LOGIN紬はスーツケースを持ち上げ、同じように微笑みを返した。だが、その笑みには、先ほどよりもはるかに本物の誠実さが宿っていた。「安心して。私が捨てたゴミは、あなたにお似合いよ。望美、しっかり蓋をしておきなさい。外に漏れ出さないようにね。ゴミの臭いは、吐き気がするほど不快だわ」言い捨てると、紬はスーツケースを引き、振り返ることなくその場を去った。ゴミには、ゴミ箱がふさわしい。望美はあまりの屈辱に顔を青ざめさせた。怒りを爆発させたい衝動を必死に押し殺し、成哉の手を縋るように握りしめて、しおらしく訴える。「成哉……私、そんなつもりじゃなかったのに。紬さん、本当に言葉がきついわ」「彼女を刺激すべきじゃなかった」「え……?」望美は耳を疑った。「他意がないのなら、言葉は慎むべきだった。望美、君は以前、こんなに多弁な人間じゃなかったはずだ」成哉は淡々とそう言い、彼女の手を静かに振りほどいた。彼は見ていたのだ。望美が現れてからというもの、紬は一度も自分から口を開いていないことを。常に仕掛けていたのは、望美の方だった。――どうして以前の俺は、それに気づかなかったんだ。それに対して望美は雷に打たれたかのような衝撃を受けた。――どうして、こんなことを言うの。かつて、たとえ紬への情が残っていた頃でさえ、成哉が彼女を庇うことなどほとんどなかったのに。それどころか、あの女は自分だけでなく成哉のことまで「ゴミ」と侮辱したのだ。それなのに彼は怒るどころか、紬を擁護したというのか。望美の心臓は激しく打ち、底知れぬ不安が雨後の筍のように次々と湧き上がる。「成哉、あなた……何か思い出したの?」彼女は探るように問いかけた。成哉は一瞥だけくれて、すぐに視線を逸らす。「……いや」――空港を出ると、カナが車で迎えに来ていた。数日会わないうちに、いつも楽天的な彼女の顔にも、すっかり「仕事疲れ」の影が差している。「紬先輩、やっと帰ってきた!ううっ、あなたがいなきゃ、私ひとりじゃ生きていけませんよ!」スーツケースをトランクに積み込むや否や、カナは大げさなほどのハグを紬にぶつけた。紬は苦笑する。「大丈夫よ。少しずつ慣れていけば、きっと楽になるわ」だが、カナは恐ろしい言葉でも聞いたかのように、激しく首を横
紬は冷ややかな表情を崩さなかった。言葉を伴わないその冷淡さこそが、何より雄弁な答えだった。「俺は認めない!」成哉は拳を握りしめ、血走った目で言い放つ。「お前に最高の未来を与えられるのは、この俺だけだと証明してみせる!人の妻を誘惑するような理玖なんて男は、ろくな奴じゃない!」衆目の中で、成哉は怒りのあまり口を滑らせていた。紬が理玖と並んでいる姿を思い浮かべるだけで、狂気じみた嫉妬と怒りに呑まれ、理性が崩れ落ちていく。たとえ関係がすでに破綻していようとも、紬の姿を目にすれば、どうしても彼女の口から答えを引き出さずにはいられなかった。紬は鼻で笑った。「そう?あなたが望美といちゃついていた時、私はあなたみたいに中傷なんてしなかったわ。ちゃんと祝福してあげたじゃない」「紬、言ったはずだ。俺と望美の間には何もない!今の婚約だって、状況に押されただけなんだ!」成哉は、これまでにないほど低姿勢で懇願した。「あの男と一緒になるべきじゃない。神谷家は複雑だ。その闇は、お前が思っているよりずっと深い。理玖のような男が、一人の女のために立ち止まるはずがないだろう?」紬の胸に、かすかな痛みが走る。だがそれ以上に、どこか滑稽な皮肉を感じていた。「誰と一緒にいようと、私の自由よ。あなたに指図される筋合いはないわ。たとえ彼が最低の男だったとしても、あなたに言われることじゃない」紬は一拍置き、静かに言葉を重ねる。「それに、りっくんはとても素敵な人よ。あなたなんて、比べる価値もないわ」「りっくん」という甘く親密な響きが、成哉の最後の理性を粉々に打ち砕いた。「……そんなにあいつが好きなのか!?」歯を食いしばる成哉の手に、無意識に力がこもる。「離して」紬は痛みに眉をひそめると、これ以上の応酬を拒むように、もう片方の手でスマホを取り出した。「これ以上離さないなら、警察を呼ぶわよ」目の前の男は、かつての冷静沈着な成哉とはまるで別人だった。――本当に、あの事故でどこか壊れてしまったんじゃないかしら。「成哉、どうしてここに?」不意に、なだめるような女の声が響く。紬は振り返らなくとも、誰が来たのか分かっていた。彼女は淡々と告げる。「……早く手を離したら?婚約者さんがお迎えに来たわよ」成哉と望美
