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第306話

Autor: タロイモ団子
「ああ!違うわ、私はそんなことしてない!」

雪子は恐怖に目を見開き、狼狽しながら床から這い上がろうとした。

紬は目に溜まった涙を拭う仕草を見せると、ようやく一滴だけをこぼし、信じられないという面持ちで声を上げた。

「雪子さん、私、今はっきりと見たわ!おじいちゃんは高齢で体も弱いって言ったのに、どうしてこんな手段で怪我をさせるの!私たち綾瀬家が、いつあなたを粗末に扱ったっていうのよ。

伯父さんも、雪子さんはおじいちゃんが偏愛しているなんて言っていたけれど――子供の頃から、おじいちゃんがあなたの食事を一度でも欠かしたことがあった?分家をするときに資産を少なく渡したことがあった!?

あなたが引き起こした不始末の穴埋めに、おじいちゃんがどれだけ筆を執ってきたか……少しも覚えていないの!?」

紬の声は、病室中に力強く響き渡った。

矛先を向けられた明は、顔を引きつらせたまま、ぐうの音も出ず立ち尽くす。

その一言が、野次馬たちの怒りに決定的な火をつけた。

「なんてことだ!一家そろって恩知らずじゃないか!さっきはおじいさんの方がひどいのかと思ったが、実の息子が不倫女と結託して親の金を
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  • 輝く私の背中に、夫は必死に追いつこうとした   第307話

    明は今年、五十の大台を目前に控えていた。これまで子作りに関しては、気力はあっても体がついていかなかった。そのうえ、二人の子供は揃いも揃って自分に懐こうとしない。もし雪子の妊娠を知っていたなら、たとえ経過が思わしくなくとも、大金を投じてでも守り抜いたはずだ。これこそ、自分の血を分けた子なのだから。それを――自分の手で打ち消してしまったのだとしたら。胸を引き裂かれるような思いだった。「医者を、早く医者を呼んでくれ!」明は雪子を抱きかかえようとする。だが、先ほどの恐怖で全身から力が抜け、あやうく彼女を取り落とし、さらに被害を広げかねなかった。雪子はすでに痛みに耐えきれず、意識を失っている。床には、明が踏み荒らした血の足跡があちこちに広がっていた。紬は、その光景を冷ややかな眼差しで見つめていた。その冷たさは、まるで骨の髄にまで染み込んでいくかのようだった。もし自分の推測が正しければ――先ほど祖父の手が雪子に触れていたなら、今ごろこの子は、祖父の手によって命を奪われたことにされていたはずだ。雪子が咄嗟に下腹へ手を当てた、その一瞬の動きが、紬の警戒心を鋭く刺激した。だからこそ、あらゆる手段を尽くして阻止したのだ。幸いにも、祖父との呼吸はぴたりと合っていた。さもなければ、取り返しのつかない事態になっていたに違いない。今ここで起きているすべては――相手の自業自得に過ぎない。病院内ということもあり、医師と看護師がすぐに駆けつけ、雪子を処置室へと運び込んだ。明も魂の抜けたような足取りで、その後を追う。「この子を助けてくれ……必ず助けてくれ!」病室の外では、野次馬たちの囁き声が収まるどころか、むしろいっそう大きくなっていく。現場はすでに、かき回された鍋のように混乱を極めていた。由佳は血まみれの姿のまま、紬に向かって叫ぶ。「全部あんたのせいよ!この女……あんたがお母さんを流産させたのよ!あんたがこの子を殺したの!私の弟を殺したのよ!」紬は、その言葉にただ荒唐無稽さを覚えた。「雪子さんが妊娠していると知っていたなら、どうしてお父さんを止めなかったの?見殺しにしたあなたこそが、弟を殺した張本人じゃない」性別まで迷いなく口にする――やはり、これは前々から仕組まれていたことなのだ。

