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6:小さな一歩

last update Data de publicação: 2026-09-06 13:45:32

 深夜の厨房は広大で、ステンレスの調理台が冷たい光を反射していた。

 透子が照明をつけると、パントリーの奥から宿直の見回り係である初老の男性が顔を出した。

「おや、奥様……? こんな夜更けにどうされましたか。お腹でも空かれましたか? 何か用意させましょうか」

「こんばんは。起こしてしまってごめんなさい。いいえ、少し温かいものが欲しくて。自分で作りますので、厨房をお借りしてもよろしいですか?」

「え、奥様がご自身で? 私どもが何かお持ちしますよ」

「いえ、本当に簡単なものですから、お気遣いなく。道具の場所だけ教えていただければ十分です」

 透子が柔らかく微笑んで頭を下げると、老人は恐縮しながらも冷蔵庫と出汁用の乾物が保管されている棚の場所を教えてくれた。

 これが昼間であれば、透子の言葉は通らなかっただろう。この屋敷にはシェフがいて、料理を担っている。

 深夜の今はシェフが不在で、相手は家事に不慣れな宿直の男性。

 結果として、透子は厨房に立つことを許された。

 宿直の男性が心配そうに言う。

「何かございましたら、控え室におりますのでお呼びください」

「ありがとうございます。すぐ片付けますね」

 彼が下がった後、透子はエプロンを身につけて袖をまくり上げた。

 棚を開けると最高級の日高昆布と、本かつお節が木箱に収められていた。

(わ、すごい。さすが東堂家ね。これってどれも高級食材。緊張しちゃうわ)

 料亭並みの食材が揃っていることに感心しながら、透子は手際よく準備を進める。

 手早く、けれど丁寧に。昆布とかつお節で出汁を取る。

 冷やご飯を一度水で洗って表面のぬめりを落としてから、出汁の半分を入れた別の小鍋へ移した。

 弱火でコトコトと煮込み、米の粒がふっくらと出汁を吸っていくのを見守る。

 仕上げに新鮮な卵をひとつボウルに割り入れて、手早く溶いた。

 煮立った粥の表面に細く円を描くように卵液を流し込む。

 火を止め、蓋をして数十秒。余熱でふんわりと火を通した。

 残りの出汁には、ほんの数滴の薄口醤油と塩ひとつまみで味を調え、香りの良いお吸い物に仕立てた。

 彩りに、冷蔵庫にあった三つ葉を小さく刻んで添える。

「これでよし。うん、我ながら上出来ね」

 出来上がった料理を、木製のお盆の上に並べた。

 湯気を立てる卵粥と、澄んだ吸い物、白湯を満たした湯呑み。

 いずれもただの家庭料理だ。丁寧に作った、素朴で優しいだけの味。

 けれどどれもが胃に優しく、食欲をそそる香りを放っている。

 透子はお盆を両手で持つと、厨房を後にした。

◇

◇

 透子は2階へ戻り、弦也の書斎の前に立った。

 ドアの隙間からはまだ明かりが漏れていた。

 荒い息遣いは先ほどよりわずかに落ち着いているようだったが、依然として痛みが引いていない気配が漂っている。

 透子は息を整えて、ノックを2回、控えめに鳴らした。

 室内から警戒の色が濃い低い声が返ってくる。

「……誰だ」

「透子です。遅い時間に申し訳ありません」

 数秒の間があった。中から椅子を引く重い音がして、ゆっくりとドアが開いた。

 現れた弦也はネクタイを乱暴に緩めて、シャツの袖をまくっていた。

 顔色はまだ悪く、眉間には深い縦じわが刻まれている。冷たい視線が透子を射抜いた。

「……何の用だ。こんな時間に」

「明かりが見えましたので。お身体の具合が優れないようにお見受けしました」

 透子はお盆を少しだけ持ち上げ、弦也の前に示した。

「夜食を作りました。胃に負担がかからない卵粥と、温かいお吸い物です。もし召し上がれそうでしたら、どうぞ」

 弦也の視線が、透子の手元のお盆へと落ちた。

 ふわりと書斎の冷え切った空気を押し溶かすように、繊細で豊かな出汁の香りが立ち上る。

 弦也はあからさまに警戒を強め、さらに声を低くした。

「……何の手回しだ。誰に頼まれてこんなことをしている」

「誰にも頼まれていません。胃痛で苦しんでおられるのが見えたので、放っておけなかっただけです」

「俺に恩でも売るつもりか。言ったはずだ、互いの生活に干渉しないと」

「恩を売るつもりなどありません」

 透子は弦也の刺々しい言葉にひるむことなく、静かな声音で返した。

「この屋敷の主である弦也さんが倒れてしまっては困ります。それに祖母の命を救っていただいた身として、目の前で苦しんでいる方を無視することはできませんでした。毒などは入っていませんので、ご安心ください」

 透子の瞳はどこまでも澄んでおり、打算や怯えの色は少しもない。

 弦也は言葉に詰まった。

 不快な胃の痛みに加えて、立ち上る温かな香りが空腹と疲労で限界に達していた胃を否応なく刺激する。

「……入れ」

 弦也は短く吐き捨てて、ドアを大きく開けて背を向けた。

「失礼いたします」

 透子は部屋に入り、散乱した書類を避けてサイドテーブルの上にお盆を置いた。

 弦也はソファに浅く腰掛けると、痛む腹部を抑えながら置かれた粥をじっと見つめている。

「……シェフに作らせたのか」

「いいえ。こんな深夜に使用人の方々を呼び立てるのは気が引けましたので、厨房をお借りして自分で作りました」

「君が?」

 弦也が怪訝そうに眉を上げた。

 名家である冷泉院の令嬢が自ら台所に立って料理をするなど、あり得ない話だった。

 透子が取り違えられて育ったのは知っているが、弦也自身も使用人に囲まれて生きてきた人間だ。

 手ずから家事をするという感覚が理解しにくい。

「はい。祖母も以前、仕事が立て込むとよく胃を痛めていましたので、こういうものを作り慣れているのです。まずは白湯を少し口に含んで、それから召し上がってみてください」

 透子は湯呑みを差し出した。

 弦也は疑わしげにそれを受け取り、ゆっくりと白湯を喉に流し込んだ。

 温かい水分が胃に届くと、強張っていた筋肉がわずかに緩む。

 続いて木のスプーンを取り、恐る恐る粥をすくって口へ運んだ。

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