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第3話

作者: タロイモ団子
次の瞬間、成哉はすでに電話を切っていた。

フロアから天井まで続く窓ガラスに、成哉の完璧なまでに整った顔が映っている。その目元には、かすかな翳りが漂っていた。

彼は新しく買い替えたスマホに視線を落としながらも、結局は一番上にある番号へかけ直すことはなかった。

あの日、寺でスマホはカードごと無残に壊れてしまったのだ。

本来なら、そのことを紬に知らせるつもりでいた。

彼女は、どうあっても彼の妻なのだから。

だが、ここ数年の手厚い扱いが、この女の生意気をわずかに増長させたのかもしれない。

成哉は紬に一度、痛い思いをさせるべきだと考えていた。

紬はそんな成哉の思惑など露ほども知らなかった。

一晩ぐっすり眠り、翌朝には天野グループに出向いて退職届を提出した。

辞職の手続きは驚くほど滞りなく進んだ。

そもそも、成哉が彼女に与えたのは、ただの小さな肩書きに過ぎず、社内の誰一人として紬の素性を詳しく知る者はいなかった。

そのため、業務の引き継ぎさえ終えれば、彼女は静かに会社を去ることができた。

紬が辞職を申し出たと知った同僚は、思わず感嘆の声を上げた。

「子どもたちの面倒を見るためでしょ?四、五歳って親から離れられないし、ほんと甘えん坊だものね。それに、あなたはあの子たちをすごく大事にしてたじゃない。デスクに写真を飾ってたし、ネックレスにも入れてたでしょ?」

紬はふと手を止めた。

彼女は成哉を深く愛し、そして当然ながら、二人の子供たちも心から愛していた。

たとえ遠く離れていても、芽依と悠真のことはいつも胸にあった。

ただ……

紬は首を振り、やわらかく笑った。

「あの子たちとは関係ないわ」

その言葉は紬の本心だった。

天野グループは大手で海外とも取引があるが、扱うのは建材と不動産ばかりで、紬の興味とは合わなかった。

以前は成哉の妻として、天野家の事情もあって仕事にこだわりを持つ余裕などなかった。

しかし離婚を選んだ今、自分自身のキャリアをあらためて考え直さねばならない。

紬はスマホの画面に映るイベント告知──「和香百景」に目を留めた。

香道、煎茶。

そして……

現代の感性で味わう「和」の美学。

胸の奥がふと浮き立った。

紬はしばし考え、いとこの綾瀬亮(あやせ りょう)にメッセージを送った。

【このチケット、何とか手に入れてくれない?】

すぐに亮から折り返しの電話がかかってきた。

「いいよ、任せとけ!……って、紬ちゃん、ずっと忙しかったんじゃないの?天野家の世話とか子どものこととかで。そんな中、時間作れるの?」

「作れるわ」

紬は一呼吸置いて、静かに告げた。

「私、離婚したの」

亮は一瞬言葉を失った。

「本当に離婚したのか?相手はあの天野家だぞ!」

一等地の新浜に、孫専用の屋外遊園地まで作ってしまう、あの天野家である。

それにあの時、紬の両親が亡くなった際、もし祖父が天野家に恩義を持っていなければ、天野家が成哉に大学教授の娘を無理やり娶らせることなどなかったはずだ。

たとえ紬の祖父が、あの有名な人間国宝・綾瀬正造(あやせ まさぞう)であったとしても。

「気が晴れないから、離婚したの」

紬は穏やかに笑った。

亮は残念がっているのか、それとも賛同しているのか判断がつかず、ただ苦しげに言った。

「じゃあ……芽依ちゃんたちのことは、もう諦めるのか?」

紬はそっとスマホを見下ろした。

二人が新浜に行った後、紬は子供たちに新しいスマホを持たせた。母親を恋しがって泣き出すかもしれないと心配したからだ。

しかし、この一年、紬がかけない限り、子供たちのほうから電話してきたことは一度もなかった。

芽依と悠真には、圧倒的な権力を誇る家柄があり、そして、彼らが懐くもう一人の「母親」がいる。

それなら、血のつながりに縋る理由など、どこにあるのだろう。

……

その頃、新浜。

天野家の本宅では、栄養士の平田紀子(ひらた のりこ)が穏やかな声で諭していた。

「悠真くん、芽依ちゃん。ママのお言いつけを忘れたのですか?好き嫌いはよくありませんよ。あなたたちは体が弱いのだから、元気に育つためには栄養をバランスよく摂る必要があります。甘いものも、食べ過ぎてはいけませんよ」