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    「ああ!違うわ、私はそんなことしてない!」雪子は恐怖に目を見開き、狼狽しながら床から這い上がろうとした。紬は目に溜まった涙を拭う仕草を見せると、ようやく一滴だけをこぼし、信じられないという面持ちで声を上げた。「雪子さん、私、今はっきりと見たわ!おじいちゃんは高齢で体も弱いって言ったのに、どうしてこんな手段で怪我をさせるの!私たち綾瀬家が、いつあなたを粗末に扱ったっていうのよ。伯父さんも、雪子さんはおじいちゃんが偏愛しているなんて言っていたけれど――子供の頃から、おじいちゃんがあなたの食事を一度でも欠かしたことがあった?分家をするときに資産を少なく渡したことがあった!?あなたが引き起こした不始末の穴埋めに、おじいちゃんがどれだけ筆を執ってきたか……少しも覚えていないの!?」紬の声は、病室中に力強く響き渡った。矛先を向けられた明は、顔を引きつらせたまま、ぐうの音も出ず立ち尽くす。その一言が、野次馬たちの怒りに決定的な火をつけた。「なんてことだ!一家そろって恩知らずじゃないか!さっきはおじいさんの方がひどいのかと思ったが、実の息子が不倫女と結託して親の金を巻き上げていたなんて!」「こんな息子なら、生まれてこなければよかったんだ!」「あのおじいさん、どこかで見たと思ったら……綾瀬正造先生じゃないか!先生の画は一幅で数千万円もするんだぞ。ここ数年は体調を崩して筆を置いているって聞いたが、実の父親の命すら顧みないなんて、畜生以下だ!」容赦のない非難の嵐が、明に突き刺さる。長年、大学教授として清廉な人物像を演じ、教え子たちから尊敬を集めてきた彼にとって、これほど大規模な糾弾を浴びるのは初めてのことだった。中には、鼻先に指を突きつけて罵る者まで現れる。ついに耐えきれなくなった明は、激昂して歩み寄ると、雪子の頬に渾身の平手打ちを叩き込んだ。「この愚か者!父さんがあんなに良くしてくれたのに、よくもあんな真似ができたな!」その一撃の衝撃に、ただでさえ意識が朦朧としていた雪子は、再び床へと崩れ落ちた。頬を押さえながら、体を震わせ、悲痛な声を漏らす。「違うの、明!お義父さんが勝手に倒れただけよ、私は触れてもいないわ!」「まだしらばっくれるのか!お前だって人の親だろうが、どうしてそんな残酷なことができる!俺の父さん

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    雪子の言葉は、一語一語が血を吐くような悲痛さに満ちていた。折しも病室のドアは開いたままで、通りかかった患者や家族たちが足を止め、次々と中を覗き込む。「やれやれ、あのおじいさんもいい年して、もうすぐお迎えが来そうだってのに、よくあんなふうに息子一家と争えるもんだ。入院したときに誰も看病してくれなくなったらつらいぞ」「金持ちって、どこか変な癖があるのかもね。あんなに嫁が悲しそうに泣いてるのに、まるで動じないなんて。家じゃきっと、年寄りの権威を振りかざして威張り散らしてるのよ」野次馬の声は次第に大きくなっていく。雪子の「逆ねじ」を食らわせるような立ち回りに、事情を知らない通行人の多くが彼女に同情し始めていた。やがて、中には声を上げる者まで現れる。「おじいさん、言い分があるなら、せめて相手を立たせてから話しなさいよ!偏愛するにしても、やり方ってものがあるでしょう!」「そうだそうだ!」周囲もそれに呼応するように同調し始めた。正造は怒りに目を剥き、血圧が一気に跳ね上がる。振り上げた手のひらを、そのまま雪子へと叩きつけようとした。だが、雪子は微動だにしない。むしろ待っていたのは、その一撃だった。自分の腹に宿る不安定な命は、まさにこの瞬間のためにある。正造は殺生を忌み嫌う性分だ。流産の責任を正造に押し付けさえすれば、もう自分と明に口出しする気力など残らないはずだ。その後は、悲劇のヒロインを演じるだけでいい。この老いぼれを思い通りに操ることなど、造作もない。この計画は、足を引っ張られるのを恐れて、明にすら伏せていた。雪子は無意識に、そっと下腹へ手を添える。そのとき――切迫しながらも、どこか妙に整った声が場違いに響いた。「おじいちゃん、雪子さんを殴らないで!確かに雪子さんは伯父さんと十数年も不倫して、本妻を死に追いやり、家庭をバラバラにしたけれど、それでも伯父さんを見捨てずに寄り添ってきたのよ。この何年も伯父さんの子供を一人も産んでいないなんて、これこそ真実の愛だわ!」紬は正造の手首をしっかりと掴み、野次馬に背を向ける形で、祖父にそっと目配せを送った。怒りに我を失いかけていた正造だったが、その合図にハッと正気を取り戻す。危うく雪子の罠に嵌まるところだった。「……紬、私を庇ってくれてありが

