INICIAR SESIÓN明は今年、五十の大台を目前に控えていた。これまで子作りに関しては、気力はあっても体がついていかなかった。そのうえ、二人の子供は揃いも揃って自分に懐こうとしない。もし雪子の妊娠を知っていたなら、たとえ経過が思わしくなくとも、大金を投じてでも守り抜いたはずだ。これこそ、自分の血を分けた子なのだから。それを――自分の手で打ち消してしまったのだとしたら。胸を引き裂かれるような思いだった。「医者を、早く医者を呼んでくれ!」明は雪子を抱きかかえようとする。だが、先ほどの恐怖で全身から力が抜け、あやうく彼女を取り落とし、さらに被害を広げかねなかった。雪子はすでに痛みに耐えきれず、意識を失っている。床には、明が踏み荒らした血の足跡があちこちに広がっていた。紬は、その光景を冷ややかな眼差しで見つめていた。その冷たさは、まるで骨の髄にまで染み込んでいくかのようだった。もし自分の推測が正しければ――先ほど祖父の手が雪子に触れていたなら、今ごろこの子は、祖父の手によって命を奪われたことにされていたはずだ。雪子が咄嗟に下腹へ手を当てた、その一瞬の動きが、紬の警戒心を鋭く刺激した。だからこそ、あらゆる手段を尽くして阻止したのだ。幸いにも、祖父との呼吸はぴたりと合っていた。さもなければ、取り返しのつかない事態になっていたに違いない。今ここで起きているすべては――相手の自業自得に過ぎない。病院内ということもあり、医師と看護師がすぐに駆けつけ、雪子を処置室へと運び込んだ。明も魂の抜けたような足取りで、その後を追う。「この子を助けてくれ……必ず助けてくれ!」病室の外では、野次馬たちの囁き声が収まるどころか、むしろいっそう大きくなっていく。現場はすでに、かき回された鍋のように混乱を極めていた。由佳は血まみれの姿のまま、紬に向かって叫ぶ。「全部あんたのせいよ!この女……あんたがお母さんを流産させたのよ!あんたがこの子を殺したの!私の弟を殺したのよ!」紬は、その言葉にただ荒唐無稽さを覚えた。「雪子さんが妊娠していると知っていたなら、どうしてお父さんを止めなかったの?見殺しにしたあなたこそが、弟を殺した張本人じゃない」性別まで迷いなく口にする――やはり、これは前々から仕組まれていたことなのだ。
「ああ!違うわ、私はそんなことしてない!」雪子は恐怖に目を見開き、狼狽しながら床から這い上がろうとした。紬は目に溜まった涙を拭う仕草を見せると、ようやく一滴だけをこぼし、信じられないという面持ちで声を上げた。「雪子さん、私、今はっきりと見たわ!おじいちゃんは高齢で体も弱いって言ったのに、どうしてこんな手段で怪我をさせるの!私たち綾瀬家が、いつあなたを粗末に扱ったっていうのよ。伯父さんも、雪子さんはおじいちゃんが偏愛しているなんて言っていたけれど――子供の頃から、おじいちゃんがあなたの食事を一度でも欠かしたことがあった?分家をするときに資産を少なく渡したことがあった!?あなたが引き起こした不始末の穴埋めに、おじいちゃんがどれだけ筆を執ってきたか……少しも覚えていないの!?」紬の声は、病室中に力強く響き渡った。矛先を向けられた明は、顔を引きつらせたまま、ぐうの音も出ず立ち尽くす。その一言が、野次馬たちの怒りに決定的な火をつけた。「なんてことだ!一家そろって恩知らずじゃないか!さっきはおじいさんの方がひどいのかと思ったが、実の息子が不倫女と結託して親の金を巻き上げていたなんて!」「こんな息子なら、生まれてこなければよかったんだ!」「あのおじいさん、どこかで見たと思ったら……綾瀬正造先生じゃないか!先生の画は一幅で数千万円もするんだぞ。ここ数年は体調を崩して筆を置いているって聞いたが、実の父親の命すら顧みないなんて、畜生以下だ!」容赦のない非難の嵐が、明に突き刺さる。長年、大学教授として清廉な人物像を演じ、教え子たちから尊敬を集めてきた彼にとって、これほど大規模な糾弾を浴びるのは初めてのことだった。中には、鼻先に指を突きつけて罵る者まで現れる。ついに耐えきれなくなった明は、激昂して歩み寄ると、雪子の頬に渾身の平手打ちを叩き込んだ。「この愚か者!父さんがあんなに良くしてくれたのに、よくもあんな真似ができたな!」その一撃の衝撃に、ただでさえ意識が朦朧としていた雪子は、再び床へと崩れ落ちた。頬を押さえながら、体を震わせ、悲痛な声を漏らす。「違うの、明!お義父さんが勝手に倒れただけよ、私は触れてもいないわ!」「まだしらばっくれるのか!お前だって人の親だろうが、どうしてそんな残酷なことができる!俺の父さん
