめてやりたかった。だが、それはできなかった。今の心愛は、罠からようやく逃げ出したばかりの狐のようなものだ。わずかな風の音や草の揺れですら、神経を過敏に刺激してしまう。ここで無理に距離を詰めれば、彼女は完全に殻へ閉じこもり、最悪の場合、自分の前から永遠に姿を消してしまうだろう。信号が青へと変わった。後続車が、待ちきれないと言わんばかりにクラクションを鳴らす。暁は静かに視線を前へ戻し、再び車を発進させた。「……分かった」その声は驚くほど穏やかで、感情の起伏はほとんど読み取れなかった。けれど、不思議と人を安心させる静けさだけは確かにあった。「昨
「お母さん、ううん、大丈夫よ!」心愛はグラスをひったくるように掴むと、ジュースを勢いよく喉へ流し込んだ。「タクシーだって便利だし。それに、お兄ちゃんは社長でしょう?私はデザイン部に行くんだから、いくら道すがらとはいえ、一緒に出勤なんて目立ちすぎて……」「何が目立つというの」静香は眉をひそめ、有無を言わせぬ口調で遮った。「加賀見のお嬢様が、加賀見の長男の車で出勤するなんて至極当然のことよ。誰が余計な口を叩くというの。不満があるなら、私のところへ来させなさい」そう言うと、静香は意味ありげな視線を暁へ向けた。「それに、お兄ちゃんが妹の面倒を見るなんて当たり前でしょう?そうよね、暁?」暁は手元のナイフとフォークを静かに置き、一見穏やかでありながら、その実、強い警告と牽制を含んだ静香の視線を受け止めた。彼は聡い男だ。わずか一秒で、母親の眼差しに込められた真意を読み取ってみせる。――私は全部分かったうえで、あえて止めはしない。でも、あなたに節度があるなら、あの子を怯えさせて逃げ出させるような真似だけは絶対にしないで。何より、妹に恥をかかせるような事態は許さないわ。暁の口元が、ごくわずかに弧を描いた。「母さんの言う通りです」彼は立ち上がり、椅子の背に掛けてあったスーツジャケットを手に取ると、なおも必死に抵抗しようとしている心愛を見下ろした。「行くぞ、加賀見グループのデザイナー様。遅刻したら、今月の皆勤手当は全額カットだからな」……マイバッハの車内は、恐ろしいほど静かだった。外界の喧騒は、分厚い防弾ガラスによって完全に遮断されている。車内に残されているのは、エアコンの送風音と、二人の浅い呼吸だけだった。心愛は助手席の奥へ身を縮め、できる限りドア側へ身体を寄せていた。いっそ自分が一枚の紙になって、そのまま窓ガラスに貼り付いて消えてしまえたら――そんなことまで考えてしまう。彼女はひたすら窓の外を眺め続けていた。たとえ目に映るのが、冬枯れたプラタナス並木だけだったとしても、まるでそこに見たこともない花でも咲いているかのように、必死に視線を逸らし続ける。暁は片手でハンドルを握り、もう片方の手をシフトレバーへ気怠げに置いていた。その視線の端は、しかし、自分から距離を取ろうと必死に縮こまっている小さ
朝七時。屋敷のカーテンが、使用人の手によって一枚ずつ丁寧に開けられていく。初冬の淡い陽光がようやくダイニングへ差し込み、磨き上げられたボーンチャイナの食器棚に冷ややかな光を反射させていた。心愛は階段の踊り場に立ち尽くし、滑らかな手すりを強く握り締めていた。手のひらにはじっとりと汗が滲み、木肌を湿らせそうになる。昨夜は、ほとんど眠れなかった。目を閉じれば、暁のあの剥き出しの侵略性を宿した瞳が蘇る。今にも一線を越えそうだった、あの危うい距離感。そして何より致命的だったのは、静香が書斎へ入ってきた、あの瞬間だった。もし以前の桐生家で同じことが起きていたなら、「はしたない」――その一言で断罪され、雅子に正座を命じられ、膝が潰れるまで折檻されていただろう。では、今の加賀見家ではどうなのか。