「ママ」という言葉を耳にして、悠真は小さく肩をすくめた。

一方、そばの芽依はまるで気にする様子もなく胸を張った。

「ママが電話してくる時間なんて、とっくに過ぎてるわ!バレっこないじゃない!それに、望美さんが言ってたもん。私たちは子供なんだから、楽しく過ごすべきだって!今、私がいちばん楽しいのは、このケーキを食べることよ!」

その言葉が終わるや否や、二階から望美の澄んだ笑い声が降ってきた。

「フフッ……」

望美は軽やかに階段を降り、ふたりのそばへ歩み寄ると、芽依の額をそっと指でつついた。

「芽依ちゃんたら、ほんとにいたずらっ子ね。いいわ、芽依ちゃんも悠真くんも、食べたいものを食べなさい」

「イェーイ!望美さん大好き!望美さんがずっと一緒に住んでくれたらいいのになあ!」

子供たちの無邪気な歓声に、望美は口元を綻ばせた。

対照的に、紀子はひそかに眉をひそめる。

言いかけた言葉は、望美の顔を見るなり喉奥へと飲み込まれた。

紬こそこの家の女主人だと思っていたが、望美はまるで当然のように天野家を出入りし、しかも子供たちは彼女にすっかり懐いている。

もし自分が望美に逆らえば、成哉の機嫌を損ねるのは目に見えていた。

悠真はひとり胸の内で揺れていた。

前にママの言いつけを守らなかったとき、自分はひどく病んだ。

望美は優しくしてくれるし、自分も望美が大好きだ。けれど、ママは言っていた──また同じことをしたらもっと重い病気になって、パパもママも心配する、と。

――食いしん坊のせいで、パパとママを困らせてはいけない。

そう思うと、悠真は食べるときも常に細心の注意を払うようになっていた。

だがその一方で、芽依は冷たいものと温かいものを一緒に食べ、さらにクリームたっぷりのデザートを欲張って食べすぎたせいで、夜になるころにはひどい腹痛に襲われた。

小さなベッドの上で体を丸め、震えるほど痛みに顔を歪める。

白くもちもちした愛らしい顔も、下痢の苦しさでみるみる憔悴していった。

成哉は娘の異変を聞くや否や、急いで家へ戻ってきた。

芽依はしょんぼりと成哉の服の裾をつまみ、小さな声で訴えた。

「パパ、私がいい子にしてなかったから、ママが罰としてお腹を痛くしたの……?ママ、この前言ってたの。またケーキを欲張って食べたら、魔女になって私を罰するって……

わざとじゃないの。ママに戻ってきてほしいよ……魔法を解いてほしい……うわぁぁん……」

さらに、具合が悪いとき、いつもママが美味しいスープを作ってくれたことを思い出したのだろう。

芽依は涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにして泣き続けた。

そばの望美は唇を噛みしめ、申し訳なさそうに成哉へ言った。

「成哉、全部私のせいよ……芽依ちゃんをちゃんと見ていなくて、あんなにケーキを食べさせてしまったわ……」

すると芽依は慌てて頭を振り、望美をかばうように言った。

「パパ、望美さんのせいじゃないよ。ママが電話で注意するのを忘れちゃったんだもん!ママは全然、私のこと気にしてないんだ……」

その言葉に、悠真は不思議そうに瞬きをした。

前に病気になったとき、ママの言葉をちゃんと覚えておけばよかったと思ったのだ。

ママは望美にはかなわないことが多いかもしれない。でも、いつも自分たちを気にかけてくれている。

ただ、望美が自分に優しくしてくれたことも思い返し、悠真もそっと弁護した。

「パパ、前はママがいつも僕と芽依ちゃんに言い聞かせてくれてたんだ。芽依ちゃんは子供だから、覚えてられないのは仕方ないよ」

「分かった」

成哉は少し厳しい口調で言った。

「これからは栄養士さんの言うことをちゃんと聞くんだ。食いしん坊はダメだよ」

もちろん、成哉はこれが望美のせいだとは露ほども思っていなかった。

むしろ、紬への不満が心の奥で静かに膨らんでいく。

かつて紬は、二人の子供に口酸っぱく言い聞かせるほど細やかに世話をしていた。

もし紬が知らんぷりしていなければ、芽依がこんなふうに苦しむこともなかっただろう。

夫である自分に腹を立てたからといって、海原へ戻った途端に子供たちを顧みないとは、一体どういうつもりなのか。
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