雪子の言葉は、一語一語が血を吐くような悲痛さに満ちていた。折しも病室のドアは開いたままで、通りかかった患者や家族たちが足を止め、次々と中を覗き込む。「やれやれ、あのおじいさんもいい年して、もうすぐお迎えが来そうだってのに、よくあんなふうに息子一家と争えるもんだ。入院したときに誰も看病してくれなくなったらつらいぞ」「金持ちって、どこか変な癖があるのかもね。あんなに嫁が悲しそうに泣いてるのに、まるで動じないなんて。家じゃきっと、年寄りの権威を振りかざして威張り散らしてるのよ」野次馬の声は次第に大きくなっていく。雪子の「逆ねじ」を食らわせるような立ち回りに、事情を知らない通行人の多くが彼女に同情し始めていた。やがて、中には声を上げる者まで現れる。「おじいさん、言い分があるなら、せめて相手を立たせてから話しなさいよ!偏愛するにしても、やり方ってものがあるでしょう!」「そうだそうだ!」周囲もそれに呼応するように同調し始めた。正造は怒りに目を剥き、血圧が一気に跳ね上がる。振り上げた手のひらを、そのまま雪子へと叩きつけようとした。だが、雪子は微動だにしない。むしろ待っていたのは、その一撃だった。自分の腹に宿る不安定な命は、まさにこの瞬間のためにある。正造は殺生を忌み嫌う性分だ。流産の責任を正造に押し付けさえすれば、もう自分と明に口出しする気力など残らないはずだ。その後は、悲劇のヒロインを演じるだけでいい。この老いぼれを思い通りに操ることなど、造作もない。この計画は、足を引っ張られるのを恐れて、明にすら伏せていた。雪子は無意識に、そっと下腹へ手を添える。そのとき――切迫しながらも、どこか妙に整った声が場違いに響いた。「おじいちゃん、雪子さんを殴らないで!確かに雪子さんは伯父さんと十数年も不倫して、本妻を死に追いやり、家庭をバラバラにしたけれど、それでも伯父さんを見捨てずに寄り添ってきたのよ。この何年も伯父さんの子供を一人も産んでいないなんて、これこそ真実の愛だわ!」紬は正造の手首をしっかりと掴み、野次馬に背を向ける形で、祖父にそっと目配せを送った。怒りに我を失いかけていた正造だったが、その合図にハッと正気を取り戻す。危うく雪子の罠に嵌まるところだった。「……紬、私を庇ってくれてありが
明と雪子をあしらうのは、やはりおじいちゃんに任せるのが一番だ――紬はそう思った。明という男は、口を開けばどんな嘘でも並べ立てる。だが、その浅知恵など、おじいちゃんにはすべて見透かされている。間違いなく、裏でこそこそと経営しているあの会社のために、泣きつきに来たのだろう。「父さん、由佳の婚約が決まったんだ。ついては父さんに一筆書いてもらって、それを婚約の祝い品にしたいと思ってる。縁起物としてはこれ以上ないだろう?」明は、いかにも誠実そうな笑みを浮かべた。正造の視線は、彼から後ろに控える由佳へと移る。その目には、露骨なまでの興味が浮かんでいた。「……いったいどこのどいつだ。そんな見る目のない奴は。この厄介者を嫁にもらおうなんてな」由佳は唇をきつく噛みしめた。今にも怒鳴り散らしたい衝動を、必死に押し殺す。父親の「商売」に加担するためでなければ、誰がわざわざ屈辱に耐えてまで、こんな滑稽な「家族ごっこ」に付き合うものか。雪子の目頭が赤くなる。「お義父さん、たとえ血のつながりがなくとも、由佳はこの何年もずっと綾瀬家の一員として過ごしてきました。どうか明の顔を立てて、あの子に結婚祝いを……一生のお願いですから」明もすかさず畳みかけた。「そうだよ父さん。考えてみてくれ、俺がこれまで父さんに何か頼んだことがあったかい?