  • 輝く私の背中に、夫は必死に追いつこうとした   第304話

    明と雪子をあしらうのは、やはりおじいちゃんに任せるのが一番だ――紬はそう思った。明という男は、口を開けばどんな嘘でも並べ立てる。だが、その浅知恵など、おじいちゃんにはすべて見透かされている。間違いなく、裏でこそこそと経営しているあの会社のために、泣きつきに来たのだろう。「父さん、由佳の婚約が決まったんだ。ついては父さんに一筆書いてもらって、それを婚約の祝い品にしたいと思ってる。縁起物としてはこれ以上ないだろう?」明は、いかにも誠実そうな笑みを浮かべた。正造の視線は、彼から後ろに控える由佳へと移る。その目には、露骨なまでの興味が浮かんでいた。「……いったいどこのどいつだ。そんな見る目のない奴は。この厄介者を嫁にもらおうなんてな」由佳は唇をきつく噛みしめた。今にも怒鳴り散らしたい衝動を、必死に押し殺す。父親の「商売」に加担するためでなければ、誰がわざわざ屈辱に耐えてまで、こんな滑稽な「家族ごっこ」に付き合うものか。雪子の目頭が赤くなる。「お義父さん、たとえ血のつながりがなくとも、由佳はこの何年もずっと綾瀬家の一員として過ごしてきました。どうか明の顔を立てて、あの子に結婚祝いを……一生のお願いですから」明もすかさず畳みかけた。「そうだよ父さん。考えてみてくれ、俺がこれまで父さんに何か頼んだことがあったかい?仏の顔も三度と言うじゃないか。亡くなった風馬だって、草葉の陰で一家和楽を願っているはずだ!」ガツン――!杖が、容赦なく明の背中に振り下ろされた。「痛っ!」と悲鳴を上げて、明が飛び上がる。「お前に風馬の名を出す資格などあるか!自分たちが紬に何をしてきたか、腹の底で腐らせたまま忘れたとでも言うのか!」正造は怒りに肩を大きく上下させていた。紬は、祖父の怒りが限界に近づいているのを敏感に察する。だが、ここで話を打ち切るのは得策ではない。「伯父さん、結局何をしに来たの?おじいちゃんの見舞いに来て、ついでに由佳の朗報を伝えに来ただけなら、もう帰っていいわよ」紬はベッドにもたれ、三日月のように細めた瞳に、氷を砕いたような冷たさを宿して言った。「私に会いに来たっていうなら、なおさら早く帰って。ここは、あなたたちを歓迎していないわ」三人はその冷徹な眼差しに射抜かれ、言葉を失う。やがて由佳は