病院。紬は理玖の全身検査に付き添い、異常がないことを改めて確認した。スタジオからは催促の連絡がひっきりなしに届いている。設立して間もないにもかかわらず数日も不在にしてしまったため、複数のプロジェクトが滞り、スタッフたちも限界に近いようだった。それでもA国まで飛んできたのは、どうしても理玖の体が心配だったからだ。これで、ようやく安心して帰国できる。紬はベッド脇に腰を下ろし、理玖の掛け布団の端を丁寧に整えた。「しっかり休んでね。食事もきちんと取って、仕事もほどほどにするのよ」理玖は何も言わず、ただ灰色の瞳で彼女をじっと見つめていた。その眼差しには、言葉にならない不満と訴えが沈んでいるようにも見える。紬は気のせいかと思ったが、どれほど鈍感でも、その沈み込んだ情緒には気づかずにはいられなかった。軽く咳払いをし、声を整える。「……フィアンセさん」理玖はようやく、先ほどとは違う反応を見せた。「……何だい?」「私たち、偽物よ」「ああ」「だったら、本物に見えるようなツーショットの一枚くらい、撮っておいたほうがいいわ」「……その中途半端な言い方、どうにかならないのか」紬はくすりと笑い、スマホを取り出す。だが、理玖に手で制された。「俺のを使え。あなたのスマホ、画素数が低すぎて、撮るたびに顔がぼやける」相変わらずの毒舌だ。だが紬は、どこか引っかかるものを覚えた。――どうして彼は、それを知っているの?「こっちを見て、フィアンセさん」理玖の瞳に深い色が宿る。シャッターを切る瞬間、彼は紬をそっと腕の中へ引き寄せた。その刹那、戸惑いに満ちた紬の表情が、画面に焼き付けられる。理玖は撮れた写真を確認し、わずかに口角を上げた。立ち上がろうとした紬を、再び引き戻す。「……これはダメだ。もう一枚」「今のはブレてる。撮り直しだ」「角度が悪い。気に入らない」理玖の腕の中で、紬の体は固まったままだった。この男の、細部にまでこだわる性格を、彼女は初めて目の当たりにする。どれだけ工夫して撮っても、返ってくるのは難癖ばかり。諦めて逃げ出そうとしたそのとき、理玖が彼女の手を取った。そして、最後の一枚を撮る。「……よし、これでいい」――神谷商事の社長・神谷理玖がプ
バーの一角。蘭は強い酒を、立て続けに喉へ流し込んでいた。目尻に浮かんだ涙は、すでに乾ききっている。最初から、こうなる結末など分かっていたはずだ。それでも胸の奥には、拭いきれない敗北感が渦巻いていた。彼女はアルコールで感覚を麻痺させ続け、誰の制止にも耳を貸さない。そのとき、目の前に影が差した。「おや、景気よく飲んでるね」ふざけた声音にも、蘭は一切反応せず、黙々と酒を注ぎ続ける。だが、注ぎ終えたばかりのグラスは、隣に腰を下ろした男に奪い取られた。一度は堪えたものの、二度目に注いだグラスも同じように取り上げられる。「渉、あんた正気なの!?」蘭は悔しさに声を震わせた。「こんな時にまで、わざわざ私に絡んでくるつもり!?」渉は笑みを消し、珍しく慌てた様子でティッシュを取り出すと、彼女の涙をそっと拭った。「お嬢様、泣かないでくれよ。たかが男一人のことで、そこまで自分を壊す必要があるかい?」蘭は怒りに任せ、酒瓶を彼に投げつけた。「そんなに彼のことが好きなら、一ついい方法がある。短期間で、あいつを君に惚れさせるやり方だ。聞いてみるか?」渉は難なく瓶を受け止め、口元に皮肉な笑みを浮かべる。蘭は涙を止め、半信半疑のまま彼を睨んだ。「……どんな策よ?」ろくでもないことを言い出すに違いないと分かっていながら、好奇心を抑えきれなかった。渉は手招きし、彼女を引き寄せる。蘭は眉をひそめつつ椅子を寄せると、彼は妙に真面目な口調で告げた。「俺と結婚して、理玖の叔母になるんだ。あいつを悔しがらせてやろうぜ」「あんた、本当に頭がどうかしてるんじゃない!?」普段は理知的な蘭も、思わず声を荒げた。そのまま、渉の頬を平手で打つ。だが渉は避けようともせず、痛みなど感じていないかのように、不敵な笑みを崩さない。「いや、極めて論理的な提案のつもりなんだけどね」蘭はこれ以上付き合う気になれず、バッグを掴んで立ち上がった。しかし背後から、しつこく追ってくる声がある。「あいつの親族になれば、建前上は君を敬い、愛さざるを得ない。親愛もまた『愛』の一種だろう?」「うるさい!」怒りに任せてバッグを投げつけた瞬間、足を挫き、体勢を崩した。次の瞬間、彼女は男の胸に飛び込む形になる。かすかに漂う、松の
