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4話. 花嫁のグラス

مؤلف: YuIm
last update تاريخ النشر: 2026-10-09 11:35:29

怜司はグラスより先に紗月を見た。紗月はテーブルの下でスカートをつかんでいた手を開いた。

「申し訳ありませんが、お酒はいただけません」

美沙子夫人の眉が上がった。

「飲めないの? 昨日はワインが足りないと言っていたじゃない」

向かいで、誰かが小さく笑った。紗月はそちらを見ないまま、言葉を探した。昨日の自分が何を言ったのか、わからない。返事をするたびに、他人の記憶を借りてこなければならないようだった。

「今日は胃の調子がよくなくて」

「若いのに、そんなに体をいたわらなくても。うちへ来て初めてのお酒でしょう?」

執事が酒瓶を持ったまま立っていた。紗月は軽く頭を下げた。

「お気持ちだけ、頂戴します」

美沙子夫人から笑みが消えた。

「お気持ちだけ、ね」

彼女がゆっくり繰り返す間、誰も食事を始めなかった。紗月は皿の脇の食器を見下ろした。実家でもこんなふうに空気が変わると、真っ先に自分の落ち度を探したものだった。

指先がグラスへ伸びた。

飲めば、それで済む。少しだけ飲み込んで、つらくなったら、あとで1人で我慢すればいい。

怜司がグラスを取った。

「飲まないそうです」

「どうしてあなたが答えるの」

「本人が、もう2度お伝えしましたが」

美沙子夫人はしばらく怜司をにらみ、背もたれに体を預けた。ようやく執事が酒瓶を持って下がった。紗月は膝の上で両手を握り合わせた。

「結婚すれば怜司も変わるとは思っていたけれど、そこまで大げさになるとはね」

「何も変わりません。私も、飲みたくない酒は飲みませんから」

「あなたの話をしているのではないでしょう」

「私の妻の話なので、申し上げているんです」

向かいの男が、笑いながら割って入った。

「兄さん、食事の席ですよ。母さんも、新しい家族を歓迎したいだけでしょう」

黒瀬雅人。怜司の異母弟だ。朝、相馬から渡された出席者名簿には、黒瀬物産常務と記されていた。

紗月はそこで初めて彼を見た。雅人は目が合うと、柔らかくほほえんだ。

「義姉さんも、あまり堅くならずに。家族なんですから」

家族。そう呼ばれても、少しも気は楽にならなかった。紗月は、うなずくだけにとどめた。

食事が始まった。食器の触れる音が聞こえ、紗月はゆっくり息を吐いた。怜司が隣で水のグラスを替えてくれた。手にしていた酒のグラスは、自分の皿の外側へ置いた。

「食べろ」

他の人には聞こえないくらいの声だった。

紗月は汁物を一口飲んだ。温かい汁が喉を通る間、美沙子夫人は何事もなかったように、来月のチャリティーオークションの話を始めた。

「今回は作品の輸送が厄介なのよ。保険の条件もうるさいし、日程にも余裕がなくて」

雅人が待っていたように、革の書類ケースを開いた。

「神崎流通に頼めばいいでしょう。神崎会長も、ぜひ協力したいとおっしゃっていましたよ」

紗月の手が止まった。雅人が薄い封筒を執事に渡す。その封筒が、紗月の皿の隣に置かれた。

「受け取っていただいた確認だけ、お願いします。昨日は慌ただしくて、お渡しできませんでした」

神崎流通・物流施設利用に関する協議案。

表に書かれた題名の下に、神崎紗良とあった。紗月は封筒を裏返した。封は閉じられたままで、上に貼られた小さな紙の確認欄が空いていた。

「私が確認するんですか」

「会長が、娘を通せばいいとおっしゃったんです。今は両家の橋渡しができるお立場ですし、便利でしょう?」

雅人がペンを差し出した。言葉は冗談めかしていたが、その手は引かれなかった。

紗月はペンを受け取らなかった。

「中を見ていませんが」

「お読みいただく必要はありません。受領の確認です」

「でしたら、父に直接お送りいただけばいいと思います」

美沙子夫人が水のグラスを置いた。

「紗良さん。雅人は、何も難しいことを頼んでいるわけではないでしょう」

紗月は封筒を膝へ移さず、テーブルの上に置いたままにした。宗一郎が自分を使って何を受け取ろうとしているのかわからないのに、紗良の名前で署名などできなかった。

「私が持っていくと、かえって遅れるかもしれません。大事な書類でしたら、会社へ送ってください」

雅人のペン先が宙で止まった。隣の怜司が、その手を見た。

「それがいい」

雅人が笑った。

「義姉さん、思ったよりしっかりしていらっしゃる」

紗月は彼のほうへ封筒を押し返した。手の震えを見られないよう、角を押さえてゆっくり動かした。

「受け取ったのに渡せなかったら、私の責任になりますから」

「親戚同士で、その程度の融通も利かないの?」

美沙子夫人が怜司に向かって言った。

「父親の会社を救うために、うちのお金がどれだけ入ると思っているの」

飲み込んだはずの食べ物が、喉につかえた気がした。この家の人たちは、自分がどんな条件でここへ来たのか、忘れるつもりがないらしい。

違う。忘れるなと、自分に言い聞かせているのだ。

怜司が箸を置いた。

「その金は、私が審査して融資したものです。この人に代わりに返せと言う筋合いはありません」

「どうしてあなたがいちいち代わりに答えるの」

「答えを聞いていただけていないようなので」

テーブルの端で咳払いがした。紗月は、隣に座る怜司の横顔を見た。朝から自分の言葉を、一つも聞き逃さなかった人だ。その人が今、他人の前では、同じことを何度も言わされないようにしてくれていた。