  • 輝く私の背中に、夫は必死に追いつこうとした   第303話

    ――おかしい。何の前触れもなく、急に出国してしまうなんて。それに、彼らの名義で動かしている会社の資産は、綾瀬家の中でも極秘事項だ。決して誰にも悟られるわけにはいかない。「今回行くときは、由佳のわがままをしっかり抑えさせてくれ。とにかく下手に出て、親父さんの二言三言であしらわれないようにするんだ。この機を逃して情報を探れなかったら、俺たちの金のなる木が本当に枯れちまう!」明は苦渋に満ちた表情で、言い聞かせるように言った。表向きの大学教授という肩書きは、人脈を広げるには都合がいいが、肝心の金はほとんど生まない。やはり実入りが大きいのは商売の方だ。あの会社は、彼が長い年月をかけて周到に計算を巡らせ、ようやく天野家から引き出した資金によって成り立っているのだ。雪子の瞳に、狡猾な光が宿る。「分かってるわよ。うちの由佳は賢い子だもの。問題なのは、あなたのあの分からず屋のお父さんよ。紬ばかりに目をかけて!由佳だって同じ孫娘じゃない。しかも嫡孫娘なのよ!」そう言って、雪子は心底不満そうに唇を尖らせた。明はこめかみを押さえ、頭痛をこらえるようにして答える。「分かっている、分かっている。親父も年を取って、いよいよ耄碌してきたんだろう。会社さえうまく回れば、由佳の欲しいものは何だって買い与えてやるさ」「よく言うわね。私たちには娘はこの子一人だけだけど、あなたには上に立派な長男がいらっしゃるじゃない」雪子は艶然と笑みを浮かべながら、皮肉を滲ませた。「あの放蕩息子の話は出すな。あいつはもうおしまいだ。最近はゲーム会社だの何だのと言って、そっちばかりに精を出していやがる!あんなのを生むくらいなら、丸太ん棒でも生んでおいた方がまだマシだった!」亮の話になると、明の怒りはたちまち噴き上がる。本来なら、亮にこの会社を継がせるつもりだった。だが、あのでき損ないはゲーム会社にのめり込み、父である自分が食事に誘っても、顔すら見せようとしない。やがて明の一家は、揃って病院へと到着した。紬の怪我をした腕を目にした途端、雪子はわざとらしいほどの心配ぶりを見せ始める。「あら!紬、その腕はどうしたの?誰にやられたのよ!」眉をひそめたその表情は、一見すると本物の心配のようにも見えた。紬はベッドに横たわったまま、この芝居がかった

  • 輝く私の背中に、夫は必死に追いつこうとした   第302話

    紬は眉間に深い皺を刻んだ。最も巨額だったのは、二人の子供が生まれた時のものだ。帳簿によれば、明に対して二十億近い金が振り込まれている。表向き、明は大学教授という肩書きを掲げていた。だがその裏では、天野グループから資金提供を受け、小規模な会社を設立していたのだ。しかも、その会社は毎年二億にも及ぶ収益を上げている。紬の全身に、怒りが震えとなって駆け巡った。明の一家には、すでに十分すぎるほどの資産と蓄えがあるというのに、それでもなお毎年、正造の前で哀れな姿をさらし、涙ながらに縋りついていたのだ。正造は口こそ悪いが、根は優しい。彼らが本当に路頭に迷う姿を、見過ごせるような人間ではなかった。表向きは筆を置いたと言いながら、その裏では、この吸血鬼のような一家に手を貸し続けていたのだ。まさか彼らが裏で営んでいた商売が、すでに中流以上の生活を悠々と成り立たせていたとは。おそらく正造の描いた画を、どこか取引先へ情けで横流ししていたに違いない。「あの野郎、ぶち殺してやる!」亮もまた金の流れを目の当たりにし、こめかみに青筋を浮かべて激昂した。紬は、今にも身内に手をかけかねない勢いの兄を、片手で制した。「お兄ちゃん、あんなクズのために自分が刑務所に入るなんて、馬鹿げてるわよ」明が資金を注入した際、名義こそ紬や正造のものを使っていたが、実際に紐付けられていたカードは明自身のものだった。まさに策に溺れるとは、このことだ。自分名義の企業であれば、閉鎖も売却も思いのままのはずだ。紬はその場で即座に、綾瀬家が支配していたそのペーパーカンパニーを売りに出すよう指示を下した。しかも、ほとんど二束三文と言えるほどの安値で。さらに、天野グループから明へと流れていた他の資金についても、一つ一つ凍結と回収の手続きを進めさせた。やがて、それらに紐付くカードはすべて使用停止となるだろう。紬は企業の責任者としての権限を行使し、あらゆる投資リターンを直接ロックした。明がその異変に気づいたのは、その日の夜、旧友と酒を酌み交わしていた最中だった。「なあ明さん、お前が紹介してくれたあの会社、どうもおかしいぞ。今日行ってみたら、もう資産の投げ売りを始めてた。何か裏があるんじゃないか?」その言葉に、明はたちまち動揺し、落ち着きを失

  • 輝く私の背中に、夫は必死に追いつこうとした   第85話

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