ログイン誠司は、私に病院の視察へ戻ってきてほしいと言った。彼は正面玄関で私を出迎え、へつらうように頭を下げる。「白石社長、何なりとご指示ください」そのとき、美玲が子どもを抱いて病室から突然駆け出してきた。「この前戻ってから、赤ちゃんが何度も全身を震わせてるんです。白石先生、お願いです、診てくれませんか?澪士は最近、一度も顔を見せてくれないし。私にはもう、この子しかいないんです。本当に、この子しか――」彼女は涙ながらに訴え、その場にひざまずいた。「あなた、優しい人なんですよね?仕事にだって誠実なんですよね?だったら、どうしてうちの子を助けてくれないんです?どうして……!」私は彼女を見下ろしながら、ただ哀れだと思った。「水沢さん。あなたの子がそうなったのは、あなた自身のせいよ。診るべきなのは私じゃない。小児科へ行くべきだわ。母親として、この子を産みたいと思ったことは間違っていない。元気に育ってほしいと願うのも当然よ。ただ、あなたの間違いは、澪士を信じたこと。あの男の愛情なんてものを、本気にしたことだけ。でも、どれだけ信じたくなくても、妊娠後期にあいつが自制を失った時点で、目を覚ますべきだった。彼が自制を失ったのは、あなたを愛していたからじゃない。どうでもよかったからよ。あなたのことも、子どものことも」美玲はその場にへたり込んだ。そんなこと、本当は彼女自身がいちばんよくわかっている。ただ、あまりにも残酷で受け入れられなくて、ずっと見ないふりをしていただけなのだ。私は一枚の名刺を差し出した。「この人が、私の知る限りいちばん信頼できる小児科医よ。子どもを連れて、この先生のところへ行きなさい。できるだけ早く転院してくださいね」美玲はふらふらと立ち上がり、ぶつぶつと何かをつぶやきながら、子どもを抱いたまま半ば取り乱したように去っていった。誠司は、横で息を潜めるように立っていた。私の怒りが自分に向くのを恐れているのが見え見えだった。私は容赦なく、その頬を張った。「水沢さんは、この病院の患者でしょう。子どもに異常があるなら、どうして小児科を受診させなかったの!」かなり強く打ったせいで、誠司は痛みに悲鳴を上げ、切れた口元を押さえながら、ろれつの回らない声で言った。「き、霧島社長の指示です……社長が、この子も水沢さんも厄
病院の廊下を歩いているだけで、看護師たちがこちらを見ながらひそひそと囁き合っていた。その光景に、前世の記憶がまた鮮明によみがえる。私は深く息を吸い込んだ。瑛斗が心配そうに声をかけてくる。「……大丈夫ですか?」その目には不安が滲んでいた。けれど、知り合ってまだ間もない私を、まるで疑いもしないような眼差しでもあった。私は思わず問い返す。「神谷先生。もし私が、本当にあのニュースに書かれているような人間だったら――あなたは怖くないんですか?」彼は一秒たりとも迷わなかった。「いいえ。あなたはそんな人じゃない。三年前、妹が出産したとき、僕は外で別の診療に入っていました。妹の夫は亡くなっていて……妹も危うく手術台の上で命を落とすところだった。でも、あなたが助けてくれた。費用まで立て替えてくれたんです。あなたがいなければ、僕は家族を誰も残せなかった」その話には、かすかな覚えがあった。私はこれまで、本当に多くの出産に立ち会ってきた。さまざまな事情を抱えた患者を、数えきれないほど見てきた。でも私にとっては、それも仕事の一つにすぎなかったのだ。私はそれ以上何も聞かず、前の院長に電話をかけた。「白石先生?何の用だ?君はもう解雇されたぞ。今じゃ霧島夫人でもない。水沢さんがおっしゃっていたよ。君が彼女に謝らない限り、絶対に許さないそうだ」私は病院の屋上に立ち、大きな赤い十字を見上げた。胸の中に恐れは、ひとかけらもなかった。「田口院長。あなたの言うとおりなのは一つだけです。私はもう霧島夫人ではありません。ただ、澪士とはすでに離婚していて、彼の財産の半分は私に渡っています。その中には、あなたの病院も含まれています。この病院の株も、今は半分が私のものです。ですから、私を霧島夫人と呼ぶ必要はありません。これからは、白石社長とお呼びください」田口誠司(たぐち せいじ)は、受話器を取り落としそうになるほど動揺していた。――そんな話、聞いていない。美玲が霧島夫人の立場で命令してきたときも、相手が今やオーナー側だなんて一言も言わなかったのだ。私は淡々と告げる。「物わかりがいいなら、今すぐ謝罪声明を出して、私の名誉を傷つけたことへの賠償をしてください。でなければ――その病院、院長を替えることになりますよ」そう言って、私は先に