美沙子夫人が口元を拭った。

「神崎流通のお嬢さんが、いいところへ嫁いだのは確かね。お父様もようやく一安心でしょう」

紗月は目を伏せた。この言葉には笑顔を返すべきな気がした。そうすれば、食事が終わるまで静かに座っていられるかもしれない。

けれど向かいの雅人が、また封筒を手に取った。

「わかりました。では私から会長にお伝えします。お嬢さんが、お受け取りになれないそうだと」

紗月の指先がこわばった。父が受ける電話の中身が、すぐに頭に浮かんだ。人前では笑い、自分にだけ声を落とすだろう。母親の居場所を守る気は、まだあるのかと。

雅人はその反応を見た。口元の笑みが、わずかに深くなった。

怜司が先に言った。

「俺が会社に送れと言った。そう伝えろ」

「兄さん」

「神崎会長も、聞きたいことがあるなら俺に電話するように」

美沙子夫人が体を起こした。

「たかが封筒1つで、ずいぶん偉そうなことね。家族になった初日からそれで、この先どう付き合っていくつもり?」

彼女の手が動き、酒のグラスが再び紗月のほうへ寄せられた。怜司が自分の前へ退けたグラスだった。

「まず受け取りなさい。お酒の一杯すら受け取れないと言うなら――」

紗月はグラスを避けようとして、腕をテーブルにぶつけた。グラスが傾き、怜司が手を伸ばした。

薄いガラスが皿の縁に当たって割れた。テーブルクロスに酒が広がると同時に、彼の右の手のひらに赤い線が走った。

「手が!」

紗月はナプキンを取った。執事が駆け寄って破片を片づける間、怜司は傷ついた手を下ろした。

「申し訳ございません。すぐ救急箱をお持ちします」

「大丈夫です」

「大丈夫じゃありません」

紗月は彼の手首をつかんだ。怜司が振り向くと、折り畳んだナプキンを差し出した。

「これで押さえてください。下ろさないで」

美沙子夫人が息を整えて言った。

「わざとやったわけでもないのに、そんなに騒ぐこと?」

ガラスの破片が混じるクロスを、紗月は見つめた。さっきまで、一杯飲めば終わると思っていた。そんな自分が恨めしい。

欲しかったのは、酒を飲む花嫁の姿ではない。

どこまで言いなりになるか、試されていたのだ。

怜司が椅子を引いて立ち上がった。

「失礼します」

「まだ食事も終わっていないのに?」

「次は、酒のない席でお願いします」

雅人も立ち上がった。取りなすように笑い、怜司の腕を取ろうとした。

「兄さん、待ってください。母さんの顔も立てないと」

怜司がその手を避けた。

「お前は、自分の件を先に片づけろ」

「何の話ですか」

「先月、上海法人へ送った金だ。証憑を出し直すよう言ったはずだが」

初めて雅人の笑みが消えた。紗月は2人の間を見た。怜司はその反応を確かめても、声を荒らげなかった。

「ここでする話じゃないと思って、黙っていたんだがな」

雅人はそれ以上引き止められなかった。怜司は紗月に手を差し出しかけ、ナプキンを握った自分の手を見てやめた。代わりに道を空けた。

「行こう」

紗月は席に置いたバッグを取った。父の会社の名がある封筒は、持っていかなかった。

玄関までの廊下は長かった。

ダイニングからは見えなかった絵が、壁に並んでいた。普段なら足を止めそうな作品の前も、紗月は通り過ぎた。今は、前を行く男の手しか目に入らなかった。

「ゆっくり歩いてください」

怜司が止まった。紗月は追いついて、その手を見た。ナプキンを、きちんと押さえていなかった。

「持っているだけでは意味がありません」

「大した傷じゃない」

「血が出ています」

怜司がナプキンを折り、握り直した。紗月は、ずれてもいないバッグを肩にかけ直した。ため息が漏れた。

「私が、受け取っておけばよかったんですね」

怜司が彼女を見た。

「何を?」

「お酒でも、封筒でも。あとで飲まなければよかったし、渡さなければよかったのに」

「そうしたら、次も受け取れと言われただろう」

紗月は黙った。怜司が一歩近づき、声を落とした。

「さっきは、よく言った」

紗月は聞き間違いかと思った。

「私のせいで、お食事もできなかったのに」

「腹が減ったら、外で食べればいい」

玄関が開いた。待っていた相馬は血のついたナプキンを見ると顔色を変え、電話を取り出した。怜司は説明より先に、紗月のために車のドアを開けた。

乗る前に、紗月は彼を見上げた。

「黒瀬さん」

「どうした」

「さっきは、ありがとうございました」

彼は少しの間、何も言わなかった。紗月は答えを待たず車に乗った。昨日から、礼を言うことさえ用心していた。それでも今は、ただ伝えたかった。

怜司が隣に座った。ドアが閉まると、食卓のざわめきが完全に消えた。

紗月はバッグからハンカチを出し、膝に広げた。

「さあ、手を見せてください」

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