仏の顔も三度と言うじゃないか。亡くなった風馬だって、草葉の陰で一家和楽を願っているはずだ!」ガツン――!杖が、容赦なく明の背中に振り下ろされた。「痛っ!」と悲鳴を上げて、明が飛び上がる。「お前に風馬の名を出す資格などあるか!自分たちが紬に何をしてきたか、腹の底で腐らせたまま忘れたとでも言うのか!」正造は怒りに肩を大きく上下させていた。紬は、祖父の怒りが限界に近づいているのを敏感に察する。だが、ここで話を打ち切るのは得策ではない。「伯父さん、結局何をしに来たの?おじいちゃんの見舞いに来て、ついでに由佳の朗報を伝えに来ただけなら、もう帰っていいわよ」紬はベッドにもたれ、三日月のように細めた瞳に、氷を砕いたような冷たさを宿して言った。「私に会いに来たっていうなら、なおさら早く帰って。ここは、あなたたちを歓迎していないわ」三人はその冷徹な眼差しに射抜かれ、言葉を失う。やがて由佳は
――おかしい。何の前触れもなく、急に出国してしまうなんて。それに、彼らの名義で動かしている会社の資産は、綾瀬家の中でも極秘事項だ。決して誰にも悟られるわけにはいかない。「今回行くときは、由佳のわがままをしっかり抑えさせてくれ。とにかく下手に出て、親父さんの二言三言であしらわれないようにするんだ。この機を逃して情報を探れなかったら、俺たちの金のなる木が本当に枯れちまう!」明は苦渋に満ちた表情で、言い聞かせるように言った。表向きの大学教授という肩書きは、人脈を広げるには都合がいいが、肝心の金はほとんど生まない。やはり実入りが大きいのは商売の方だ。あの会社は、彼が長い年月をかけて周到に計算を巡らせ、ようやく天野家から引き出した資金によって成り立っているのだ。雪子の瞳に、狡猾な光が宿る。「分かってるわよ。うちの由佳は賢い子だもの。問題なのは、あなたのあの分からず屋のお父さんよ。紬ばかりに目をかけて!由佳だって同じ孫娘じゃない。しかも嫡孫娘なのよ!」そう言って、雪子は心底不満そうに唇を尖らせた。明はこめかみを押さえ、頭痛をこらえるようにして答える。「分かっている、分かっている。親父も年を取って、いよいよ耄碌してきたんだろう。会社さえうまく回れば、由佳の欲しいものは何だって買い与えてやるさ」「よく言うわね。私たちには娘はこの子一人だけだけど、あなたには上に立派な長男がいらっしゃるじゃない」雪子は艶然と笑みを浮かべながら、皮肉を滲ませた。「あの放蕩息子の話は出すな。あいつはもうおしまいだ。最近はゲーム会社だの何だのと言って、そっちばかりに精を出していやがる!あんなのを生むくらいなら、丸太ん棒でも生んでおいた方がまだマシだった!」亮の話になると、明の怒りはたちまち噴き上がる。本来なら、亮にこの会社を継がせるつもりだった。だが、あのでき損ないはゲーム会社にのめり込み、父である自分が食事に誘っても、顔すら見せようとしない。やがて明の一家は、揃って病院へと到着した。紬の怪我をした腕を目にした途端、雪子はわざとらしいほどの心配ぶりを見せ始める。「あら!紬、その腕はどうしたの?誰にやられたのよ!」眉をひそめたその表情は、一見すると本物の心配のようにも見えた。紬はベッドに横たわったまま、この芝居がかった
紬は眉間に深い皺を刻んだ。最も巨額だったのは、二人の子供が生まれた時のものだ。帳簿によれば、明に対して二十億近い金が振り込まれている。表向き、明は大学教授という肩書きを掲げていた。だがその裏では、天野グループから資金提供を受け、小規模な会社を設立していたのだ。しかも、その会社は毎年二億にも及ぶ収益を上げている。紬の全身に、怒りが震えとなって駆け巡った。明の一家には、すでに十分すぎるほどの資産と蓄えがあるというのに、それでもなお毎年、正造の前で哀れな姿をさらし、涙ながらに縋りついていたのだ。正造は口こそ悪いが、根は優しい。彼らが本当に路頭に迷う姿を、見過ごせるような人間ではなかった。表向きは筆を置いたと言いながら、その裏では、この吸血鬼のような一家に手を貸し続けていたのだ。まさか彼らが裏で営んでいた商売が、すでに中流以上の生活を悠々と成り立たせていたとは。