私は彼が言葉を失っている隙に、そのまま畳みかけた。「あなた、自分とその女の子どもを私に育てさせようとしたわよね。星奈ちゃんは私と彼の子じゃないけど、あなたに預けて育ててもらうっていうのはどう?子育てが大変だといけないから、三歳までは外で育てておいてあげたの」私は一歩、また一歩と彼に詰め寄り、彼を壁際まで追い詰めた。「どうして引き受けないの?」澪士は完全に言葉に詰まった。「お前……、俺は……」私はさらに問い詰める。「言ってみなさいよ。愛してるから子どもを育てさせるんだって、そう言ったのはあなたでしょう?!」彼は長いこと黙ったままだった。……くだらない。私は二歩ほど引いた。前世では、私は澪士の妻だった。霧島家の力はあまりに強く、私は逃げ場を失ったまま、じわじわと破滅へ追い込まれていった。でも、澪士と離婚して初めてわかった。この男は、所詮ただの張り子の虎にすぎない。「澪士、そんなに驚いた顔をしないで。星奈ちゃんは私の子じゃない。結婚している間に平気で浮気するような人間ばかりだと思わないで。気持ち悪い」ようやく澪士が口を開いた。「……すまなかった、澄乃。俺が悪かった。そこまで深く考えていたわけじゃない。ただ、あいつが妊娠してしまって……それでもお前とは別れたくなかったんだ。澄乃、俺にはお前が必要なんだ。子どもも美玲も、俺がちゃんと片づける。だから家に戻ってきてくれないか?」彼は何度もそう繰り返した。けれど、聞けば聞くほど吐き気がした。澪士が何か言う前に、私は瑛斗の腕を取って先にその場を離れた。美琴と星奈はもういない。私と瑛斗も、まだそこまで親しいわけではない。彼は薬をきちんと飲むよう念を押すと、そのまま帰ろうとした。けれどエレベーターを降りる前に、ふいに振り返る。「白石先生。あなたの腕なら、もっと大きな場所に立つべきです。院長から伝言です。うちの病院は、あなたを歓迎します。その気があるなら、いつでもすぐ働けますよ」そう言って、彼は名刺を一枚、私の手に握らせた。私はその名刺をつまんだまま、しばらく動けなかった。――私は本当に、もう一度手術台に立てるのだろうか。その夜は一睡もできなかった。それでも翌朝、私は早くから身支度を整え、瑛斗の名刺を握りしめて病院へ向かった。私がこの手で救った星奈
それぞれ食事をしていた三人が、同時に顔を上げた。星奈は私の隣に座っていて、そのうえ瑛斗まで一緒にいた。こんな言葉を子どもに聞かせたくなくて、私はとっさに星奈の耳をふさいだ。それを見た澪士は、ますます怒りを募らせる。「澄乃、俺との子どものことは放っておいて、今度はよその子の面倒を見てるのか!いつまでそんなくだらない意地を張るつもりだ?」あまりに大きな怒鳴り声に、店内の視線がいっせいにこちらへ集まった。そのとき、不意に温かな手が私の手に重なる。瑛斗もまた、子どもに聞かせまいとしていたのだ。澪士の目が、私たちの手をじっと見据える。私はそっと手を引き、立ち上がった。「澪士、あなた文字くらい読めるでしょう。離婚協議書の意味もわからないの?私たちはもう、とっくに夫婦じゃないわ」澪士は怒りで胸を上下させながら、しばらく私を指さしたまま言葉を失っていた。ようやく搾り出すように口を開く。「あの書類は見ていない。見る気もない。霧島夫人の座は三日だけお前のために空けておいてやる。戻ってくるなら、そのあいだだ」そう言い捨てると、彼は苛立ちを隠しもせず立ち去っていった。取り巻きたちはその場に残り、今度は私に食ってかかる。「白石さん、澪士さんに見初められただけでもありがたいと思いな。よくそんな相手と離婚なんて言い出せたな?わかってるのか?俺たち、その気になればあんたをA市で生きていけなくするくらい簡単なんだぞ」私は相手を見下ろすようにひと目やった。「霧島家の下請け会社の責任者、ってところかしら。今の私でも、あなたをここで立ち行かなくするくらいはできるわよ」私がそう簡単な相手ではないとわかったのだろう。連中は捨て台詞を吐きながら、そのまま去っていった。私は星奈の耳をふさいでいた手を離した。何もわかっていないような、その無垢な目が痛いほど胸に刺さる。瑛斗は先に会計へ向かったが、店員はすでに支払いが済んでいると言った。「霧島社長からです。ここは社長の系列店ですので、どうぞ皆さまごゆっくりお楽しみくださいとのことです。もっとも、こうして食事できるのも今のうちかもしれませんが」瑛斗の顔色が変わる。けれど私は、むしろ笑って店員を呼び止めた。「じゃあ、山崎を二本追加で。持ち帰りにして」向こうが気前よく払うつもりなら、遠慮してやる