静香はいつだって、実の娘のように自分を可愛がってくれていた。だが今回ばかりは、一族の体面に関わる問題だ。名家において、こうした「誤解を招く関係」は、往々にして最も嫌悪される。心愛は深く息を吸い込み、胸の奥に溜まった淀んだ空気をすべて吐き出すと、どこかぎこちない足取りで階段を下りていった。ダイニングは水を打ったように静まり返っていた。響くのは、食器が触れ合う微かな音だけ。静香は主座の左側に腰掛け、朝刊を広げていた。鼻梁にはチェーン付きの金縁眼鏡。表情はいつになく真剣だ。その向かいには暁が座り、皿の上の目玉焼きをゆっくりと切り分けていた。その所作は、まるで精密な外科手術でも行っているかのように無駄がなく、美しかった。「お母さん……お兄ちゃん、おはよう」心愛の声はわずかに掠れていた。彼女は椅子を引いたが、いつものように暁の隣へは座らなかった。あえて一席分空け、その隣に腰を下ろす。あまりにも露骨で、かえって何かを隠そうとしているのが丸分かりな行動だった。空気が、一瞬だけ凍りついた気がした。心愛は俯き、目の前のお粥と焼き鮭を見つめる。静香からの問い詰めるような視線も、暁からの冷淡な反応も、彼女はすでに覚悟していた。だが、静香から返ってきたのは、拍子抜けするほど軽やかな声だった。「おはよう、起きたのね」彼女は新聞を畳み、眼鏡を外すと、窓から差し込む朝日よりも柔らかな笑みを浮かべた。「早く食べなさい。お
静香はそこまで聞くと、はっとしたように両目を見開いた。顔には、隠しきれない驚愕が浮かんでいる。暁のあの繊細な胃のことは、家族なら誰もが知っていた。普段の食事ですら、料理に唐辛子がひとさじ多いだけで眉をひそめる男だ。その暁が、よりにもよって路地裏の屋台へ足を運んだというのか。「あいつは、心愛のためなら命だって惜しまないさ」正国はそう言って、静かに結論を下した。「旨い話を他人に渡す馬鹿はいない。心愛をあいつに任せるなら、俺だって安心できる。暁が加賀見グループの実権を握っている限り、この名雲市で心愛の前で陰口を叩ける人間など存在しない。誰かが半言でも不満を漏らせば、暁はその相手の飯の種ごと叩き潰すだろう。それこそが、本当の意味での保護だ」部屋の中は、再び静寂に包まれた。静香はクッションを抱き締めたまま、頭の中が粥のようにぐちゃぐちゃに煮崩れていた。理性では理解している。正国の言葉は間違っていない。暁には力があり、手段があり、そして何より、心愛を守り抜こうとする覚悟がある。娘をあいつに託すことは、どこの誰とも知れない男に嫁がせるより、よほど安全だ。それでも、感情だけは、どうしてもその境界を越えられなかった。「でも……」静香は唇を噛み締め、胸の奥に沈んでいた最大の不安を吐き出した。「あなた、暁の気持ちは分かったわ。でも、心愛のほうはどうなの?あの子、ただでさえ繊細なのよ。今は復讐と仕事のことで頭がいっぱいで、恋愛どころじゃないわ。あの子の中で暁は、自分を地獄から救ってくれたお兄ちゃんなの。今日だって、どう見ても暁が強引に迫って、心愛は怯えて逃げ出したようにしか見えなかったのよ」静香は立ち上がり、ベッド脇を落ち着きなく二、三歩行き来した。歩けば歩くほど、胸のざわめきが大きくなっていく。「私たち、やっとあの子を連れ戻せたのよ。今の心愛は、恋愛なんて泥棒でも警戒するみたいに拒絶してる。それなのに暁が無理に距離を詰めたら……もしまた、あの子が逃げ出したらどうするの?桐生家のあの地獄からだって、自力で這い出してきた子よ。追い詰められたら、家出くらい平気でやるわ!」その言葉は、正国の急所を正確に突いた。彼は暁の能力を信頼していた。だが同時に、心愛の頑なさにも手を焼いていた。あの子は見た目こそ柔らかく儚