理玖は、彼女が口を開くよりも先に言葉を継いだ。「俺たち二人が手を組んで、付き合っていることにすれば、母さんに立ち向かえる」その瞬間、紬はふっと冷静さを取り戻した。――ああ……そういうことだったのね。自分は、ただの盾に過ぎない。握りしめていた拳が静かにほどけ、そしてまた、無意識のうちに強く握り直される。「というわけで、紬さん。俺と一緒にこの勝負に挑んでくれるかい?」理玖は首元の銀のネックレスを外し、そこに通されていた銀の指輪を指先でつまみ上げた。呆然としている紬の隙を突き、彼は迷いなくその指輪を彼女の右手の薬指へと滑り込ませる。寸分の狂いもない動作だった。紬の心が大きく揺れる。指輪を受け取るなど、想定の外だった。「……何の、勝負?」顔を上げ、はるかに背の高い目の前の男を、複雑な想いを抱えたまま見つめる。「母さんが俺の縁談を完全に諦めるまで、君には俺の婚約者になってもらう。その見返りとして、神谷商事の最高の経営リソースを提供しよう。どうだ、受けてくれるか、紬ちゃん」紬は一瞬、自分を見失いかけた。胸の奥に、かすかな苦味が広がる。――そうよね。私みたいに、一度結婚して子供までいる女に……理玖のような人が、立ち止まるはずなんてない。だが、それでいい。互いの利益のための関係だ。紬は理玖の力を借りて成哉と縁を切り、理玖は彼女を盾にして母の干渉を退ける。紬は小さく頷き、かすれた声で答えた。「……分かったわ」その言葉を聞いた瞬間、理玖の瞳の奥に、計画が思惑通りに運んだ喜びが一瞬だけよぎる。――よしっ……!危うく断られるところだった。こんな絶好の口実を思いつくとは。彼女をそばに置いておけるし、堂々と支えることもできる。さすが俺だ。天才だな。「よし、関係が決まった以上、呼び方を変えよう」理玖は至って真面目な顔で言った。「これからは『紬』と呼ぶ」紬は少しためらいながら口を開く。「じゃあ……『理玖』って呼んでもいい?」理玖の表情は、どこか納得していない。紬はさらに探るように言った。「……りっくん?」今度は一転して、理玖は満足げな表情を浮かべた。「悪くない」紬は唇を噛み、条件を差し出す。「かみ……りっくん。私たち、仕事での関わりも多いでしょう?だから、その呼び方は
礼拝堂の外で、紬は口元を押さえ、目の前で起きた出来事に呆然と立ち尽くしていた。事態は、彼女が想像していたものとはまるで違っていた。理玖の腫れ上がった頬を見て、紬はわずかに眉をひそめる。広々とした礼拝堂は静まり返り、バンドでさえ演奏の手を止めていた。沈黙の中、理玖は奥歯を舌でなぞり、含みのある皮肉な笑みを浮かべる。「母さん。縁を切るって、今まで何度も言ってきたよな。これで五百六十一回目だ」彼の声は静かだったが、その奥には長年積み重なった感情が滲んでいた。「子どもの頃から、母さんは少しでも気に入らないことがあると、父さんの死を俺のせいにしてきた。そのたびに俺は譲ってきた。別に卑屈だったわけじゃない。女手一つで二人の子どもを育てる苦労は分かっていたからだ。だから、雪の中に置き去りにされて凍え死にかけた時も、湾岸で置き忘れられて誘拐された時も、一度だって母さんを責めなかった……」一瞬、彼は言葉を切った。「……でも、俺から最後の一筋の光を追い求める権利まで奪わないでくれ。俺が愛し、守りたいと思っているのは、綾瀬紬だけだ。もう二度と、こんなふうに他人に誤解させる真似はしないでほしい。それでも、この件でどうしても縁を切りたいというのなら――」理玖は一拍置き、兄の雅彦へと向き直る。「……母さんの老後は、兄貴に任せる」雅彦は眉をひそめた。「こら、理玖!デタラメを言うな!」理玖は軽く笑い、手をひらひらと振ると、そのまま礼拝堂を後にした。「理玖!待ちなさい!」喜久子が怒号を背中に投げつけるが、雅彦に強く羽交い締めにされる。「母さん、何をしてるんだ!理玖はまだ怪我をしてるんだぞ!そんなことで彼と争わないでくれ!!」「その怪我だって、あの女のせいじゃない!離しなさい!今日こそ理玖を叩き直してやるわ!あんな親不孝なことを言うなんて、畜生以下よ!」理玖は、実の母の刺々しい罵声を背に受けながらも、顔色一つ変えず礼拝堂を出た。そして――入口で呆然と立ち尽くす紬と、ばったり鉢合わせた。考え事をしている時、紬はいつも目を丸く見開く。何を感じているのか読ませない、その瞳。「……どうしてここに?」理玖の表情から暗い影がすっと消え、声も先ほどまでの険しさとは打って変わって、ひどく柔らかくなる。紬は我に返り、思考







