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last update Fecha de publicación: 2026-09-06 13:46:10

「…………」

 弦也の動きが止まった。

 口の中に広がったのは、素朴な出汁の旨みだった。

 米の粒は芯まで柔らかく煮込まれており、ふんわりとした卵が全体を優しく包み込んでいる。

 塩気は控えめだが、出汁の豊かな風味が舌の上にしっかりと残り、物足りなさを感じさせない。

 専属シェフの作る華やかで濃厚な料理とは、根本から違っていた。

 胃に染み渡るような、ただ体をいたわるためだけに作られた味だった。

(優しい味だ。こんな味は食べたことがない……)

 一口、また一口と、弦也は無言でスプーンを動かした。

 痛みのために固く強張っていた肩の力が、湯気を吸い込むごとに少しずつ抜けていく。

 続いて吸い物を口に含むと、三つ葉の清々しい香りと上品な出汁の温もりが、張り詰めていた神経をほどいていった。

 透子はその様子を少し離れた場所から、静かに見守っていた。

 弦也の青白かった頬に少しだけ血色が戻っていく。

 5分もしないうちに、小鍋の粥も吸い物も綺麗に空になっていた。

 弦也は器を置き、深く息を吐き出した。

 額の脂汗は引き、荒かった呼吸はすっかり落ち着いている。

「……悪くなかった。だが」

 弦也は腕を組み、透子を見上げた。

 彼の瞳には先ほどまでの冷たい敵意の代わりに、強い困惑が浮かんでいた。

「やはり余計なことだ。料理はシェフに作らせればいい。今後は手出しをしないでくれ」

「……そうですね。余計でした」

 透子は頭を下げると、食器を載せたお盆に手を伸ばした。

 そのまま部屋を出ようとする彼女に、弦也は思わず声をかけた。

「待て。君はどうしてこんな手仕事ができる?」

 声に出してから、弦也は内心で舌打ちをした。透子と必要以上に関わりを持つつもりはなかったのに。

 胃に収めた料理が温かく、つい名残り惜しくなってしまったのだ。

 自分自身の感情の動きに戸惑いながら、弦也は努めて冷たい表情を保つ。

 透子は振り返り、穏やかに答えた。

「地方の古い工房で、祖母と2人で暮らしていました。祖母は朝から晩まで修復の仕事をしていましたので、食事の支度や身の回りのことは、物心ついた頃から私の役目でした」

「……修復?」

「はい。祖母は古い絵画を修復する職人でした。私もその背中を見て育ち、技術を学んできました」

「絵画修復師か……」

 弦也は呟き、部屋の隅に視線を向けた。

 そこには埃をかぶったまま放置されている小さな木枠の油彩画があったが、弦也はすぐに視線を戻した。

「今日のことについて、礼は言わない。明日からはまた不干渉でいてくれ」

「はい。差し出がましい真似をして、申し訳ありませんでした」

 透子は素直に頭を下げた。

 そうして去りかけて、ふと思い出したように言う。

「一つだけお願いをよろしいでしょうか」

「何だ?」

 弦也は身構えた。

 彼にとって女とは、わがままばかり言うやっかいな生き物である。

 透子はしおらしい態度を取っていたけれど、やはり何らかの下心があったのかと警戒心を強めた。

 ところが透子の口から飛び出したのは、彼の予想外の内容だった。

「このお屋敷で何もすることがなく、時間を持て余しています。私の身の回りのことくらいは、自分でやりたいのです。使用人の方にそう伝えていただけませんか?」

「それは……」

 思ってもみない話に弦也は言葉を詰まらせる。

「――いや。やはり駄目だ。余計なことはするなと言っただろう。君はただこの家にいて、人形のように過ごせばいい」

 弦也の冷たい拒絶に、透子は少し疲れたような笑みを見せた。

「分かりました。では、お庭の散歩はいいでしょうか。窓から見たお庭の緑が、きれいだったので。……人形もたまには陽の光に当てないと、カビてしまいますから」

 弦也は軽く息を吐いた。

 女の要求といえば金や宝飾品とばかり思っていたのに、透子の考えが読めない。

「まあ、それくらいならいいだろう。勝手にしてくれ」

「ありがとうございます」

 お盆を持って、透子は今度こそ部屋を出ていった。

「おやすみなさい、弦也さん。どうぞお大事に」

 最後に言われた平凡な言葉が、奇妙に弦也の心に残った。

◇

◇

 一方、書斎に残された弦也は、デスクの上の処方薬を一錠手に取って白湯で飲み下した。

 あの出汁の優しい余韻が、まだ胃の奥に残っている。

 見返りを求めずただ淡々と差し出された温もりが、氷のように冷え切っていた弦也の警戒の壁に、ごく小さな、けれど確かな亀裂を入れていた。

「冷泉院透子、か」

 彼は呟く。

 透子は形式上とはいえ弦也の妻だ。だから東堂透子と呼ぶべきなのだが、あえてその点にふたをした。

「この結婚はただの契約だ。何も変わらない。俺は誰にも心を許すべきではない。下らない情に足をすくわれてはならない。そうでしょう、お祖父様……」

 部屋の片隅には、亡き祖父が遺した古い絵画がある。

 それに一瞬だけ目を遣った後、弦也は机の書類に向き直った。

 明日までに決済を済まさねばならない書類はまだある。仕事に手抜きは許されなかった。

◇

◇

 翌日、透子は宣言通り、庭へ出てみた。

 よく晴れた日で、春の終わりの庭は緑が旺盛に茂っている。

 昨夜の出来事について、弦也からの言葉は何もなかった。いつものように無視されて、彼は出勤していった。

 廊下ですれ違った際も、ちらりとも視線を向けられることはなかった。

 何かを期待していたわけではないが、やはり弦也にとって透子はただの契約相手だと思い知らされる。

 透子は息を吐き出して、改めて広大な庭を見た。

 庭は当主・弦也の荒んだ心を映すように、あまり手入れがされておらず草が伸び放題になっていた。

 少し歩けば、伸びた雑草の葉先がサワサワと足に触れる。

「あら? これは……」

 ふと。茂る雑草の中に透子はあるものを見つけた。

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