おそらく正造の描いた画を、どこか取引先へ情けで横流ししていたに違いない。「あの野郎、ぶち殺してやる!」亮もまた金の流れを目の当たりにし、こめかみに青筋を浮かべて激昂した。紬は、今にも身内に手をかけかねない勢いの兄を、片手で制した。「お兄ちゃん、あんなクズのために自分が刑務所に入るなんて、馬鹿げてるわよ」明が資金を注入した際、名義こそ紬や正造のものを使っていたが、実際に紐付けられていたカードは明自身のものだった。まさに策に溺れるとは、このことだ。自分名義の企業であれば、閉鎖も売却も思いのままのはずだ。紬はその場で即座に、綾瀬家が支配していたそのペーパーカンパニーを売りに出すよう指示を下した。しかも、ほとんど二束三文と言えるほどの安値で。さらに、天野グループから明へと流れていた他の資金についても、一つ一つ凍結と回収の手続きを進めさせた。やがて、それらに紐付くカードはすべて使用停止となるだろう。紬は企業の責任者としての権限を行使し、あらゆる投資リターンを直接ロックした。明がその異変に気づいたのは、その日の夜、旧友と酒を酌み交わしていた最中だった。「なあ明さん、お前が紹介してくれたあの会社、どうもおかしいぞ。今日行ってみたら、もう資産の投げ売りを始めてた。何か裏があるんじゃないか?」その言葉に、明はたちまち動揺し、落ち着きを失
紬は、成哉と望美が重ねている手を、静かに見つめていた。双子を産んだばかりの頃、産後ケアセンターで静養していた日のことが脳裏に蘇る。あるセレブ風の女が突然現れ、何の証拠もないまま「この部屋は私が先に予約していた」と言い張った。十二月の極寒の中、紬は赤ん坊を抱いたまま、スタッフに部屋から追い出された。その女は権力を盾に、紬を廊下に閉じ込め、立ち去ることすら許さなかった。成哉がようやく現れたのは、五時間も経ってからだ。その時、彼は二人の我が子を淡々と一瞥しただけで、紬にこう告げた。「騒ぎを起こすな」結局、別の高級センターに移された、それだけだった。彼女はずっと、成
「何だと!?」剛は目を剥いた。「さ……さっき、私が目を離した隙に、綾瀬さんがフロントを言いくるめて個室を開けさせてしまったんです。それで、事前に手配していた連中と鉢合わせしてしまって……」クラブの支配人は脂汗を流し、がたがたと震えながら報告した。剛は危険なほどに目を細め、一拍置いてから低く問い詰めた。「どこの綾瀬だ?まさか……紬じゃないだろうな」支配人は喉を鳴らし、言葉を詰まらせる。「そ、その通りでございます……」剛は怒りに任せて、乾いた失笑を漏らした。――よくもやってくれたな、紬。何度も何度も、俺と望美の邪魔をしやがって。剛には数えきれないほどの女がい
捕らえられた二人の男は、その場に崩れ落ちた。刑務所を出たばかりだというのに!剛さんは言っていたではないか。万に一つも失敗はない、この女を抱きさえすれば、一生遊んで暮らせる生活を保証すると。「オーナーに会わせろ!剛さんを呼べ!」リーダー格の肥え太った男が、ボディーガードの拘束を振りほどこうと、声を張り上げて喚き散らす。個室の騒ぎを聞きつけ、通りがかりの客たちが野次馬のように集まってきた。副支配人は、「オーナー」という言葉が出た途端、顔色を青くしたり赤くしたりと、明らかに動揺を隠せずにいる。「そいつの口を塞げ!」ほどなくして、警察と救急隊が相次いで到着した。紬は
「あの女、女優か何かじゃなかったか。やばいことにならねえか?」「平気だ。剛さんがケツを持つって言ってる。殺しさえしなけりゃ、好きにしていいってよ」「そりゃいい、そりゃいい。女優なんてまだやったことねえや。ハハッ。テレビじゃキラキラしてる女優が、裏じゃ俺様にもてあそばれる。考えただけで興奮するぜ」「もうすぐ303号室だ。ほら、行くぞ」二人の男の下品で破廉恥な話し声は、次第に遠ざかっていった。紬は階段の手すりに掴まり、驚愕に背筋を冷や汗が伝うのを感じた。芸能界は底知れぬほど闇が深いとは聞いていたが、まさかここまで卑劣だとは思ってもみなかった。しかし……今の自分もまた泥沼