診察室のドアがノックされた。「お兄ちゃん、何だって?あのとき私を助けてくれた先生が来てるの?」ひとりの女性が子どもを抱いて駆け込んできた。私の姿を見た瞬間、今にも泣き出しそうな顔になる。彼女は私の手をぎゅっと握りしめた。「白石先生、あのとき先生が助けてくれなかったら、私、本当にどうしていたかわかりません」神谷瑛斗(かみや えいと)は二歩ほど前に出ると、妹をなだめるように声をかけた。「すみません。あのとき妹は難産で、病院もいくつも回ったんです。そして、最後にあなたが助けてくれたんです。さっきからずっと見ていたのは、あなたで間違いないか確かめていたからです」――なんだ、そういうこと。私に気があるわけじゃなかったのか。結婚して七年。澪士に見限られた今でも、ほかの医師の前ではまだ少しくらい魅力があるのかもしれない――そんなふうに思った自分が、少し滑稽だった。私は自嘲気味に笑って、淡々と腰を下ろした。「お礼には及びません。当然のことをしただけです。神谷先生、でもそろそろ、診察をお願いできますか?」瑛斗の姪は、ぐずりもせず騒ぎもせず、私が診察を受けているあいだ、ずっと母親の隣でおとなしく座っていた。瑛斗は私に薬を処方した。「この薬は、普通の人はまず手に入れられません。誰に飲まされたんですか?たしかに効き目は強いですが、そのぶん依存性も高いです。絶対に欲しがるままに手を出さないでください」彼はそこで少し言葉を切った。「でないと、取り返しがつかなくなりますよ」思っていた以上に、副作用の強い薬だった。診察を終えて立ち上がると、今度は神谷美琴(かみや みこと)の娘・星奈(せいな)に呼び止められた。「わたし、お姉さん好き。お昼、一緒に食べてくれる?」瑛斗の姪は、色白で肌がぷにぷにと柔らかく、声までふんわりと柔らかい。その姿を見た瞬間、私は前世で澪士に無理やり抱かされた、あの冷たい亡骸を思い出してしまった。思わず背筋が震え、知らないうちに顔がこわばる。星奈は少し怯えたようだったが、それでも泣くのをこらえていた。私は胸がちくりと痛んだ。「……行きましょう。一緒に食べるわ」「やった!ママがね、わたしがこの世界で最初に会ったのはお姉さんだって言ってたの!その最初に会った人と、ごはん食べるの!」ちょうど昼時
ふらつく身体をどうにか支え、私はその場に立ち尽くした。――ようやく、前世の悪夢から逃れられたのだ。澪士は会社に追われ、私も仕事に追われていた。この家にはもう、半月近く誰もまともに帰っていない。人の気配も、生活のぬくもりも、何ひとつ残っていなかった。ベッドに身を投げた途端、私はそのまま意識を失った。三日後。差し込んできた陽の光に目を細めながら、私はしばらくぼんやりとしていた。――私、まだ生きてる……?スマホを開いた瞬間、目に飛び込んできたのは、霧島グループの後継者誕生を報じるニュースばかりだった。【霧島グループ社長に待望の男児誕生、母子ともに無事】画面には澪士の顔が映っている。けれど、そこに初めて父親になった喜びはなかった。むしろ、深刻そうな表情を浮かべている。「霧島柊(きりしま しゅう)は早産で、現在も保育器に入っています。出産はあまりに過酷でした。これ以上、澄乃に苦しい思いをさせたくない。私の子どもはこの子ひとりだけで、将来は霧島グループの後継者になります。彼女は取材を受けられる状態ではなく、今は産後の療養に専念しています」聞きながら、私は眉をひそめた。また妻想いで子煩悩な夫を演じている。これ以上見ている気にもなれず、私は動画を閉じた。三日三晩眠り続けていたせいか、空っぽの胃がきりきりと痛む。あの薬は、後からくる反動が強かった。骨の奥からじわじわと疼きが広がり、もう一度あの薬を打てとでも言うように、身体の内側から誘惑してくる。私は痛みに耐えながら荷物をまとめ、この七年間暮らした家を後にした。玄関の扉を閉める直前、澪士からメッセージが届く。【澄乃。お前が腹を立ててるのはわかってる。でも、離婚なんて言い出す必要はないだろ。約束した六億は口座に振り込んでおいた。しばらく外でのんびりして、気分転換でもしてこい。子どもが一か月を過ぎて少し落ち着いたら、家に連れて帰る。お前が育てればいい】続けて、銀行からの入金通知も届いた。そのすぐ後に、さらに一通。【あの薬は依存性がある。くれぐれも打ちすぎるな】依存性があると知っていながら、無理やり私に打たせたくせに。今さら情の深い夫のふりなんて、笑わせる。私はまとめてブロックし、履歴ごと消した。こんな薬、自力で我慢できるようなものじゃない。私はそのまま、こ